12月 14

【市電ニュースの風景】1931年 №23

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。

1931年(昭和6年)6月
六、七、八日 神奈川洲崎神社大祭(電車 洲崎神社社 バス 神奈川 下車)
七日 八大學新人水上競技選手権大会(電車元町下車)
=午後一時より元町横濱プールにて=
九日より十三日まで
第八回全神奈川バスケットボール大会(電車及バス 市役所前下車)
=各日午後六時半より横浜公園前YMCA室内体育場にて=
十日 剣道聯合会六月例会(電車弘明寺終点下車)
=午後六時半より横濱高工道場にて  観覧随意=
十一日 高松宮両殿下御帰朝
=『郵船』秩父丸にて午前十一時四號岸壁御着=
(懸賞標語)
注意が最良の安全地帯(当選者 青木文造君)
●洲崎大神(武州神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)
源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられています。
例大祭は現在6月6日以降の金・土・日曜日ですが
1931年の時は 土日月に渡って行われました。
●元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われました。夜間施設を持っていましたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催されました。
現在は「元町公園プール」と呼ばれています。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たかったようです。もちろん現在は<水道>です。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還されました。
●横浜YMCA
1884年(明治17年)10月18日に横浜海岸教会の青年たちが中心となって設立されました。
横浜は東京・大阪に次いで3番目です。
1916年(大正5年)に現在の常盤町に会館が建ち、横浜で最初の室内体育場を持ちバスケットボール普及に大きく貢献しました。

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3月 17

【横浜の橋】№9 天神橋(堀割川)

堀割川に架かる天神橋は現在架け替え工事が行われている。

震災で倒壊した天神橋は大正15年の6月に工事が始まり昭和2年4月22日に竣工と震災復興記録には記されている。工事前は市内でも最古参に入る<古株>の橋だった。
撮影した橋の画像が見つからないので画像はパス!見つかり次第掲載予定。
堀割川は1874年(明治7年)に完成した大岡川の小派川で、中村川から分かれ根岸湾に注いでいる。
明治に入って着工された「堀割川」分水路作りにはいくつかの目的があった。
一つは、江戸中期に新田開発された<吉田新田>では開墾しきれなかった海の部分を埋め立てるために<土>が必要だったこと、もう一つは根岸湾(磯子・金沢)開発のために横浜開港場を繋ぐ目的があった。完成には吉田家涙の物語があるがここでは省略する。
堀割川には現在六つの橋と一つの人道橋が架かっている。
①中村橋
②天神橋
③根岸橋
④坂下橋
⑤磯子橋
磯子橋人道橋
⑥八幡橋
今日は「弁天橋」の風景を紹介する。
構造は<I型鋼桁(ガーター)橋>架替後も変らない。
橋の銘板には「大正15年3月」とあるが 復興資料では大正15年着工の「昭和2年4月22日」完成とある。
(天神橋の由来)
天神橋の名は天満宮に繋がる<橋>の意として全国で多く命名されている。
ここに架かる「天神橋」は岡村天満宮に繋がるのだが、社殿まではかなり遠い。資料によると、堀割川が完成すると、<船>で天神橋近辺にあった<船着場>を経由して参拝にでかけたことから命名されたようだ。
明治45年に電気鉄道が開通し、船便は廃れてしまうが橋の名は残った。岡村天満宮には横浜電気鉄道(後の市電)滝頭で降り、途中の一の鳥居をくぐり天神道を歩き向かった。
震災で堀割川護岸はかなり崩れ、参道の道筋も新しく作られることになった。例祭の時にはちょうど天神橋と下流の根岸橋の中間に「天神前仮停留所」が開設され、臨時停車し参拝客は皆ここで降りた。light岡村天神道(堀割川左岸)
岡村天満宮は堀割川の右岸側にあり、電気鉄道も右岸に沿って八幡橋まで走っていた。江戸時代は根岸台の崖下から岡村一帯は丘の多いこの地域の重要な<平地>だったが、堀割川によって分断されてしまった。
「左岸」は背後に根岸の崖が迫り 分断された土地となっている。そのためかどうか分からないが 左岸には工場が多い事と関係があるかもしれない。

戦前の「天神橋」が写っている絵葉書がある。といってもかなり遠景なので、橋そのものはその存在が確認できる程度だ。light日本ビチュマルス株式会社(日本ビチュマルス株式会社)
ビチュマルスとはあまり聞き慣れない言葉だ。
道路舗装の欠かせないアスファルトの乳剤のことをビチュマルスという。日本での事業展開の歴史は古いが飛躍のきっかけとなったのが<関東大震災>による復興需要だった。道路舗装の先進国であったアメリカの持つ技術を導入し、日本では幾つかビチュマルス製造会社が誕生した。
その一つが日本ビチュマルス株式会社で、
1930年(昭和5年)に設立された。現在は東亜道路工業株式会社と改名(1951年)し日本有数の道路舗装企業である。
この他にも幾つか大手道路舗装企業があるが、独立系である日本ビチュマルス株式会社に対し、ゼネコン系の関連企業が殆どである。
大林組の関連会社「大林道路」はかつて「日本ビチュマルス株式会社」から分かれた道路舗装企業である。

