6月 22

第829話 1936年(昭和11年)6月23日日本製鋼横浜製作所JSW

人を結ぶ点と線
■1936年(昭和11年)の今日
「日本製鋼横浜製作所JSW」が金沢町泥亀に竣工・操業開始した日です。
日本製鋼横浜製作所の母体となった株式会社日本製鋼所は
1907年(明治40年)11月北海道室蘭にて
当時国防の要だった兵器の国産化を目的として英国と日本の共同出資により創業された兵器製造の合弁会社でした。近代化を進める日本にとって富国強兵、武器の欧米技術を採り入れることが急務でした。20世紀初頭、兵器製造技術のトップクラスであった英国のアームストロング社とヴィッカース社から精密機械技術のノウハウの提供を受け今日まで精密機械の分野でトップクラスの技術を誇っています。
かつて、横浜市金沢区エリアは、日本有数の軍事技術が終結したエリアです。
日本製鋼横浜製作所の他、
大日本兵器株式会社、日本飛行機株式会社、石川島航空工業等々、現在も軍事から民間需要に転換し業界をリードしている企業群です。
「日本製鋼横浜製作所JSW」も
1945年(昭和20年)終戦にともない民需転換を開始します。
1983年(昭和58年)に神奈川県横浜市金沢区福浦に移転。
「鋼と機械の総合メーカー」として世界的に評価されています。
http://www.jsw.co.jp/index.html
創業の
1936年(昭和11年)当時「日本製鋼横浜製作所JSW」のあった金沢町泥亀は10月に横浜市に編入されたばかりでした。
ここに一人の人物と横浜を結ぶ点と線がありました。

1942年(昭和16年)
二年前に上京し東京會舘に見習いとして就職した一人の青年が一時期、
国民徴用によりここ「日本製鋼横浜製作所・横銃製造所」に勤めることになります。
石川県鹿島郡余喜村字酒井の出身で横浜市鶴見に暮らす親戚に誘われて15歳で能登金澤駅から上野をめざした青年の名は今井清(いまい・きよし)
戦後知る人ぞ知るバーテンダーの最高峰「ミスター・マティーニ」と呼ばれた男です。「日本製鋼横浜製作所」では持ち前の才能を発揮、神奈川県下15万人の徴用工員の中から800名選ばれた優良工員の一人となります。
彼は国民徴用(白紙)から3年後の1944年(昭和19年)10月に召集令状(赤紙)が届き、厳しい状況下で兵役を努め終戦を迎えます。

1939年(昭和14年)暮、横浜鶴見に暮らす叔母から東京で働いてみないかという誘いを受けて今井は上京します。叔母の隣の家に暮らしていた東京會舘に勤める本多春吉という人物が弟子を探していました。本多は以前自分の下で働いていた北陸出身者を気に入り、叔母にも故郷北陸出身の働き手を求めていたからです。
この本多春吉こそ、
横浜グランドホテルからこの東京會舘のチーフバーテンダーとなった人物で、「ミスター・マティーニ」と呼ばれた男の終生の師となりました。

このエピソードは まだまだ横浜を舞台にひろがりますが
今日はここまでにしておきます。

もう一つ人を結ぶ点と線を紹介しておきます。
1913年(大正2年)6月23日の今日、
日本の女医第一号となった荻野吟子が東京府本所区小梅町の自宅で亡くなります。62歳、波瀾万丈の人生でした。
この女医<荻野吟子>と横浜の接点を少しミステリアスに追求したのが下記のブログです。
No.463 高島嘉右衛門 風聞記
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=91
高島嘉右衛門は北海道でも様々なビジネス展開にトライします。
北海道と彼が関わる中で、上記の<荻野吟子>の支援、そして北海道で一時代を築いた<丸井今井>の今井藤七との出会い、あまり語られることのない北海道での高島嘉右衛門像の一部を紹介しました。
このブログでも10回以上の登場場面がありました。
No.462 北海道と横浜を結ぶ点と線2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9
実に面白い人生を生きてきた人物です。今度の資料研究に期待したいところです。

(過去の6月23日ブログ)
No.175 6月23日 フランス軍港があった丘
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=433
1971年(昭和46年)6月23日の今日、歴史的景観と良好な住環境確保のために横浜市が4億円で買収しふらんすやまとして整備されます。

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6月 18

第823話 1889年(明治22年)6月18日増田知

1889年(明治22年)6月18日の今日
初代横浜市長に増田知(ますだ さとし)が就任しました。
Wikipediaにもほとんど情報が無いし、さらっと参考情報位の扱いにしておこうかな?
と思いつつも調べ始めたら

<やめられない> <とまらない>そして<まとまらない>
ということで今日は初代横浜市長 増田知を紹介します。

「コピー70枚、本数冊、定期刊行物1冊」
「コピー70枚、本数冊、定期刊行物1冊」

1889年(明治22年)4月1日から日本全国で市政が始まり
順次大都市が<市>となっていきます。

1889年(明治22年)4月時点で全国31都市が市政導入。
人口規模の順でいくと
■大阪市 大阪府 人口476,271人
大阪府下4区を大阪市とし市制施行
市制特例により市長を置かず、大阪府知事が市長職務を行う。
■京都市 京都府 人口279,792人
上京区・下京区を京都市に。
市制特例により市長は置かず、市長職務は府知事が行う。
■神戸市 兵庫県 人口135,639人
神戸区が荒田・葺合両村を合併し神戸市となる。
■横浜市 神奈川県 人口121,985人
横浜区を横浜市に。
■金沢市 石川県 人口94,257人
金沢区534町を金沢市に。
■仙台市 宮城県 90,231
仙台区をは仙台市に。

人口第1位の東京市は特別で政府直轄行政都市の色合いが濃く
市政導入は1889年(明治22年)5月1日
他の<市政>より1ヶ月後に旧15区の区域が東京市となる。

※当時人口規模人口162,767人 第4位の名古屋市は遅れて
1889年(明治22年)10月1日に市政を導入。
横浜は上記のように4月1日「横浜区」から「横浜市」となります。1907488_1003471319696972_5670303358035532338_n 当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4平方kmと小さな市域でした。
市政導入で まず市議会議員選挙が行われます。
ところが この議員選挙とその後の<市長推薦>がオオモメにモメたことが資料から伝わってきました。

