歴史の点と線(真鶴・横浜)

今日のテーマですが タイトル通り
<歴史の点と線>を結んでみました。
1930年(昭和5年)7月25日
「上大岡にある西福寺(曹洞宗)の移転建立が完成(横浜歴史年表)」
所在地は横浜市港南区上大岡東1-38-19
一度前を通ったことがありましたが、写真は撮っていないので今度行ってみます。この「西福寺」お寺のサイトや港南区史・真鶴町史によると
もとは真鶴にあったお寺で、小田原市早川の「海蔵寺」の末寺、山号を「東向山」と称していました。了峯印達により文禄元年(1592年)創建されました。
※「西岸清光庵主」説もあります。
関東大震災で震源地に近かったため、損害が大きく檀家を持たなかったこの寺は再建を断念します。縁あって、上大岡に新寺建立の際、「西福寺」を移転することとなりました。
「地主の北見家の協力をいただき、昭和四年に寺籍譲り受けの許可も下り、移転の功労者「原田久吉翁」の号「二楽」を山号にいただき、新たに名前を「二楽山 西福寺」と改め、新生西福寺としてこの地で再出発しました。
そのご功績を讃え、松喜和尚は「西福寺中興開山」として原田久吉翁は「西福寺中興開基」として、永代にお奉りさせていただいております。(上大岡西福寺)」
ということで、真鶴と横浜の<縁>を少し紹介します。

(真鶴)
皆さんは真鶴半島をご存知ですか?
東海道本線で横浜から下り線で約1時間、相模湾の西南端に位置しています。
「「真鶴」は、神奈川県の西部にある小さな半島の町です。
古くから上質の石材とされる小松石の産地でもあり、江戸城の石垣、皇族の墓石としても有名です。
半島の先端、真鶴岬では景勝、三ツ石(三つ岩)を望めます。
また、半島全体は樹齢350年以上の黒松の林(御林)があり、魚付き保安林として漁師の方に守られています。半島全体は県立真鶴半島自然公園に指定されています。」

いくつかの町村がまとまり現在の湯河原町、真鶴町が形成されています。
「真鶴は、古くより漁業と石材が盛んに行われてきました。
漁業は魚つき保安林のおかげで良質なプランクトンが発生し、木々の影が魚を休ませるなど、魚にとってはストレスフリーな環境です。
石材は「本小松石」という銘石が採掘され、高級墓石として知られています。」(真鶴観光協会)
真鶴半島近隣では江戸時代から良質の安山岩を産出し、積出港としても栄えました。江戸城にも多く使われ、幕末には江戸湾の海防対策のために護岸や台場建設に用いられます。
(横浜と真鶴)
横浜が他の町にどのような影響を与えたのか?横浜市民は多くを学びません。

どちらかというと影響を受けたこと、それを受入れたことが語られています。
幕末から横浜が開港場として急成長する中、この発展に伴い功罪含め横浜は近隣都市、神奈川全域、そして全国にその影響も大きかった視点で歴史を考えてみることも大切でしょう。
真鶴町も幕末から<横浜>の影響を大きく受けました。神奈川台場や、1859年(安政6年)の開港に間に合わせるために突貫工事で開港場を完成させる際、真鶴の小松石を発注している記録が残っています。
また、みなとみらいで人気のドックヤードガーデン、横浜船渠(後の三菱重工業横浜造船所)第2号ドックの建設にも真鶴の石が大量に使われています。
前掲の神奈川県のマップから、東京湾・相模湾を眺めると、三浦港と真鶴港は沿岸航路の重要な位置にあることがわかります。
農耕地の少ないこの地域にとって、漁業と石材業は産業の根幹でした。この二大産業は皮肉にも当時鉄道のない時代には海を巡って利害が対立し、このエリアの歴史にも様々な闘争史を刻んでいます。
石材需要は時代の影響を大きく受けます。江戸時代に近隣の築城や改修計画は少なく石需要は減ります。開港期に一気に延びた需要も幕末の動乱期には一気に需要が落ちるなど景気の浮き沈みの大きい産業でした。
明治草創期から殖産興業の影響で、新設の工部省はこのあたりの石を<国管理>に指定します。横須賀製鉄所(横須賀造船所)、燈台、前述の横浜造船所等々用に使われることになり、真鶴は好景気となりました。
ところが、間もなく需要の国管理が解かれ<自由化>が訪れ生産現場は荒廃します。乱開発のため、石山のインフラが荒れ、積み出しにも影響が出ます。
真鶴一帯の石供給に陰りが出て、不景気が訪れます。そして次なる山は、鉄道建設ラッシュでした。横浜・品川間の鉄道敷設にも真鶴地方の石が使われます。
また、近代建築にも小松石が多く使用され<東京帝国大学>等に小松石が使われた記録があります。
大正時代には東京湾岸の河川・軍事施設等の整備計画に真鶴近辺の石が大量に使われ需要が高まります。
このようにジェットコースターのような石材需要の歴史の中で、漁業とミカン栽培なども景気の波を受けていきました。

(横浜商人)
真鶴の歴史に登場する横浜の実業家達は
浅野 総一郎(埋立)、朝田 又七(廻船)、雨宮敬次郎(鉄道)他
石を必要とする実業家たちも真鶴の資産に着目します。
その後、鉄道網の整備により保養地として湯河原・真鶴が着目され、東京は勿論 横浜の実業たちも温泉付き別荘計画に強い関心を寄せます。
真鶴と横浜を繋いだのは廻船、その後の鉄道でした。
現在真鶴駅前に初期の鉄道敷設を記念した「豆相人車鉄道歴史街道」の碑が建っています。
大正期、真鶴地域のミカンの多くが横浜港からカナダ、アメリカ、大連等に輸出され好景気に沸いた時代もありました。
この真鶴と横浜を繋いでいた<石>を運んだのが船です。この廻船業が真鶴の経済を支えて来ました。
天然の良港が古くから真鶴を支え、その安全祈願として国指定重要無形民俗文化財である貴重な日本三大「船祭」が行われます。
【真鶴貴船まつり 】
毎年 7月27日・7月28日に開催されます。