絵葉書の発行は昭和9年夏である。light天神橋近隣S8年ちょうどこの頃の地図があったので地図と比較しながら、ここに映る風景を少し読み解いてみたい。
工場脇を堀割川が流れている。川にそって道が整備され、そこを市電が走っている。左側が下流で根岸湾方向を指す。下流に「天神橋」が写っている。
工場内には<ドラム缶>が多く並んでいるのが判る。
地図から「日本ビチュマルス株式会社」の周囲には「大和染色工場」「四菱食品会社」「落合ガラス工場」「石川工場」など製造会社が立ち並んでいる。
対岸(右岸)には広い空き地が目立っている。
半分削られた小山の手前が現在 「横浜商業高等学校 別科」がある辺りと思われる。
小山の奥には「脳血管医療センター(かつて万治病院)」があったが周囲は殆ど空き地のように見える。昭和初期はまだまだ農地中心で住宅は限られていたようだ。

この風景はどこから撮影されたものか?
地図から根岸の丘の上、現在米軍住宅のはずれ標高56.7mポストあたりから見下すように撮影されたと思われる。工場の屋根にビチュマルスと大きく書くということは、航空機を意識したのだろうか?それとも根岸の丘からの眺めを考えてのことだったのだろうか?
最後に花見の時期も迫ってるので
かつての堀割川の桜風景を紹介する。light絵葉書横浜編001light根岸堀割の桜 light資料絵葉書003

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1月 17

【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

light三代目吉田橋20150713204857
三代目吉田橋

横浜の橋といえば「吉田橋」を採り上げない訳にはいかない。横浜開港場が誕生した時に架けられて以来、この町の成長を見守ってきた横浜の代名詞といっても過言ではない。今回から数回に分けて「吉田橋」を紹介する。
まずは簡単に「吉田橋」アウトラインを確認しておく。
現在の「吉田橋(よしだはし)」は中区伊勢佐木町と中区港町の境を走る首都高速道の上に“ある”。
light2014-12-05 15.34.25lightAZ101674 「吉田橋」いわゆる橋梁なのか地下施設の構造物の一部なのか?いささか疑問に思っている。橋梁の専門家ではないので 詳細はわからないが事実吉田橋はマリナード地下街の天井部にあたる。
首都高速道建設時の
1977年(昭和52年)10月29日にマリナード地下街が開業する際に上部を「吉田橋」としてかつてのトラス構造をモチーフにした欄干のある屋根に<建替え>られたからだ。ここにはベランダ?もあれば窓もある。light2014-12-05 15.38.46 この詮議は別の機会にし、簡単な歴史を整理することにする。
<吉田橋の歴史>
安政六年(1859年)開港時に<開港場>と<東海道>を繋ぐ横浜道が突貫工事ですすめられた。この時、横浜道の一端となる開港場と吉田町を繋ぐ仮橋が架かった。これが後の吉田橋である。同時に野毛の街と新田を繋ぐ都橋(野毛橋)も架かり、横浜道が完成した。

lightimg057 翌年の1860年(庚申万延元年)、開港場の<出島化>を図り中村川を延伸。
堀川を完成させ、そこに「谷戸橋」と「前田橋」を新設し<山手>と開港場の往来を確保する。
lightimg059(当然関門も設置)
※当時、開港場はまだ整地もままならない農地だった。
開港はしたものの、かろうじて外国人と江戸を中心とした商人たちが(仮)仕事場を作り始めたばかり。この時に、開港場に暮らす農民たちの土地を<地上げ>し、山手のもとに強制移住させたのが横浜元町である。
横浜沿革誌によると万延元年二月に「堀割の東山下へ農家九十余軒を移転せしめ、名を横浜元町と称す」とある。
◆初代
文久二年(1862年)に正式な橋として初代の「吉田橋」が設置される。
その後、横浜開港場を認めていなかった英国他の欧米各国も実質的に便利で安全な開港場を認めるようになり急速に変貌を遂げる。
※この年文久二年八月に「生麦事件」
明治維新を挟み、横浜開港場の物流は急激に増加し、
“おそらく”吉田橋はキャパを超えていたのだろうと想像できる。日本の近代化を支えた“お雇い外国人”による早期のインフラ整備事業の中に「吉田橋」の改築がある。
◆二代目
1869年(明治2年)「吉田橋」は灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。これが日本で2番目の鉄橋、二代目「吉田橋」である。light吉田橋鉄橋light二代目吉田橋富竹亭2015042812 一番目の鉄橋は、長崎のプレートガーター構造の「くろがね橋」。
「吉田橋」は当時世界トップクラスの橋梁技術を誇った英国の主流橋梁様式だったワーレントラス(正確には下路ダブルワーレントラス)桁構造で作られた。
サイズは
長さは「80フィート(約24.4m)
支間78フィート(約23.8m)
桁高5フィート2 1/3インチ(約1.6m) 「五十畑レポートより」
当時の吉田橋(かねはしと呼ばれた)
現役の鉄製下路式ダブルワーレントラス桁橋は
県内では「箱根登山鉄道早川橋梁」で見ることができる。

