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【横浜の橋】№5 移民橋

「移民橋」という名の橋はない。
移民の街だった「横浜」だからこそ“移民”の橋があった。
四方を海に囲まれた日本に暮らす我々にとって、国境は海にある。
「海外」という熟語がふさわしい。
国交を限定してきた江戸時代から明治に入り近代化が進む中、この国から移民を選ぶ人々の移動が始まった。lightWV050320 lightWV050348 横浜には明治以降多くの移民宿が誕生した。宿は移民船が多く出港した大さん橋や新港埠頭付近、初代横浜駅(桜木町駅)近くと駅と港を繋ぐ本町・相生町・住吉町五六丁目・馬車道北側あたりに点在した。light移民関係資料<JICA 移民資料館>

桜木町駅を降り立ち移民の関係者はそれぞれの「移民宿」に向かう。
恐らくほとんどの<移住者>が「弁天橋」を渡り宿または港に向かった。戦前の弁天橋は“移民橋”でもあった。lightP1220064弁天橋 今日の“移民橋”の話は戦後に始まる。

移民の手続きはかなり煩雑で一週間程度の時間が必要だったため移民を希望するものは家族との別れも含め移民宿での逗留が必要だった。
「移民宿」の正式名称は「外航旅館」外国に出国するための出国手続き中に留まる宿のことだが、利用客の中に移民が多かったことからこの名が付いた。
戦争直前、横浜市内(関内外近辺)には十七軒の「移民宿」があった。
戦争により休止状態となり、一部は焼失し無事だった宿も多くが進駐軍に接収され、すべての移民宿が消えた。
「戦後の移民宿は1952年(昭和27年)に再開された。」と「ランドマークが語る神奈川の100年」(有隣堂刊 読売新聞社横浜支局編)ある。
さらに調べてみると、
1950年(昭和25年)に「移民宿」が横浜駅前に新設されている。
戦後、横浜駅の表玄関は「東口」だった。駅前には広いロータリーがあり、駅前には昭和5年に竣工した新興倶楽部ビル(神奈川県匡済会ビル昭和52.7解体)が建ち、交通の要衝だった。
light2015-07-19 00.46.54「横浜駅」は帷子川の運河群に囲まれた島にある駅である。いまでこそ埋立と多くの橋によってほとんど意識しないが、横浜駅一帯は多くの橋によって結ばれている。現在も北には月見橋・金港橋、南には万里橋・築地橋がある。
戦後最初に誕生した「移民宿」は、駅から数分歩き帷子川に沿った万里橋と築地橋の間にあった。light横浜駅東口築地橋

この「移民宿」の名は「横浜ホテル」light横浜ホテル 神奈川都市交通(株)を中心に戦前の旧・外航旅館組合の有志が市と国に働きかけホテル計画を立てた。敗戦のため移民出国は無かったが、戦前に出国した<移民>の母国帰省需要が高まっていたのである。
このホテル計画は異例の速さで実現する。ホテル用地は横浜市が駅近く(横浜市西区高島通り1丁目5番地)を優先的に使用許可し、建設省も速攻で建築許可を出す。さらには日本交通公社もこのプロジェクトに参画、
1950年(昭和25年)7月に資本金1,000万円の株式会社「横浜ホテル」が誕生。
当時のハワイ(米国本土)からの移民帰省ニーズをいち早く取り込んだ。
大さん橋に付いた日系人達はおそらく国鉄か市電で横浜駅まで移動し「横浜ホテル」に逗留したと思われる。
「横浜ホテル」はハワイ日系人の故郷に錦を飾るホテルとして愛用され、利用者は外国人が50%、日系人40%、日本人が10%くらいだったそうだ。(東急ホテル史より)
開業当時は木造モルタル二階建て27室の小さなホテルだったがその後増築等で拡張し客室46(洋室28、和室12)、グリル・バー・宴会場なども新築された。
実は この「横浜ホテル」は計画当時から大東急傘下にあった横浜都市交通(株)の下でその後の東急Gに吸収される運命にあった。
1954年(昭和29年)東急電鉄(株)が「横浜ホテル」の株式を70%し傘下に収めた。この東急「横浜ホテル」がのちの「横浜東急ホテル」となり拠点を東口から西口に移転することになる。

戦後の「移民宿」の歴史は短い。「横浜移住斡旋所」を関内に設置し移民手続きや出港までの宿泊を国(外務省)が行うようになった(昭和31年)ことや、戦後の成長が始まり、移民の経済的要因がかなり無くなったことで1957年(昭和32年)頃をピークに減少に転じた。
1973年(昭和48年)に最後の移民船「にっぽん丸(あるぜんちな丸)」が出港し、その幕を閉じたのである。

東口「横浜ホテル」

1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」


ここにも別の角度から「横浜ホテル」に触れています。