道路をまたぐ橋を「跨道橋(こどうきょう)」、線路を跨ぐ橋を「跨線橋(こせんきょう)」、駅舎やホーム同士を連絡するために架けられるものを「跨線人道橋(こせんじんどうきょう)」と呼ぶ。この中で「跨線橋」が描かれている有名な絵が松本竣介の描いた「Y市の橋」である。この作品を世田谷美術館で観て以来この作品群が気になっている。
「Y市の橋」の主題となった橋は、横浜市西区と神奈川区の境を流れる「新田間川」支流に架かっている<月見橋>である。「跨線橋」はその背景として描かれているに“すぎない”。
“すぎない”のだが、私はこの絵を見るたびにここに描かれている<跨線橋>が気になって仕方ない。「Y市の橋」の橋は「月見橋」とされているが跨線橋と月見橋が一体に見えるからだ。しかもかなりデフォルメされて描かれている。
事実、多くの専門家が指摘しているように松本はこの横浜市の「月見橋」そしてその奥に架かる跨線橋が大変気に入ったようだ。
1948(昭和23)年36歳にして亡くなった松本竣介の作品群の中でも、1940年代に同じタイトルで連作された“特異”な存在であるといわれている。
「月見橋」は横浜駅東口北側にある線路に沿った地味な橋だ。
近くにある予備校の生徒や近隣のビルを利用する人が渡ることが主流で、ぶらっと渡る人も少ない。ここを通るほとんどの人がこの橋の持っている物語について知らないだろう。
描かれた「月見橋」の歴史は古く、高島嘉右衛門が明治4年鉄道用に埋め立てた際に帷子川河口域の水路橋として「萬里橋」と共に整備されたものである。
当初木製の橋だった「月見橋」は震災で倒壊し、昭和3年に震災復興事業で鋼鈑桁橋に架け替えられた。1940年代初期に描かれたY市の橋は竣工直後のものである。
戦災で橋梁上部は壊滅的な被害を受けたがすぐに復旧し平成8年に架け替えられるまで現役だった。現在は長さ21.8m 幅7.3mのコンクリート製桁橋となり親柱だけが残されている。
松本竣介は1912(明治45)年4月、東京に生まれすぐに岩手県に移り住む。17歳で東京に戻り画家としての道を歩むようになる。以後、松本にとって作品の舞台の多くが<東京>の風景だった。
その中にあって、横浜駅近くの普通の風景に松本はなぜ釘付けとなってしまったのか。「Y市の橋」というタイトルで油絵4枚、スケッチも多数残されている。 幼少期に耳の病で聴力をかなり失ったため、徴兵されることなかった松本は、戦争の時代を都内で過ごした。時折足を伸ばし、横浜へと向かう。その時、特に横浜駅東口近くにあった「金港橋」(大正15年竣工)からこの「月見橋」がどう映って見えたのだろうか。なぜ海側ではなく山側の風景を選んだのだろう。
作品には「月見橋」の向こうに「跨道橋」と国鉄の工場がデフォルメされて描かれているが、列車の姿はない。連作の中でも、モチーフの構図が変化しているが「跨線橋」はしっかりと描かれている。削ぎ落とした風景の要素から跨線橋が外されることは無かった。この疑問が、この作品を魅惑的なものにしている。 ここに描かれた<跨線橋>は
つい最近、2009年あたりまで渡ることができた。渡った記憶もある。戦前の地図にもしっかり描かれているから70年以上の歴史があった橋なのだろう。
私は「月見橋」明治期の地図を見る度に<月見橋>の存在感を感じている。
大岡川の吉田橋は<横浜の歴史>を切り開いた橋といえる。一方
月見橋ともう一つの萬里橋は<横浜の運命>を決めた橋だと感じている。暴れ川だった<帷子川河口域>が鉄道路で内海となった際、この位置に<水門>を作ったことで、現在の『横浜駅』の位置が決まりこのあたりの界隈性が決まった。
再度、松本竣介の「Y市の橋」の中からこの一枚を見て欲しい。
主題は「月見橋」だろうか、それとも「跨線橋」だろうか。