4月 13

【吉田町物語】吉田町清水組

現在、吉田町に拠点を構える最も古い企業は、都橋のたもとに事業所を持つ清水建設横浜支店です。
左側 都橋袂、清水建設横浜支店
現在スーパーゼネコン※と呼ばれている5社の中で、特に「清水建設」と「鹿島建設」は開港場を舞台に横浜普請で飛躍した会社です。
※清水建設、鹿島建設、大成建設、大林組、竹中工務店
清水組は安政の大獄の始まった1858年(安政5年)
時の大老、井伊直弼から「外国奉行所」など幕府施設建設を請け負うことで横浜開港場との関わりが始まります。
1859年(安政6年)
清水組を興した初代喜助が死去し養子の清七が2代清水喜助となった年、
「横浜坂下町」に店宅を新築し、横浜へ進出します。(清水建設社史)
この開港場の拠点「坂下町」、磯子ではありません。現在の「日本大通」と「横浜公園」が接するあたりと推定できます。
清水組は「神奈川戸部村外国奉行所、石崎関門ならびに番所および野毛坂陣屋前役宅を施工」する事業に関わります。神奈川戸部村外国奉行所はおそらく現在の紅葉ヶ丘神奈川奉行所、石崎関門・番所はわかりません。
野毛坂陣屋前役宅も現在の宮崎町近辺でしょうか?調査中です。
清水組は神奈川役所定式普請兼入札引受人となるなど、事業は順調に拡大していきます。
ところが、
1866年11月26日(慶応2年10月20日)午前9時頃に港崎遊郭の西方向、現在の尾上町一丁目付近から出火し開港場の大半が消失した<慶応の大火>で「横浜坂下町店宅」も類焼し、失ってしまいます。
(写真資料)
清水喜助は吉田町に家屋を新築し移転します。この場所で釘や鉄物商のほか材木商も兼業し事業を拡大していきます。
当時、木造家屋の密集する日本の都市は、火災に弱く何度かの大火災に悩まされます。
移転した吉田町店も火災にあいまたまた類焼のため宮川町へ移ることになります。
その間、時代は明治となり、開港場は居留地と商人の大都市に変貌し始めます。
喜助は吉田町に戻ることを決意し、
1874年(明治7年)吉田町に洋風3階建の店宅を新築し、宮川町から復帰します。
大岡川下流から都橋を望む。
大岡川、都橋下流側 右岸に清水組
1881年(明治14年)に横浜店は清水満之助が経営
 神田新石町店は清水武治が経営する東京・横浜分業体制を採ります。
1883年(明治16年)には横浜吉田町宅を本店とし、日本橋本石町居宅が支店となりますが、
1887年(明治20年)満之助が35の若さで死去、残された8歳の長男が四代満之助襲名しますが、三代目満之助の遺言により経営の神様と呼ばれた”渋沢栄一”を相談役(〜1916年)に迎え経営危機を乗り越えます。
1892年(明治25年)9月に日本橋本石町店を本店、横浜店を支店に改め、拠点を東京に移します。
1895年(明治28年)東京・横浜両店を合併し、清水組が一本化。
清水組を創業した清水嘉助は、越中小羽(現・富山県富山市小羽)出身で、故郷富山で大工の修行をして、日光東照宮の修理に関わったことをキッカケに江戸に出て神田の地で創業します。江戸城西の丸修復で建設業の基盤を築きます。
富山(越中)人脈は、
1838年(天保9年)11月25日 安田善次郎 富山市で出生(安田財閥の祖)
1848年(嘉永元年)4月13日 浅野総一郎 氷見市で出生(浅野財閥の祖)
1881年(明治14年)大谷米太郎が小矢部市で出生(大谷重工業、ホテルニューオータニ創業者)
1885年(明治18年)正力松太郎 正力松太郎が射水市(大門町)で生れる(読売新聞中興の祖)
安田、浅野も横浜・川崎を舞台に一代を築いた越中人です。
どこかで、つながりがあったと思います。機会があれば、横浜の越中人脈も探ってみたいと思います。
成人した四代目清水満之助は
1915年(大正4年)8月10日竣工、二代目横浜駅建設を手掛けます。煉瓦造2階、平面形状は不等辺三角形。階上に待合室、改札口がある荘厳な駅舎となります。
<横浜の清水>作品を抜粋します。
◯谷戸橋(堀川)1880年(明治13年)
◯横浜税関(関内)1885年(明治18年)12月
◯横浜水道開設事業 三井用水取水所の内 用水取入口、貯水池、濾水池1887(明治20)年9月
◯第一銀行1911年(明治44年)6月
★二代目横浜停車場1915年(大正4年)6月
★横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)1918年(大正7年)
 平成の修復も清水建設。
◯ホテル、ニューグランド1927年(昭和2年)新築 設計渡邊仁
1933年、1958年、1964年 増築
2016年 耐震改修
◯味の素横浜工場サイロ竣工(昭和30年)9月
◯横浜マリンタワー1961年(昭和36年)1月
◯石川島播磨重工業横浜第2工場建造ドック及び修理ドック
 1965年(昭和40年)3月<建造ドック>
 1966年(昭和41年)8月<修理ドック>
◯横浜スタジアム1978年(昭和53年)3月
◯県立神奈川近代文学館1984年(昭和59年)3月
◯横浜地下鉄1号線 吉田町工区1986年(昭和61年)3月
◯関内ホール(横浜市市民文化会館)1986年(昭和61年)
◯新横浜プリンスホテル1992年(平成4年)2月
◯横浜・八景島シーパラダイス デザインシステム(清家清)
 <建築部分>1993年(平成5年)5月
 <土木部分>1994年(平成6年)3月
◯横浜ランドマークタワー1993年(平成5年)6月
◯横浜銀行本店1993年(平成5年)7月
◯飯田家長屋門 保全1996年(平成8年)3月
◯日石横浜ビル1997年(平成9年)6月
◯Foresight21(関東学院大学1号)2001年(平成13年)3月
◯慶應義塾大学日吉新研究室棟(来往舎)2002年(平成14年)1月
◯横浜港大さん橋国際客船ターミナル(第一工区)2002年(平成14年)11月
◯今井川地下調節池2004年(平成16年)3月
◯横浜市立みなと赤十字病院2003年(平成15年)12月
◯日産自動車グローバル本社2009年(平成21年)4月
◯富士ゼロックスR&Dスクエア2010年(平成22年)3月
◯アニヴェルセルみなとみらい横浜2013年(平成25年)11月
◯横浜グランゲート2020年(令和2年)
4月 1

