7月 1

No.456 自由ハンザ都市ブレーメンの気風

7月1日は横浜が開港した日です。
現在横浜では6月2日が開港記念日ですが、
ここに幕末明治の「暦」事情が隠されています。
今日は この有名な昭和3年事件は置いといて…

開港一番に入港した外国人達の話しを紹介します。
列強五カ国との間に結んだ「通商友好条約」では各国との開港日がバラバラでしたが、1859年7月1日に統一します。
約束だけではなく 各国と交易を行う準備が必要となってきます。
日本政府は、各藩・地元民間の有力者に命じて「開港場」=居留地と横浜道の整備を命令します。かなりの突貫工事だったようです。
「横浜道」に至っては開港前日に完成したそうです。
なんとか 体裁が整い 7月1日に外国船を受け入れる準備ができますが
前日30日に横浜港に到着したのが亜米利加船籍の一団で、
ハリス公使以下外交団でした。
そこは 日本政府(徳川幕府)も条約を楯に明日(7月1日)まで待て!
 と米国船団を横浜沖に留め置くことにし7月1日に「亜米利加一番」として手続きします。
亜米利加船とは異なり条約通り7月1日開港日に堂々入国したのが「阿蘭陀船」シキルレル号(Schiller)です。
幕府の認可番号は「阿蘭陀一号」で、250t 乗組員12名だったそうです。
五カ国の中で開港日に入国、入港したのは
亜米利加と阿蘭陀でした   が
実際は 阿蘭陀船籍のドイツハンザ都市の船でした。
阿蘭陀船籍で偽装した背景にはこの時代のドイツ(プロシア)が抱える政治状況がありました。ここに乗船していたのはデュッセルドルフ出身自由ハンザ都市ハンブルグ商人のルイス・クニフラーでした。
到着早々、幕府の用意した外国人専用の貸家を申込早々に商館の開設に動き出します。
このルイス・クニフラーが横浜に初めて商館をオープンした外国人商人です。
福沢諭吉の自伝に
「五国条約というものが発布になったので、横浜は正(まさ)しく開けたばかりのところ、ソコデ私は横浜に見物に行った。その時の横浜というものは、外国人がチラホラ来ているだけで、掘立小屋みたような家が諸方にチョイチョイ出来て、外国人が其処に住まって店を出している。
其処へ行ってみたところが、一寸とも言葉が通じない。
此方の言うこともわからなければ、彼方の言うことも勿論わからない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙もわからぬ。何を見ても私の知っている文字というものはない。英語だか仏語だか一向わからない。居留地をブラブラ歩くうちに、ドイツ人でキニッフルという商人の店に打ち当たった。その商人はドイツ人でこそあれ蘭語蘭文がわかる。此方の言葉はロクにわからないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずるというので、ソコでいろいろな話をしたり、一寸と買物をしたりして江戸に帰って来た。」
福沢が「英学」に方針転換した有名なカルチャーショックの一説ですが、
ここに登場する“キニッフル”こそルイス・クニフラーのことです。
蘭商キニフルとも呼ばれ武器商人としても活躍します。
冒頭にクニフラーをデュッセルドルフ出身ハンブルグ商人と紹介しましたが、この当時のドイツはブレーメン・ハンブルグを中心に独立性の高い都市国家(自由ハンザ都市)として世界を舞台に交易を行っていました。
そして、ハンブルグ商人クニフラーは、ブレーメン出身の優秀な人材を日本担当に起用します。
長崎で実績をあげ横浜進出責任者として赴任してきたのが
マルチン・ヘルマン・ギルデマイスター(GILDEMEISTER)です。
ギルデマイスターは、横浜で日本との通商条約締結に動きますが、最終的にプロシア王国の代表団として日普通商友好条約締結に奔走します。


ドイツ北部に位置する大都市「ブレーメン」といえば?

ブレーメンの音楽隊を思い浮かべる方も多いかもしれません。
ブレーメンはドイツに11あるヨーロッパ大都市圏の1つです。
正式名称は「自由ハンザ都市ブレーメン州」の州都です。
ドイツと日本の開国をめぐる関係は
No.413 あるドイツ人の見た横浜

でプロイセン王国の使節団による日普修好通商条約交渉団とその通訳にあたった森山栄之助のエピソードを紹介しました。
冒頭で紹介しました通り、ブレーメンは「自由ハンザ都市ブレーメン」と現在でも名のっています。

ギルデマイスターの業績
ギルデマイスターは、当初居留地横浜で少数派だったプロシア人(ドイツ人)を組織化しドイツ人倶楽部をまとめあげます。
最終的には在横浜プロシア名誉領事となります。
1868年(慶応四年)明治維新直前にアメリカ経由で母国ドイツブレーメンに帰国します。

■プロイセン王国とブレーメン
プロイセン王国は「十字軍時代の三大宗教騎士団の一つであるドイツ騎士団が13世紀にバルト海沿岸のプロイセン地方に植民を行って成立したドイツ騎士団領を基に発展し、16世紀に公国、18世紀初頭1701年に王国となった」国です。
ところが、ブレーメンはかつてハンザ同盟だったハンブルクとともに、1871年まで独立した都市国家として欧州経済をリードします。

1871年にドイツ帝国の一部となりますが、関税上(交易上)独立していました。
完全にドイツ帝国に組み込まれたのは1888年(明治30年)になってからのことです。
(余談)
ブレーメンといえば????
サッカー・ブンデスリーガに属するヴェルダー・ブレーメンのホームタウンです。ブンデスリーガ優勝4回を誇る強豪で、日本初のプロ選手である奥寺康彦も在籍していたチームです。
奥寺康彦がサッカーとで出会ったのが横浜市立舞岡中学校です。そして相摸工大付属高校から古河を経てドイツへ渡った日本初のプロ選手です。
現在、株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)取締役会長を務め横浜で頑張っています。

5月 16

No.445 「有吉堤」(加筆修正)

震災復興時横浜市長を務めた有吉忠一(ありよしちゅういち)、彼は市長就任の前に神奈川県知事を経験しています。この県知事経験が震災復興の的確な市政に結びついたと言えるでしょう。

