4月 29

【ミニミニ今日の横浜】3月19日

この【ミニミニ今日の横浜】はこれまで数年間集めてきた資料や年表から簡単にその日その日の出来事を紹介してきました。大体が過去の調査資料の範囲内で<料理>していましたが、
今回は ちょっと違うぞ! ちょっと待て!もっと調べたい。
という私にとってはかなりエアポケットに落ち込んだ感じたっぷりテーマです。
まず、19日テーマのブログは以前
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=538
「慶応4(1868)年のこの日、明治政府が幕府から接収した神奈川奉行所を横浜裁判所に改めた。この横浜裁判所は、裁判だけではなく一般行政も行う現在の県庁に相当するものであることから、神奈川県庁ではこの日を「立庁記念日」としている。」
神奈川県庁の「立庁記念日」を紹介しました。

では 今回の3月19日テーマは
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」から始まります。
「時」の風景(更新)
横浜の時報について紹介しました。
明治になり変わった新しい時刻、定時法(24時間を均等に分ける)をどうやって知ったのか?

その時 港では<報時球信号>を使い、市中は時の知らせ(時鐘のゴーン)で時間を知り居留地では本町通りの角に建った<横浜町会所>の「時計台」とそこに備えられた<梵鐘>の音で時間を知らせました。
という話です。
この横浜町会所の梵鐘について調べる際
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」が当然 往時の姿として登場します。
この「時計台神奈川県全図」の作者<歌川国鶴>が今日のテーマです。
前置きが 長くなりました。
1878年(明治11年)の今日3月19日
江戸時代後期に活躍した浮世絵師<歌川国鶴>が横浜関外最初の町「吉田町」で亡くなります。73歳でした。彼は文化4年江戸築地に生まれ二代目歌川豊国に学びます。本名 和田 安五郎、「一寿斎」「一雄斎」などと号し晩年の安政6年(1859年)頃、横浜に居を移し絵草紙屋を開業、横浜絵・役者絵を得意として多くの作品を残します。
彼の作品は、1879年(明治12年)6月に来日したグラント元大統領が持ち帰った日本土産の中に何点か含まれていて、現在はホワイトハウスヒストリカル協会に所蔵されています。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=357
No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=356
No.248-2 9月3日 坂の上の星条旗 改題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=84

このように 彼の作品に関わるテーマを追いかけていましたが、
「歌川国鶴」なる横浜浮世絵師は 全くノーチェックでした。
実は「歌川国鶴」から始まるドラマは この先からに面白い展開が待ち受けます。絵師、歌川国鶴には二代目を継いだ息子の歌川国鶴(嘉永5年(1852年)〜1919年(大正8年)2月4日)と娘のムラさんがいました。
歌川國鶴作「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」は初代と二代目歌川国鶴が共に絵草紙屋を経営していた時期ですので共作かもしれません。

歌川國鶴二代目を継いだ息子、そして彼に西洋の絵心を紹介した人物が娘<ムラ>の夫N.P.キングドンです。
初代「歌川国鶴」の娘ムラの夫N.P.キングドン氏の足跡を探るとこれまた横浜には欠かせない人物であることが分かります。
彼の物語に関しては 近々もう少し資料を読んでから紹介します。
今日はここまで。

 
 

Category: 【資料編】, 明治期, 横浜絵葉書 | 【ミニミニ今日の横浜】3月19日 はコメントを受け付けていません
4月 13

【大岡川運河物語】埋地七ケ町その1

運河時代の地図をベースに中村川と日ノ出川、吉田川と派大岡川に囲まれた一帯を最も占める町内をまとめて「埋地七ケ町」と呼んでいます。
字のごとく、埋め立てられ宅地となった当時の松影町、寿町、扇町、翁町、不老町、万代町、蓬來町を指します。

埋地七ケ町付近

現在はさらに広く長者町に沿った山吹町・富士見町・山田町・三吉町・干歳町の各町までを含めたエリアを「埋地地区連合町内会」と呼んでいます。
中でも元々の「埋地七ケ町」一帯は近年<また大きく>変わろうとしています。
<また大きく>と表現したのは
この一帯が江戸時代から現在まで関内外の中でも特に激しい変化の歴史を歩んできたからです。
この激変「埋地七ケ町」の歴史を紐解くには
まず江戸時代の吉田新田開発時代から始めることにしましょう。