【吉田町物語】KEY木村商店

開港場の誕生によって、吉田町界隈のにぎわいは自然に生まれました。
開港直前に横浜道が貫通し、開港場を目指した多くの人々は、関内を目前にして一休みしたり、身支度を整えたりしたのかもしれません。開港から10年という激動の時を経て、時代が明治となり、野毛浦地先を埋め立てたところに鉄道が敷設されたことで吉田町はさらに賑わいを見せていきます。
明治から大正にかけて
この短くも活気あふれた<吉田町>界隈を経て大きく育っていった企業群があります。
吉田町と関係の深い大手企業といえば、
清水組(清水建設)
キーコーヒー

二社をあげることができます。 今回は、木村商会、後のキーコーヒーを紹介します。
【キーコーヒー株式会社】
年商:640億円(2020年3月)
従業員:1,176 名(連結) / 824 名(単独)
東京証券取引所1部に上場しているコーヒー業界国内最大手です。
本社所在地:東京都港区西新橋二丁目
<沿革>
1920年(大正9年)伝説の珈琲店カフエ・パウリスタ横浜店に勤めていた木村文次が各国産コーヒー焙煎加工卸および食料品の販売を、創業の地横浜市中区福富町で「木村商店」を開業します。
木村の勤めていた伝説の「カフエ・パウリスタ」は当時盛んに行われた移民と大きく関わっていました。日本人のブラジル移民をいち早く手がけた”水野龍”が、現在で言うところのアンテナショップ的なブラジル・サンパウロ州政府庁専属ブラジル珈琲発売所「カフェーパウリスタ」を設立し、ブラジル移民の経済支援として日本へのコーヒー輸出振興事業を起こします。
「カフエ・パウリスタ」は東京を中心に出店され、日本にカフェ文化を伝える重要な役割を担いました。
https://www.paulista.co.jp/paulista/
ここでコーヒー文化と出会った木村文次「木村商店」は福富町から、相生町次いで住吉町へと店を移転し事業を拡大していきます。社史によると開業の翌年、最初のヒット商品となる「コーヒーシロップ」の製造・販売を開始します。
ワインの普及と同様、<辛口>文化の無かった日本では甘い飲料が好みとなったので、コーヒーもブラックではなく<甘味>を加えることで広がっていった歴史があります。
1922年(大正11年)に木村文次は結婚。遠縁の柴田家に婿入し、柴田文次と改名し新婚生活をスタートしますが
1923年(大正12年)9月1日の関東大地震で被災し、妻子を含め親類縁者を失ってしまいました。
文次は傷心の中でも諦めることなく
9月10日に店を<吉田町>に移転して再起、復活を図ります。移転先は具体的にわかりませんが、
1930年(昭和5年)の資料には「木村コーヒー店」※吉田町58とありますので、位置は図の位置と思われます。
※1928年(昭和3年)屋号を『木村商店』から『木村コーヒー店』へと改称。
出典:キーコーヒー
明治14年ごろの吉田町
横浜工場が竣工。コーヒー、ココア、紅茶の缶詰物、コーヒーシロップ、清涼飲料の製造を開始し、「コーヒーは、日本人の新しい食生活と文化を開く鍵だ。」と考え、現在につながる<KEY>のロゴを制作。
1946年(昭和21年)本社機能を横浜から、東京支店(東京都港区芝田村町四丁目8番地)へ移すまで横浜吉田町が「木村コーヒー店」本店でした。
正面写真が無かったので遠景ですみません
その後、横浜本社だった拠点は横浜支社となり、場所も防火帯建築として健在の神奈川県吉田町第二共同ビルの一角に近年までありましたが、現在は撤退してしまいました。桜木町駅前、ぴおシティに輝いていた広告も幕を降ろしてしまいました。
横浜生まれ、吉田町で育ったキーコーヒー本社が再び横浜に戻ってくることを夢見て 簡単ですが紹介を終わります。
12月 25