その当事者が初代横浜市長増田知(ますだ さとし)です。
当時の市長の任期は6年でまず市会が市長候補を3名推薦します。
これを県知事が受けて国に上奏。
内務大臣が市会の推薦した3名の候補者の中から<上奏裁可>を請い「選任」するという形式をとっていました。

※明治憲法下では天皇に官吏任命権(憲法第十条)があり、これを内務大臣が補弼したため、実質内務大臣が任命しました。しかも一応本命が示され、通常なら<本命>が なるのが ならなかった。

市会オオモメの元は、市制となる前に起こった「共有物事件」です。
初代横浜市長 増田知(ますだ さとし)を語るにはこのオオモメ騒動「共有物事件」を理解しないとできません。
横浜開港史上長らく「地主派」と「商人派」という横浜独特の地域を真っ二つに割る派閥が形成されていました。

※超簡単に「共有物事件」を説明すると、貿易商人たちが居留地時代から歩合金で作ってきた<地域の共有物>は誰のものか?
 市域を構成する町の代表グループ(地主派)と、貿易商グループ(商人派)が真っ向から対立し裁判にまで至った事件です。現在のように法整備が整っていない地方行政のスタートラインだったこともあり、解釈と思惑が入り乱れ横浜を真っ二つに割りました。

 裁判結果は「共有物のすべては横浜市の財産である」となりますが そのままで収まらないのが世の常。

近代民主主義の試行錯誤期ともいえるでしょう。

この横浜政界に四分五裂の抗争がはじまります。一部はそのなごりを引きずり<戦後まで>続いていきます。
なので ここでは「地主派」と「商人派」の闘争史はパスします。
シンプルに初代横浜市長の紹介だけにし、闘争史は別途じっくり行きます!
初代市長に推薦された3名は
茂木保平(商人派)
平沼専蔵(商人派)
増田 知(地主派)
ここで増田知は市会の本命ではありませんでした。

ところが、県知事、内務大臣の裁可の時点で地主派の「増田知」となります。
→この背景説明が一筋縄ではいかない。
(日本初の辞任)

市会の主流ではない初代横浜市長が就任したため、議会は紛糾、
就任して8ヶ月後
1890年(明治23年)2月15日には辞任するという事態に陥ります。

(増田知)
歴代市長の中で最も在任期間が短く、しかも日本で初めて辞職した市長が増田知です。

増田知のプロフィールを紹介しておきましょう。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/12_05.html
天保14年9月 下野国都賀郡壬生藩(栃木)士族の子として生まれます。
幕末の壬生藩は新政府側か徳川側か藩内は二分して大混乱の末、新政府側になるという事態の中、優秀だった増田は明治4年の廃藩置県まで権大参事(副知事)を担当します。
その後名古屋県、白川県、熊本県、神奈川県、群馬県、内務省と地方官僚を歴任します。
1886年(明治19年9月)に神奈川県役人から横浜区長と橘樹郡長を兼務します。
初の横浜議会の推薦を受けます。※ただし 上記の通り本命ではありませんでした。
1889年(明治22年)6月18日に初代横浜市長となり
1890年(明治23年)2月15日に議会混乱を受け辞任。
その後
富山県参事官、内務省、伏木測候所所長、南多摩郡役所郡長を歴任し明治44年3月6日に亡くなります。
生涯 地方官僚として生きた人物です。
市会多数派の意向と異なった派閥の初代市長は辞任に追い込まれます。
その後の歴代市長は、このような食い違いは起こらず、市会での決定が市長となるスタイルが戦後まで続きます。ただ、時を経るに従って中央とのパイプを重視する市長が推挙される<現実>を市会が学んでいったことも歴史の一断片といえるでしょう。

このような事態最近もある話です。

議会と首長 ねじれ自治体。そして一時期のねじれ国会といわれますが

<ねじれ>というと何かおかしい感じがします。
決しておかしい訳ではなくこれが民主主義ですよね。ねじれるから<一色>にしろ!というのは筋が違うのですが、政治主張になってしまう未熟な政治闘争ですね。
(過去の6月18日ブログ)
No.170 6月18日(月) 大荷物「リゾート21」の旅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=438
1986年(昭和61年)6月18日(水)の今日、東急田園都市線開通20周年記念イベントの一貫として「リゾート21」が横浜市内を走りました。

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6月 17

第822話1877年(明治10年)6月17日モース横浜へ

1877年(明治10年)6月17日の今日
「エドワード・シルベスター・モース(38歳)東京大学で動物学を教えるため来日、サンフランシスコから横浜港に着く。明治12年8月31日、アメリカに帰国する。」BBモース

この表記は正確ではありません。<東京大学で動物学を教えるため来日>ではなく最初は研究のためでした。
少しプライベートな話を。
小学生の頃、父と小旅行で電車に乗った時、車窓の風景を指さしながら、「あの丘は古墳かもしれないぞ。近くではわかりにくいがこうやって少し離れ電車のように動きながら探すと発見しやすい」と聞いて、ワクワクしながら景色をのぞき込んだ記憶があります。
父は学生時代 大山柏の下で、考古学者を目指していました。
この話を私は父のオリジナルと思っていましたが、社会人となった頃エドワード・モースを読み
元ネタがモースの逸話だったことを知った記憶があります。
エドワード・モースはアメリカの動物学者としてまだ外国人の行動が制限されていた日本を訪れます。2枚の殻を持つ腕足動物を研究対象にしていたモースは、アジアの腕足動物研究に<日本>を選びます。
1877年(明治10年)6月17日の今日、
横浜港に着き居留地で情報収集にあたりますが、まだ外国人の行動半径が制限されていたため、
19日東京の文部省にダビッド・モルレーを尋ねるために「横浜駅」から「新橋駅」まで汽車に乗ります。
※ダビッド・モルレー
下関賠償金返還を求めるロビー活動も行います。日本に教育制度の助言を行った教育学者。
モースは、新橋に向かう途中列車の窓からこの時「大森貝塚」を発見します。実際の発掘はこの年の10月からですが、横浜駅から列車に乗りしかも海側で無かったら大森貝塚の発見はもう少し遅れたかもしれません。
エドワード・モースの功績は 3度の来日で
当時日本人があまり関心を示さなかった陶器の収集(ボストン美術館)
そして民俗資料の収集(ピーボディ・エセックス博物館)を行ったことです。
http://pem.org/collections/9-asian_export_art