<入海から新田へ>
江戸時代の初め、この地域一帯は釣り鐘型(ワタシ的には烏帽子)をした入り海でした。長い戦国時代が終わり、戦う農民は帰農したり都市部(街道筋)に居を構えることで非生産人口が増え始め、食糧が不足気味になってきました。また、戦わない領主(大名)を米経済にしたこともあり幕府や全国の藩は耕地を増やす政策をとり、
当初は官製新田でしたが間に合わず、民間による新田開発も奨励することになります。
ちょうどこの頃、
摂津出身で江戸で木・石材商を営み、小さな新田開発も経験した吉田勘兵衛は、当時の<苗字帯刀を許される目標値>1,000石規模の新田開発に挑みます。
目標値の千石の米収量を得るには多大な資本力も必要ですが、技術・人手・周囲の村民の同意も必要となってきます。
恐らく吉田勘兵衛は関東一円を歩き、候補地を探し、大岡川河口に広がる深い入海に注目したのでしょう。
地理的には、東海道街道筋に沿って、帷子川の入り江、袖ヶ浦が広がっていましたのでここを開発する方が、保土ヶ谷宿や神奈川宿に近いため魅力的だったはずです。
ところが、勘兵衛はもう一つ南に流れる大岡川河口を選び、これが結果的に関内外という歴史的空間を生み出したのです。
この地の開発を決断した勘兵衛は資金調達と人材集めに動きました。
<新田時代>
吉田新田は、干拓事業によって誕生した水田地です。
稲作のための水田を造成するのが「干拓」で、灌漑用水の設計が鍵となります。
新田ブームの江戸前期、全国で干拓が行われますが、取水が成功の鍵でした。吉田新田のような河口部の海に面した水域を水田にするのは技術的にかなり困難が伴いました。理由は水田の最大の阻害要因が<塩分>だったからです。
吉田新田着工前、河口部分(現在の蒔田公園)や沿岸の太田村は塩田でした。干拓するには、塩を抜きながら水田を維持しなければなりません。
塩抜きしながら水田を維持できる!と勘兵衛は確信し、新田事業を決意します。
塩抜き等の技術的裏付けは誰が伝授したのか定かではありませんが、先達の成功例をしっかり活用し、塩水地域の水田干拓に挑みました。
事業は開始早々、水害で頓挫します。捲土重来、再トライし約十年の月日をかけて寛文7年完成(幕府認定)します。新田の幕府認定には時間がかかりますから実質土木事業は寛文5年ごろにはほぼ完了していたと推測できます。
それから約200年の間、完成した吉田新田によって、様々な副次効果が生まれます。
まず近隣の村々が繋がっていきます。深い入海時代では舟で往来していた対岸同士が徒歩で行き来できるようになります。特に「野毛」と「石川」の集落が<八丁畷>堤を使って往来が生まれたことは横浜村の発展にも寄与します。

この200年の新田時代を支えたのが<塩抜き>「南一つ目沼」と呼ばれた場所です。現在の「埋地七ケ町」の原点となる場所で、この池無くして吉田新田経営は成立しません。
地図上や文献では<悪水>沼とされているものもありますが、水田の塩抜きと施肥の残りを流しだす役割を担った、水田維持には欠かせない重要な沼でした。

南一ツ目沼

<開港と宅地化>
一般的な横浜史ではこの新田時代を簡略化し、吉田新田が完成、次に「ペリー来航」となってしまいます。この間の200年は都市横浜誕生の礎となり実り多き時間でもありました。
二世紀に渡る時間は、途中宝永の富士山噴火や上流からの流土によって次第に水田維持が困難になり幕末には次第に畑地化していきます。
そんな環境が変化する中、「開国」という一大事件がこの地に起こることになった訳です。
開港直前に、太田屋新田開発事業が完成(といっても半分沼地)し現在の関内エリアが出来上がっていたことも関内=開港場誕生に好条件でした。