【バス物語】江ノ電バスラストラン

2019年(令和元年)12月15日
江ノ電バス横浜の2系統路線が廃止されるラストランの日だった。
大船駅から横浜駅までを繋ぐY2系統
栗木から横浜までのY3系統 
江ノ電の分類ではY16・Y17となっているが、表示はY2Y3。
「神奈川バスルート案内」では23系統・42系統と表記。
なんともわかりにくいバス系統が不思議な番号で綴られている。 横浜市内には市営、神奈中、臨港、東急、京急、小田急、相鉄、大新東、横浜交通開発、富士バスそして江ノ電など11社が路線を持っている。世界最大級と云われているバス会社神奈中を筆頭に、それぞれ<なわばり>みたいなエリアがある。横浜江ノ電は、戸塚駅より西に系統網を持っているが、際立っていたのが<Y2Y3系統>だった。
Y2・3系統は、終着点を「横浜駅東口」に設定している。つまり江ノ電の本拠地に近い地点から「下り」ルートが設定されている路線で、江ノ電が明治期の創設前に目指した鎌倉から黄金町までの路線に重なっている伝統?路線だったようだ。
江之島電氣鐵道、横浜電気株式会社(買収)の時代もあった。
江ノ島電気鉄道、東京横浜電気鉄道(傘下)、江ノ島鎌倉観光など目まぐるしく経営環境が変わった鉄道事業者である。
戦前の一時期神奈中バス(大東急時代)に経営を全面的に手渡したが戦後復活時にバス部門を取り戻し、江ノ電エリアから遠く離れたこの路線も取り戻した伝統あるものであった。 今回、2019年(令和元年)12月15日をもって
「大船〜横浜」という横浜市内最長クラスの路線が廃止されてしまった。過去に二度利用したことがあるが、平日午後利用客も多かった記憶がある。
もう一つの派生路線<栗木〜横浜駅>は数回利用したことがある。これも赤字路線とは思えない。 廃線理由は「運転手不足」という実に悲しい事態だった。運転手不足はこの10年、バス業界に吹き荒れた嵐だった。全国的な人手不足の中、神奈中・市営・京急などが集中するエリアで、江ノ電は今考えれば孤軍奮闘していたのかもしれない。 このY2・Y3路線の横浜・野毛大通り間のルートが不思議な経路を持っている点でマニア的にはとても面白い。 
これが無くなってしまったことはとても残念だ。 (上下分離路線)
横浜駅〜日ノ出町駅前までの路線について特記しておく。
<ルート>
■下りルート
〜日ノ出町駅前〜野毛町〜野毛大通り〜紅葉坂〜雪見橋〜花咲町〜高島町※〜横浜駅改札口前※〜横浜駅東口
※横浜駅東口行き方向のみ停車。
この印のある3停留所のみ江ノ電バスは別ルートを走ります。
■上りルート
横浜駅(東口)〜高島町〜花咲町〜雪見橋〜紅葉坂〜野毛大通り〜野毛町〜日ノ出町駅前〜<以下省略> 横浜駅東口、桜木町駅間のバスルートは上下線が別れているのが特徴です。
理由は桜木町駅前の交差点にあります。
ここは、国道16号線と、山下長津田線(新横浜通り)が並行している区間で、国道16号線が右折禁止のため並行する山下長津田線(新横浜通り)をバイパス道として使い、右折できるためです。
この路線が廃止されたのは残念でなりません。
ラストランの日、バスファンが多く乗り合わせる中、
日頃利用されているお年寄りがガラケイを出し記念撮影をしている姿が印象深かった。
「残念ね。20年利用していたのにね。今日はお休みなんだけど、最後に乗りたいから来ました。」と語っていました。
運転手不足で廃線しなければならないほど悔しいことはないでしょう。
12月 17