Cassiopeia sweet

◆三代目
1911年(明治44年)三代目「吉田橋」が完成。この橋が最も有名、絵葉書や写真に残っている。
light三代目震災後吉田橋20150710122321 light三代目吉田橋20150713204857 日本最初のカーン式鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。
このとき歩道と車道、電車道が分離設計された。
設計は工手学校(現在の工学院大学)長に就任していた石橋絢彦(いしばし あやひこ)
※石橋絢彦
彼はイギリスに留学し灯台建築の技術を学び灯台局に勤務。その後、1889年(明治22年)に神奈川県庁内に横浜築港掛が設置され総監督がヘンリー・パーマーとなった際に臨時横浜築港北水堤現場監督として任に就いた。
三代目「吉田橋」については下記ブログも参考にしてほしい。
【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋

【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋


三代目、文献には関東大震災で倒壊を免れ、多くの人命を救ったといった記述が見られるが、これは事実誤認だろう。かろうじて倒壊を免れたが、関内外から避難者が殺到し多くの死者がでた現場となったという皮肉な結果となってしまった。スクリーンショット 2016-01-17 15.09.49 ◆四代目
1958年(昭和33年)開港100年祭に際し、老朽化していた「吉田橋」の架け替え工事が行われた。この時、仮設の人道橋が設置された。場所は吉田町商店街に入る分岐点あたりだった。
light第四代吉田橋20150508141734

◆五代目?
1978年(昭和53年)3月竣工。
1977年(昭和52年)に派大岡川を埋め立て首都高速が代わりに走ることとなった。
この首都高速道建設に際しマリナード地下街が10月29日に開業。上部が道路になり「吉田橋」としてかつてのトラス構造をモチーフにした橋に建替えられた。
冒頭の繰り返しになるが
現在の「吉田橋」が橋なのか地下施設の構造物の一部なのか?私は橋梁の専門家ではないので 詳細はわからない。
名は残っているが、ここはもう橋ではない、かもしれない。

さて 五代に渡る吉田橋の歴史を簡単に追ってきた。
なんとか全五代の吉田橋画像も手元の資料で紹介したが、三代目は震災と戦災で一部変更されているようだ。このあたりをもう少し詳細に詰めたかった。
次回は吉田橋150年の歴史の中から、エピソードをいくつか掘り出してみたい。

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6月 6

【市電ニュースの風景】№22

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。22号

1931年(昭和6年)5月・6月
五月
29日 ’Sturdy’号にて Edward Miles Lone sailor crosses Pacific
Edward Miles 氏香港から到着、出発は7月14日で、9月9日にハワイ到着。

三十、三十一日 保土ケ谷家政女学校記念展覧会(電車及バス保土ケ谷終点下車)
三十一日 高工對高商 定期野球戦(電車花園橋下車)
=午前九時半開場 午後二時半試合開始ー横濱公園球場にて=
=六月二日第二回戦挙行ー時間及場所は総て前同様=
31日 花月園少女歌劇団 解散。
31日 神奈川区の浅間神社の復興成りその遷宮祭が行われた
六月一日 浅間神社大祭ー新社殿竣成(電車浅間下 下車)
一、二、三日 厳島神社(弁天社)大祭(電車及バス羽衣町一丁目下車)
一日より五日まで 第十二回開港記念祝賀バザー(横浜公園及日本大通にて)
二日 第二回商工祭(十時公園音楽堂にて)広告仮装大行列挙行
一日より十日まで 最近欧州各国ポスター展示会(電車及バス本町一丁目下車)
=日本大通商工奨励館にて開催ー観覧随意=
四日 むし歯予防デー 映画と満談の会(伊勢佐木町又楽館にてー入場無料)
懸賞標語
満員の電車の次に空が来る (当選者 鈴木 哲次郎 君)
※アラビア数字は別の年表から同時期の出来事を追記したものです。

【キーワード】
■Edward Milesの単独横断
史上4番目に<単独航海世界一周>の成功者で米国NY出身です。
米国のアーカイブには登場しますが日本では検索しましたが皆無でした。
※ちなみに1962年(昭和37年)堀江謙一が日本初の太平洋単独横断に成功し世界一周は1974年に成功、世界ランキング36番目です。37番目も38番目も日本人でした。
36番目
Kenichi Horie – Japan
“Mermaid III” – 1973/1974 – First Japanes
37番目
Hiroshi Aoki – Japan
“Ahodori II” – 1971/1974
Smallest yacht co circumnavigate – 20’8″
38番目
Ryusuke Ushijima – Japan
“Cingitsune” – 1973/1974
■保土ケ谷家政女学校
1912年(大正元年)10月  程谷町立女子実業補習学校
1927年(昭和2年)4月  横浜市立程谷家政女学校※
1928年(昭和3年)4月  横浜市立保土ケ谷家政女学校
1935年(昭和10年)4月  公立青年学校神奈川県横浜市保土ケ谷家政女学校
1936年(昭和11年)4月  横浜市立高等家政女学校
1942年(昭和17年)3月 廃止
※保土ケ谷に30年間存在した女学校で横浜市立高等女学校(現在の桜ヶ丘高校)の家政学校として併設される形で開校。