このモースコレクションから意外な発見をしました。
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378

(過去の6月17日ブログ)
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=439
横浜スポーツの百年に1876年(明治9年)6月17日(土)の今日
「北方の鉄砲場でスイス人の射的会開催」とあります。

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6月 1

第818話【横浜2345】大横浜の時代 

今日は2016年6月1日です。
明日は「開港祭」ですね。だからというわけではありませんが
【横浜2345】シリーズ 「大横浜の時代」を紹介します。
開港記念日が7月から6月にが変わったということを知らない方も意外に多いのでは?
開港記念日は昭和3年から6月2日となりました。
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

この開港記念日を変える動議を提出した人物が当時の市長<有吉忠一>でした。彼は当時も大物市長と呼ばれた政財界に通じた辣腕行政マンだったそうです。
有吉市長は小さな<横浜>を<大横浜>に仕上げた立役者でした。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)

上記のブログに少し加筆します。
1927年(昭和2年)4月1日から
横浜市は3回目の市域拡張を行います。

「橘樹郡鶴見町」「旭村」「大綱村」「城郷村」「保土ヶ谷町」
「都筑郡西谷村」
「久良岐郡大岡村」「日下村」「屏風浦村」が
横浜市に編入されました。
この市域拡大は 第一回・二回と比べると大規模な市域拡大となります。実はこの<大横浜>計画は大正時代震災前に計画されていいました。
同時期 横浜に限らず
大東京・大大阪計画が推進されていました。
政治学者で歴史家でもある原武史は 民都「大阪」帝都「東京」と定義し
歴史学者 石井孝は「港都 横浜」と称しましたが
まさに<大都市構想>はこの三都によって推進されていきます。
大東京計画を強く推進した政治家が後藤新平(ごとう しんぺい 安政4年6月4日(1857年7月24日)〜1929年(昭和4年)4月13日)そして民間は横浜の基盤作りにも尽力した浅野総一郎(あさの そういちろう 1848年4月13日(嘉永元年3月10日)〜1930年(昭和5年)11月9日)でした。light2016年06月01日22時19分29秒 light2016年06月01日22時19分34秒 light2016年06月01日22時19分38秒
一方、私鉄網が全国で最も濃密に発展した大阪は 関一(せきはじめ1873年(明治6年)9月26日〜1935年(昭和10年)1月26日)が推進し、

<関 一>

民間は小林 一三(こばやし いちぞう1873年(明治6年)1月3日〜1957年(昭和32年)1月25日)です。
light20150120213709 light20150120214048 (1) light20150120214457 (1) light20150120214617 (1)※震災後日本最大都市となった大阪(市民)は<大大阪>とは自らあまり名乗らなかった?!

では大横浜を推進した政治家は前述の有吉忠一ですが民間は?
大正後期に商工会議所を率いた井坂孝(いさか たかし(明治2年12月8日)1870年〜1949年(昭和24年)6月19日)か、有吉を市長に担ぎ出した一人、中村房次郎(なかむらふさじろう)でしょう。
井坂孝は有吉と震災復興に尽力し「ホテルニューグランド」設立の中心的役割を果たしました。
横浜火災保険、横浜興信銀行(現横浜銀行)、東京瓦斯等の社長として活躍した「井坂孝」
横浜製糖、松尾鉱業(硫黄)、日本カーボン等の工業を推進した「中村房次郎」らの下支えで<大横浜計画>は進められましたが、震災復興予算の大削減や大東京(帝都)との開港問題で中々計画通りには推進できませんでした。light20150509200329 light20150515180650_001 light20150710122538 light絵葉書横浜大さん橋編201419011 (1) light資料絵葉書013 (1) 横浜市を振り返る中で、都市として最も輝いていた時代は?と考えると
復興を目指しながら大横浜を目指した1923年から戦争の始まる1940年頃ではないでしょうか。
■6月1日に関するブログ
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
1889年(明治22年)6月1日、25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=46