【占領の風景】関外飛行場

横浜中心市街地の占領史で若葉町に軽飛行場があったことは意外と知られていないようです。
2009年ごろ「空港の街」という飛行場サイトもできていましたがマイナーでした。このタイトルはいささかオーバーだとは思いますが、意外性からも面白い内容になっています。ただ情報量としては残念無念、少なすぎます。さらなる継続を期待したのですが。
(URLは文末に掲載)
1943年(昭和23年)発行1万分の1「横浜」
1943年(昭和23年)発行1万分の1「横浜」
■空港の街<関外飛行場>
1945年(昭和20年)9月、終戦直後接収が始まったと同時に米軍は横浜の繁華街に飛行場を整備します。
カナコロ「戦災復興の記憶〈8〉飛行場」
https://www.kanaloco.jp/article/entry-64012.html
ここに貴重な写真が掲載されています。1950年(昭和25年)ごろに撮影されたものとあり、接収解除は二年後の1952年でした。
この写真から接収当時の様子が良く判ります。飛行場脇に被災し関外がほぼ焦土化した伊勢佐木4丁目から5丁目のバラックが建っている風景が確認できます。 今回、この神奈川新聞は何故この時期に「飛行場」敷地を撮影したのだろう?と思い巡らしていたところ
 そういえば、
当「XY通信」でも初期に取り上げたことを思い出してみると
「暦で語る今日の横浜【9月10日】市長と飛行場」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=75
で後半ちょっと紹介していました。
これも1950年(昭和25年)9月10日の新聞記事から辿ったものです。
偶然にも1950年
「“伊勢佐木町飛行場”跡広場で横浜の「港湾勤労者スポーツ大会」開催。」の記事から手繰り寄せたものですが、
この時期には飛行場跡地が地元に開放され、地域のイベントが開催されていたことが判ります。
実質飛行場機能は「間門」の海岸線に移設されました。
飛行機部分を拡大したもの
■若葉空港整備中
ここに紹介する風景は、この若葉町飛行場整備中のものと思われます。右手に勤労動員なのか、多くの人が集まっています。
飛行機も確認できます。
1948年(昭和23年)修正の1万分の1地図と比較しても、まだ周辺が未整備状況を確認できます。
地図情報や接収資料からこの写真は1945年秋から1947年(昭和22年)
ごろと推測しました。
拡大前の元写真
(横浜飛行場)
横浜市内にはかつて航空機離発着に関係する施設がいくつかありました。他の横浜市内飛行場に関して簡単に紹介します。
<富岡水上飛行場>
現在金沢区にある富岡総合公園一帯周辺に横浜海軍航空隊の施設が整備されていたもので飛行艇の(海を使った)離発着が行われていましたが滑走路は無かったようです。
1936年(昭和11年)に開設され終戦まで使用されました。
その後接収、解除という歴史をたどり、公園や警察・民間施設となっています。
広さ:約21,9200平方m <大日本航空横浜水上飛行場>
ここも富岡同様飛行艇用の施設がありました。戦前には南方(パラオ)への定期便も運行されていた時期もあり、戦後米軍に接収、解除という歴史を歩みました。
所在地:磯子区鳳町あたりから中区千鳥町
(当時は、横浜市八幡町海岸)
195,162平方m
1945年(昭和20年)9月25日〜
1955年(昭和30年)3月11日接収開始1960年(昭和35年)6月30日接収完了。
「昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。 」
※中区史 <間門飛行場>
前述の関外若葉町にあった軽飛行場が海岸線に移設され一時期飛行場として開設されました。 関連サイト
「空港の街」
http://isezakiwakaba.hama1.jp/e28216.html
3月 10

No.420 3月10日(日)横浜三塔に思う

今日は、横浜三塔の日です。
ベイエリアでは様々なイベントが繰り広げられます。
2007年から、
毎年3月10日を三塔との語呂合わせで「横浜三塔の日」としました。

nn-E4-B8-89-E5-A1-94-E8-B1-A1-E3-81-AE-E9-BC-BB-E3-81-8B-E3-82-891
2002年頃の三塔

(三塔は)
■横浜市開港記念会館「ジャックの塔」
竣 工 1917年(大正 6年)
塔の高さ – 36m

nn20101114_0160

■神奈川県庁本庁舎「キングの塔」
竣 工 1928年(昭和3年)
塔の高さ – 49m

nnP3080009

■横浜税関「クイーンの塔」
竣 工 1934年(昭和9年)
塔の高さ – 51m

nn-E7-A8-8E-E9-96-A281

昭和初期横浜港から見える三つの塔は「キング」「クイーン」「ジャック」と呼ぶようになりました。入港の際、外国船船員は、この塔を見て航海の安全を感謝し
出港の時は、これからの航海の安全を願ったといいます。
その後、時間が現代になるまで、三塔は戦災を生き残り静かにそれぞれの役割を担ってきました。
一部の人が
「三塔が一望できる場所があるの知っている?」
と囁くようになり、三塔を一望できるスポットが注目を浴びました。
さらにこのスポットをすべてまわると願いがかなうということでイベントが始まります。
No.70 3月10日 310
2012年には

http://www.osanbashi.com/santou/index.html
2013年には
http://cgi.city.yokohama.lg.jp/common/event2/event_detail.html?id=38559
〜三塔を知ろう・語ろう・楽しもう!〜

(提案です)
以前、東京に四代暮らす友人から指摘を受けました。
「3月10日を江戸っ子は喜べない。」
この日は「東京大空襲の日」だからです。
5月29日には横浜も空襲が行われ、
「横浜大空襲」で横浜は焦土化します。
そしてさらに311は震災の日となりました。
これらの記憶に少し寄り添っていく310にシフトしてはどうでしょうか。

だから 三塔の日を無くすというのではなく
三塔が
「震災復興を見続けてきた歴史的建造物」と呼ばれているように
また今回も横浜市中区が掲げているように
絆を基本に
「三塔絆の日」
良いネーミングは思い当たりませんが、今後
新しい意味合いを抱合しながら今日のこの日を
楽しんでいくのはいかがでしょうか?