1915年(大正4年)有吉、県知事就任直後、直ちに行動を起こしたのが水害対策でした。
頻繁に起こった多摩川の氾濫に泣く「平間」地域に堤を築く治水事業を積極的に進めます。
今日はNo.443「岸辺のアル闘い」に続く「有吉堤」誕生を紹介します。

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有吉堤
明治18年頃の川崎 平間エリア

橘樹郡御幸村周辺は明治に入り 度々大水害を被ります。
何度も治水請願をしますが、内務省からは「堤防整備不許可」が続きます。
皮肉にも不許可直後、2度に渡る大洪水が橘樹郡一帯を襲います。
1914年(大正3年8月〜9月)のことです。
この時の洪水に対し御幸村の村会議員、秋元喜四郎は
水防活動の最中に濁流に呑み込まれますが、かろうじて一命をとりとめます。
秋元は「身体を賭けても堤防を築く」と決意します。
横浜の県庁へ出頭し東京府との交渉結果はどうなっているのか?尋ねますが要領を得ない回答しか手にする事はできませんでした。
そしてついに起ったのが
『アミガサ事件」です。
1914年(大正3年)9月16日未明の決起です。
 ところがこの実力行使も“うやむや”にされます。
1915年(大正4年)9月神奈川知事に有吉忠一が就任します。
早速有吉は、内務省に許可を求めますが一度不許可にしたものは無理だと却下されます。
そこで有吉は現行法の隙間を狙います。

郡道整備建前に堤防として改修する事を決定します。

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明治39年頃の平間エリア。赤丸が平間八幡神社

1916年(大正5年)1月25日
「郡道改修工事」としての正式な許可が下ります。
1916年(大正5年)4月18日
着工後間もなく、内務省からは工事中止の命令が下されます。
河川法によりこの工事は国の許可が必要である。中止せよ!
有吉県知事は「郡道改修工事」を続行を指示しますが懲戒処分を受けてしまいます。
神奈川県は、内務省とこの工事に関して交渉を続け、再開許可をとりつけます。
1916年(大正5年)12月18日
「郡道改修工事」の竣工式が行われます。
このとき、地元の総意として羽田橘樹郡長は堤防を「有吉堤」と命名します。

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昭和7年頃の平間エリア

では、なぜ内務省はこれまで被害がありながらも多摩川右岸の治水工事を認可しなかったのか?
今ではまるで笑い話のようですが、右岸を整備すると左岸が洪水になるからでした。少し乱暴な表現をすれば、多摩川左岸側(大田区南部地域)の方が帝都東京圏で地域的に優先度合いも高く政治力があったからといえるでしょう。

鶴見川多摩川想定浸水深
鶴見川多摩川想定浸水深

※今も鶴見区で想定されている多摩川氾濫浸水の警告プレート
その後、1918年(大正7年)にようやく内務省は重い腰を上げます。
川全体の視点で治水計画が進められるようになり、多摩川改修史のターニングポイントとなります。
ただ、水害に強い築堤が完成することで、周辺の地域構造に大きな変化が起こります。
洪水は災害である反面、上流から運ばれる土砂が田畑に恵みをもたらすという災害との共生関係でもあったわけです。程よく治水政策を行えば、より良い農作地が誕生したかもしれませんが、内務省による治水工事は、多摩川下流域に広大な都市基盤整備が実現します。
さらに1923年(大正12年)の関東大震災以降、大小の工場が新しい土地を求め整備された多摩川岸に移転します。

■有吉 忠一

横浜市長有吉忠一

(1873年(明治6年)6月2日〜1947年(昭和22年)2月10日)
京都府宮津出身。山県有朋に新任された官僚。
内務省入省後、
1908年(明治41年)第11代千葉県知事
朝鮮総督府総務部長官を経て、第13代宮崎県知事に就任。
千葉県知事時代には
県営軽便鉄道の開通を手がけた功績をたたえて「有吉町通り」(現在千葉県野田市野田)という地名が残ります。
宮城県知事時代は、
宮崎県営鉄道妻線・飫肥線の敷設、港の改修、開田給水事業などを実施し、宮城県発展のインフラ整備を行います。
また日本で初めての学究的発掘調査である西都原古墳群の発掘調査も命じます。
1915年(大正4年)9月に神奈川県知事就任
※有吉堤を築きます。
その後、第15代兵庫県知事、朝鮮総督府政務総監を経て
1925年(大正14)第10代横浜市長に就任します。
関東大震災によって破壊的な被害を受けた横浜の復興に尽力を注ぎ、道路・河川運等の整備、学校・病院の新設・改築と並んで、瓦礫を埋め立てて山下公園などの公園を整備します。
その後横浜商工会議所会頭等を歴任し、戦後間もなく亡くなります。

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.347 12月12日(水)横浜自立の原点

日本基督教団神戸教会の教会員で、関東学院の開設にも助力を果たします。
佐佐木信綱に師事し歌人としても多くの“歌”を残します。
有吉が所属した横浜の佐佐木信綱同人会「新月会」には
原善一郎(はらぜんいちろう)、斎藤虎五郎(さいとうとらごろう)、野村洋三(のむらようぞう)らが同人として入会していました。

一すじにまことの道をたがへじと
  ねがふ我手をたすけてよ我友

霜深き夜ふけに電車の音をきゝて
  つとむる人の労をぞおもふ

今日もまた街をまわりてさまざまの
  進む工事を見るぞたのしき

今日も雨なり復興のわざのかくしつゝ
  おくれもてゆく堪えがたみ思ふ

今日よりは外国人もこゝろ安く
  旅寝かさねんこゝのみなとに
※1927年(昭和2年)12月1日ホテル・ニューグランド開業の日に詠う

ポトマック川辺のさくらふるさとの
  やまと少女をまちつゝゑむらん

此国のゆく末はしも憂はるゝ
  党のあらそひかく増し行けば

4月 25

No.441 横浜・川越・甲州トライアングル

今日は、途中経過の話しで失礼します。
発端は、江戸時代最後の横浜エリアを治めていた大名は誰か?
から始まりました。


江戸幕府は統治システムとして、全国各地に大名や旗本を置き参勤交代や国替(くにがえ)転封(てんぽう)で権力基盤をコントロールしてきました。
地方分権と、中央集権の二重構造を上手に使った“しくみ”でしたが、
天保11年(1840年)の三方領知替えの失敗で一気に幕府衰退のキッカケとなっていきます。
横浜市域に話しを進めます。
横浜市域は武藏の国と相摸の国にまたがって拡がっています。
横浜エリア最後の大名は「六浦藩米倉家」でした。


米倉家は元々甲州武田家の家臣で、武田家が織田信長に破れて以降徳川家の下で側近として信頼を得ます。
キーワード 甲州は江戸の要
徳川幕府は江戸を統治する際、重要な領地を“親戚”と“側近”に統治させました。
例えば 近畿地方の要であった彦根を井伊家に任せ江戸幕府三百年の歴史の上で転封(てんぽう)の無い大名でした。
一方、
甲州街道の要だった甲州エリアは親戚の松平家や柳沢家(柳沢吉保)に任せていきます。
近場では、東海道から鎌倉・浦賀に抜ける重要な「金沢道」を
「米倉藩」に任せることになります。


米倉家は1722年〜1869年まで150年にわたって六浦藩主として長く統治しました。冒頭で転封(てんぽう)の無かった井伊家を紹介しましたが
米倉家も1600年代から徳川家の要職につき金沢と上野に小さな領地を得ます。
1696年(元禄9年)に1万石を与えられ晴れて「大名」となり
その後下野皆川に移封され初代下野皆川藩主と初代武蔵金沢藩主を兼務します。
※領地としては下野皆川藩のほうが豊かだったようですが、金沢藩は浦賀・鎌倉への重要な場所であったため“名誉職”としては格が上だったようです。
米倉家(1722年〜1869年)
譜代 陣屋 1万2千石
初代 忠仰(ただすけ)〔従五位下・主計頭〕1706年3月15日〜1735年5月29日
二代 里矩(さとのり)1733年9月13日〜1749年4月22日
三代 昌晴(まさはる)〔従五位下・丹後守〕1728年5月30日〜1786年1月19日
四代 昌賢(まさかた)〔従五位下・長門守〕1759年7月21日〜1798年8月5日
五代 昌由(まさよし)〔従五位下・丹後守〕1777年12月8日〜1817年2月8日
六代 昌俊(まさのり)〔従五位下・丹後守〕1784年10月15日〜1812年5月28日
七代 昌寿(まさなが)〔従五位下・丹後守〕1793年2月21日〜1863年5月7日
八代 昌言(まさこと)〔従五位下・丹後守〕1837年4月13日〜1909年2月27日

この六浦藩初代藩主「米倉 忠仰」は
嫡子の無かった米倉藩に養子として入り、米倉家を継ぎますが
父親は 柳沢吉保です。
柳沢吉保は ご存知の通り 大老格で最高権力に立ち様々な改革を行った大名です。小説やドラマの影響か“悪役”系ですが、実際は名君、優秀な官僚だったようです。


今話題の東急線と東武鉄道が繋がった「横浜・川越」の
川越藩主として素晴らしい街づくりをした領主でもあります。

(横浜と川越が繋がりました)
今日はこの辺で 次回にこのトライアングルから始まる話しを紹介します。

4月 12

【番外編】善悪の彼岸

歴史上の人物評価は難しいものがあります。
歴史の多くが“勝者”の描いた史実を重ね合わせた結果です。
近年、敗者の歴史と言う視点で新資料を元に新しい人物像が描かれています。
横浜を舞台にした人物像にも評価の分かれる人が
意外と多いことに気がつきました。
特に
明治維新前後に登場する多くの重要人物は歴史的政変に関わっているため、評価は立場によって大きく変わってきます。
徳川政権から明治政権に劇的な政権交代の狭間で、歴史に埋もれてしまったり善悪の評価が二分されてきた時代です。


横浜に関係が深く評価が分かれた人物として良く知られている人物は
「井伊直弼」でしょう。
安政の大獄で多くの要人を処刑、処分等を行い「桜田門」で元水戸浪士達に暗殺されました。
薩長出身者には“親の敵”、水戸徳川家には攘夷破りで“目の敵”
明治維新後も井伊直弼支持者と薩長明治政府派とは反目し合います。
その象徴が「掃部山の井伊直弼像」です。
井伊に関しては別のコーナーで一部紹介していますが、
より鮮明に 横浜の直弼騒動を追いかけていますのでまとまり次第紹介します。


「幕末悲運の人びと」で石井孝さんは四人の悲運な人物を紹介しています。
■岩瀬忠震
■孝明天皇
■徳川慶喜
■小栗忠順
中でも「岩瀬忠震」「小栗忠順」は特に横浜と深く関わる人物です。
目下「小栗上野介忠順」に挑戦しています。
小栗忠順は実に興味深いキャラの持ち主です。


まとまり次第 紹介します。

(新田義貞)
突然時代は14世紀に遡ります。


偶然目に止まった本から 鎌倉武将「新田義貞」に関心が湧いてきました。
鎌倉 稲村ケ崎で剣を差し出したパフォーマンスで有名です。


群馬県人には郷里の英雄「歴史に名高い新田義貞」とうたわれています。
上野国新田荘に拠点を持つ関東の御家人で
鎌倉幕府倒幕で「かまくら攻め」のため
南下し 鎌倉道を経由し稲村ケ崎まで一機に攻めくだります。
このとき 横浜市域を通り
「瀬谷」にその足跡をみることが出来ます。
その後、最終的に 福井県(越前国)で最後を遂げます。
評価の分かれる「新田義貞」に関しても
目下 実際に鎌倉道散策中です。

戦後も評価の分かれた人物の一人に
神奈川県知事「内山岩太郎」がいます。
横浜市と神奈川県の仲の悪さ?の原点となった
戦後自治体の制度設計を巡って激しい論争を行います。
少し紹介しましたが
No.399 神奈川都構想で抗争
彼についても目下 下調べ中ですが 中々面白い!
ということで これも時期をみて紹介します。