古来から横浜村として漁業と嘴状の陸地での農業で生業を営んできた村民は、開港の舞台となり、外国人の街を作るということで転地、転居を命じられます。これが元村のちの元町となっていきます。
堀川を開削し出島状態となった関内だけでは日に日に拡大する貿易を支えることは困難で、当然住宅地が運河を越えた関外に拡大して行くことになります。
さらに時代は明治になり、外国からは居留地を含む開港場一帯の抜本的整備が求められます。そこで明治政府(神奈川県)は、対策の一つとして大岡川の分水路を計画します。
堀割川計画です。
根岸湾と横浜港を運河でバイパスとして繋ぐことで、小型船では厳しかった本牧沖往来を加速化する目的として堀割川運河を目論みます。そのためには、山手からつながる稲荷山、弥八ケ谷戸の丘陵を切り開くという当時はかなり無理のある事業だったため、工事に応札する事業者が現れませんでした。
結果、吉田新田を200年守ってきた「吉田家」に半ば強制のように事業命令が下ります。
この堀割川開削物語は難工事で事業史としてまた悲劇の小説にも残されています。
堀割川開削の狙いは運河開削以外にもう一つあり、開削土砂を使って関内居留地に隣接した「南一ツ目沼」を埋立てて宅地化することでした。
1870年(明治3年)に始まり埋立事業が完成したのは1873年(明治6年)のことです。
これによって、
「埋地七ケ町」と「日ノ出川」が誕生することになります。
「南一ツ目沼」によって吉田新田が維持され、吉田新田によって関内の拡大が可能となり、有数の貿易港へと発展していきます。
→埋地七ケ町その2へ

関連ブログ
【大岡川運河物語】日ノ出川運河

4月 6

【横浜をめぐる話】7月22日編異常気象

近年、”異常気象”の冠に相応しい?変な天気が続きます。コラムを書いている今年2017年(平成29年)の夏は日照不足でした。関東は秋になって台風の洗礼を受けています。
※過去にボツにしたコラムに手を入れアップしたものです(202204)
過去の<発生数>
2021年 22個 内上陸 3個
2020年 23個 上陸無し
2019年 29個 内上陸 5個
2018年 29個 内上陸 5個
2017年 27個 内上陸 4個
2016年 26個 内上陸 6個
2015年 25個 内上陸 4個
2014年 23個 内上陸 4個
2013年 31個 unmarkTextString内上陸 2個

天気予報も中々定まらない予測しにくい気象条件が重なっているようです。
戦後横浜を中心に台風・水害史をざくっと調べてみました。
1934年(昭和9年) 9月21日 室戸台風
1947年(昭和22年) 9月13〜15日 カスリーン台風
1948年(昭和23年) 9月15〜16日 アイオン台風
1949年(昭和24年) 6月19〜22日 前線・デラ台風
1949年(昭和24年) 8月31日〜9月1日 キティ台風
1949年(昭和24年) 10月27〜28日 パトリシア台風
1951年(昭和26年) 10月13〜15日 ルース台風
1952年(昭和27年) 6月22〜24日 ダイナ台風
1956年(昭和31年) 10月 豪雨
1958年(昭和33年) 7月 台風11号
1958年(昭和33年) 9月 台風22号(狩野川台風)
1961年(昭和36年) 6月 集中豪雨
1965年(昭和40年) 8月 台風17号
1966年(昭和41年) 6月 台風4号※
1970年(昭和45年) 7月 集中豪雨
1971年(昭和46年) 8月 台風23号
1972年(昭和47年) 9月 台風20号
1973年(昭和48年) 11月 集中豪雨
1974年(昭和49年) 7月 集中豪雨
1976年(昭和51年) 9月 台風17号
1977年(昭和52年) 9月 台風9号(沖永良部台風)
1979年(昭和54年) 10月 台風20号
1981年(昭和56年) 7月22日 集中豪雨
1982年(昭和57年) 9月 台風18号
1990年(平成2年) 9月30日 台風第20
1991年(平成3年) 9月18日〜20日 台風第18号
1991年(平成3年) 9月18日〜20日 台風第18号
1999年(平成11年) 8月13日〜14日 熱帯低気圧による集中豪雨
2002年(平成14年) 10月1日 台風第21号、三浦半島を通過
2004年(平成16年) 10月9日 前線・台風第22号、トラック転倒
2007年(平成19年) 9月5日〜7日 台風第9号
2009年(平成21年) 10月7日〜8日 台風第18号
2010年(平成22年) 9月8日 台風第9号
2012年(平成24年) 6月 台風第4号(上陸)
2012年(平成24年) 9月 台風第17号(上陸)
2013年(平成25年) 9月 台風第18号(上陸)
2014年(平成26年) 7月 台風第11号(上陸)
2014年(平成26年) 9月 台風第8号(上陸)
2014年(平成26年) 9月 台風第18号(上陸)
2014年(平成26年) 9月 台風第19号(上陸)
2016年(平成28年) 8月 台風第7号(上陸)
2016年(平成28年) 8月 台風第9号(上陸)
2016年(平成28年) 8月 台風第10号(上陸)
2017年(平成29年) 7月 台風第 3号(上陸)
2017年(平成29年) 7月 台風第 5号(上陸)
2017年(平成29年) 8月 台風第15号(接近)
2017年(平成29年) 9月 台風第18号(上陸)
2017年(平成29年) 10月 台風第21号(上陸)
2017年(平成29年) 10月 台風第22号(接近)