(国際都市 横浜の要)
この三塔にはそれぞれ歴史的役割を担ってきました。
■横浜税関「クイーンの塔」
三塔の中で最も海(港)に近く、日本の国際化の道先案内人として重要な役割を担ってきました。
■神奈川県庁本庁舎「キングの塔」
開港場「横浜」の行政を司り、居留地を舞台に国際都市の要となってきました。
■横浜市開港記念会館「ジャックの塔」
現存する塔の中では最も歴史があるものです。
関東大震災も経て現在に至ります。
この「横浜市開港記念会館」は、まさに横浜を舞台とした市民の言論の発信基地でした。
三塔は「国際都市 横浜の要」の役割を担ってきました。
しかも、焦土化した横浜大空襲にも生き残り、戦後横浜復興のシンボルともなったランドマークでした。
例えば
■横浜税関「クイーンの塔」には安寧を
■神奈川県庁本庁舎「キングの塔」には再生を
■横浜市開港記念会館「ジャックの塔」には希望
といった意味合いを重ね合わせていくことができると思います。

ここに横浜マリンタワー、横浜ランドマークタワーを加え
5塔物語へと拡大していくことも可能なのではないでしょうか?
横浜は復興 再生の街です。

(余談)
今年は 崎陽軒の「三塔弁当」がありません。残念です。

nn-E4-B8-89-E5-A1-94-E5-BC-81-E5-BD-930308
12月 27

No.362 12月27日(木)彼も我も公園に集う

年も押し迫って参りました。
2012年も残すところ5日となりました。2013年は異なる切り口でいくと宣言しておきながら、なんとかなるだろうと準備していません。
2013年はかなりドキドキハラハラの毎日でした。
2014年は少しじっくり系でいきたいところです。

さて、1909年(明治42年)12月27日の今日は横浜市(彼我)公園のクリケットグランドの撤去が決定し全管理権が横浜市に移管した日です。
名称も正式に現在まで使用されている「横浜公園」と改称されました。
※市民解放は翌日の12月28日に行われました。

読みにくいのですが、この日の事を記した碑です

現在横浜には、市の管理する公園が2,600ありますが、その殆どが昭和後期に整備されたものです。戦前、横浜市の公園は19しかありませんでした。
明治期には二つ。
1876年(明治9年)開園した「彼我公園(横浜公園)」と、1900年(明治33年)に公開された「山手公園」です。山手公園は1870年(明治3年)6月4日に居留民によって作られましたが、当初は外国人専用でした。「彼我公園(横浜公園)」は日本最初の近代公園と言われています。(日比谷公園と争っていますが)

No.120 4月29日 庭球が似合う街

大正期にも公園は二つしか整備されませんでした。

井伊家によって寄付された「掃部山公園(かもんやまこうえん)」と震災復興で整備された「野毛山公園」です。

掃部山

日本の明治以降の近代公園の多くが「城趾」「武家屋敷の跡地」「寺の敷地」等を利用して整備されましたが、横浜にはまとまった土地が少なかったこともあり公園整備が遅れます。

ある外国人と横浜市の幹部の会話(ジョーク)に

「横浜には市が整備している公園が足りないのでは?」
「いえ、横浜には三渓園という民間の公園が整備されていますから」
と言われるくらい公園が少ない街でした。

(横浜に始まる近代公園)

開港時に欧米人が驚いた日本の技術力が幾つかありますが、中でも「造園」技術は世界的レベルと評価されました。この技術を遺憾なく発揮したのが「彼我公園」(横浜公園)です。

日本には江戸時代から町民文化として安定した園芸趣味があり、武士は勿論町民レベルまで秀逸な庭園が整備され産業が根付いていたからです。

欧米との決定的な違いは、パブリック(パーク)ではなくプライベート(ガーデン)として「造園技術」が成熟して来たという点です。
といっても、欧米でも公園は19世紀に始まった文化ですから日本とさほど差があったわけではありません。

昭和初期の横浜公園

 彼我公園=横浜公園の整備は、日本造園界にとって記念すべき腕の見せ所だったと言えるでしょう。
1864年12月19日(元治元年11月21日)に取り交わされた「横浜居留地覚書」を元に、豚屋火事→「慶応の大火」(1866年11月26日)で焼失した港崎遊郭を整備し公園にしろというものでした。
「外国並みに日本彼我にて用ふべき公けの遊園」(レクリエーション施設)の要求が彼我公園誕生の起源となります。

この彼我公園は居留地外国人のリクエストで造ることになった訳ですが、国によってリクエストの内容にカルチャーギャップが出てきました。

日本政府(神奈川県)は
「元来外国人遊覧之為取設候事故此方於而者造営模様不案内」
として設計は外国人にまかせることにします。
そこで設計は横浜のインフラ計画を担った英国人技術者のブラントンが行い、日本が作ることになります。