No.350 12月15日(土)横須賀上陸、横浜で開化。

No.324 11月19日(月)広田弘毅に和平を進言した男像
※もっと、改めて 評価していく人物も多いようです。

今日は 今関心のあるテーマの紹介のみとします。

3月 21

No.429 Y校創設地はどこだ?2

昨日の「Y校創設地はどこだ?」の記事で
叱咤激励のメールをいただきました。

No.428 Y校創設地はどこだ?
「Y校の創設地を調べるなら
Y校の歴史を直接図書館か何かで調べ、もうひとひねりしてほしい。」

ごもっとも
前日の「Y校創設地はどこだ?」の本意は
手元の二次情報で、二つの食い違ったデータの謎解きをする愉しみを追いかけました。
そう データ追跡の基本は「一次情報」にあたれ!
ということなので
一次情報をあたりました。
というか、古書店を巡っていたら
偶然、「Y校八十周年記念誌」に出会いました。

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地味な表紙で ほとんど気がつかない場所での発見です。
※即 入手しました。
そこには、Y校創設期の話しが詳しく記載されていました。

「横浜商法学校」の命名は早矢仕有的で、創設者“美沢進”校長のヘッドハンティング
も彼が小幡篤次郎に伝え、福沢諭吉の快諾を得たそうです。
「横浜商法学校」誕生は横浜町会所の二階で、3月20日開校し
最初の生徒は4名、教員が5名という状況だったそうです。
そこで、25日に急遽夜間部を設け14名の生徒が集まり、現在の定時制部の起源となります。定時制としても日本で初期創設の部類に入るのではないでしょうか。
そして
「11月27日に北仲通六丁目六十八番地」に
新校舎が完成し、移転します。
ここでも 発見です。昨日の「No.428 Y校創設地はどこだ?」
の下になった年表では11月26日となっていました。

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以上が 「横浜商法学校」設立の顛末です。

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この「Y校八十周年記念誌」にはその当時の手書き地図が掲載されていましたので転載させていただきます。横浜駅(現桜木町駅)前には噴水がありました。

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ここでもう一つ 個人的大発見。
横浜正金銀行支配人、慶応義塾塾長、交詢社の設立発起人だった小泉信吉(こいずみ のぶきち)の自宅が桜木町一丁目一番地にあったことがこの手書き地図に書かれています。
Y校との関係も深く、強力な支援者でした。

(試練)
1888年(明治21年)3月18日に近所で起った火事で学校が全焼します。
その時、
「学校が焼けたのではないぞ、建物が焼けたのだぞ、解ったか。
 解ったらよい 酒でも飲め」と
美沢校長を強く励ましたのが小泉信吉だったそうです。
隣接地の本町六丁目八十四番地の生糸会社を借りて授業を再開、
一年九ヶ月後、新校舎ができあがり大きな試練を乗り越えます。
さて?
この間借りした生糸会社?
手元資料で調べましたが判りませんでした。
帝蚕倉庫株式會社は創設が大正なので違います。
追跡してみます!

この「Y校八十周年記念誌」にはY校のエピソードが一杯記載されています。
テーマを練りながら 折々に紹介していきます。

No.267 9月23日(日)Yの真価

2月 28

No.419 落胆の身を江湖にさらす

No.418を419と間違えました。
修正するとちょっとややっこしいのでこのままにして、明日418としてアップします。すみません。

今日は銀行家であり実業家、教育者、茶人でもあった
“中村道太”という人物を紹介しましょう。

中村道太
Kanagawa_Prefectural_Museum_of_Cultural_History_2009
旧正金銀行本店、現県立歴史博物館 Wikiより

小さいころから秀才で漢学,国学,英学などを学んだ中村道太は
丸善の初代社長を務め
豊橋第八国立銀行を創業
横浜正金銀行初代頭取となり
その手腕を発揮しますが
時代に翻弄され 85歳で亡くなるまで
落胆の人生を歩みました。
No.59 2月28日 アジア有数の外為銀行開業

(波乱の人生第一幕明治維新)
1836年(天保7年)中村道太が生まれた吉田藩士(現在の豊橋)は徳川家臣として立藩した徳川幕藩政権に近い藩でした。
譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつといわれてきましたが、幕末は財政危機を迎えます。
優秀だった道太は、1866年(慶応二年)江戸詰を命じられ上京、
福沢諭吉や勝海舟の存在を知り
特に福沢の「西洋事情」を読み感動し築地鉄砲洲の藩屋敷で私塾を営んでいた福沢を訪ね運命的出会いとなります。

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幕末期の三河吉田藩は苦しい財政を抱えたまま大政奉還、明治維新を迎えます。
幕藩側だったため、新政権からは厳しい対応を迫られます。
武士だった中村は明治に入り、立場にこだわることなく近世から近代へいち早く考え方を切り替えます。
藩の財政を福沢から学んだ簿記の考え方で立て直し、
1870年(明治3年)には34歳の若さで好問社学習所(女子教育学校)を豊橋に設立します。
その後、道太は旧藩主の江戸藩邸の家財整理の役目で江戸に出ます。
役目を終えた後、
自宅を洋物の商店にして
商人としての新しい人生を歩みだします。


その後、福沢諭吉の推薦で横浜に行き早矢仕有的の丸屋に入社し
1872年(明治5年)共同経営者となります。
ここから中村と「横浜」が 点と線のように絡み合う運命が始まります。
横浜に創業した丸屋商社は後に東京へ移り丸善となり、
中村は地元に戻り 豊橋で第八国立銀行設立に奔走しますが、

その間 早矢仕有的、小泉信吉、福澤諭吉、大隈重信らと協議を重ね、
外貨銀行の必要性を強く感じ 設立準備を進めます。
一度出した願いは却下されますが、

1879年(明治12年)12月11日に「正金銀行創立願」が認可され、
横浜正金銀行が設立されます。
1904年(明治37年)に建設された横浜正金銀行本館は妻木頼黄の設計。関東大震災でも建物の倒壊等はありませんでした。
(波乱の第二幕)
横浜正金銀行初代頭取に就任し、
ここから中村道太の波乱の人生第二幕が始まります。

