1945年(昭和20年)7月13日、
戦争も末期となったこの日
連日実施されていた米軍による空襲が鶴見エリアにも行われました。
京浜運河に沿った工場群が目標となり東芝鶴見工場も被曝します。
「土砂降りの雨の中を午前零時ごろから二時ごろまで、川崎市を主目標とした
B29五十機が、高度二千メートル以下の低空で侵入、鶴見区内でも百発以上の爆弾を投下、岸谷では五十余名の死傷者を出し、安善の日本石油が全焼、東京ガスのタンクにも直撃弾、末広町の旭硝子、日本鋼管が損害を受け、鶴見発電所も被害があった。生麦・潮田・旭町の爆弾の穴は直径二十メートルもあり、人々を恐怖に陥れた。(鶴見区史)」
この時、東芝鶴見工場の一角には捕虜収容所の東京第14分所(旧第11派遣所)がありました。空襲によって宿舎が直撃を受け捕虜が28人死亡、16人負傷、負傷者の2人は後日死亡します。
「国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32,418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3,500人が死亡している。(笹本妙子)」
(その後)
東芝工場内の収容所が空襲によって破壊された後、ここに収容されていた捕虜たちは鶴見区末広町1ー12ー4にあった第3派遣所に数日滞在し、その後<総持寺>前の施設に移され終戦を迎えます。
GHQはここでの30人の捕虜の死亡に対し、
軍当局が収容所を工場地帯に残すことを許した結果と判断します。ただ、ここに捕虜収容所があったことを米軍も認識しており、低空投下でも誤爆の可能性も高かった悲劇といえるでしょう。ここに労働力を確保するために捕虜収容所を設けた<日本>と無差別に近い爆撃を行った<米国>共に、戦争末期のヒステリックな措置であったことは間違いありません。 ◆横浜市内の捕虜収容所
東芝鶴見
日清製粉鶴見航空機
日本鋼管鶴見造船
大阪造船鶴見
日本鋼管鶴見造船
日本鋼管浅野ドック横浜
日清製油横浜
三菱造船横浜
横浜船舶荷役
横浜対価レンガ
(大船海軍)他
上記のように、工場の集中していた鶴見エリアは捕虜収容所も集中していました。隣接する川崎を合わせると15か所にも及ぶ捕虜施設が設置されました。
(出口のない改札)
横浜市内にある鉄道の<駅>の中で、マニアに人気の不思議な駅があります。
ここに紹介した東芝鶴見工場のある鶴見線海芝浦駅(うみしばうらえき)です。
1940年(昭和15年)11月1日に開設した「海芝浦駅」は一般乗客が改札を出ることができません。駅構内の敷地を含め、隣接する東芝京浜事業所の敷地内にあり改札は東芝関係者しか利用できないからです。
ただ
ここには、「海芝浦駅」に隣接して一般開放された「海芝公園」が設置されています。公園管理運営は東芝京浜事業所が行っています。開園時間は9時〜20時30分で、一度駅を(改札とは別)出て、園内に入るようになっています。
(過去の7月13日ブログ)
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=412
海上保安官の「仙崎大輔」を主人公にした超人気漫画「海猿」の映画第4作が 2012年7月13日(金)の今日、ロードショー公開されました。