4月25日のセツッルメント

今日はどちらかというと苦手なジャンルからの紹介なので手探り文になっています。
1931年(昭和6年)4月25日
「浦島町に関東学院セツッルメントが開館した(横浜歴史年表)」
「関東学院セットルメント献堂式(横浜近代史総合年表)」
セツッルメント、セットルメント?
開館、献堂式とあるので 教会のある形式か?
私の理解しているsettlementなら
「定住」とか「開拓」といった意味合いですが、このsettlement
中々幅広い<言葉>で、
「定住」転じて弱者に対して援助を与え、自力による生活の向上など定住を促進する社会活動を指すそうです。
他の辞書には
1 解決。決着。
2 宗教家や学生が、労働者街やスラムに定住して、住民との人格的接触を図りながら、医療・教育・保育・授産などの活動を行い、地域の福祉をはかる社会事業。また、その施設や団体。隣保事業。セッツルメント。
また、
「セツルメントとは,もともとは知識人がスラムに住み込むsettleという語意であり,日本では隣保事業という場合もある。ソーシャル・セツルメントの考え方を最初に明らかにしたのはE.デニソンといわれている。彼は19世紀後半の慈善・博愛事業が金品を供与して貧民救済をしていることの弊害を批判した。そして貧困を除去するために社会改良が重要であるとし,このために知識人がスラムに住み込んで貧困についての人々の認識を改めさせると同時に,スラムの人々との知的および人格的接触を通して,その自覚を促していく必要を主張している。」

関東学院とセツルメントの関係について 簡単ですが調べてみました。
キリスト教主義の元に設立された関東学院のモットーは校訓に「人になれ 奉仕せよ(Be a Man and Serve the World)」とあります。
冒頭に確認した「settlement」の「宗教家や学生が、労働者街やスラムに定住して、住民との人格的接触を図りながら、医療・教育・保育・授産などの活動を行い、地域の福祉をはかる社会事業。また、その施設や団体。隣保事業。セッツルメント。」の意をもってこの事業をいち早く設置したのが関東学院でした。
残念ながら日本初ではありませんでしたが、私学で初めて開設し全体でも一番最初に設置した東京帝国大学に次いで二番目でした。
1931年(昭和6年)4月25日に鶴見区浦島に「セツルメント」を開設します。
※当初は南太田に開設しその後浦島に移転。
地域の問題に<入る>には<そのコミュニティに定住する>ことが必要であり、全てはそこから始まることが基本条件(理念)でした。
この関東学院セツルメントの創始者の中心となった社会事業部の教授だった渡部一高氏は
1.”Not alms, but friends”(慈善ではなく、友情を)
2.”Not to invite, but to go”(招くのでなく、(我々が)出て行こう)
3.”Every activity educational”(すべての活動は教育的であるべき)
4.“The center not in an office but on the field”(中心となるべきところは事務所でなく、現場である)
5.”Work without enthusiasm and an ideal is vain”(熱心さと理想のない仕事は、意味がない)。
とセツルメントのポイントを5つ述べています。
この五か条は、ボランティア活動のみならず、地域に生きる全てのことに共通する原則だと思います。
鶴見の浦島に設立された関東学院セツルメントは「前進館」と命名され、同時期に全国的に巻き起こった学生キリスト教運動に連動するようになり、昭和初期の政治状況の中で強い弾圧を受け1935年(昭和10年)に解散の経過を辿ります。
ここまで調べている内に<ある関連性>を思い出しました。
資料には 関東学院の最初のセツルメントは南太田で開始されたとあります。
(第一隣保館)
南太田といえば 昭和初期の地図に「第一隣保館」があった事を思い出しました。南太田駅前昭和初期隣保はセツルメントの日本語訳にあたります。この「第一隣保館」が関東学院の最初のセツルメントであったかどうか現在の資料では不明ですが、深く関係があったことは間違いないでしょう。
この「第一隣保館」はその後「市民館」となり
1943年(昭和18年)南区誕生とともに区役所となります。南太田駅前醤油工場11174857_971938726183565_2924761509171288488_nこの南区役所が花之木に移転し、婦人会館(現在のフォーラム南太田)となっています。
南区役所は平成28年1月にまた移転する予定です。
そもそも 関東大震災により生じた社会不安、社会的弱者への社会福祉事業として起こった運動です。当時は組織だって福祉活動を行っていく社会事業への理解が希薄だったのかもしれません。

(過去の4月25日ブログ)
No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク