2月 18

「時」の風景(更新)

今日は「時」の話題から始めます。

古典落語に「時蕎麦」という滑稽話があります。屋台の蕎麦屋でお勘定をす際、「七(なな)、八(はち) 今何どきだい? 」「ここのつで」「十(とう)、十一(じゅういち)」というだましを使うネタです。
時代は江戸、
屋台の蕎麦屋はなぜ時間を正確に言えたのでしょうか?
江戸時代の時報は<鐘>の音でした。江戸では公認の時報を打つ場所が九カ所あったそうです。初めに捨て鐘三回の後に、時刻に応じてその数だけ鳴らしました。
ではその打つ時刻はどうしたのか?
当初は線香の燃え方で、その後「水時計」が設置されていて、時計に従って鳴らしたということですから、秒単位の正確さは無いものの社会生活には全く問題がありませんでした。
江戸時代の暦、太陰暦も季節感にそったカレンダーで農家には便利な<暦>でした。
時報の知らせ
鳴らす間隔は、当初「明け六つ」(午前6時)、「暮れ六つ」(午後6時)をドーンと太鼓で知らせるだけでしたが、2代将軍 徳川秀忠の時代から鐘に代わります。昼夜十二の刻を打つようになります。
「時そば」の九つ時、午(うま)の刻(午後零時)か子(ね)の刻(午前零時)のことです。落語には近くで様子を見ていた<与太郎>が登場していますので、午(うま)の刻(午後零時)の九つ時が自然かもしれません。
※「時そば」はyoutubeに多く収録されていますのでどうぞお楽しみください。
この時に使われていた時刻は江戸以前の「和暦」に基いて不定時法を用いていましたが、明治六年以降太陽暦を使うことになります。
定時法(24時間を均等に分ける)時刻となり西洋式の時計が大量に輸入されます。ところが、
時計があっても、すぐに時計は役に立ちません。
基準時と「時報」が必要だったからです。
日本の基準時間をどうするのか?
教科書では「東経135度 明石標準時」と習います。
この明石標準時は、東経135度の時刻を日本の標準時とすることを定める勅令「本初子午線経度計算方法 及標準時ノ件」が1886年(明治19年)公布され決定します。
英国のグリニッジを基準とした日本の上を通る9時間の時差となる135度とすることになります。
この英国グリニッジ標準時も、国際会議でかなりもめます。
フランスも自国の国立天文台を基準にすることを主張したからです。
1884年(明治17年)国際子午線会議の投票で僅差の結果、英国に決定します。
もし、フランスに決まっていたら 明石では無くなった可能性が高かったでしょう。
1884年(明治17年)以降、一気に国際標準時の整備が世界レベルで推進されます。
二年後の
1886年(明治19年)に明石が標準時地点と正式に決まり、
国際標準時を必要とする国際港に<時報>が求められるようになります。
1903年(明治36年)の3月2日
「横浜」と「神戸」の国際港にタイムボール(報時球)が設置され運用開始しました。
<かなり前置きが長くなりました>
横浜港のタイムボール(報時球)は皮肉にも<フランス波止場>近くにありました。
light横浜絵葉書時報003 現在で推測すると、氷川丸とホテルニューグランドの間、山下公園の中央広場あたりです。
ちなみに横浜のタイムボールは<黒色>で、神戸は<赤色>だったそうです。この絵葉書が赤なのは<手彩色>で目立つことを意識したのかもしれません。

1913年(大正3年) 航海指針 山田正良 編 (海員協会版)
横浜報時球信号手続
1.報時球は日曜日及大祭日を除き毎日本邦中央標準時の正午時(東経135度に於ける平時正午時即ち英国経威平時の15時)に墜下せしむ
2.報時球の位置は北緯35度26分40秒988 東経139度39分零秒330トス
3.報時球の色ハ黒色に塗り櫓は白色とす
4.球は常に下部横木上に据置き正午時約5分前(午前11時55分)より之を上部横木下まで引揚げ東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる瞬時を以て正午時とす
5.報時信号に過誤ありたるとき又は故障の為め該信号を為し能はざるときは球櫓の下桁端に萬国船舶信号W旗を掲ぐ
「横浜報時球信号手続」でも表記されているように作動は
「東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる」
電信により遠隔操作されていたことになります。
<球>が知らせる時刻に合わせて 少し前に上に上がり、ジャストタイムに球が落下するしくみだったようです。港に停泊中の船舶は<望遠鏡>で報時球の落下を待ちます。落ちた瞬間「タイム!」と叫び 船舶内の時計の時刻の誤差確認をしたそうです。
■横浜報時球信号の位置
「神奈川県港務部報時信号所及暴風雨標」神奈川県港務要覧(明治43年)より

【さらに時報の余談】
現在調査中の話も ちょっと紹介してしまいましょう。
本町1丁目にあった町会所(現:開港記念会館)は1874年(明治7年)に竣工し石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として開港場(関内)のランドマーク的役割を果たしました。特に時計台と時報を告げる音が<寺の鐘>だったそうです。
洋式の建物・時計台に西洋の鐘ではなく寺の鐘!
何故 和式だったのか?知りたいところです。
この鐘 どんなものだったか? 一枚の絵葉書で発見しました。
わかったことはここまで、さらに詳しくは 別の機会に紹介します。

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

20211205更新 誤字修正 画像とリンクを追加

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11月 7

金玉均(キム・オッキュン)

今日のテーマは一時期横浜に滞在した金玉均(キム・オッキュン)についてです。
1886年(明治19年)7月26日
「朝鮮の亡命志士金玉均が神奈川県で拘留された」という簡単な記事を元に数日前から資料を読んでいますが、<明治以降の朝鮮と日本>に関しては異論の多いこと。
なので 事実関係を紹介する程度に留めました。ある程度理解した時点で改めてまとめてみたいと思います。
朝鮮、革命の志士「金玉均」は日本との関係が深く四回来日しています。
(最初の来日)
金玉均は1851年2月23日に忠清南道公州市で生まれました。スクリーンショット 2015-11-07 13.38.35俊英だった彼は22歳で科挙に合格、中堅官僚として近代化を推進するために開化思想に目覚めていきます。
1882年(明治15年)年2月から7月にかけて初来日し大阪に滞在、福沢諭吉ら多くの支援者と出会います。既に朝鮮からは前年の1881年(明治14年)に2名の留学生が慶應義塾で学び、1名が同人社に入学していました。