中村を頭取とし、資本金300万円で始まった横浜正金銀行は、その後国際金融面で明治政府を支え続けることになりますが
創設早々、横浜正金銀行、銀貨相場の下落・荷為替や貸出などで不良債権を生じ経営危機に陥ります。
1882年(明治15)年7月に中村道太は責任を取って辞任します。
が、
その前年1881年(明治14年)に、明治時代を揺るがした「明治十四年の政変」が起ります。
明治期 岐路に立つ大事件が次々と起こります。
1877年(明治10年)には内乱「西南の役」
1878年(明治11年)には大久保利通暗殺という動乱を経て、
1881年(明治14年)初めに明治14年の政変。
君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、後者の中心人物だった「大隈重信」以下ブレーンの福沢諭吉及び慶應義塾門下生を徹底して政府から追放した政治事件。
この政変で大日本帝国憲法が君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まります。
この「明治14年の政変」はもう少し複雑な背景がありますが、別途紹介します。
中村道太は政変のあおりを食ったのかもしれません。
横浜正金銀行からも慶応義塾色が排除され、道太も悪者扱いされますが、その後社史でも復権します。
そして、中村道太は正金銀行を辞めるとき、額面で2,000株を買取ることになります。当時、経営が思わしくなかった正金銀行株は下落していました。額面100円が90円だったそうです。
ところが、正金銀行株は280円に跳ね上がり友人に売却し大きな資金を得ます。
(落胆の第三幕)
中村は、その後少し政治の世界に入っていきます。
慶応義塾を辞めた井上角五郎を朝鮮に送り“革命の志”金玉均支援活動に関わります。
一方で東京米商会所の会頭に就任し業界を指導しますが、
これもまた 反大隈派の急先鋒だった睦奥宗光と井上毅らによって叩き潰されます。(このあたりもドラマチックです)
東京米商会所は閉鎖され中村道太はまた、道を閉ざされます。
大隈と福沢は別の道を探れ!といったのかも知れませんが
中村は東京米商会所再建に奔走し私財を全て投げ出します。
このあたりから 中村道太の人生がずれはじめます。
活動の記録が消えうわさ話ばかりが残っています。
旅館経営、寿司の販売、清元の流し など
実際は 隠遁生活を送っていたようですが、
その後85歳で亡くなるまで
実業の世界に彼の姿を見る事はできませんでした。

(意外な横浜つながり)
1883年(明治16 年)「昼花火」の技術を日本人で初めて米国特許として取得し1904年(明治37年) のセントルイス万国博では、最高金牌を受賞した平山甚太の花火製造所を

No.308 11月3日(土)対米初の特許は横浜花火
で紹介しました。

この平山甚太は横浜商法学校(現在のY 校)創立発起人の一人でもありますが、
平山の兄が中村道太です。

No.267 9月23日(日)Yの真価

作家の獅子文六は平山甚太の孫で2010年APECでオバマ大統領が来日した際、
菅総理に日本人として初めて甚太が取得した米国特許の複製が贈られたニュースを見た方も多いと思います。

兄弟だった中村と平山、一時期中村道太も弟の協力で“豊橋花火”の事業化に取組み海外輸出もおこなっていたそうです。
もうひとつ、

No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将

中村を支えた女性がいます。
富貴楼のお倉です。

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ココからは推論の推論ですが、
伊藤博文が比較的、大隈や福沢の考えに寛容であったことや
朝鮮半島をめぐる時代認識も福沢等に近かったのは?
彼女の関わりが少し あったかもしれません。
この辺で、富貴楼を巡る明治初期のドラマが生まれるかもしれませんね。
このあたりももう少し掘り下げたいところです。
今日は これまで。

2月 22

No.412 多吉郎、横浜に死す。

今日は一人の幕末に生きたある<外交官>を紹介します。
森山 多吉郎。
恐らく、殆どの方にとって初めて聞く名だと思います。
彼は横浜を舞台にした世紀の日米外交の通詞(通訳)として活躍した人物で<外交官>という表現は的確ではないかもしれません。ただ、彼は単なる通訳としてではなく国家間の価値観を理解し合うための役割を果たした人物です。
どこかで彼を紹介したいと漠然とですが資料を探っていました。

「幕末の外交官 森山栄之助」という本で彼が横浜で急死したことを知り、彼の晩年にも関心がでてきましたので森山のアウトラインを紹介し日米交渉の顛末は後日に紹介することにします。

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森山 多吉郎は、一編の長編小説の中で あるアメリカ人と共に描かれています。
「海の祭礼」
吉村昭の秀作の一つです。
歴史作家“吉村昭”は、司馬遼太郎と並ぶ、近代を描いてきた偉大な人物です。
彼の「海の祭礼」に登場する
森山 多吉郎は、1820年7月10日(文政3年6月1日)に代々オランダ通詞を務める長崎の森山源左衛門の家に長男として生まれます。
ある時期まで、彼は森山栄之助と名のります。
彼もまた、有能なオランダ語通詞として家業を継ぎますが、時代はオランダ語以外の語学も必要に迫られてきた幕末に突入します。

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(あるアメリカ人ラナルド)
「海の祭礼」はロシアと国境と開国で揺さぶられる北海道宗谷地方から幕が開きます。
ペリー来航の五年前スコットランド人とネイティブアメリカンの間に生まれたラナルド・マクドナルド(Ronald MacDonald, 1824年2月3日〜1894年8月5日)が
日本に来たい一心で漂流民を装い、北海道に上陸します。