■三十一日 高工對高商 定期野球戦(電車花園橋下車)
1929年(昭和4年)以来休止していた定期戦が復活した試合です。

■花月園少女歌劇団
京浜急行に「花月園駅」があります。少し前には競輪場があったので花月園というとギャンブル!というイメージを持つ方も多いでしょう。ここはかつて東洋一の遊園地でした。
No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)

No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)


この「花月園」の花形だったのが「花月園少女歌劇団」
当時、関西の「宝塚」に匹敵する人気だったそうです。
時代の流れに運営が追いつかず解散の憂き目に合います。

■又楽館(ゆうらくかん )
又楽館は横浜の人気劇場 映画館の一つでした。
場所は長者町6丁目57番地で明治45年※に開業。洋風4階建て2、430人収容の常設活動写真館で横浜有数の規模を誇りました。建物の設計は矢部又吉です。
(大正元年〜 後にオデオン座と合併)「市民とオルガン P29」
※明治45年は7月30日から大正元年となるため 正確な月日が不明な場合明治/大正併記としておきます。

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5月 29

【市電ニュースの風景】1931年 №21

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。
21号1931年(昭和6年)5月
東横電鐵直営 日吉台苺園開園中(二十五日前後が最盛)
二十一日 『郵船』龍田丸入港出航(午後三時四号岸壁発 桑港へ)
※この「龍田丸」でフェリス女学校校長シェーファー、日本ミッションを代表して米国伝道局100年祭出席のため帰米しました。
21日 越前屋新館(8階建・延坪2200坪)伊勢佐木町通りに開店
二十二日より二十四日まで 横濱書道展覧会(電車及バス桜木町駅下車)
=市内有名書家並各学校生徒作品陳列並席上揮毫=
=桜木町中央授産所階上にてー入場無料=
二十二日 剣道聯合会五月例会
(午後六時半北仲通二丁目三菱倶楽部にてー観覧随意)
二十二日 三州豊川いなり大祭
(前里町豊川閣出張所にてー電車初音町下車)
22日 日清製粉鶴見工場全焼
二十三日 一高對横濱高商野球戦(電車花園橋下車)
=入場無料ー午後三時より横濱公園球場にて=
二十四日 第八回マンドリン大演奏会(電車及バス本町一丁目下車)
=午後七時より本町開港記念会館にてー入場無料=
二十五日 岡村天満宮大祭(電車天神橋假停留所下車)
二十四日 全関東中等学校剣道大会
(午前八時横濱商業専門学校にてー入場無料)
二十七日 神奈川高等女学校大運動会(電車花園橋下車)
=午前十時より横濱公園運動場にてー入場無料ー雨天翌日に延期=

懸賞標語
不断の注意は最大の公徳(当選者 松永 伊吉 君)
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■東横電鐵直営 日吉台苺園
1926年(大正15年)2月14日に開業した「日吉駅」は、東急が新しい都市開発をイメージしたエリアで、東側に慶応義塾大学を誘致し西側に放射状の街区を持った街を計画します。スクリーンショット 2015-05-19 19.15.08■三州豊川いなり
「三州豊川稲荷」のことですが、何故「いなり」とひらがなにしたのか?
前里町に戦前の地図を見ると「豊川稲荷」があったことが判ります。戦後20年代から30年代に何らかの事情で無くなっているようです。
※市内の豊川稲荷
埋地連合町内会集会所横に小さな祠がありここが「埋地豊川稲荷」です。中区史によると扇町三丁目七番地に「一説には明治七年の創建」され戦災で消失し昭和38年に現在の地に再建されたとのこと。
神奈川高等女学校大運動会スクリーンショット 2015-05-19 19.06.21「神奈川高等女学校」は現在、沢渡にある神奈川学園高等学校の前身です。
1914年(大正3年)に「横浜実科女学校」として創設されます。
創設の地は南吉田にあった<リンネル工場>跡地の仮校舎だったそうです。
1915年(大正4年)に「横浜実科高等女学校」となり
1921年(大正10年)から「神奈川高等女学校」と改名します。
戦後の新学制から「神奈川高等学校」に1990年(平成2年)から神奈川学園高等学校となり現在に至ります。
http://www.kanagawa-kgs.ac.jp

この「市電ニュース」に登場した運動会の写真が「東急沿線」のサイトで確認できます。
http://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa18.html

ここで一瞬勘違いするのが
1900年(明治33年)10月10日に創立された
 <神奈川県高等女学校>です。翌年に神奈川県立高等女学校となり
1930年(昭和5年)4月1日に「神奈川県立横浜第一高等女学校」となり「第一高女」と呼ばれました。
この「市電ニュース」発行時の昭和六年時点では
「神奈川高等女学校」(沢渡)
「神奈川県立横浜第一高等女学校」(平沼)
の二校が近くにあり間違いやすかったと思います。

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5月 18

【市電ニュースの風景】1931年 №20

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。№201931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧

懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。light_横浜商店街通り077 light_横浜商店街通り071No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮

No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)