設計案
設計案

先に完成した「山手公園」は、居留民の資金と奉仕団で整備されていますから、日本の職人技術がこの「彼我公園」で初めて発揮されることになります。
案の定、彼我の(彼ら)の意見はまとまりません。特に英米が対立します。イギリスはクリケット場を導入しようとしますが、アメリカはクリケットは彼らの都合だといって(政治的に)反対します。
結局、条件付きでクリケット場は造られることになりますが当初の設計図から大きく変わったようです。
直線的デザインから日本庭園を活かした庭園デザインが随所に取り入れられます。(予算の関係だった?)しっかり運動場(クリケットのできるグラウンド)も組み込まれます。
1868年から現在まで続く名門スポーツクラブ(YCC→YC&AC)はこの横浜公園クリケット場がホームグラウンドでした。

YC&ACロゴ

http://www.ycac.or.jp

日本側は、予算をできるだけ減らしたいので作りやすい構造を依頼します。当時の図面のやり取りから、造成当事者の神奈川県と予算管理の大蔵省、設計者ブラントンの苦労が透けて見えます。

明治25年ごろ

今も昔も変わりませんね。

(関連ブログ)
No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成

No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で


No.95 4月4日 横浜DeNAベイスターズの本拠地「ハマスタ」開幕


No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。


(余談)

横浜球場の横にある「噴水」ですが、高さ2.8m
現在三代目で昭和初期に完成、80年の歴史があります。
因みに二代目は1909年(明治42年)横浜市に管理権が移った最初の整備で造られました。


(余談2)

街歩きに公園探索は欠かせません。
公園には街の表情があり、歴史があります。
元々どのような場所だったのか?
造られる経緯、レイアウトにまで思いを馳せるのも楽しいものです。

現在「歴史公園」という分類があり、全国に250あります。定義が今ひとつ判りませんが街歩きの参考になります。

横浜市には5カ所歴史公園が選定されています。
1横浜公園
2山手一帯(元町公園、港の見える丘公園、山手イタリア山庭園、山手公園)
3根岸森林公園
4山下公園
5大塚歳勝土公園
http://ja.wikipedia.org/wiki/歴史公園

(余談3)

横浜市内で広い公園ランキングは?
第一位
 金沢自然公園
 577,593平米(昭和57年3月17日開園)
第二位
 横浜動物の森公園(ズーラシア)
 541,132平米(平成14年7月25日開園)
第三位
 新横浜公園(日産スタジアム一帯)
 501,667平米(平成10年3月1日開園)
第四位
 海の公園
 470,155平米(昭和63年7月2日開園)
第五位
 こども自然公園
 464,118平米(昭和47年6月5日開園)

■因みに一番小さな公園は?

鶴ケ峰まちかど広場
鶴ケ峰二丁目21−12
65平米(平成7年3月24日開園)

12月 4

No.339 12月4日 (火)「横浜から神奈川」へ ????

2012年(平成24年)12月4日(火)に横浜弁護士会は臨時総会を開き、
半世紀の懸案事項を投票で決めることになりました。
(結果)→否決されました。
この懸案事項というのは
「横浜から神奈川」への名称変更についてです。

弁護士会が入るビルと横浜地裁

「横浜弁護士会」は神奈川県内の弁護士が所属する団体です。
「横浜弁護士会」は明治以来使い続けてきた「横浜弁護士会」を「神奈川弁護士会」に変更するかどうか?
今日の臨時総会で決議し、
投票の結果、「神奈川弁護士会」の名称変更議案は否決されました。
12月4日午前11時に行われた臨時総会の名称変更に関する投票は
総数1,083の内 賛成684票、反対380票、棄権19票。
(可決には3分の2の同意が必要)
市外の弁護士は450名位?(記事から換算)だと市内の弁護士でも賛成に回ったってことですね。
これで仙台(伊達)・金沢(前田)も変更せず!かな?
従前の「横浜弁護士会」→に決まりました。
この名称は、1893年(明治26年)から使われている歴史ある名称で明治以来戦後1949年の弁護士法全面改正まで地方裁判所の名に合わせて使われていました。
転機となったのが
1949年(昭和24年)制定の弁護士法で
弁護士会の制度(名称)の自由が認められたことに端を発します。
その結果下記の一覧からも明らかなように、
都市名ではなく県名を表するのが“主流”となりました。
現在は、
横浜の他「仙台」「金沢」の弁護会だけが都市名を名乗っています。
「横浜弁護士会」では過去2度名称変更が提案され成立しませんでした。
今回で3度目の“投票”となりました。
全国の流れに沿う必要も感じませんが、
市外の弁護士にとっては「神奈川」が良いのかもしれません。
「弁護士会」所属の多数は横浜市内で仕事をしていますが、今回の総会で「神奈川弁護士会」になるのではないかと予測されていました。
http://www.yokoben.or.jp もkanabenに?
結果は強しYOKOHAMA