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彼は 日本の法律によって、長崎に移送され監視下に置かれますが、この時に英語の必要性を感じていた長崎通詞の森山栄之助と出会い“英語”をレッスンすることになります。
日本国内で初めてアメリカ英語を学んだ日本人です。
二人の友情は深く結ばれ、アメリカ本国に帰国(送還)したラナルドは、最後まで日本を懐かしんでいたそうです。
この英語力習得が彼の人生を大きく変えます。
蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として、長崎から江戸に舞台を移し来航したペリー一行の通訳を担当します。
当時のロシア、ドイツ、イギリス、アメリカ他の外交日誌には森山の名が優秀な外交官として登場しますが、日本での通詞の位置はかなり低く見られていたようでほとんど文献には登場することはありませんでした。外交交渉に長けた
・領事ハリスやオールコックとの巧みな交渉力。
・ロシア使節プチャーチンとの熾烈な交渉
・プロイセンとの条約交渉
 に森山が重要な役割を果たしています。

No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る

1862年(文久2年)1月
一旦開港したものの、国内の攘夷運動の高まりから
開港延期、国境問題等で渡欧した文久遣欧使節団(竹内保徳遣欧使節団)の通訳としてオールコックと同船しイギリスに赴きます。(〜1863年1月)
ここに福沢諭吉も通詞として乗込んでいましたが実践力は圧倒的に森山だったと想像できます。

巧みな外交の国イギリスのオールコックが「信頼しうる英人と情報交換できる」人物と評した彼、森山の英語力と交渉力は優れてたことが皮肉にも外国人によって記録されています。

幕末、江戸(日本)では英語を学ぶ手だてが大きく三つありました。
1 森山に代表される長崎通詞による英学
2 ジョン万次郎に代表される漂流民による英学
3 幕府が設立した蕃所調所での英学
このチャンスを活かした人物として福沢諭吉や福地源一郎がいます。
森山栄之助は、英語普及にも努め、当時の英学辞書だった「英蘭対訳辞書」本から日本語と英語の辞書を編纂しますが多忙のため中断となります。
また公務のかたわら、江戸小石川に英学塾を開きます。
ここに沼間守一、津田仙、福地源一郎が学びました。

No.287 10月13日(土)翔ぶが如く

(謎の多い森山)
幕末から明治にかけて、多くの幕府通詞は新政府の下でも仕事があったため新政府に残ります。
敢えて、徳川家にということで静岡藩に移る通詞もいましたが、

森山は 役職を捨て新政府には加わりませんでした。
「海の祭礼」でも森山の晩年については触れていません。
その他の森山関係資料でも「東京で急死」とあるだけでその間の事情については不明のままでした。
ところが、親友だった福地源一郎の資料には森山が横浜で外国人相手の通訳をしていたとありました。
1871年5月4日(明治4年3月15日)横浜で急死し、妻と4人の子供が残されます。
彼の悲報を知った福地源一郎は、森山の長男と三女を引取り育てます。
三女梅子は福地源一郎の養女となり、同時代を生き静岡藩に移った通詞“西吉十郎”の息子と結婚しました。不思議な縁というか、激動の時代を生きた通詞の間には一種の<仲間>感覚があったのではないでしょうか。

※交渉相手だった諸外国から見た日本と交渉役だった森山との<外交交渉>に関しては 別の機会に紹介することにしましょう。
【追伸】
森山栄之助について

前置きが長く 息が切れてしまい
核心部分が抜けてしまいました。

森山は、幕府の通詞時代とても老け込んでいて
40代でも老人に見える程でしたが、幕府の立場を
通詞として有能な官僚として素晴らしい外交センスを駆使した人物でした。。

維新前夜、滅び行く江戸幕府を前に
彼に残された選択肢の中で、最も静かな道を選びます。
それが横浜での暮らしでした。
自由で、過去のしがらみもない街で森山は一時の平穏を味わったのではないでしょうか。
彼の上司であり親友だった福地源一郎
彼と関係の深かった沼間守一は
自由民権運動の道に進みます。
 No.287 10月13日(土)翔ぶが如く

同じ通詞として重責を担った堀達之助は明治になり北海道へ
西吉十郎は、静岡藩から薩摩藩にそして法律家となります。
時代と政治に翻弄された通詞達。今一度歴史の舞台で光を当てるべき人たちでしょう。

2月 18

No.408 古代横浜の七年戦争

ブログ再開に際し 時代をさかのぼり
昔々の横浜に起った七年戦争を紹介しましょう。
時は、534年(安閑天皇元年)ごろ
当時横浜一帯は「笠原直 使主(かさはらのあたい おみ)」という豪族が支配していました。もう少し広い範囲で説明しましょう。
武蔵国(むさしのくに)の話ですから、現在の埼玉全域・東京・川崎・横浜という広大な地域を舞台にした物語です。

日本書紀

この笠原家に身内争いが起ります。
親戚(同族)の笠原小杵(おき)(おきね)が国造(くに の みやつこ)という地方を治める官職を巡って内乱を起こします。
戦いは七年経っても決着がつきません。
「小杵」は現在の群馬県地域の豪族だった上毛野君(かみつけののきみ)小熊(おくま)に助力を求め形勢逆転を図ります。あくまで記録上の表現ですが、
「小杵」は“性格が激しく人にさからい、高慢で素直でなかった”そうです。
一方で「笠原直 使主」はこれに気づき、このままでは負けると京都に逃げ出し朝廷に助けを求めます。
朝廷は実情を聞き、「使主」を国造として認定し「小杵」に対する征伐軍を出した結果、大和政権と全面戦争を避けたい小熊が軍を引いたことで「使主」は国造職を維持します。
無事自国の領地を取り戻した
『「使主」はかしこまり喜び黙し得ず、帝のために横渟(よこね)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くるす)の四ヵ所の屯倉を設け献上した。』
※屯倉(みやけ)とは、大和政権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。
これが534年(安閑天皇元年)ごろだと「日本書紀」に書かれています。
この横渟(よこね)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くるす)の四ヵ所
横渟(よこね)は現在の
埼玉県比企郡吉見町(和名抄の武蔵国横見郡)あたりと推測されています。
そして、神奈川の
橘花(たちばな)、現在の川崎市から横浜市東北部で、平安時代の百科事典「和名類聚抄」に示す武蔵国橘樹郡あたり。橘花が橘樹に変化したのでしょう。

