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【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

「一寒村に過ぎなかった横浜が〜」
枕ことばとして使われる横浜開港のフレーズです。
小さな村でしたがそれを<寒村>という枕詞で形容するのは止めよう派です。
<小さな村>たしかにその通りですが、横浜村が小寒村であれば、日本の大半の村は<寒村>となってしまうでしょう。
日本全体が近世から脱却したいがための強調だったのではないでしょうか。
私はもうこの苔むした表現は卒業したほうが良いなと考えています。
開港前の横浜村は風光明媚な<観光地>でもあり、そこそこ豊かな暮らしをしていました。

<開港特区横浜時計台>
開港によって横浜は開港特区となり、その中心地となった開港場は国内外のビジネスが集積する都市となっていきます。明治になり、開港場でビジネスを展開する貿易商人たちが日々起こる案件を評議する目的で「町会所」が設立されます。
横浜商工会議所の原点です。
light_時計台神奈川県全図1874年(明治7年)に竣工した町会所は、石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として明治38年に撤去されるまで開港場の「時計台」としてもランドマークの役割を果たします。
鐘塔はドーム風に設計され、時計はスイスの商社<ファーブルブラント商館>が輸入したものを取り付けます。light_町会所時計台

町会所は1890年(明治23年)に「横浜貿易商組合会館」と改称し
その後「横浜会館」と呼ばれるようになります。
明治30年代半ばにはこの「横浜会館」も老朽化し明治38年に改修工事のため解体工事が始まります。
この時「時計台」も撤去されます。
翌年明治39年に隣接する鍛冶場のもらい火で焼失し、改修を断念します。
1909年(明治42年)横浜開港50周年を機に、「横浜会館」再建計画が持ち上がり資金集めが始まり大正3年9月に起工、同6年6月に竣工したのが現在の愛称ジャック「横浜市開港記念会館」です。当時は「開港記念横浜会館」と呼ばれました。開港記念会館夜景

今回のテーマは、この「町会所」にあった<鐘>です。
平野光雄の「時計亦楽」(昭和51年10月25日、青蛙房刊)横浜町会所時計塔の項に下記のような記述がありました。
「付記。『開港記念横浜会館図譜』(大正六年十一月刊)を見ると、旧町会所時計塔に設置された時報用釣鐘(梵鐘風の和鐘)の写真が掲載されており、当然、大正六年までは釣鐘が存在していたことを物語っている。(以下略)p98」梵鐘

開港記念横浜会館図譜<え?梵鐘風の和鐘?!>
この町会所は1874年(明治7年)に竣工、石造亜鉛葺二階建て、一部4階建て延床765㎡の壮大な洋館でした。ここには町役所や歩合金徴収所、貿易商組合事務所などが入っていました。4階には文明開化を象徴する巨大な時計塔が設置され、鐘塔はドーム風に設計され、前述の通り時計台の機械はファーブルブラント商館が輸入しジェームス・ファーブルブラント自ら塔屋に登って取り付けを指揮したそうです。
※JamesFavre-Brandt
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt.html
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt2.html

時計は時刻を刻みますが、見える範囲でしか活用できません。
そこで、<和製の梵鐘風の釣鐘>を撞き<時報>とした訳です。
鳴らされた時刻はわかりませんが、例えば正午に「ゴーン」と鐘が鳴ったお寺の無い開港場はどんな感じだったのでしょう。居留地の外国人には<クールジャパン>だったのかもしれません。
「時計亦楽」の著者も疑問を呈していますが、
この「釣鐘」は何故和風だったのか?
その後、この釣鐘はどのような運命をたどったのか?

開港50年記念祭 弁慶の釣鐘と提灯1909年(明治42年)開港五十周年の年、市内では様々なお祭り、式典が開催されます。開港五十周年を祝う<弁慶の絵柄の鐘楼が写った絵葉書>
この絵葉書には「この鐘の由来」がおぼろげに見えます。
「旧横浜会館時計台時報に用いたる者なり」
新しく制定された市章<ハマ>マークの提灯と、横浜会館で時報として使われていた釣鐘が弁慶に担がれている光景です。その後の調べで、弁慶の鎧は陶磁器で作られているそうです。
現代のように、プラスチック素材ではなく当時の最適技術としての陶磁器技術が用いられていたことに感銘と納得感がありました。

さて、ここに登場する「弁慶の鐘」とはどんな意味合いだったのでしょうか?
「弁慶の釣鐘伝説」という話は全国にあるようで、そもそもは
三井寺(園城寺)金堂に伝わる
弁慶が“比叡山に持ち帰った”という伝(つたえ)のある鐘のことで
「ある日、弁慶一行が三井寺にやってきて、ひと暴れした後、このお堂の釣鐘を引っ張り出して比叡山に持って帰りました。この鐘は、俵籐太が琵琶湖の竜神の頼みで、百足を退治して、そのお礼に竜宮から貰い、三井寺に寄付したと言伝えがあります。さすがの弁慶も簡単には持ち上がらず、引き摺っているのが、よくわかります。
それで、この鐘を「弁慶の引き摺り鐘」と言うようになりました。」 とあります。
この他
●鳥取県の大山寺の釣鐘
弁慶の釣鐘(寿永の鐘)
弁慶の怪力 鳥取県の大山寺の釣鐘を、一日で島根県平田市鰐淵寺まで担ぎ持ち帰った。18歳の修行僧時代のことで、なんと 101Kmの距離を担いで運んだそうです

●石川県金沢市石浦神社拝殿
「石川県金沢市石浦神社拝殿弁慶に伝わるエピソードに、「弁慶の釣鐘引き」の話がある。?〜1189。源義経(1159〜1189)の家来といわれているが、大体が室町時代成立の『義経記』によるもので、その生涯は明らかではない。
主君に最期まで尽くし、かつ怪力無双の豪傑ということから人気が高く、能「安宅」や歌舞伎「勧進帳」では主役である。」
と解説されています。

●出雲市の鰐淵寺
にも伝承があります。

大切な梵鐘を移動させた<因縁>を伝えるための物語のようです。こんなに大切な梵鐘を弁慶によって移動させたのは<これこれしかじか>という訳です。
「横浜会館」の時計塔(横浜町会所時計塔)の鐘は
どこから来て どこに行ったのか?
横浜沿革誌残念ながら いまだもって謎のママです。何かの資料が発見されわかる日がくるかもしれません。開港場の時報が<ゴーン>だったことは、当時の開港場の音の風景としてはかなり面白いエピソードではないでしょうか。