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4月 30

【横浜の風景】ラ・マルセイエーズ

ここに一枚の写真がある。lightimg194埠頭客船日本に駐留していた米軍軍人の家族がオークションに出したスクラップに混じっていた。200枚位の中身はほとんど個人的写真で、かなり安価だったがはっきり言って史料としては<失敗>だったがこの一枚は興味深い。
この写真は横浜港の埠頭に着岸する寸前のラ・マルセイエーズ号と思われる。
撮影時期は不明だが、調べ始めると様々な物語が芋づるのように登場してきた。一枚の写真から探し出せたラ・マルセイエーズ号横浜着岸物語を紹介しよう。
いつ頃か?
ラ・マルセイエーズ号の就航期間は限られていたので ある程度絞り込むことができた。
大型客船「La Marseillaise」号
戦後フランス(マルセイユ)と日本(アジア)を繋ぐ極東航路に就航したのが大型客船「La Marseillaise」号。
1949年に建造され、17,408総トンの真っ白なフォルムが当時の横浜市民を魅了したらしい。就航期間がわかる一次資料がなく傍系資料をつなぎ合わせてみると
ラ・マルセイエーズ号の極東航路就航期間は建造年の1949年(昭和24年)から1953年(昭和28年)5月16日横浜に最後の入港をしていることがわかった。
この時期はちょうど朝鮮戦争(1950年6月25日〜1953年7月27日)と重なる。
まず「La Marseillaise」号の生涯に触れておこう。
第二次世界大戦直前に計画されたが、ドイツのフランス侵攻によって中止、戦後建造が開始され1949年に完成、「La Marseillaise」号となる。
1957年に「アロサ・スカイArosa Sky」、
1958年に「ビアンカC. Bianca C.」と改名。
1961年カリブ海クルーズ中に火災が発生して全壊し廃船となる。
「La Marseillaise」号として極東航路に就航していた約4年間、
この船をめぐる最大の物語は日仏交流の一環として実施された第一回フランス政府給費留学生の派遣だろう。
冒頭にも記したように、米ソ冷戦のアジアにおける衝突が起きる中、日本国内の米軍基地がフル稼働していた。日本が朝鮮半島の最前線への<補給廠>として機能していた時代である。
この間、欧州が欧州戦線の復興に手間取っていたが、アジアへの視線を忘れていたわけでは無かった。とりわけフランスはアジアの文化拠点として日本を重視していた。
手元にある資料だけだが「La Marseillaise」号が横浜に寄港した足跡は、
※1949年(昭和24年)11月28日
リヨン生糸協会副会長 エドワード=ピフ「ラ・マルセイエーズ」で来日
※1950年6月3日
タイ国王夫妻「ラ・マルセイエーズ」で来日
※※1950年6月4日 午後10時 ラ・マルセイエーズ号横浜発
第1回目のフランス政府給費留学生が乗船する。
※1951年(昭和26年)8月15日
朝八時横浜入港のフランス船ラ・マルセイエーズ号で芸術院会員川島理一郎は約六カ月間パリ画壇を視察して帰朝した。
※1952年1月19日
カンボジア国王ノルドン=シハヌク日本観光のため「ラ・マルセイエーズ」で来日
※1952年(昭和27年)4月6日
朝鮮戦争で戦死したフランス兵21体の送還式「ラ・マルセイエーズ」で執行。リッジウェイ大将参列
昭和20年代の日本は<洋行>がかなり困難な時代だった。
来日する外国人は多かったが、出国する日本人はかなり限られていた。
このような状況の中で、
復活したフランス政府給費留学生制度の戦後第一回に選ばれた人達が
1950年6月4日午後10時に横浜港を出港したラ・マルセイエーズ号に乗船しフランスに向かった。
そもそもフランス政府給費留学生制度は戦前の1932年から1940年まで行われていたが戦争で休止、戦後日仏関係者の努力で第一回のフランス政府給費留学生制度が復活した。
第一回のメンバーに選ばれた多くが教授・助教授クラスの人々だった。
吉川逸治(美術史)
森有正(哲学)
吉阪隆正(建築)
田中希代子(ピアニスト)
今井俊満(画家)
ここに選ばれた彼らとは別に1948年に来日し布教活動を始めていたイエズス会 アレクシオ・ウッサン神父により、将来を嘱望される青年数名をフランスのカソリック大学に留学させることが計画され、三雲夏生(慶大卒)、三雲昂(東大卒)、鎌田正夫(東大卒)そして若き遠藤周作(慶大卒)らが選ばれた。
遠藤周作は自著「仏蘭西にいく船に乗って」の中でこの時の様子を書いている。
「ラ・マルセイエーズ号とは当時 ヨーロッパと横浜とを往復する唯一の外国船で、日本郵船も大阪商船も戦争のためにこっぴどくやられていたから,これ以外に乗る船はなかったのだ。」
「船賃が一番安い二等のCクラスで十六万円もするという。十六万という大金」だったことに驚いている様子が描かれている。
フランス側で彼らを迎え入れたのがジョルジュ・ネラン( Georges Neyrand)神父で、個人的に奨学金を提供して彼らを支えその後も彼らとの親交が続いたという。
最後に、政府給費留学生の一人だった哲学者 森有正の面白いエピソードを紹介しておきたい。
彼は戦後第一回のフランス政府給費留学生制度に選ばれた代表として紹介されることが多いが、実は出港時間までに横浜港に到着することができず、急遽東海道線を使って神戸に向かいなんとか乗船することができた。
当時戦後初の特急として1949年(昭和24年)9月に復活した特急「へいわ」が東京―大阪間9時間だったので、十分神戸の出港時間には間に合うが実際どの電車に乗ったのか?調べていないが興味がある。
「La Marseillaise」号に乗り遅れてしまった森有正は、留学の話が舞い込んだ時、渡仏には消極的だったと言われている。政府給費留学生制度を受けるべきか迷った際に相談したのが戦前に給費留学生制度で渡仏経験のあった仏文学者の渡辺一夫だった。この時、師である渡辺一夫は森に「マルセイユに家が並んでいるのを見るだけで良いから行ってらっしゃい」と勧めたという。東大の助教授の職にあり、大学の政治状況が混迷する中<学生委員>でもあった彼にとって、フランスへの旅は大きな転機となる。森有正は一時帰国こそあったが、1978年にパリで客死するまで26年間をフランスで過ごすことになった。

※ではこの写真はいつ頃か?結論は出ていないが 他の写真が1953年ごろに集中していることから、この頃のものであろうと推測している。「La Marseillaise」号というヒントからまたひとつ歴史の1ページが見えてきた。

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4月 20

【横浜オリジナル】カクテル・ミリオンダラー

横浜グランドホテル支配人、ルイス・エッピンガーは二つの横浜カクテルを発案したことでその名を今に残している。
その名はバンブーミリオンダラー
標準的なレシピは
(バンブー)
ドライ・シェリー : ドライ・ベルモット = 2:1
オレンジ・ビターズ = 1dash
(ミリオンダラー)
ドライ・ジン:40ml
パイナップルジュース:15ml
スイート・ベルモット(ドライ・ベルモット):10ml
レモンジュース:10ml
グレナデン・シロップ:1tsp
卵白:1/2個
<スライスしたパイナップルを飾る>
※ベルモット:フレーバードワイン
イタリア発祥のスイート・ベルモット
フランス発祥のドライ・ベルモットとがある。

【レシピ2】
ビーフィータージン:45ml
チンザノベルモット ロッソ:15ml
パイナップルジュース:15ml
グレナデンシロップ:1tsp
卵白:1個分

バンブーに関しては、当時ニューヨークで大ヒットした「アドニス」をエッピンガーがアレンジした<姉妹カクテル>だ。adonispgm このバンブー誕生に関しては推論だけ簡単に記しておく。
カクテルうんちく界では 日本らしさを表すために<バンブー=竹>としたとある。
私は<竹>そのものの話題性に着目した。
同時期 <発明王エジソンが電球フィラメントに日本の竹を短期間だが使用した>背景があるからではないか?
と推理している。
また竹の物語とアドニスの物語にも一捻りありそうだとも考えている。

さて本日の主題、ミリオンダラー
ルイス・エッピンガーはミリオンダラーレシピをどのような背景でイメージしたのか?
ジンとベルモットが基本になっているので<マティーニ>のアレンジカクテルと言っても良いかもしれない。
ミリオンダラー最大の特徴は パイナップル及びパイナップルジュースだ。
このパイナップルはアメリカの誕生期に重要な意味を持っていたフルーツである。
「植民地時代のアメリカではパイナップルはとても珍しい果物だったため、特別なお客様のいるテーブルに置くのは最上級のおもてなし」というエピソードも残っている。このスタイルはその後のゴールドラッシュに酔った49年組(フォーティナイナーズ)によって開拓された<西海岸>のホテルでもおもてなしのシンボルとしてパイナップルが使われたに違いない!この時エッピンガーは18歳だった。彼がどのような仕事に就いていたかどうか不明だが、ドイツ系アメリカ人だった彼らの多くは<金鉱探し>のバックヤードで雑貨商や食品、酒の販売を営んだ。ドイツ系移民の一人リーバイ・ストラウスが金鉱で働く人々の愚痴話からあの<ブルージーンズ>を商品化したことは有名だ。
贅沢=成功の象徴だったパイナップルはコロンブスがアメリカ大陸から持ち帰り、めずらしさと栽培の難しさから当時「王の果実」とも言われた。パイナップルに<ミリオンダラー>一攫千金の夢をエッピンガーは重ね合わせたのかもしれない。

「原産地はブラジル、パラナ川とパラグアイ川の流域地方であり、この地でトゥピ語族のグアラニー語を用いる先住民により、果物として栽培化されたものである。15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の大陸に伝わった。 1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。 次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾に導入された。日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年にオランダ船が長崎へもたらした記録もある。(wikipwdia)」

ここからも判るように、20世紀初頭には東南アジアと交易が盛んになっていた日本でもパイナップルを入手できたようだ。
インド洋から東南アジアの海洋覇権を握っていた英国と、太平洋の覇権を握ろうとしていた米国の衝点となっていた日本=横浜には多くの一攫千金の夢を持った商人が集まってきていたのだろう。
1889年(明治22年)に新生会社組織に生まれ変わったヨコハマグランド・ホテルのスタッフとして着任したルイス・エッピンガーはこの時すでに58歳だった。(支配人に就任したのは60歳)
この年、英国人技師パーマーによる築港計画が着工する。この時の神奈川県横浜築港担当が30代の若き三橋信方(後の横浜市長)だった。
新しい国際港の時代到来に備え、グランドホテルは海軍省の招きで来日していたフランス人建築家サルダに新館(別館)設計を依頼する。これによってヨコハマグランド・ホテルは客室は100を超え、300人収容の食堂、ビリヤード室、バーが整備された。lightimg147THE GRAND HOTELlightグランドホテルダイニング light絵葉書グランドホテルサービス 恐らく新館竣工期にオリジナルカクテル「バンブー」「ミリオンダラー」のどちらかまたは両方がお披露目されたのではないだろうか。
この時期、京都岩清水で採取されエジソンの白熱電球に採用された日本の竹は1894年(明治27年)まで輸出されていたので、<バンブー>が当時の話題に上がっていたに違いない。
また1894年(明治27年)に完成した「鉄桟橋」を含めた横浜築港財源が米国より返還された賠償金であったことも、狭い居留地では大きな話題となっていただろう。アメリカ人エッピンガーにとっても誇りに思っていた出来事だったに違いない。
日露戦争が始まった翌年の1905年(明治38年)、
74歳になった彼は、ホテルマネジメントの最前線から退き、マネージング・ディレクターとなり後任の支配人H.E.マンワリング(Manwaring)を母国アメリカから招聘する。
1906年(明治39年)に新しい支配人が着任した後の1908年(明治41年)6月14日
ルイス・エッピンガーはその生涯を終え、外国人墓地に眠る。
このニュースはすぐさま彼の出身地サンフランシスコに伝えられ、新聞にも訃報が掲載された。77年の生涯、後半の約20年を日本で過ごしたことになる。lightスクリーンショット 2014-08-11 11.34.39 関東大震災で焼失するまで横浜のフラッグシップホテルだったヨコハマグランド・ホテル。そこに関わった二人の支配人ルイス・エッピンガーとH.E.マンワリングは共にサンフランシスコと深い関係にあった。
1871年(明治4年)に横浜港を旅だった岩倉使節団が最初に訪れた外国、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで宿泊したホテルがミリオンダラーホテル「グランド・ホテル」であった。lightGrand_Hotel_725 オーナーはこの街で大富豪となったチャップマンこと「ウィリアム・チャップマン・ラルソン」というオハイオ州生まれのアメリカンドリームを実現させた男だった。岩倉使節団一行を自宅のゲストハウスに招いた様子が「米欧回覧実記(久米邦武)」にも記されている。
もしかするとミリオンダラーはサンフランシスコグランドホテルにあやかったものとも推理できる。このテーマは今後も追いかけて行きたい。

No.295 10月21日(日)先達はあらまほしきことなり

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11月 7

金玉均(キム・オッキュン)

今日のテーマは一時期横浜に滞在した金玉均(キム・オッキュン)についてです。
1886年(明治19年)7月26日
「朝鮮の亡命志士金玉均が神奈川県で拘留された」という簡単な記事を元に数日前から資料を読んでいますが、<明治以降の朝鮮と日本>に関しては異論の多いこと。
なので 事実関係を紹介する程度に留めました。ある程度理解した時点で改めてまとめてみたいと思います。
朝鮮、革命の志士「金玉均」は日本との関係が深く四回来日しています。
(最初の来日)
金玉均は1851年2月23日に忠清南道公州市で生まれました。スクリーンショット 2015-11-07 13.38.35俊英だった彼は22歳で科挙に合格、中堅官僚として近代化を推進するために開化思想に目覚めていきます。
1882年(明治15年)年2月から7月にかけて初来日し大阪に滞在、福沢諭吉ら多くの支援者と出会います。既に朝鮮からは前年の1881年(明治14年)に2名の留学生が慶應義塾で学び、1名が同人社に入学していました。

(二度目)
1882年(明治15年)9月から翌年3月にかけて金玉均は日朝間で締結された済物浦(チェムルポ)条約批准の修信使の顧問として二度目の来日を果たします。この時、彼は横浜正金銀行から17万円の借款を得ます。