(二度目)
1882年(明治15年)9月から翌年3月にかけて金玉均は日朝間で締結された済物浦(チェムルポ)条約批准の修信使の顧問として二度目の来日を果たします。この時、彼は横浜正金銀行から17万円の借款を得ます。

(三度目)
1883年(明治16年)6月、金玉均は国王の国債委任状を携え、日本での三百万円の借款を得ようとして来日します。
残念ながら借款には失敗し翌年の5月に失意の帰国となります。

(四度目)
1884年(明治17年)12月4日に 金玉均ら数名は日本公使館も加わりクーデター(甲申事変)を起こしますが清国の介入で失敗。井上角五郎らによって日本に亡命(密航)します。<亡命中>日本政府冷遇の中、玄洋社の頭山満ら多くの支援者に出会うことになります。
https://kotobank.jp/word/甲申政変-261601
クーデターに失敗した金玉均は本国の刺客にも狙われ、日本国内の支援者を頼ながら亡命生活を送ります。
1886年(明治19年)に入り日本国政府は、冷遇はしていましたが、庇護状態していた彼の存在が外交上の<お荷物>という評価に変わり対応が大きく変わり始めます。
6月2日 警視総監命で国外退去を口頭で伝えます。
6月4日 東京にいた金玉均は列車で横浜に向かい
この頃、まだ治外法権だった横浜居留地のグランドホテルに滞在します。

light_20150409161611 6月9日 内務大臣であった山県有朋は書面でグランドホテルの金玉均に対し退去命令を執行するように要請します。
6月12日 神奈川県令から本人に退去命令が令達されますが、本人は“国外退去の金が無い”という理由で拒否します。
そして
7月26日
<国外不退去>の金玉均をグランドホテルより拘致、野毛山(伊勢山?)の三井別荘に連行、強制抑留します。
(その後)
勾留した金玉均を日本政府は”国外追放“できませんでした。
井上馨外務大臣は山県内相に「内地ヨリ隔然セル小笠原嶋二送置」を要請し、
8月8日に身柄を神奈川県から東京府に移します。
その後 事実上の<島流し>である小笠原に送られ保護観察となった金玉均はしばらく小笠原で生活し、その間日本の友人が彼の元を訪れています。
しかし気候風土が合わなかったのか 体調を崩し 北海道に転送されます。
明治23年に北海道から<内地>で暮らすことを認められ、国内で多くの支援者と交流します。
明治27年周囲の制止を振り切り上海に渡りますが 暗殺されその生涯を終えます。
(最初の亡命者)
当時の日本政府にとって金玉均の取り扱いは<初めての政治亡命受入>だったそうです。
この時に彼を支援した福沢諭吉をはじめ、大アジア主義者と呼ばれた玄洋社の頭山満、孫文や蒋介石を支援した宮崎滔天らの行動が脈々と民間の手で受け継がれ、孫文やボーズの支援に繋がっていきます。
※孫文の初期日本滞在<横浜時代1897年〜1907年>を支えたのも華僑や民間の日本人でしたね。

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4月 24

【ミニミニ今日の横浜】2月26日

今日は 「青い目の人形」のことを紹介します。3月3日に紹介したほうがタイミングとして合うのかなと迷いましたが、

1927年(昭和2年)の今日、
「米国から贈られた人形の歓迎会が南吉田尋常高等小学校(現在の南吉田小学校)で開催」された記事を優先し紹介します。
この米国から贈られた人形とは 渋沢栄一が米国との交流を仲介し3月3日のひな祭りに間に合う様、日本に運ばれてきた「青い目の人形」のことです。
米国から贈られた人形の総数は12,739体+48体 計12,787体でした。
(関連ブログ)
No.374 1月8日(火)○●■△と横浜
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=209
アメリカからの「青い目の人形」プレゼントの正式式典は本牧小学校で
1927年(昭和2年)3月18日に来日したミス・アメリカと48体の各州代表人形を祝う歓迎式典として開かれました。この48体の各州代表人形は、式典の後26日に赤坂御所に運ばれ東京博物館(現国立科学博物館)上野別館で、同数の日本人形と共に公開されることになります。(現在は殆ど行方不明だそうです)
※本牧小学校
明治6年4月25日創立、昭和22年4月30日廃校。米軍に接収され、その後Nile Clarke Kinnick Middle Schoolとして一時期米軍関係者子弟のための学校として開校していました。
http://www.yohidevils.com/index.php…
http://www.yohidevils.com/index.php…
アメリカ本国に、当時の写真がアーカイブされています。
一方の1927年(昭和2年)の今日、
本牧小学校に先立ち、何故?南吉田尋常高等小学校(現在の南吉田小学校)が歓迎会を開催したのでしょうか?
南吉田尋常高等小学校は、明治38年4月に横浜市立第三高等小学校として創設されます。学校沿革史では、女子部として発足したと記されています。
この時明治38年4月に横浜市内(旧市域)に6つの高等小学校が設立されました。
以下少し苦労しましたが 六校をリスト化しておきます。
横浜市第一高等小学校が本町小学校
横浜市第二高等小学校が東(あずま)小学校
横浜市第三高等小学校が南吉田小学校
横浜市第四高等小学校が元街小学校
横浜市第五高等小学校が西戸部小学校(昭和22年廃校)
横浜市第六高等小学校が二谷小学校
話を元に戻します。
南吉田小学校(横浜市第三高等小学校)で本牧小学校に先立ち、何故?「青い目の人形」到着を祝ったのか?
推測の域を出ませんが、南吉田小学校の校章にヒントがあるかもしれません。
南吉田小学校の校章は<菊葉>に<南吉>
「輪郭は,皇室の紋章菊花にちなみ菊葉で表し、中央に校名を配置しています」
と学校のサイトにも記されています。
創設以来最初の<女子高等小学校>の伝統があったからではないでしょうか?
少し短絡的かもしれません。
ご存知の方がいらしたら 教えていただければ一つ謎が解けます。

「横浜人形の家」
http://yokohama-doll-museum.com

(2月26日関連ブログ)
No.57 2月26日 ある街のある店の歴史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=564

 
河北 直治さんの写真
河北 直治さんの写真
河北 直治さんの写真
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10月 12