【地方裁判所の名称】
全国の地方裁判所名と県名が異なる所を一覧化しました。
盛岡地方裁判所→岩手県→岩手弁護士会
水戸地方裁判所→茨城県→茨城県弁護士会
宇都宮地方裁判所→栃木県→栃木県弁護士会
前橋地方裁判所→群馬県→群馬弁護士会
甲府地方裁判所→山梨県→山梨県弁護士会
名古屋地方裁判所→愛知県→愛知県弁護士会
津地方裁判所→三重県→三重弁護士会
神戸地方裁判所→兵庫県→兵庫県弁護士会
大津地方裁判所→滋賀県→滋賀弁護士会
松江地方裁判所→島根県→島根県弁護士会
高松地方裁判所→香川県→香川県弁護士会
松山地方裁判所→愛媛県→愛媛弁護士会
那覇地方裁判所→沖縄県→沖縄弁護士会
仙台地方裁判所→宮城県→※仙台弁護士会
金沢地方裁判所→石川県→※金沢弁護士会
横浜地方裁判所→神奈川県→※横浜弁護士会

弁護士会の単位は、「地方裁判所の管轄区域」ごとに設立するのが原則で、
47都道府県庁所在地と
函館・旭川・釧路の各地方裁判所に対応して設けられているそうです。
地裁の名称変更の議論は出ているのでしょうか?
こちらは法務省の管轄なので、政治家の仕事ですかね?

(代言人組合)
明治時代、法整備が進む中
現在の弁護士にあたる“代言人”が登場します。
初期は資格制度が無かったので自由に名乗ることも営業することもできた職業でした。
この当時の代言人の評判はかなり酷いもので、「品位」のかけらも無いほど酷評されたケースも多かったようです。
1876年(明治9年)に「代言人規則」が制定され資格制度になりますが、
悪徳?代言人の評判は向上しませんでした。

創設当初の横浜裁判所

実は資格制度の前に横浜地域には約100人の代言人がいましたが、
(試験を受けるものが出なかったため)
資格試験に合格したのがわずか一名でした。
彼の名は植木綱二郎といって横浜の有資格代言人第一号です。
これでは法制度が成り立たず「無免許代言人」が共存する状態がしばらく続き評判も一向に上がらなかったという訳です。
1880年(明治13年)に法律で代言人組合の設立が義務づけられ
横浜にも「横浜代言人組合」が
この年の6月27日に成立します。
これが「横浜弁護士会」の始まりです。

横浜は「居留地」を抱える街でしたから、外国人との裁判も多く全国でもかなり切磋琢磨され優秀な“弁護士”が多く輩出する街でした。

No.472 横浜と法政大学、その点と線

マリアルス事件
No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立

ノルマントン号事件
No.29810月24日(水)法廷は横浜へ

No.29010月16日(火)文士の大家さんは法律家

Category: 中区 | LEAVE A COMMENT
9月 19

No.263 9月19日(水)都市型トライアスロンは横浜で

国際大会、世界選手権を日本(横浜)で
開催するにはいろいろあるんだろうな?
事情はよくわかりませんが、
トライアスロン世界選手権が2011年(平成23年)311の影響で延期になり、
2011年(平成23年)9月18日(日)と19日(祝・月)に
「2011トライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会」が
非公式大会ですが開催され、2012年(平成24年)の正式大会につながりました。

2013年トライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会は
5月11日・12日
2014年トライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会は
5月17日・18日
http://yokohamatriathlon.jp/wcs/

トライアスロンとは、
水泳・自転車ロードレース・長距離走の3種目を、この順番で連続して行う耐久競技のことで、1974年9月25日にアメリカで初めて世界大会が開催された比較的新しいスポーツです。
1989年に国際トライアスロン連合(ITU)が設立し、国際大会が制度化しました。
世界トライアスロン選手権は2008年まで、年一回の世界大会でワールドチャンピオンが決定していました。
2009年から、複数大会を行い成績に応じて与えられるポイントの合計で王者を決めるシリーズ制を導入します。原則として6大会の合計ポイント数上位の選手がグランドファイナルに出場でき、そこでの優勝者がワールドチャンピオンになります。
(2009年以降の大会)
2009年8月21日(金)〜23日(日)に横浜開港150周年記念事業の一環として「2009トライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会」が開催されることが決り2009年の開港開国Y150に華を添える大会となりました。
2010年は中国がファイナル大会国となり、2011年日本開催が決定しました。
残念ながら
2011年5月14日、15日に開催予定だった「2011トライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会」は、東日本大震災の影響で中止となります。
その後、ITU(国際トライアスロン連合)と調整の結果、2011年(平成23年)9月18日(日)、19日(祝・月)に横浜で特別開催することが決定します。
この大会はヨコハマ/ジャパン“ソリダリティ(連帯)”大会と位置づけられ、日本復興の契機となるような大会を目指し実施されます。
震災後、日本で行なわれた最大規模の国際競技大会となりスポーツ関係者はもちろん、多方面の関係者を勇気づけました。
http://www.youtube.com/watch?v=2EoxJ0_w0zM