(三度目)
1883年(明治16年)6月、金玉均は国王の国債委任状を携え、日本での三百万円の借款を得ようとして来日します。
残念ながら借款には失敗し翌年の5月に失意の帰国となります。

(四度目)
1884年(明治17年)12月4日に 金玉均ら数名は日本公使館も加わりクーデター(甲申事変)を起こしますが清国の介入で失敗。井上角五郎らによって日本に亡命(密航)します。<亡命中>日本政府冷遇の中、玄洋社の頭山満ら多くの支援者に出会うことになります。
https://kotobank.jp/word/甲申政変-261601
クーデターに失敗した金玉均は本国の刺客にも狙われ、日本国内の支援者を頼ながら亡命生活を送ります。
1886年(明治19年)に入り日本国政府は、冷遇はしていましたが、庇護状態していた彼の存在が外交上の<お荷物>という評価に変わり対応が大きく変わり始めます。
6月2日 警視総監命で国外退去を口頭で伝えます。
6月4日 東京にいた金玉均は列車で横浜に向かい
この頃、まだ治外法権だった横浜居留地のグランドホテルに滞在します。

light_20150409161611 6月9日 内務大臣であった山県有朋は書面でグランドホテルの金玉均に対し退去命令を執行するように要請します。
6月12日 神奈川県令から本人に退去命令が令達されますが、本人は“国外退去の金が無い”という理由で拒否します。
そして
7月26日
<国外不退去>の金玉均をグランドホテルより拘致、野毛山(伊勢山?)の三井別荘に連行、強制抑留します。
(その後)
勾留した金玉均を日本政府は”国外追放“できませんでした。
井上馨外務大臣は山県内相に「内地ヨリ隔然セル小笠原嶋二送置」を要請し、
8月8日に身柄を神奈川県から東京府に移します。
その後 事実上の<島流し>である小笠原に送られ保護観察となった金玉均はしばらく小笠原で生活し、その間日本の友人が彼の元を訪れています。
しかし気候風土が合わなかったのか 体調を崩し 北海道に転送されます。
明治23年に北海道から<内地>で暮らすことを認められ、国内で多くの支援者と交流します。
明治27年周囲の制止を振り切り上海に渡りますが 暗殺されその生涯を終えます。
(最初の亡命者)
当時の日本政府にとって金玉均の取り扱いは<初めての政治亡命受入>だったそうです。
この時に彼を支援した福沢諭吉をはじめ、大アジア主義者と呼ばれた玄洋社の頭山満、孫文や蒋介石を支援した宮崎滔天らの行動が脈々と民間の手で受け継がれ、孫文やボーズの支援に繋がっていきます。
※孫文の初期日本滞在<横浜時代1897年〜1907年>を支えたのも華僑や民間の日本人でしたね。

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10月 26

正岡子規「墨汁一滴」

正岡子規「墨汁一滴」

 鮓の俳句をつくる人には訳も知らずに「鮓桶」「鮓圧(お)す」などいふ人多し。昔の鮓は鮎鮓(あゆずし)などなりしならん。それは鮎を飯の中に入れ酢をかけたるを桶の中に入れておもしを置く。かくて一日二日長きは七日もその余も経て始めて食ふべくなる、これを「なる」といふ。今でも処によりてこの風残りたり。鮒鮓も同じ事なるべし。余の郷里にて小鯛、鰺、鯔など海魚を用ゐるは海国の故なり。これらは一夜圧して置けばなるるにより一夜鮓ともいふべくや。東海道を行く人は山北にて鮎の鮓売るを知りたらん、これらこそ夏の季に属すべき者なれ。今の普通の握り鮓ちらし鮓などはまことは雑なるべし。(七月二日)

正岡子規は1865(慶応3年)に生まれました。

同世代(慶応3年生まれ)に夏目漱石、幸田露伴、尾崎紅葉、内藤湖南、狩野亨吉、白鳥庫吉、黒田清輝、藤島武二、伊東忠太、宮武外骨、豊田佐吉、池田成彬、平沼騏一郎らがいます。

さらに年齢の枠を数年広げるだけで、近代日本を築いたあらゆる分野の重要人物が<ごろごろ>登場します。

この「墨汁一滴」は明治34年1月16日から7月2日まで、新聞『日本』に途中四日休載はありましたが、164回にわたって連載されました。

1900年(明治33年)8月に大量の喀血を起こした子規、かなり病状も良くない中 病魔と闘いながらの執筆でした。最後となった7月2日は<寿司>の話をテーマに軽妙に俳句論を語りますがこれで連載を止めることになります。

連載の始まった1月16日からの前半部には、力強い彼の歌論が展開されていますのでぜひご一読ください。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/1897_18672.html

この新聞『日本』と彼の連載を楽しみにしていた女性が子規同様に病気に倒れた中島 湘煙です。

中島 湘煙は夫で神奈川県令などを務めた中島信行とともに天下の悪法「保安条例」違反で<東京ところ払い!>浜流しにあった一人です。

横浜に流された中島信行はハマから政治家を志し神奈川県第5区から立候補、議員として活躍します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/中島信行
1899年(明治32年)3月26日に信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日
一年後追うように中島湘烟も、肺結核のため38歳で亡くなります。ちょうど同時期に子規の「墨汁一滴」が連載されていました。
※新聞「日本」は1889年(明治22年)〜1914年(大正3年)末まで発行された日刊紙でした。創設者は陸 羯南(くが かつなん)、正岡子規はここの記者として一時期働き、その後支援を受けていました。
中島 湘煙について
No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10

正岡子規について
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=351
No.314 11月9日 (金)薩長なんぞクソクラエ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=279

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9月 3

井伊掃部頭の銅像除幕式

1909年(明治42年)6月11日
「井伊掃部頭の銅像除幕式行われる。(横浜商工会議所百年史)」
以前「神奈川県庁設計問題」でも少し触れましたが、横浜を舞台にした開港騒動は明治に入ってからも長く続くことに。
まず「1909年(明治42年)6月11日井伊掃部頭の銅像除幕式行われる。(横浜商工会議所百年史)」
これは誤記と思われます。
正しくは1909年7月11日ではないでしょうか。