■電停 紅葉坂・野毛坂
横浜は坂の多い都市です。light_紅葉坂-1light_伊勢山電停

■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。

■四号岸壁
新港埠頭で客船用に多く使用された埠頭です。light_20150408165442 light_新港埠頭上空

■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。

■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。light_神奈川金毘羅

■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。light__9145936light_P2090159(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。スクリーンショット 2015-05-18 16.36.43スクリーンショット 2015-05-18 16.36.061929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。

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5月 8

【市電ニュースの風景】1931年 №19

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。light_19号1931年(昭和6年)5月
九日 横濱高工對日大野球戦(午後二時半横浜公園球場にて)
九日 春季體育大会(電車及バス市役所前下車)
=午后六時半より常磐町YMCA体育場にて 入場歓迎=
9日 日本ロータリー大会、開港記念会館で開催
十日 横濱母校聯盟野球リーグ戦(横浜公園球場にて)
=正午商友ーJ倶楽部、午后三時弘陵ー高商倶楽部=
十日 第三十回Y高のボートレース(電車山下町 バス「ニューグランド」前下車)
=午前八時より山下町公園前海上にてー荒天延期=
十日 市民慰安三曲大演奏會(電車宮元町 バス商業学校前下車)
=正午より南太田町Y校大講堂にてー入場券無料進呈=
十日より 新興美術(洋画)展覧会(桜木町中央授産所にて)
十三日 横濱高工對千葉医大野球戦(午後三時横浜公園球場にて)
十三日 『郵船』日枝丸入港(晩香坡より午前中大桟橋Cへ)

懸賞標語
「飛乗りや飛降り今日からやめませう(当選者 元川新吉君)」
※アラビア数字は同時期の出来事を追記したものです。

[キーワード]
■常磐町YMCA体育場
YMCAは「Young Men’s Christian Association」の略です。日本語では「キリスト教青年会」とも呼ばれています。19世紀半ば、英国だ誕生したMCAは米国経由日本に上陸し明治草創期に活動がはじまりました。
1884年(明治17年)10月18日
横浜海岸教会の青年たちを中心に横浜YMCAが誕生します。
大正時代には室内体育場が竣工し、「常磐町YMCA体育場」はこのことを指します。関東大震災で被害を受けますが、昭和2年に復旧 開館式が行われ、体育競技の中心施設となっていたようです。light_WV300281

■Y高のボートレース
横浜商業高校の端艇は有名です。時折、大岡川河口域で<端艇部>の練習風景にであうことがあります。
「横浜商業高校八十年史」によると開校当時ボートは必須だったそうで、大岡川を舞台に授業があったのかもしれません?大岡川には古い<端艇>を川に出す専用の<堰>があります。この【市電ニュース】19号でも 端艇が描かれているイラストが掲載されていることからも“名物風景”だったのではないでしょうか。light_19号挿絵light_P3160033light_P7102924

■山下町公園前海上
「山下町公園」は「山下公園」のことだろうと思います。現在は「山下町公園」というと中華街の一角、媽祖廟裏の公園を指します。

■慰安三曲
「三曲(さんきょく)」とは箏・尺八・三味線などをまとめて明治期以降に呼称されていた邦楽分野を指します。

■桜木町中央授産所
授産所=授産施設は<生活弱者のための就労支援施設>
1927年(昭和2年)横浜市が復興社会事業費より28万円を捻出して着工します。
1929年(昭和4年)「興産館」桜木町駅前授産所の場所に開館。
1929年(昭和4年)6月11日に「市中央授産所」として桜木町に設置されます。
「桜木町横浜市授産所ノ偉観」light_資料絵葉書009

■『郵船』日枝丸
1930年(昭和5年)9月、シアトル航路の初航海に向かう「日枝丸」には、高さ約4 メートル、重量約8.5トンもある巨大石灯籠(いしどうろう)が積まれていました。これは、関東大震災(1923年)で大きな被害を受けた横浜市が、米国の見舞金をはじめとするたくさんの支援へ感謝の意を込め、日米親善のシンボルとしてシアトルに贈ったもので、シアトル在住日本人会の提案が発端となったといわれています。この石灯籠は大変喜ばれ、日本人会がその数年前に寄贈した桜500本(※1)が植えられたシアトルのスワード公園入り口の最も目立つ所に設置されました。
※時期と数量に関しては諸説あるようですが、日本郵船旅の雑誌『THE TRAVEL BULLETIN』の情報を優先しました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7276
■晩香坡(バンクーバー)
カナダ有数の大都市でカナダブリティッシュコロンビア州南西部にある都市です。日本郵船が明治期から太平洋航路を開設しました。
■大桟橋C
横浜港の中央部にある「大桟橋(現 大さん橋)」は1894年(明治27年)に完成し「鉄桟橋」とも呼ばれました。その後、すぐ横に数期にわたって造成・整備されたのが「新港埠頭」です。
新港埠頭にはかつて1号〜12号まで岸壁があり、大桟橋の埠頭をABCD岸壁と呼びました。
大桟橋と合わせて計16の岸壁を擁する港でした。light_新港埠頭S5 light_新港埠頭上空