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

1940年(昭和15年)東京オリンピックの影で同じく延期となった国際イベントがありました。
会場も東京と横浜に決まっていました。

light_1940_TOKYO
1940年東京オリンピック

日本萬国博覧会(EXPO JAPAN)です。

light_横浜史料001この萬国博覧会は1940年3月15日〜8月31日の期間に開催される予定でした。オリンピック同様に日中戦争の激化などを受けて開催を延期します。
EXPOとは、国際博覧会条約(BIE条約)に基づいて行われる博覧会のことで、国際機関が認定した国際博覧会のことを指します。国が申請し、総会で承認される必要があります。システムはオリンピックと似ていますね。
昭和に入り、横浜は復興振興を兼ねイベントを重ねます。

※産業文化展覧会
1931年(昭和6年)11月3日〜9日の一週間
※復興記念横浜大博覧会
1935年(昭和10年)3月26日〜05月24日
light_1935復興記念横浜大博覧会light_横浜式典001 light_横浜式典011この博覧会は3,299,000人を動員します。
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」(乃村工芸サイトより)

引き続き
1940年(昭和15年)の皇紀二千六百年に合わせ
東京オリンピック、日本萬国博覧会が計画されました。
日本が初めて国際的な博覧会に参加したのは1867年(慶応3年)のパリ万博です。
その後、積極的に外国の博覧会へ参加し同時に国内でも多くの博覧会を開催することになります。

国際博覧会の場合、前述の通り<国際機関>の総会での認定が必要となります。
明治時期から昭和の戦前期にかけて万博の日本開催を計画しますが中々開催に至りませんでした。国際機関認定の「日本万国博覧会」=大阪万博が1970年に開催するまで100年の歳月がかかったことになります。
一方で横浜ならではの大型イベントが開催されました。
観艦式です。
13回 1927年(昭和2年) 10月30日 大演習観艦式 横浜沖
14回 1928年(昭和3年) 12月4日 御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大 横浜沖
15回 1930年(昭和5年) 10月26日 特別大演習観艦式 神戸沖
16回 1933年(昭和8年) 8月25日 大演習観艦式 横浜沖
17回 1936年(昭和11年) 10月29日 特別大演習観艦式 神戸沖
18回 1940年(昭和15年) 10月11日 紀元二千六百年 特別観艦式 横浜沖
観艦式は 明治以降 18回開催されますが、半数が横浜港で開催されました。
特に第5回の日露戦争凱旋観艦式以来の14回中、8回が横浜沖で開催されます。

観艦式は横浜にとって日常イベントになっていたようです。
1940年(昭和15年)オリンピックと万博が中止になった年、横浜港では「紀元2600年記念特別観艦式」が挙行されますが、規模は航空機中心で艦船の規模はかなり控えめとなりました。日米が戦争に突入する一年前の頃の出来事です。
light_観艦式記事 light_横浜関連雑資料017
紀元二千六百年「日本萬国博覧会」入場券。
light_万博入場券 ※ネット情報の多くが東京会場としていますが、横浜もしっかり会場となっています。
昭和初期、日本が国際関係に行き詰まり開戦を選ぶに至った十数年、イベントで横浜が賑わっていたことも記憶に残しておいて欲しいものです。

(第687話)オリンピックと横浜

9月 26

(第686話)明治4年、象の鼻 晴天なり。(後編)

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。後編です。

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。


二本の横浜開港のために幕府は二三ヶ月の突貫工事で開港場を整備します。
二本の小さな突堤を開港場の真ん中に造成し、港の体裁を整えますが、冬の北風が強い日は波が強く小舟も着けることができない状態でした。
そもそも貿易港として開港した横浜港ですが、大型船が着岸できず諸外国からはしっかりとした桟橋の設置(港の整備)を望む声が高まります。
慶應4年の春に、ようやく二本の突堤の一本を波受け用に湾曲させ、その形が象の鼻に似ていることからいつの間にか「象の鼻」と呼ばれるようになりました。

lit_岩倉使節団出発 横浜港に本格的な桟橋が完成したのは1894年(明治27年)ですから開港から35年もの時間がかかります。港の整備が遅れた理由は予算でした。
この国には、国内最大の国際港に桟橋を架ける予算がありませんでした。経済破綻した幕末の借金が新政府にも重くのしかかっていたからです。かろうじて国家財政を支えていた貿易は皮肉にも横浜港から輸出されていた「生糸」と「製茶」でした。
新政府は様々な分野に“近代化”が求められていたのです。

明治4年11月12日(1871年12月23日)
晴れ上がった横浜港に、多くの人々が維新後最大の渡航する「岩倉使節団」を見送りに集まりました。
「岩倉使節団」の公式記録を編纂した一行の一人、久米邦武は「回覧実記」に出航の模様を詳細に描いています。

lit_P9260001『此の頃は続いて天気晴れ、寒気も甚だしからず。殊に此の朝は暁の霜盛んにして扶桑を上る日の光も、いと澄みやかに覚えたり。
朝八時を限り一統県庁に集まり十時に打ち立ちて馬車にて波止場に至りて小蒸気船に上る。この時砲台より十九発の砲を轟かして使節を祝し、尋ねて十五発し、米公使「デロング」氏の帰国を祝す。海上に砲煙の氣弾爆の響、しはし動いて静まらず。使節一行及び此の回の郵便船にて米欧の国々へ赴く書生、華士族五十四名、女学生四名も皆上船し、各其部室を定め荷物を居据えるなど一時混雑大方ならず。十二時に至り、出航の砲を一弾してただちに錨を抜き、汽輪の動をはずしけり。港に繁ける軍艦より、水夫皆橋上に羅列し、帽を脱して礼式をなし港上には見送りのため、船を仕立て数里の外まで恋ひ来りぬ。』

「岩倉使節団」一行は使節46名、随員18名、留学生43名総勢107人が上船します。
横浜港の沖で一行を迎えたのが米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ号」で、太平洋上で新年を迎え二十三日間の航海を経て明治5年1月6日「岩倉使節団」はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに到着します。
「明治4年、象の鼻 晴天なり。」前編でも書いたように一行は20代から30代中心の若きメンバー達ばかりでした。
この旅はアメリカに約8ヶ月、その後大西洋を渡りイギリス4ヶ月、フランス2ヶ月、ベルギー、オランダ、ドイツに3週間、ロシアに2週間を費やしました。
出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に横浜港に帰る長旅でした。

lit_Grand_Hotel1897彼らはまずサンフランシスコ最大のグランドホテルに逗留します。
様々な歓迎式典の中で、
当時のサンフランシスコ随一の資産家、ラルストン(William_Chapman_Ralston)氏の歓迎式典で自宅に100人近い一行が招かれたという記述があります。

lit_William_Chapman_Ralston

ラルストンは、1826年オハイオ生まれの実業家で、ゴールドラッシュの恩恵を最大限に利用した銀行家でもありました。
1864年にカリフォルニア銀行を創設し、
1875年にサンフランシスコ湾で溺死しますが事業の失敗による自殺とも言われています。このたった十年の輝かしいひと時に、日本の使節団が彼と出会ったことになります。
このラルストンという人物、間接的ではありますが日本、そして横浜と深い関係になるとはその時 誰もわかりませんでした。さて その人物は?