和名類聚抄

多氷(おおひ)は多末(たま)の間違いで「和名類聚抄」の武蔵国久良(久良岐)郡大井郷か東京都下多摩地域あたり
倉樔(くるす)
横浜市南部で「和名類聚抄」の武蔵国久良(久良岐)郡にあたるだろうと推測されています。
横浜は、武藏の国と相摸の国の境目あたりに位置していたんですね。
それから1世紀、戦国時代に笠原家の名が相模の戦国大名北条家の家臣として登場し活躍します。

駒沢大学ライブラリーより

「笠原信為(かさはら のぶため)」
武蔵国橘樹郡小机城城代で、墓所は雲松院(横浜市港北区小机町)にありますが、
この笠原家が古代の笠原と関係があるかどうかは 判っていません。

2月 6

No.399 神奈川都構想で抗争

大阪あたりでは「大阪都構想」が話題になっていますが、この話ポッと出てきた話しでは無く、戦前からの市と府県の抗争史の延長線のようです。
政令指定都市「横濱」を材料にしながら、戦後勃発した都市抗争を紹介します。


明治以降、地方自治制度は都市と自治体の試行錯誤の歴史です。
一から説明するとかなり長くなってしまいますので、
サビ!の部分だけ紹介しましょう。サビの部分だけですので少々“辛い”かもしれませんが、ご容赦ください。

(分離独立)
1888年(明治22年)大日本帝国憲法発布にともない市制町村制が施行された当初は、東京市・京都市・大阪市の三市が特例都市でした。
その後、1898年(明治31年)に三市特例が廃止され全国都市の差が制度上は無くなりましたが、都市の拡大に伴い1922年(大正11年)「六大都市行政監督ニ関スル件」の公布で六大都市が自治権を獲得します。
六大都市とは東京市・京都市・大阪市・横浜市・神戸市・名古屋市で現在も日本の中核都市の代表格です。
これらの都市が成長するに従い、上位自治体である<府県>から分離独立を目指すようになっていきますが、戦時体制の一環として1943年(昭和18年)に東京都制が公布されます。
東京府と東京市が廃止され、東京府の区域が東京都になり、
「東京都」が誕生します。
東京都は戦時体制から出発した!意外ですね。

他の五大都市も分離独立を目指しますが、
一歩前に進んだのは

1947年(昭和22年)に地方自治法が公布・施行され、特別市制度が創設されます。
(地方制度調査会誕生)
五大都市独立には大きな壁が立ちはだかります。
大都市を抱える府県の「首長」にとって、心臓部の大都市の独立は、死活問題になります。
五大府県は市の独立に大反対します。

新憲法の下で、地方の自治権拡大が謳われますがその単位に関しては議論が煮詰まっていませんでした。そこで、(現在も続く)地方制度調査会が誕生します。
この委員として市の独立反対の急先鋒となったのが、神奈川県知事だった内山岩太郎です。


No.324 11月19日(月)広田弘毅に和平を進言した男像

No.350 12月15日(土)横須賀上陸、横浜で開化。
京都市・大阪市・神戸市・名古屋市は全て城郭都市でお城や御所を中心に同心円状に拡がっていますが、横浜市のある神奈川県は全く異なった地勢でした。

 

神奈川から横浜市が独立したら、川崎市(現在は政令指定都市)が県の飛び地になってしまう。


それだったら
神奈川を東京都のように強化する方向を目指したのです。神奈川都構想???
(犬猿の仲)
神奈川を除く4大府県は、都市形成の歴史背景も関係し消極的だったのに対し、五大都市は一致団結します。分離を心配した川崎市長からも神奈川県の心配は“杞憂”に過ぎないと“梯子を外されて”しまいます。
内山神奈川県知事は、日本国憲法を楯に抵抗します。
日本国憲法95条は、特定の自治体のみに適用される法律(いわゆる地方自治特別法)は、その自治体の住民投票で過半数の同意を得なければ制定できないと定めていたからです。
横浜市の独立は神奈川県民に問え!!と。
横浜市側は住民投票を「当該市にのみ適用される法律」と解釈し県民投票は不要!と主張します。
全国六大都市の独立機運から始まった特別市構想は
最終的に 神奈川県と横浜市のバトルが中核となってしまいます。
以来、この犬猿の仲は現在まで“引きずって”いるようです。
結果、どうして市側が勝利したか?
五大都市チームの一致団結とGHQへのロビー活動が勝因となります。
(中途半端)
五大都市の一部独立が「政令指定都市」というカタチで実現します。
しかしこの「政令指定都市」現在20都市もありますが、制度上不完全である事が多くの当事者、専門家らによって指摘されています。
二重行政の弊害を含め、多くの矛盾を抱えている事も現実です。
その意味で、
府県単位で強い自治権を確保したいとする
「大阪都構想」は明治の「かたき」を「平成」で討とうとしているのかもしれません?
<大阪維新>のネーミングも歴史的に観るとなかなか奥深いものがありますね。
何れにしても、行政の効率化が叫ばれる中、
大都市のマネジメント(地方自治)の再検討期に入った事は間違いありません。
横浜市は大きすぎるのではないか?という議論も時折再燃しています。いっそのこと幕末に戻して相模国鎌倉郡部を「西横浜」武蔵国部分を「東横浜」に なんて妄想しています。

2013年2月投稿
1月 29

No.392 サトウさん入門

アーネスト・メイソン・サトウなる人物をご存知ですか?
幕末から明治にかけて日本と深く関わった英国人です。
日系人?ジョン万次郎のような元日本人?
なんて思っている方いらっしゃいませんか?
今日は サトウさん入門です。

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Sir Ernest Mason Satow
アーネスト・メイソン・サトウ
意外と誤解されているサトウさんは、
1843年6月30日(天保14年)に生まれ1929年(昭和4年)8月26日に亡くなりました。
勘違いされる理由の一つが、日本名を佐藤 愛之助(または薩道愛之助)などと名乗っていたことが挙げられます。
ドイツ系イギリス人としてロンドンに生まれました。
サトウさんは1862年9月8日(文久2年8月15日)に横浜に英国駐日公使館の通訳生として(通訳ではなく通訳になるため)着任します。