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4月 30

【市電ニュースの風景】1931年  №17

light_17号目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。1号を前回読み解きましたが、今回からタイミングを同じ暦に合わせて紹介します。
1931年(昭和6年)4月25日(土)〜5日1日(金)
(干潮 25日(土)は午后3時5分、26日(日)は同4時半、29日(祝日)は午前9時15分)
25日(土) 岡村天満宮文墨祭(電車天神道假停留所下車)
=市内児童の優秀書方奉納展覧)
同日 帝大對横濱高工野球戦(午后3時横濱公園、球場にて)
26日(日) ロスアンゼルス對母校連盟野球戦(正午 仝 所にて)
27日(月) 立教對松山高商野球戦(午后3時 仝 所にて)
29日(火) 産業振興大講演会(電車バス本町1丁目下車)
=午后2時より開港記念会館にて=
30日(水) 『郵船』龍田丸入港(午前中ホノルルより4号岸壁へ)
5月1日(木) 県立工業学校開校20年記念祭(電車バス二ツ谷・反町下車)
=3日まで校内一般縦覧並製品陳列即売=

懸賞標語
「行先は明瞭に・乗換は簡単に(当選者 山崎直吉)」
※(曜日)は追記しました。一部原文より新字・アラビア数字を使っています。
※仝は同の古字
[キーワード]
■干潮時間が「市電ニュース」に何故掲示されているのかといえば
この時期の市民レジャーの一つが潮干狩りでした。最も砂浜の面積が広がる干潮時を知らせることで 市民の外出を促しました。
現在横浜市内で潮干狩りができるのは金沢区の「海の公園・野島」の浜周辺です。blo海の公園看板98

■ロスアンゼルス對母校連盟野球戦
ここに登場するロスアンゼルスとはどんなチーム?
簡単な調べでは中々情報が出てきませんが、日米野球にとって1931年(昭和6年)は重要な年のようです。
別の年表からこの「ロスアンゼルス」チームが米国ロスアンゼルスの邦人チームと判明、それを手がかりにもう少し調べてみると、
「ロサンゼルス・ニッポンズ」という名のチームと思われます。
「若林忠志らのいた法政大学など日本の大学野球部やアマチュアクラブチームと対戦し圧勝」といった記事も見つかりました。
なぜ1931年が日米野球にとって重要かというと
1931年(昭和6年)米国メジャーリーガーのゲーリッグら選抜軍が<客船龍田丸>にて来日し初の日米決戦が実現します。全日本チームが結成されますが17戦完敗します。
さらに1935年(昭和9年)にはベーブ・ルースらが来日、日本では沢村栄治、伊達正男らが善戦しますが16戦全敗します。ベーブ・ルースはホテル・ニューグランドに宿泊しました。
この年に大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)が創設されます。
また、台湾初の台湾人と日本人と先住民による三民族混成の野球チームが台湾代表として甲子園大会(当時は「全国中等学校優勝野球大会」)に出場し、準優勝という快挙を成し遂げた実話を映画化したのが「KANO 1931海の向こうの甲子園」です。
http://kano1931.com

■天神道假停留所は「第一号その2」で紹介しました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7279

■(神奈川)県立工業学校
1911年(明治44年)に開校した、神奈川県で最も歴史のある工業高校です。
現在は「神奈川工業高等学校」となり「かなこう」または「じんこう」と呼ばれています。
http://www.kanagawa-th.pen-kanagawa.ed.jp

■『郵船』龍田丸
龍田丸は、この3年のニュースの中でも頻繁に登場します。
ここで龍田丸の概略だけ紹介しておきます。

龍田丸

龍田丸は、日本郵船がかつて保有していた遠洋客船です。
1930年(昭和5年)三菱造船長崎造船所で建造されました。「龍田丸」は北米航路を隔週で運行し主な寄港地は香港・上海・神戸・横浜・ホノルル・ロサンゼルスおよびサンフランシスコでした。
起工:1927年(昭和2年)12月3日
進水:1929年(昭和4年)月12日
竣工:1930年(昭和5年)3月15日
就役:  同  年 4月25日
喪失:1943年(昭和18年)2月8日
総トン数:16,955トン
船客定員:総数839名
乗組員:330名
姉妹船:浅間丸と秩父丸(後に鎌倉丸に改名)
初航海は1930年(昭和5年)4月25日に横浜からサンフランシスコへ。No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