7月 29

横浜の寺島

前回「尾崎良三」について紹介しました。

ここに登場した寺島 宗則は、幕末維新の超優秀官僚ベスト3に入ると私は考えています。
ここでは、彼の天才ぶりに触れながら幾度となく訪れた寺島の“横濱”物語を紹介ましょう。
lig_寺島 寺島 宗則(てらしま むねのり)
あまり彼の名は激動の幕末維新史の中で、比較的地味な存在かも知れません。鹿児島薩摩出身の寺島は現在の阿久根市に生まれ幼く藩医の松木家の養子となり蘭学を始めます。15歳で江戸遊学を認められ蘭学を学びその才能を発揮します。
http://kotobank.jp/word/寺島宗則
寺島が仕事先として横浜に赴任したのは1859年(安政6年)開港直前でした。大量の外国人との交渉ごとに対応するために全国の藩から人材を集めた中に“寺島”も一員として神奈川運上所に赴任することになります。
lig_慶応2年運上所前
このとき、寺島宗則28歳、多くの関係者が直面した英語ショックに遭います。横浜開港場に押寄せる多くの米英人の話す“英語”の前にこれまで必死に学んできた“蘭語”が全く役に立たないことを実感します。
このときの様子を同僚だった福地源一郎は「横浜の運上所は何事も皆手初にて上下恰も鼎の沸くが如く、盂蘭盆と大晦日が同時に落合たる状況にて頗る混雑を極めたり」と記録しているように、日々激務だったようです。
福沢諭吉が横浜居留地でオランダ語が通じないことを実感したように多くの幕末の知識層が英語の必要性を「居留地 横濱」で感じ取ります。
ここからが 天才・秀才それぞれに外国語習得の個性を発揮します。横浜勤務の間に文久の遣欧使節団に加わるチャンスが訪れます。さらに海外渡航の準備をしている間に結婚の話がもたらされます。新婚生活は二ヶ月足らずしか無く、渡航しなければなりませんでしたが、寺島にとって至福の横浜生活が始まります。
結婚するまでは居留地の農家の一寓に仮住まいしたり、江戸の仮住まいに暮らすなど落ち着きませんでしたが、所帯を持つということで、江戸本郷三丁目に新居を持ちます。妻の名は茂登(もと)、侍医の曾昌啓(そうしょうけい)の長女です。
妻の茂登(もと)には妹天留(てる)が居り、天留が結婚した相手が寺島の同郷薩摩の有島武(ありしまたけし)です。明治維新後大蔵省租税寮に勤め横浜税関長、国債局長、関税局長など財務官僚として活躍後、実業界で活躍します。
有島の息子が作家の有島武郎、里見弴そして芸術家の有島生馬です。
※作家、有島武郎の息子が黒沢の「羅生門」溝口の「雨月物語 」他に出演した俳優の森雅之です。

寺島は、文久遣欧使節の総勢38名の一員として約一年の欧州旅行に出かけます。
この時に同行したメンバーには、福地源一郎、福沢諭吉、森山栄之助らが通訳として同行し、この旅の知見が後の明治時代に大きな影響力をもたらします。
lig_遣欧ルート3
この時、多くの同行者が仏蘭西の雅さに圧倒され賛美しますが、福沢と寺島は英国の倫敦に強い関心と衝撃を受け、その後の建国思想に大きな影響を与えます。

欧州から戻り、時代は一気に幕末の争乱時代に突入します。寺島宗則もこの波乱の時代に巻き込まれ、生麦事件がきっかけで起こった「薩英戦争」では敗北を知ると盟友五代友厚と二人で“自発的に捕虜”になり鹿児島から英国艦船で横浜まで行き、神奈川奉行時代に旧知の仲となった米国人ヴァン=リードを頼って上陸ししばし隠れ住むことにします。薩摩藩から逃げる中、刻々と変わる情勢に薩摩藩に戻ることを許された寺島は、語学力を認められ薩摩藩遣英使節団の一行19名の一人として“国禁”を破り英国に留学することになります。英国で寺島は
自由貿易と近代外交の実務を当時の英国政府が目指した小国主義的自由経済を目の当たりにしてきます。
寺島の吸収し理解した政治観について紹介するスペースはありませんが、少なくとも後に日本が歩んだ“富国強兵”“皇国史観”とは一線を画していたことは紹介しておきます。

帰国後まもなく薩摩藩江戸高輪藩邸詰めとなった寺島は、
慶応2年7月から精力的にしかも頻繁に横濱に通い英国公使パークスと様々な折衝を行います。その壮絶ともいえる倒幕に転換した薩摩藩支援交渉は三ヶ月にも及び、ここに強い信頼と絆が醸成されます。

時代は急転直下、大政奉還から明治維新となり綱渡りのような政権委譲が行われます。内政にも外交にも多数の問題を抱えたままの新政府移行でした。
当時、殆どの主要外国公使館は横浜に集中し、その事務にあたる「横浜裁判所」が諸外国との重要な折衝窓口となります。
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

建前上「横浜裁判所」総督は東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)に決まりますが、実務に強い官僚がいませんでした。副総督にも大隈重信、睦奥宗光らが名を連ねていましたが、維新体制の確立のために殆ど横浜に来ることが不可能な状況で、居留地の諸外国関係者からクレームが殺到する事態に陥ります。
そこで 矢面にたったのが外交折衝力のある
寺島宗則でした。
彼は優秀なスタッフを数人引き連れ、“いやいや”横浜裁判所勤務となります。他にやりたいことがたくさんあったのでしょう、依頼があったときかなり抵抗しますが勝手知ったる横浜に着任します。
この時寺島37歳、働き盛りです。まずは野毛の旅館「修文館」の逗留し落着き先の住まいを横浜の豪農「吉田勘兵衛」宅に決め最初の仕事を始めます。
lig_nnP8140410.jpg
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん(加筆)