2018年(平成30年) 7月 台風第12号 神奈川接近 三重上陸
2018年(平成30年) 9月 台風第21号 徳島上陸
2018年(平成30年) 9月 台風第24号 和歌山県上陸
2019年(令和元年) 9月 台風第15号 三浦半島通過、東京湾、千葉県上陸
2019年(令和元年) 10月 台風第19号 ※伊豆半島上陸
※市内 浸水害 山がけ崩れ災害多発

「横浜の災害」「気象庁」より抜粋
戦後の横浜は毎年のように夏の水害があり、死者を含め多大な被害がありました。
上記は被害程度の大きいものを抜粋しているだけですので、さらに累積の被害を積み上げていくと更に市内の被害規模は拡大します。
横浜で戦後最大の被害は、1966年(昭和41年)に神奈川を直撃した台風4号国際名は「Kit(キット)」です。
 死者 32人、傷者 50人
 住家全壊 110棟、住家半壊 140棟
 床上浸水 9,835棟、床下浸水 35,922棟
 り災世帯 51,599世帯、り災人員 197,880人
 がけ崩れ 850箇所
※横浜市内のみの被災状況です。
市内に甚大な爪痕を残した台風です。
この被害から国・神奈川県・横浜市は緊急災害対策に乗り出し、市内各地の治水事業が行われます。
大岡川の分水路事業もこの台風4号がキッカケとなりました。

第834話 1966年(昭和41年)6月28日女性職員3人犠牲
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7790
大岡川分水路について

浸水被害だけのデータは
http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kasenkeikaku/menu/chisui/suigai.html
に一覧が掲載されています。

この水害史において、今日取り上げようとしている
昭和56年 7月22日の集中豪雨は、被害規模においてはそれほど甚大なものではありませんでした。
たまたま、7月22日に関する資料を探していたこともあり、この<集中豪雨>についてもう少し追いかけてみると、新しいタイプの災害の<走り?>だったのかもしれません。
昭和56年7月22日 集中豪雨
住家一部壊 7棟
床上浸水 149棟
床下浸水 413棟
り災世帯数 176世帯
り災者数 480人
がけ崩れ 4箇所
「北海道東方海上の低気圧から南西にのびる寒冷前線が能登半島付近に達していた。また、上空にはオホーツク 海方面から寒気が、南からは弱い熱帯 低気圧が運ぶ暖かな空気が入って、大 気が不安定となった。このため、神奈川県東部では前線の南下に伴い、夕刻にかけ各地で激しい雷雨となった。ま た、市内で落雷による火災が計5件発生した。最高時雨量 63mm(港北区)(横浜の災害より)」
この災害がこれまでの災害と少し異なっていたのが「落雷」による被害でした。
当時の新聞記事によれば

「東京で連続十六日間も真夏日が続くなど、うだるような暑さのなか、関東地方は二十二日夕、寒冷前線の接近で、突然雷を伴った猛烈な強い雨に襲われた。
横浜では午後五時から同六時までの一時間に六四ミリの豪雨となり、七月としては観測史上の新記録となった。」

この雷雨で「ラジオ関東」の放送が中断、羽田の全日空機が直撃を受け職員が怪我、新幹線も東京新横浜間で全面ストップし在来線もかなりダイヤがみだれます。
雷による都市機能のダメージが顕著になり始めた災害といえるのではないでしょうか。


(その他の7月22日)
1925年(大正15年)7月22日
鶴見臨港鉄道建設着工(横浜市史Ⅱ第1巻下p113)
横浜市史とはいえ他の「鶴見臨港鉄道」関連の資料から<裏>が取れないので中止しました。

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