尊皇攘夷の空気が強まる中、時の大老「井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)」がペリーと日米修好通商条約を調印します。
その前にペリーが来航した時は老中“阿部 正弘”が日米和親条約で開国の実質的調印をし、後任の井伊直弼が例の<安政の大獄>で徹底した弾圧をしたために後世恨みを買う事になるわけです。
まあ 幕末史で彼ほど極端に評価の別れる人はいないでしょう。
井伊直弼が弾圧なら 吉田松陰はテロ首謀者ってことにもなりますから歴史の議論はこれからでしょう。
とにもかくにも歴史は大事件後少なくとも二世紀位は敗者に不利です。
弾圧された側が<政治権力>を握る。当然粛清が行われます。
薩長土肥を中心に尊王・勤王・攘夷・開港・佐幕・倒幕といった考えの交雑のなか明治維新となっていきますからまあややっこしいことこの上なし。
このあたりをテーマにするとこれまたこじれそうなので シンプルに
「井伊掃部頭の銅像除幕式」騒動を紹介しておきます。

横浜市西区掃部山公園図

この「井伊掃部頭の銅像除幕式」は横浜で行われました。その場所が現在の「掃部山公園」です。

この文面だけだとなるほど、幕末の大老が開港の舞台となった「横浜」に大きく関係があったから銅像が建った、と普通は思います。
当時の薩長藩閥組が強かった明治政府の下で、弾圧された張本人の顕彰碑を建てるなんて“もってのほか”と考えるのが<官軍>側で、
一悶着あったのがこの銅像事件です。
井伊直弼は彦根藩藩主で、現在も滋賀県彦根市では尊敬されていますから、彦根市の記述には
「開港50周年を迎えようとしていた横浜では、開港の生みの親でもある直弼を顕彰しようとする動きが盛り上がました。直弼の宮位にちなんで、掃部(かもん)山と名づけた地に直弼像が建立され、明治42年(1909)開港 50周年記念式典で像の除幕式が挙行されました。翌43年(1910)、直弼没後50年に、彦根でも護国神社近くにあった尾末公園に直弼像が建立されました。(彦根市)」と書かれています。
これ<正確>ではありません。井伊直弼像、開港 50周年記念式典での除幕を計画していましたが神奈川県知事から中止勧告があり1日から11日に延期して<強行>した経緯があります。これを開港 50周年記念式典の中に入れるかどうか?
まあ常識的に考えて 入らない。でもこの除幕式の意味するところは大きいのでしっかり研究して欲しいと望みます。
簡単に井伊直弼像建立顛末を年譜で追います。
1860年(安政7年3月3日)3月24日
三月三日桜田門外の変で脱藩した水戸藩士他18名が井伊直弼を殺害。
世田谷豪徳寺に葬られた井伊直弼の墓には毎年関係者が墓参に。
1881年(明治14年)11月
井伊直弼死後20年を経てそろそろ23回忌のこともあり
井伊直弼像、在東京建碑委員が選定されます。当初は銅像ではなく<建碑>案だったようです。建碑場所として横浜戸部不動山を候補に挙げられますが東京案の方が多数を占めます。
1882年(明治15年)10月
上野東照宮境内案を申請。11月に内務省内で議論されますが否決され不許可を通知。
1883年(明治16年)11月
横浜戸部不動山鉄道局所有地(現在の掃部山公園)の払下げを願い出、許可されます。
1884年(明治17年)1月
横浜戸部不動山の地所開墾に着手します。
1884年(明治17年)3月22日
「東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定」
1886年(明治19年)3月27日
豪徳寺で二十七回忌が行われます(26日〜28日)
1888年(明治21年)3月20日
神奈川一区選出の暴れん坊議員となった島田三郎(『東京横浜毎日新聞』社長)が
『開国始末』を発刊。(付録 井伊掃部頭直弼伝)ここで井伊直弼を擁護する。
1891年(明治24年)
「大老銅像建碑委員会」が発足。
1892年(明治25年)3月27日
井伊直弼の三十三年祭を世田ヶ谷豪徳寺で開催。
1893年(明治26年)
旧臣が集まり「旧談会」を発足。
1893年(明治26年)8月
佐賀藩出身の中野 健明神奈川県知事は 遺勲碑建設に関し内務省に問合せた結果、長州藩出身の井上馨大臣は拒否。(当たり前といえば当たり前)
1899年(明治32年)5月19日
「日比谷公園内に直弼顕彰碑計画を立てる」案が内務省却下。
この時の内務大臣は第2次山県内閣の西郷従道。
1907年(明治40年)2月
遺勲碑から銅像に変更し戸部山に建設を決定し設計に着手します。
土台の設計者は妻木頼黄。→彼が神奈川県庁設計から突然のスキャンダルで外されます。
1909年(明治42年)6月26日
銅像が竣工。
1909年(明治42年)7月1日
開港五十年式典が開催されます。横浜市章・市歌発表。
これに合わせて挙行予定だった銅像除幕式を神奈川県知事(周布公平)、横浜市に中止を申し入れ、中止延期となる。
1909年(明治42年)7月11日
除幕式を強行します。式典にはいったん政界を引退した元総理の大隈重信、英国総領事ら出席者は600人にも及びました。
1910年(明治43年)
彦根に井伊直弼像を建立
1914年(大正3年)11月7日
野毛山の土地・銅像は一旦井伊家に寄贈され、整備後横浜市に寄付(8月)、掃部山として開園します。
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で銅像上部が回転、転倒せず。公園は被災者の避難所に。
1935年(昭和10年)3月2日
「天照義団掃部頭銅像の首を狙う」事件発覚
1940年(昭和15年)4月10日
「井伊直弼朝臣顕彰会」横浜で開催。
1943年(昭和18年)6月16日
銅鉄押収「応召」となる。
1954年(昭和29年)5月20日
二代目井伊直弼像 完成。
1954年(昭和29年)6月2日
開港百年祭に際し二代目井伊直弼像 除幕式。
1958年(昭和33年)5月10日
開港百年祭実行員会、開港功労者31人を顕彰。井伊直弼も
1968年(昭和43年)9月29日
「開港の恩人井伊大老を偲ぶ110年祭」掃部山公園で開催
1989年(平成元年)
YES89掃部山公園再整備
2012年(平成24年)3月28
横浜市認定歴史的建造物に認定
2014年(平成26年)
区制70周年と掃部山公園開園100周年、掃部山公園再整備
※この年表は 各種資料から集めたもので ここの真偽は確認しておりません。
若干時系列で 矛盾しているかのように見える点がありますがそのまま掲載しました。