「横浜裁判所」は「神奈川裁判所」に、その後「神奈川府」「神奈川県」とめまぐるしく変わる中、弁天社近くに官舎も整備されそこに移り住み、いやいやながらも?精力的に開港場の案件を解決していきます。
行政組織が未整備の中
国政としての外交、
居留地他県内全般の地方行政一般事務に至るまでを管轄するという異例な役職に謀殺されます。
横浜時代のトピックスは幾つかありますが
最も寺島宗則らしい 即決力として評価できるのが
「電信事業」の推進です。
lig_電信碑2
寺島はいち早く“ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を指す方式)”を事後承諾で購入します。政府の了解を得た後、当時燈台技師として横浜の都市計画を担当していたリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton)に相談し、英国から電信技師ジョージ・M・ギルバート(George M. Gilbert)を招聘し
1869年(明治2年)に横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線を敷設し通信実験を成功させます。成功を確認すると寺島は同年中に、横濱・東京間での電信による電報の取り扱い事業を開始します。寺島は「電信の父」とも呼ばれています。
No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始

その後、明治政府は電信網の整備に力を入れ、横濱・東京間の電報の取り扱いが開始されてから数年で全国に電信網が張り巡らされます。
皮肉にも、同郷の西郷隆盛が起こした877年(明治10年)の西南戦争においても大いに活用され政府軍の勝利に貢献します。
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<電話交換業務も横浜から始まりました>
寺島の情報インフラに対する理解の早さは 既に幕末に鹿児島で「ガス灯」「写真」「電信」の実験体験を率先して行っていることからも理解できます。
この「ガス灯」「写真」「電信」三つとも横浜で事業化されているというのも不思議な因縁といえるでしょう。

その後、寺島宗則は東京勤務となった後もしばらく横浜から通いつめますが
最終的には 東京築地木挽町に転居します。内政からもっぱら外交担当として海外と日本を往復することもしばしばあり、
都度 横浜港から出立し 横浜港に戻ってくることになります。
そんな折、たまたま英国公使を辞して帰国する際、倫敦留学から木戸の要請で帰国してきた10歳年下の学生 尾崎三良(おざき さぶろう)が、横浜港の入国手続きを嘆いたのが
「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい! 
この時に見た横浜港は、何度も帰港している寺島にとって若き尾崎が憤慨している様を懐かしくも微笑ましく眺めていたのかもしれません。

7月 28

【2月16日】ヨコハマグランドホテル解散

このブログは 2013年に書いたものからお気に入り、
加筆が欲しいものを「過去ネタ」としてアップしているものです。

grandH絵はがき

1927年(昭和2年)2月16日、関東大震災で倒壊・焼失した「The Grand Hotel Yokohama」が再建を断念し会社を解散しました。明治から大正期に横濱の高級ホテルとして輝いた「The Grand Hotel Yokohama」は震災をきっかけにその栄光の歴史に幕を下ろします。
この「The Grand Hotel Yokohama」エピソードを中心に紹介します。
「The Grand Hotel Yokohama」の創業に関わった人物の一人が写真家として有名なベアトです。
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/univj/list.php?req=1&target=Beato
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェリーチェ・ベアト

1870年(明治3年)夏にベアトが購入した英国公使館跡地の建物を(グリーン夫人が)石造りのホテルとして開業しましたが上手くいきませんでした。(写真家は財力があったんですね)
場所は海岸通20番地エリア、フランス波止場(西波止場とも)近くです。(マップ参照)
現在の人形の家近辺です。(フランス山もすぐ近くです)

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lit_grandhotel
grandhotel

※ちなみに横浜には開港時三つの港がありました。元町よりのフランス波止場、現在の大桟橋エリアのイギリス波止場、そして万国橋エリアの日本波止場(上の画像マップからは外れています)です。

立ち行かなくなったホテルは
再度ベアトが資金調達し1873年(明治6年)に改装オープンします。
その後、1889年(明治22年)に個人経営から法人化(株式会社)し翌年の明治23年にフランス人の建築家サルダ(Sarda,Paul)設計により、隣接の18・19番に新館を増築します。
室数は200余りと横浜を代表する大型ホテルとして
関東大震災で焼失するまで営業していました。

※設計者サルダ(Sarda,Paul)は、指路教会会堂を設計した建築家です。
当時、高級ホテルのノウハウはやはり英仏、特にフランスが持っていました。
ホテルの朝食にもこの伝統が流れています。
コンチネンタルブレックファースト、
ブリティッシュ ブレックファースト(アメリカンブレックファースト)ですね。
海岸通20番地エリアはフランスの支配が強く感じられるエリアでしたので、
フランスの高級ホテルの名を使い(The Grand Hotel)としたのでしょう。
余談ですが、スウェーデンのストックホルムにある世界的にも有名な5つ星「グランドホテル」も
1872年(明治5年)にフランス人の(Jean-François Régis Cadier)によって設立されたホテルです。
関東大震災が無ければ、現在もThe Grand Hotel Yokohamaは営業していたかもしれません。

このグランドホテルを語るときに 忘れてはいけない人物がいます。
1889年(明治22年)支配人として、サンフランシスコから着任したルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)です。
※カクテルの紹介でルイス・エッピンガーをバーテンダーと紹介している資料もありますが、手元の資料では支配人と紹介されていますのでここでは支配人としておきます。

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エッピンガーは着任2年目の1890年(明治23年)新しい創作カクテルの考案に取り組みます。
彼はカクテルに造詣が深く、アメリカ時代に(1885年頃)ニューヨークで人気を博したカクテル「アドニス」をバーのメニューに加えます。
「アドニス」とはライト・オペラと呼ばれた草創期のミュージカルのタイトルで、ギリシア神話を題材にした女神アフロディーテ(ヴィーナス)と四季の始まりとなった逸話を残すペルセポネの二人に愛された美少年“アドニス”の代表的悲劇をアメリカ流にアレンジしたものです。
このライト・オペラ「アドニス」は1880年代空前のロングランヒットとなります。
ヒット作品には早速新しいカクテルが考案されます。
19世紀まで主流だったブランデーに代わり当時人気のあった手軽で高級感のあるシェリー酒、特にフィノベースのカクテルが作られました。
カクテル「アドニス」
ドライ・シェリー3分の2、
スイート・ベルモット3分の1、
オレンジ・ビターズひと振りをステアして
カクテル・グラスに注いだものです。
食前酒としておすすめです。