■ITU世界トライアスロン選手権(ITU Triathlon World Championships)
トライアスロンの世界最高峰の大会のこと。国際トライアスロン連合が毎年開催している。1989年に初開催。2008年までは1大会で世界王者を決めていたが、2009年からは複数大会を行い成績に応じて与えられるポイントの合計で王者を決めるシリーズ制を導入した。原則として6大会の合計ポイント数上位の選手がグランドファイナルに進出できる。

■2012ITUトライアスロン世界選手権 開催日程
2011年
9月24日-25日Gijon スペイン
11月5日Henderson アメリカ
2012年
4月14日-15日Sydney オーストラリア
5月10日-12日San Diego アメリカ
5月26日-27日Madrid スペイン
6月23日-24日Kitzbühel  オーストリア
7月21日-22日Hamburg ドイツ
8月25日-26日Stockholm スエーデン
9月29日-30日Yokohama 日本
ITUワールドトライアスロングランドファイナル
10月20日-22日Auckland ニュージーランド

横浜大会の市街地を走るコースは、
世界の大会のなかでもまれに見る大会で注目されています。
■YOKOHAMA TRIATHLON
http://yokohamatriathlon.jp
ボランティ応援も様々な分野で行われました。例えば
前回、地元の昭和大学横浜市北部病院から、医師2名・看護師4名・研修医3名がメディカルスタッフとして参加しました。

2012年コース

2012年は29日・30日
29日(土)エリートの部
30日(日)エイジの部(オリンピックディスタンス・スプリントディスタンス)、リレーの部、パラトライアスロンの部
横浜市山下公園周辺特設会場(山下公園スタート・フィニッシュ)
http://yokohamatriathlon.jp/wcs/
http://yokohama.triathlon.org/jp/

■ITU世界選手権大会
http://www.jtu.or.jp

Category: 中区 | LEAVE A COMMENT
8月 7

No.220 8月7日 (火)Visit Yokohama MM

ホテルは街の魅力のバロメーターです。
素敵な街には良いホテル・旅館があります。横浜ホテル事情を観察すると、横浜の魅力度が見えてきます。
1997年(平成9年)8月7日の今日、みなとみらいに3番目のホテル「パン パシフィックホテル横浜」が開業しました。現在は「パン パシフィック横浜ベイホテル東急」と経営母体が変わり改称されています。

「パン パシフィックホテル横浜」は、クイーンズスクエア横浜の運営会社である横浜・シティマネジメントが“みなとみらいエリア”3番目のラグジュアリーホテルとして開業しました。東急電鉄グループが海外ホテル経営を行っていたパン パシフィックホテルズの日本進出(逆輸入)旗艦店として、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル、横浜ロイヤルパークホテル(当時横浜ロイヤルパークホテルニッコー)に次ぐ話題の進出となりました。
http://pphy.co.jp
2007年(平成19年)に創業時の横浜シティ・マネジメントから東急ホテルズ傘下の横浜ベイホテル東急ヘ経営権が譲渡され「パン パシフィック 横浜ベイホテル東急」と改称されました。

“パン パシ”のめざすラグジュアリーさは
“personalized care, because we genuinely care”の実現を目指し、全従業員(アソシエイツ)がお客様ひとりひとりに妥協なきおもてなしを施す姿勢から導き出されています。(少しCMっぽくなってしまいましたが)
1997年(平成9年)当時から、ホテルレストランの目玉として
地元横浜市出身の石鍋裕シェフがプロデュースする、『フランス料理 クイーン・アリス』がオープンするということで話題になりました。
また、中国料理は総料理長 脇屋友詞の「トゥーランドット游仙境」の開店という有名料理人のお店がホテルに進出する相乗効果を狙った展開がブームになりました。

みなとみらい地区が1989年以降開発されるに伴い、横浜観光の軸が明治大正時代が薫る山手、山下エリアと新しい都市空間としてのMMエリアが形成されることで横浜の魅力に幅がでてきました。当然、ホテル進出競争も起こり、みなとみらい周辺には90年代から次々とホテルが進出しします。

■ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル
1991年8月20日に開業。
http://www.interconti.co.jp/yokohama/index.html

■横浜ロイヤルパークホテル
1993年9月15日に開業。
http://www.yrph.com

ブリーズベイホテル(1990年9月)、ナビオス(1999年)、ワシントンホテル(2000年)に加え、新横浜にホテルアソシア新横浜(2008年)桜木町駅前にはニューオータニイン(2010年)が開業しましたが、

パークハイアット横浜、W Yokohama(共に2010年開業予定)の中止はリーマンショック以降の経済環境の激変とはいえ横浜ホテル市場にかげりを示す兆候とする関係者も多く、今後の横浜の“ビジット”能力が問われているでしょう。

(余談)
「パン パシ」ホテル正面玄関からのアプローチはわかりやすいのですが、クイーンズスクエア側からホテルに入る際、入口がわかりにくく開業当初一瞬迷いそうになりました。(その後ちょっと改善?されました)

【関連ブログ】
No.200 7月18日(水)無限の境界