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東禅寺事件

(通訳のサトウさん)
サトウさんは着任早々、大事件に遭遇します。
9月14日(8月21日)生麦事件の勃発です。
サトウさんはこの生麦事件と、数ヶ月前の6月26日(文久2年5月29日)に起った第二次東禅寺事件の賠償問題交渉団に通訳として加わります。
生麦事件は、薩摩藩の行列の前を横切ったイギリス人を殺傷した事件です。
第二次東禅寺事件(江戸高輪東禅寺)は、1861年に起った第一次東禅寺事件(水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件)についで起った事件です。
第一次事件でオールコックは公使館を横浜に移しますが、オールコック(一時帰国)の代理公使ジョン・ニール(強硬派)が安全確保ができないまま東禅寺に公使館を戻し、二次事件が起ってしまいます。襲撃では無く、東禅寺を幕府命により警備していた松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺するという幕府にとって全面的に不利な事件です。
幕府は警備責任者を処罰し、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉が行われている矢先に「生麦事件」が起ってしまうのです。
事件が立て続けに3件起り日英関係が最悪となります。
サトウさんは幕府との交渉に通訳として参加はしますが、研修中でほとんど通訳はできませんでした。ただ、日本との交渉会議に出席したことはその後のサトウさんに大変役立ちます。
その後、サトウさんは日本語能力を高め、初仕事は公式文書の翻訳でした。
幕府側から届いた手紙を翻訳します。
生麦事件等を早急に終結させるために1863年6月24日(文久3年5月9日)幕府に諮らず独断(英断?)で賠償金10万ポンドをイギリスに支払った肥前国唐津藩出身の老中「小笠原長行」からの手紙でした。内容は、将軍徳川家茂が孝明天皇に“5月10日を持って攘夷を行うと”約束したことをイギリス側に知らせる内容でした。
その後、
薩英戦争への従軍で薩摩藩船青鷹丸の拿捕現場、鹿児島の市街地大火災を目撃しかなりショックを受けます。どうも代理公使ニールとうまが合わなかったようです。サトウさんはイギリスに帰国するか日本にとどまるか悩みますが、オールコックが本国から帰任し引き続き日本に留まるよう説得され日本に残ることを決断します。
このオールコック公使の留意がサトウさんの重大な岐路となったのです。

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オールコック公使によって、かなり自由な時間を与えられます。
ここからサトウさんの日本学習が始まります。親友イギリス人医師ウィリアム・ウィリスとの交遊を深め、伊藤博文(伊藤俊輔)・井上馨(志道聞多)とも交流を深めます。この頃かなり日本語が堪能になり「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名も使い始めるようになります。
(政治学者サトウさん)
横浜で発行されていた週刊英字新聞「ジャパン・タイムズ」に、1866年(慶應2年)3月から5月にかけて匿名で「英国策論」という論文を掲載します。
この「英国策論」は徳島藩士沼田寅三郎によって翻訳出版され、日本国内に影響を与えます。「明治維新の原型になるような一文」となったともいわれています。
骨子は
(1)将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
(2)独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
(3)現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
西郷隆盛、宇和島藩主だった伊達宗城らはこの「英国策論」に影響を受けます。

(外交官見習いサトウさん)
サトウさんはオールコック公使の後任パークス公使に随行し北海道・北陸等を視察し開港するための港選択の旅に出ます。
この頃から、通訳士の役割を越えた外交官のサトウさんの活躍が始まります。
明治に入り、休暇をとり母国に帰ります。
1870年11月(明治3年)賜暇を終えて日本に戻ったサトウさんは、
維新後の混乱する明治政府要人と英国の関係を確立する為に(代理公使)アダムズの通訳官として明治天皇、木戸孝允、岩倉具視らと会見、他新政府の要人(大隈重信、山尾庸三 他)と個人的に精に会い議論も重ねます。
同時に、関東一円を旅行し日本理解に努めます。この頃に出会った日本人女性「武田兼」さんと結婚しさらに日本への理解を深めます。
その後、シャム、ウルグアイ、モロッコの領事代理、領事を歴任し日本に戻ります。

(駐日特命全権公使)
1895年(明治28年)7月28日から1900年(明治33年)まで
サトウさんは駐日特命全権公使として東京に居を構えます。
この間、日清戦争、治外法権の撤廃(日英通商航海条約)などに立ち会い、
1904年(明治37年)2月8日に始まった
事実上の英露代理戦争だった「日露戦争」前の重要な外交判断を行っています。
同時期に日本にいたグラバーがビジネスで政治に関わり、サトウさんは外交官として日本外交に関わっていきました。

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(日本研究の先駆者)
サトウさんは「英国における日本学の基礎を築いた」とも評価されています。
『英和口語辞典』『中部・北部日本旅行案内』『神道論』なども表し
英国の日本政策の一級資料にもなります。
彼は、全権公使時代の約5年、公私共に何回も横浜に出かけます。
彼の日記に、横浜の文字がでない月はありません。
例えば
1897年(明治30年)1月4日
横浜に行ってリード家で夕食をしてディンスデイル夫人の芝居「シンデレラ」を見に行く。大変面白かった。

芝居好きなサトウさんは、多くの友人と「横浜」での食事を楽しんでいます。
彼の好んだメニュー 再現できませんかね!?

(最後に)
ちょっと長くなってしまいましたが 駆け足でサトウさんのこと紹介してきました。
Ernest Mason Satowは Sirとなり枢密顧問官となります。
ローレンス・オリファントの著作「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れ、

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1861年イギリス外務省(領事部門)に通訳生として入省した一般公募の職員だったのです。駐日公使オールコックとの出会いで清国北京で漢字学習に従事するところから彼の人生が開けます。
まだまだ階級社会だった英国で、サトウさんはまさにシンデレラボーイでもあります。
私も一部の資料しか読んでいませんが、横浜とサトウさんの関係は深いので、もっと多くの方にサトウさんを知って欲しいと思います。

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