この「アドニス」をエッピンガーは横浜版にアレンジしました。
スイート・ベルモットをドライ・ベルモットに変えたのです。
「アドニス」に比べ甘さが抑えられ「竹のように素直でクセがなく、すっきりとした辛口に仕上げられた」ためエッピンガーはこれを「バンブー」と名付けたそうです。

私の珍説(仮説)があります。
「電灯の事業化に成功した」発明王エジソン(1847年2月11日 – 1931年10月18日)は、
1879年(明治12年)に電球の実用化に成功しますが、
そのフィラメントに京都岩清水八幡宮脇の竹林から採取した竹を使います。
http://www.iwashimizu.or.jp/story/edison.php?category=0
その後すぐに新素材が開発されますが、日本の竹フィラメントは驚異的な寿命を実現し、世界にその名が轟きます。
それから約10年経っていますから、Japan Bambooというブランドはアメリカでも日本でも話題になっていたのではないでしょうか。

大西洋を渡った美少年(アドニス)は、アメリカに渡り「竹」を割って生まれた「かぐや姫」に変身して太平洋を渡ったとしたら なんとエキゾチックな物語でしょうか。

No.295 10月21日(日)先達はあらまほしきことなり

(グランドホテル焼失)
関東大震災は、横浜のほとんどの建造物を倒壊、焼失させます。
再建を試みるもの、諦めるものありましたが、
グランドホテルは後者を選びます。
国際ホテルの必要性を感じた横浜市内の財界、市役所の総意で1927年(昭和3年)12月1日現在のニューグランドホテルがオープンします。
敷地は幕末に開設されたフランス海軍病院跡で
ここでもフランスとの因縁があります。
またまた余談ですが、福沢諭吉が横濱から旅立ち
欧州を巡った時、帰路パリで泊まったホテルがグランドホテルです。

ヨコハマグランドホテル解散(過去ネタ)
8月 31

No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

長い間外国との交易が制限されていた日本が、
一気に開国へと舵を切ります。
外国事情は皆無ではなく、出島等を通じてかなり幕府関係者も理解していました。
【ミニミニよこはま】No.2 突然外交特区へ

徳川時代を「鎖国」とは最近表現しなくなりました。
ところが、残念ながら経済制度の専門家が通商条約に登場する機会を失い、
徳川政権は、安政の五カ国条約で
通貨権を放棄してしまいます。幕末の最大の失策が行われます。
舞台は開港場の横浜でした。

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このあたりに関しては
No.49 2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す

で、「ハゲタカファンド」の餌食となった幕末から明治の通貨権の政策ミスを簡単に紹介しました。
ここでは、幕末の翻弄された幕府の通貨政策について紹介します。
通貨の外貨との交換レート
現代日本も「為替レート」に一喜一憂しています。
金融ビジネスで、日本は今帰路にさしかかっています。
TPPは貿易ではなく“関税・金融”のグローバル化が焦点なんです。
「国際化」と「グローバル化」は違います!

話しを戻します。
開港時に発効した各国との通商条約で
幕末のドルショック、列強にとっては“ぬれ手に粟”のゴールドラッシュが訪れます。
徳川時代の貨幣制度は、金貨も銀貨も両方「本位貨幣」である「金銀複本位制」でした。
幕府の貨幣単位は「両・分・朱」といい、1両の四分の一が朱という四進法でした。鎖国でしたから、海外の金銀レートと全く関係なく独立して金銀のレートが決められていました。

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開国するにあたって「通商条約」ですから、貿易の通貨レートをしっかり議論し決定しなければならないのですが…

1853年(嘉永6年)にペリーに開国を求められた時、その対応にあたった外国奉行が国政通貨に全く無知だったようです。
(国内にはしっかり通貨に詳しい役人もいたんですが、初期に外国との折衝には参加できませんでした)
1858年(安政4年)6月日米修好通商条約が結ばれます。
この条約の第5条に「外国の諸貨幣は日本貨幣と同種類、同量を以って通用すべし」

※「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を通用すべし金ハ金、銀ハ銀と量目を以比較するをいふ、双方の国人互ニ物価を償ふニ日本と外国との貨幣を用ゆる妨なし日本人外国の貨幣に慣れざハ、開国の後凡壱ケ年の間各港の役所より日本の貨幣を以て亜墨利加人願次第引替渡すへし向後鋳替の為分量割を出すに及はす、日本貨幣は銅銭を除き輸出する事を得、并ニ外国の金銀ハ貨幣に鋳さるとも輸出すべし」

とあり、この条項に基づき、当時事実上の国際通貨として機能していたメキシコ銀を使ったドル貨幣(洋銀)と一分銀の交換比率を1ドル=3分と定めます。

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これで日本は
約50万両分=(一両約8万円として400億円)
の金貨を国外に放出し、通貨危機が起ります。
現在ならIFMが乗り出す所ですが、
日本は流出し始めた直後に気がつきますが、すでに遅し!
各国は「条文」を楯に!!!適正レートに応じません。
少しずつ改正し、場当たり的に対応しながら
完全に「通貨権」を回復したのは
なんと 1897年(明治30年)3月までかかりました。

この無謀なレートを交渉で獲得したのが米国総領事タウンゼント・ハリスで、彼も最初、ぼろ儲けしますが 敬虔な聖公会信徒のハリスもさすがに気がとがめたことを日記に残しています。
解りやすく 説明しましょう。まず洋銀で一分銀に換えます。

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次に その一分銀で小判に(国内レートで)交換します。

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この図で解りますか?
日本の金銀交換率が海外の金銀交換率と大きく異なっていたため為替利益(暴利)を得た訳です。ぐるぐる「洋銀」を交換していくだけで3倍になる訳ですから底なしです。
1860年2月13日(安政7年1月22日)に横浜を出発したポーハタン号に乗った
万延元年遣米使節団は 日米修好通商条約の批准書交換のために米国に向かいましたが、一方で“既に始まっていた金流出の対策として”使節団に天才“小栗忠順”を加え通貨の交換比率の交渉を行います。
小栗は現地で
小判と金貨の分析実験をもとに堂々と日本の主張の正しさを証明しますが、条文を楯に比率の改定までは至りません。
ただこの交渉に関しては、多くのアメリカの新聞が絶賛の記事を掲載しもう少しメディア戦略に長けていたら“米国の正義感”に訴え条約改正が可能だったかもしれません。
(関連ブログ)
No.34 2月3日ポサドニック号事件で咸臨丸発進