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4月 23

【市電ニュースの風景】第一号その2

前回に続き【市電ニュースの風景】第一号から今日はその2
この「市電ニュース」は毎週木曜日
市電車両内に掲示されました。
雑誌で言えば創刊号!ですが そんな派手な告知もなく
さり気なく掲示されたのではないでしょうか。
■第一号
1930年(昭和5年)12月25日発行
<1930年(昭和5年)12月〜1931年(昭和6年)正月>
二十五日(木)
「納の岡村天神詣(天神道假停留所下車)」
「市電ニュース」は156号までアーカイブされています。その中で、季節のイベント記事が多く告知されています。中でも神社仏閣関係の例祭や<市(いち)・縁日>などが多く紹介されました。
※岡村天神詣
岡村天満宮は「岡村の天神さま」として地域に親しまれています。創建は不詳ですが縁起によると鎌倉時代の建久年間(1190〜1198)に源頼朝の家臣が京都の北野天満宮の分霊をいただいて、この地に社を創建したことに始まるとされています。
ここも横浜に多い<杉山>天満宮から「岡村天満宮」と名称が変わり現在に至っているそうです。
light_横浜資料144※天神道假停留所下車
当時この岡村天神のお祭りがほぼ毎月25日に開かれ、多くの人達がここを訪れるために市電の臨時停留所が開設されたのが「天神道假停留所」です。
位置は「根岸橋」と「天神橋」の間でです。図にも示した通りこの臨時停留所から比較的(当時としては)広い道が滝頭小学校方向に繋がり参道(天神道)となったようです。
スクリーンショット 2015-04-23 4.51.02 この岡村天神の25日のお祭りを含め、岡村関係は頻繁に登場しますので都度紹介していくことにします。

二十八日(日)
「神戸市(電車バス保土ケ谷終点下車)」★
神戸市は「ごうどいち」と読みます。で現在復活して 保土ケ谷駅近くの会場で毎月第1日曜日に<宿場朝市 ごうどいち>として開催されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/kyutokaido/goudoiti.html

同 日 電車久保町延長線開通(予定)

三十日(火)
「郵船」大洋丸出港(午後三時桑港へ)
light_大さん橋風景083 light_大洋丸 =二十九日午前中 四号岸壁着=
light_新港埠頭上空(日本郵船の客船が停泊しているところが四号岸壁)
「大洋丸」はサンフランシスコ航路に就航した当時国内最大級の客船でした。ここに「郵船」とありますが、大洋丸は最初東洋汽船船籍の客船でした。
この「大洋丸」は波瀾万丈の船歴を持ちます。
1911年(明治44年)11月18日ドイツで建造され「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)en」の名で南米航路客船(ハンブルク〜ブエノスアイレス)間に就航しました。
※「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)」
http://de.wikipedia.org/wiki/Cap_Finisterre_(Schiff,_1911)#/media/File:Blucher_HAL.jpg
※フィニステレ岬(スペインの名所)
http://fr.wikipedia.org/wiki/Cap_Finisterre
1914年(大正3年)7月に始まった第一次世界大戦に8月1日ドイツ帝国がロシアに対して宣戦布告することで局地戦から世界を巻き込む大戦となります。
この時、カップ・フィニステレ号を所有するハンブルク・サウスアメリカ・ライン社(HSDG)は経営と船体保全のためハンブルグ港に<係船>を決定します。
この人類史上最初の世界レベルの大戦は1918年(大正7年)11月11日に休戦協定が成立し集結します。
1919年(大正8年)に入り、第一次世界大戦終結を受けてパリ講和会議が開催され、敗戦国ドイツに厳しいヴェルサイユ条約(対ドイツ講和条約)が調印されます。
※アメリカ議会は国際連盟を提唱したウィルソンのヴェルサイユ条約批准を否決。
この間、ハンブルグ港に<係船>されていたカップ・フィニステレ号は
戦後アメリカ海軍籍として軍用輸送船となり間もなく英国に引き渡されます。
この第一次世界大戦に日本は英米側の一員として参戦、結果戦勝国となります。ヴェルサイユ条約によって日本も賠償を得ることとなり権益や領土の他、
船舶や潜水艦など<物納>を受けることになります。(殆ど金がなかった)
light_20150423115800(戦勝賠償で横浜港に運ばれ係留されたドイツ潜水艦)

その中の賠償船割当客船舶が「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)」号でした。東洋汽船が国から引き受け(借受け)「大洋丸」と命名、太平洋航路に就航します。
1926年(大正15年)に東洋汽船の旅客船部門が日本郵船に吸収され、日本郵船船籍となります。
この「市電ニュース」に掲示された1930年(昭和5年)は日本郵船となっています。
大洋丸に関しても まだまだ紹介したいことがあります。その後の顛末を含め追々紹介します。

三十一日(水)
福引付全市聯合大売出最終日
=一月七日より景品引換(於市役所勧業課)=
※市役所勧業課
「市役所勧業課」は横浜市が区制後1935年に「産業課」→「産業部」→「経済部」→「経済局」その後は色々変わったので追いかけていません。

一月
二、三、四日(金土日)
羽田穴守稲荷神社臨時出張
=於伊勢佐木町四丁目(電車曙町下車)

「人は人道 車は車道 注意一瞬怪我一生」
この頃も交通事故が社会問題だったようです。
余談ですが この当時のタクシーのほとんどが「クライスラー車」だったそうです。昭和10年代は50銭、ちなみに市電は大人7銭、子供3銭だったそうです。
※( )曜日は今回追加したものです。また便宜上旧字と新字が混じっています。

次回は第二号へ

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4月 22

【市電ニュースの風景】第一号その1

1930年(昭和5年)12月25日
「市電ニュース」第一号が発行されました。
横浜市が震災復興に一つのメドがついた昭和5〜6年、
横浜市電が路線網を広げた時期です。
震災後の横浜で 元気を取り戻す原動力として横浜市の復興計画の柱に<市電網の充実>がありました。
市電網が拡充され利用者も増加する中
「市電ニュース」は毎週木曜車両内に掲示されました。
この「市電ニュース」アーカイブから昭和初期の風景を読み解いていきます。