※何故誤って6月11日となったか推論
わからないでもありません。このブログでも何回も触れていますが、開港祭は昭和に入るまで7月1日に行われていました。そのため前述の延期騒動をそのまま現在の6月開港祭の前提で6月11日としたのではないでしょうか。

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8月 17

1月31日 朝吹英二

横浜に関係のある一人の人物を紹介します。
1918年(大正7年)の今日、実業家の朝吹英二が71歳の生涯を終えました。
「朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日)〜大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。幼名は萬吉、鐵之助。」(wikipedia)
このwikipediaでは彼の紹介に「横浜」の項目はありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝吹英二
彼は幕末に生まれ、明治・大正期に実業家として活躍します。
若い頃のエピソードとしては、尊皇攘夷思想だった朝吹は同郷の開明派「福沢諭吉」を暗殺しようと企てますが失敗しこれをキッカケに慶應義塾に学び、福沢の元で働くようになったそうです。実業家として頭角を現し三菱商会から三井に転じ、「三井の四天王」の一人と呼ばれるほど<三井>の重鎮として活躍します。
1880年(明治13年)7月20日から業務を開始した「貿易商会」横浜支店の責任者として朝吹英二は横浜を舞台に活動します。
この「貿易商会」は、社長が丸善の創業者である早矢仕有的で朝吹は役員として横浜支店を任されます。「貿易商会」は本店を東京に置き、横浜の本町四丁目に支店を開設します。取り扱った業務内容は生糸の輸出・茶・煙草・雑貨・米などの輸出と鉱物・皮革類・魚類等の輸入等でした。
「貿易商会」にとって「横浜支店」は特別な存在でした。
資本金二十万円の内、十五万円が「横浜支店」の事業資金として振り分けられ、主に<生糸の輸出>を専門とし支配人として朝吹英二が着任しました。
いわば特別プロジェクトの性格を帯びた「横浜支店」でした。
この「横浜支店」設立の背景は、単にビジネスチャンスというだけではなく、当時の横浜を舞台に行われていた貿易の<問題>がありました。

日本は開港後欧米列強と結んだ不平等交易条約(修好通商条約)の影響で、貿易を管理・統制することがほとんど不可能な状態にありました。
明治初期の貿易は殆ど外国(欧米)の商社が独占していました。
1867年(明治10年)の輸出額の94%、輸入額の95%を外国商社が独占。
しかも、居留地の外国商館は<悪辣な手段>を使い、差別的で一方的な交易で暴利を上げていました。特に横浜を舞台にした生糸交易は取扱額も大きく日本経済の要でもあったため<フェアトレード>は日本経済界・政府の重要な課題でした。
「貿易商会」横浜支店設立には、貿易のバランスを回復する(自主貿易の確立する)ことも大きな目的でした。「貿易商会」の設立趣意書の一部を商会します。
「我国人ハ在港ノ外人二依頼シテ貿易ノ事ヲ行ヒ既二幾分ノ国損ヲ致シ、又其物品ノ代価ヲ受授スルニ当テ為替ノ事ヲモ彼ノ「パンク」二任スルガ故二、輸出入ノ景況二従テ為替ノ相庭(相場)ヲ昂低スルモ、全ク彼レノ意中二存シテ、内国ノ商人ハ恰モ其制御ヲ仰キ、昂低共二常二彼レニ便利ニシテ、我二不便利ナラザルハナシ、金権ノ主客、処ヲ異二スルモノト云う可シ」

結果は残念ながら 1876年(明治19年)倒産、失敗に終わります。
朝吹英二は生糸直輸出事業の大損失を一身に背負って日本一の借金王と呼ばれたりしました。「貿易商会」に限らず、多くの日本企業が不平等交易に立ち向かい、粘りつよく条約改正に至るまで要求と実践を繰り返していきます。
明治以降、日本の急速な経済発展と表現されますが外国商社との条件闘争と試行錯誤を繰り返していきます。

横浜で大失敗した朝吹英二は、その責任をとって放浪生活に入ります。
そんな朝吹英二がある時、かつての知り合いだった第3代日本銀行総裁 川田小一郎を訪ねます。川田は朝吹に自分の給料袋をそのまま渡し、再起を支援。
これがキッカケとなって朝吹は経済界に復帰、当時危機に瀕していた鐘淵紡績の立て直しに貢献します。
その後、三井財閥の基盤確立に尽力するとともに日本経済界の重鎮として多くの足跡を残します。
「生涯
豊前国(現在の大分県)中津藩宮園村(現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園)の大庄屋の跡取として生まれた。
日田の咸宜園や中津の渡邊塾・白石塾に学ぶ。尊皇攘夷思想に染まり、維新後の明治3年(1870年)、開明派の福澤諭吉暗殺を企てるが、転向し福澤とその甥 中上川彦次郎の庇護を受け、彦次郎の妹と結婚する。慶應義塾に学び、明治11年(1878年)、三菱商会に入社。明治13年(1880年)、貿易商会に入って取締役となる。
また、大隈重信に近い政商となり、三井財閥に転じて、明治25年(1892年)に鐘ヶ淵紡績専務、明治27年(1894年)に三井工業部専務理事に就任。明治34年(1901年)、中上川が死去すると、益田孝により中上川の工業化路線は一旦は止まったが、それでも明治35年(1902年)に三井管理部専務理事に就任し、王子製紙会社では役員を務めて会長となり、また、芝浦製作所、堺セルロイドなど王子と共に業績不振とされたこれら企業の建て直しを担当することとなった。このように三井系諸会社の重職を歴任し、「三井の四天王」の一人と言われた。
中上川の後任の最有力候補であり、かつ慶應閥の筆頭とも目されていた朝吹だったが、上述のように、後見の中上川の死去にともない、益田が三井財閥の実権の座を握ることとなり、明治40年(1907年)には、益田が引退に際して團琢磨を推挙したため、退任を余儀なくされることとなった。
江戸時代において悪人とされていた石田三成の顕彰事業にも熱心で、歴史学者渡辺世祐に委嘱して『稿本石田三成』を書かせ、その墳墓発掘にも力を尽くした。」

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No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

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