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2

【番外編】善悪の彼岸

12月 31

No.366 12月31日(月)パトリとネイション

なんとか最終章に入ります。
366話目の「2012年暦で綴る今日の横浜」です。
長い間おつきあいありがとうございました。
今日は特にある年の12月31日の話しでは無く、明治以来横浜港を始め、神戸や長崎の港から旅だった「日系移民」の話を紹介しておきます。

(洋上のハッピーニューイヤー)
年表を眺めていたら、明治以来昭和までの長い期間に
横浜からカナダ、アメリカ、ブラジルなどに向け多くの移民船が出港しています。
中でも12月29日頃から31日までの年末に
多くの移民船が横浜を出港した記述がある事が気になっていました。

異国で生きる事を決意した日本人は、どんな思いで洋上の新年を迎えたのでしょうか?
思いを馳せるとそこには悲しくも逞しい日系移民の姿が重なってきます。

(移民の歴史を知ること)
日本から100万人を越える移民が海を渡りました。
移民に関する資料を「海外移住資料館」で観ることが出来ます。
横浜の新港埠頭に「海外移住資料館」があることをご存知ですか?

まだの方は一度ゆっくり見学される事をおすすめします。
http://www.jomm.jp
「日本人の海外移住は、1866年に海外渡航禁止令が解かれてから、すでに100年以上の歴史があります。ハワイ王国における砂糖きびプランテーションへの就労に始まって、アメリカ、カナダといった北米への移住、そしてその後1899年にはペルー、1908年にはブラジルへと日本人が渡ります。そして、1924年にアメリカで日本人の入国が禁止されると、大きな流れが北米から南米へと移っていきます。その結果、第二次世界大戦前には約77万人、大戦後には約26万人が移住しています。
その一方で、ここ十数年、かつて日本人が移住した国々から、とくに南米から、日系人とその家族をあわせて約30万人の人たちが就労や勉学の目的で来日しています。こうした経緯から、日本人の海外移住の歴史、そして移住者とその子孫である日系人について、広く一般の方々(とくに若い人たち)に理解を深めてもらうことを目的として、海外移住資料館が開設されることになりました。」

(日本の移民は横浜に始まります)
移民全般については、かなりのボリュームになるので、ここでは日本の移民元年、まさに明治元年にハワイに横浜港から船出した「元年者」と呼ばれた最初のハワイ移民を簡単に紹介しておきます。

日系移民マップ

幕末、ペリーの開港要求が日本開国政策への転換点となります。
1866年(慶應2年)に海外渡航禁止令が解かれます。
諸外国とは、外交上の開国を安政五カ国条約によって約束しますが日本人が外国へ行く事はこの海外渡航禁止令が活きていました。
このときに、日本人の労働力に着眼したオランダ系アメリカ人がいました。ユージン・ヴァン・リード(Eugene Miller Van Reed, 1835年5月17日〜1873年2月2日)です。ハワイにいたリードは、ホノルルで開国した日本に通訳官として向かう浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)に出会います。ここで、ハワイ王国(当時ハワイは事実上米国の支配下にありましたが、一応独立国)外相ワイリーから、リードの日本情報に対し、日本人のハワイ向け労働者を集める事は可能かどうか打診されます。
リードは早速 ジョセフ・ヒコに随行し、1859年(安政6年)7月に神奈川に設立された米国総領事館の書記生として入国します。
日本の開国情報をリサーチしたあと、一旦ハワイに戻り外相ワイリーから外交官の資格を得て再来日します。
1865年4月に横浜(神奈川)にあった米国領事館の一角をハワイ王国領事館として、リードは総領事となりハワイ王国との国交締結交渉を行いますが失敗します。国交が成立しなければ領事の意味は無くなりますので、彼はそのまま横浜に滞在し貿易商を開業、東北地方諸藩との取引を行います。その間も、幕府と外交交渉を継続し、1868年(慶應4年)日本人のハワイ移住に関する許可を獲得します。
1868年といえば明治維新、徳川幕府が崩壊した年です。幕府も瓦解寸前の無責任な認可?になるかもしれません。リードは、政権交代後の明治政府横浜裁判所に4月19日、募集した移民に対する旅券下付を総領事の資格で申請を行います。
これに対して神奈川裁判所は日本とハワイに国交がないことを理由に彼の総領事としての資格を否認します。(これは正しい処置)
更に王政復古後の江戸幕府の許可であることを理由に許可自体も無効とします。
これに対して彼は無効処分の取り消しか賠償金4,000ドルを要求し、時間稼ぎをします。リードはすでに日本での移民リクルーティングを済ませていて、6日後に英国船に141名の日本人を乗せて移民を強行します。
この日本最初の移民、後に国の政権交代の隙間で翻弄された彼らを「元年者」と呼びますが、
横浜を舞台に これを契機(既成事実)に日系アメリカ移民が始まります。
1871年8月19日(明治4年7月4日)に日本とハワイ王国の国交が正式に結ばれますが、どさくさに紛れてハワイに日本人を送ったリードの外交資格が問題点としてとり挙げられ外交資格を剥奪されます。
その後、アメリカ公使チャールズ・デロングの仲介により、日本政府はリードのハワイ領事視覚を承認した経緯があります。
リードに関しては、高橋是清の米国留学を斡旋した際に学費を着服してしまうとか、岸田吟香の新聞『もしほ草』創刊を支援したりとか面白い人物である事は間違いありません。

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

No.24 1月24日 西へ新たなフロンティアへ

最後に、何故ハワイ王国は日本人労働者を必要としたのでしょうか?
最大の理由は、
30万人いたハワイ人口が、カリフォルニアに起ったゴールドラッシュで流出しハワイの砂糖産業が危機的労働力不足に陥っていたからです。
※アメリカ本国では、黒人奴隷に代る労働力を中国に求めました。(苦力の歴史)