市電ニュース1■第一号
1930年(昭和5年)12月25日発行
<1930年(昭和5年)12月〜1931年(昭和6年)正月>
二十五日(木) 納の岡村天神詣(天神道假停留所下車)
二十八日(日) 神戸市(電車バス保土ケ谷終点下車)★
同 日 電車久保町延長線開通(予定)
三十日(火) 「郵船」大洋丸出港(午後三時桑港へ)
=二十九日午前中 四号岸壁着=
三十一日(水) 福引付全市聯合大売出最終日
=一月七日より景品引換(於市役所勧業課)=
一月
二、三、四日(金土日) 羽田穴守稲荷神社臨時出張
=於伊勢佐木町四丁目(電車曙町下車)
「人は人道 車は車道 注意一瞬怪我一生」
※( )曜日は今回追加したものです。また便宜上旧字と新字が混じっています。
★二十八日(日) 神戸市は
「ごうどいち」で現在復活して 保土ケ谷駅近くの会場で定期的に開催されています。

■■■解説■■■
1930年(昭和5年)の暮れから「市電ニュース」はスタートしています。
この「市電ニュース」が始まった1930年(昭和5年)暮れを振り返ってみます。
(※翌年1931年(昭和6年)正月は特記事項がありませんでした)
当時の市長は有吉忠一です。
12月27日
★市電・市バスの連絡乗車券を発売する(電車からバスは8銭、バスから電車又はバスは5銭の連絡券をそれぞれの車内で販売)
★横浜・シアトル両市交歓のバラ(2,000本の内1,000本)三島丸で到着。
12月28日
保土ヶ谷線(道上〜保土ヶ谷駅間)開通
これによって市電の震災復興事業が完了します。
12月30日
横浜・シアトル両市交歓のバラ(2,000本の内残り1,000本)日枝丸で到着。
12月31日
閉鎖中の横浜電気館が復活しました。

(シアトルのバラ)
1930年9月、シアトル航路の初航海に向かう「日枝丸」には、高さ約4 メートル、重量約8.5トンもある巨大石灯籠(いしどうろう)が積まれていました。これは、関東大震災(1923年)で大きな被害を受けた横浜市が、米国の見舞金をはじめとするたくさんの支援へ感謝の意を込め、日米親善のシンボルとしてシアトルに贈ったもので、シアトル在住日本人会の提案が発端となったといわれています。この石灯籠は大変喜ばれ、日本人会がその数年前に寄贈した桜500本(※1)が植えられたシアトルのスワード公園入り口の最も目立つ所に設置されました。
そのお礼にと、シアトルから横浜市に送られたのが、50種2,000株(※2)にも及ぶバラでした。「三島丸」と「日枝丸」で運ばれたバラは、山下公園、野毛山公園、保土ヶ谷児童遊園地などに植えられました。太平洋戦争によって、一時は横浜から姿を消しましたが、戦後再び親善のシンボルとして復活します。80年以上を経た現在も、横浜市こども植物園にはシアトルから贈られたバラの子孫が、そしてシアトルのスワード公園には石灯籠が残っています。
※時期と数量に関しては諸説あるようですが、日本郵船旅の雑誌『THE TRAVEL BULLETIN』の情報を優先しました。

(1930年略年表)
1月11日 濱口内閣の主導で日本が金本位制に復帰(金解禁)
1月20日 梅蘭芳来日
1月21日 ロンドン海軍軍縮会議開催、衆議院解散
1月25日 省線桜木町・高島町間が高架線になった
2月5日 京浜電鉄が横浜駅に乗り入れ
2月20日 第17回衆議院議員総選挙
3月2日インドで、マハトマ・ガンディーが、市民的不服従による抗議運動開始
3月15日 横須賀線が電車に切換え
4月1日 湘南電気鉄道の黄金町 浦賀間と金沢八景 湘南逗子間が標準軌 (1435mm) にて開業。
4月10日 銀座三越開店
4月22日 ロンドン海軍軍縮会議終結。米英日の3国で軍備制限条約締結
4月24日 鉄道省が国際観光局を開設
6月10日 加藤寛治軍令部長が天皇に辞表を提出
7月10日 明治神宮プール公開
7月13日 第1回FIFAワールドカップ開催
8月21日 逓信省が東京・大阪間で写真電送開始
9月5日 浅間山爆発 (東京まで降灰)
9月14日 独総選挙でナチ党が躍進
10月1日 東京・神戸間に特急燕運転開始(8時間55分)
11月1日 名古屋市で市営電気バス登場
11月14日 濱口首相遭難事件: 濱口首相が東京駅で佐郷屋留雄に狙撃され重傷
11月16日 富士瓦斯紡績川崎工場争議で煙突男が出現
11月20日 最初の国立癩療養所長島愛生園開設
11月24日 警視庁がエロ演芸取締規則を各署に通達
11月26日 伊豆地方大地震(死者行方不明者331名、全壊4317戸)

次回は 「市電ニュース」に登場した横浜の風景を追います。

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