ハワイの元年者達の行く末は?
元年者達は、夢多きホノルルまでの航海は順調でした。
しかし、農場に入植後、東北出身が多かった移民たちは不慣れな気候の下での過酷な労働と、当時ハワイに起ったインフレ物価高による生活の困窮に苦しみます。
1868年12月に移民団の元締であった牧野富三郎らが日本政府に救出を求める嘆願書を寄せる事態に至ります。
明治政府は民部省監督正薩摩出身の“上野景範”を使節としてハワイに派遣します。上野景範は、幕末薩摩藩で奄美大島の製糖工場建設に携わったアイルランド人建築技術者・トーマス・ウォートルスの通訳を務めた経験もあり製糖工場には詳しかったようです。
特命全権公使としてハワイに赴いた上野景範ら一行は、サンフランシスコ経由で1869年12月27日(明治2年11月25日)ハワイに到着し、ハワイ外相ハリスと交渉を行います。
1870年1月11日(明治2年12月10日)帰国希望者40人の帰国、残留者も契約期間が経過したときにはハワイ政府の費用で日本に送り届けることなどを合意し、募集を行ったハワイ国駐日総領事・ヴァン・リードの罷免を確約させます。
1870年3月7日移民40人とハワイで生まれた子ども1人計41人が横浜に到着し、遅れて3月26日上野景範自身も別便で横浜に帰着します。

このような事態は その後も多くの日系移民に起ります。
日系人排斥、日本語教育禁止等の悲しい迫害を受けながらも
日系移民は時代を生き抜きます。
決してバラ色ではない移民という選択。
それでも多くの日本人が この『国』を離れようとしたのは何故でしょうか?
そして、敗戦後、そして311では
いち早く支援に立ち上がった日系人が多くいたことも 私たちに パトリとネイションの在り方を考えさせられる歴史の事実です。

10月 31

No.305 10月31日(水)二人の英国青年 (加筆修正)

早いもので2012年も残すところ二ヶ月となりました。
何時の時代も港に大型客船が入港すると、桟橋近辺は一気に華やぎます。
1881年(明治14年)10月31日の今日、横浜港に停泊していた
英国軍艦「BACCHANTE」に乗船する英国(王子)を明治天皇が訪問しました。


(日本の岐路)
英国軍艦「BACCHANTE」が日本を訪れた
1881年(明治14年)は維新以降、
三条実美による太政官制によって暫定の政府運営が行われていました。
近代日本の“姿”が激しく議論されていた時期にあたります。
明治6年には
西郷・板垣・江藤・後藤・副島の5人が一斉に辞職する「明治六年の政変」が起ります。
明治10年には
わが国史上最後にして最大の内乱「西南の役」が起こり、
明治11年には「大久保利通暗殺」という動乱を経て、
14年初めには大隈失脚の「明治14年の政変」が起ります。
国の方向を決めるに際し、最も国政がざわついている時期でした。
「明治14年の政変」で
英国流を推す大隈重信が失脚したばかりのこの時期に
英国王子が遠洋航海の途中に日本(横浜)を訪れます。
英国駐日公使は幕末から着任していたサー・ハリー・パークス(Sir Harry Smith Parkes)です。当然、この時期の日本政府の微妙な立場をパークスは十分に理解していましたから、英国皇室要人の訪日に対しどうずべきか迷ったに違いありません。

(二人の青年)
手元の資料には
「午前十一時、横浜行幸、英国皇孫御乗込の同国軍艦へ御乗艦、御対顔被為済、午後二時還幸被為遊たり、当日碇泊の各国軍艦並神奈川砲台より祝砲を発し、海陸とも大に賑ひたり」
“午前11時、明治天皇が横浜に行幸になり、イギリス皇孫アルベルト・ヴィクトルおよびジョージを御訪問になつた”
とあります。
これを頼りに、この日の出来事を追ってみました。
横浜に入港した英国軍艦は、当時としては旧式に入る帆柱が3本あるタイプの軍艦コルベット「バッカント」HM IRON CORVETTE BACCHANTEでした。

奥の三本マストがバッカント号

当時の英国は
歴代イギリス国王の中でも最長の在位だったビクトリア女王の時代です。
首相はビクトリアの宿敵、最も嫌いだった自由党のグラッドストン
英国も内政の混乱を経てようやく英国二大政党が確立期に入り始めた頃です。
1879年(明治12年)に王位継承権のあるビクトリア女王の孫二人が、
帝王学の一環として
三年に渡った長い船旅にでます。
西インド諸島や南アフリカ、南アメリカ(フォークランド)、地中海、エジプト、アジアなどを訪れる大帝国領の実地見聞の旅です。
その途中、インド洋経由でオーストラリアに入り三ヶ月余り過ごした後、日本に到着します。

(イギリス皇孫アルベルト・ヴィクトル)

アルバート・ヴィクター・クリスティアン・エドワード(Albert Victor Christian Edward, 1864年1月8日〜1892年1月14日)、当時18歳。
イギリス王太子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)と
妃アレクサンドラの長男です。
王位継承権者でしたが若くして肺炎で亡くなります。

(もう一人の孫ジョージ)

ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート・ウィンザー(George Frederick Ernest Albert Windsor, 1865年6月3日〜1936年1月20日)後のジョージ5世(George V)です。
アルバートとは一つ年下の弟で17歳。
ジョージはアルバートと共に19世紀後半の大英帝国を生き、
20世紀前半激動の英国を統治した国王となります。
※ヴィクトリア女王 → エドワード7世国王 → ジョージ5世国王 → ジョージ6世国王 → エリザベス2世女王8(現在)
後のジョージ5世、フレデリックは来日中、
外交当局を通じて彫千代(宮崎匡)に、
龍の刺青を自身の腕にさせたことで有名です。
11月には京都で狂言「墨塗」「腰祈」を鑑賞するなど日本文化にも触れます。
その後、11月下旬には上海へ向かい、香港、シンガポールを経由しスエズ経由で地中海に向かいます。

(帝王学)
二人の長い世界旅行は、英国王室の“帝王学”の旅でした。二人が日本に約一ヶ月滞在しますが、時の明治天皇(29歳)は自ら横浜港を訪れ、二人を訪問します。
この時の資料が手元に無いので、判断はつきませんが
王室の二人を招待するのではなく、
自ら出向いた背景には様々な理由があったのだろうと推察できます。
10歳年下の若き英国王室の青年は、明治天皇にどう映ったのでしょう。
その後の日英関係にプラスであった事は間違いないでしょう。

(他に10月31日の関連ネタ)
1935年(昭和10年)10月31日
横浜ドック会社が三菱重工業会社に合併された
No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

1987年(昭和62年)10月31日
金沢区の称名寺庭園の再現工事終了
No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