6月 19

第825話【横浜の橋】No.15 北仲橋(大岡川河口)

横浜市内には本支流合わせて
一級河川が9河川、二級河川が24河川、準用河川が25河川、合計58の河川が存在する。
●一級河川 鶴見川
恩田川、梅田川、鴨居川、大熊川、鳥山川、砂田川、早渕川、矢上川
●二級河川 帷子川
中堀川、今井川、石崎川、新田間川、幸川、帷子川分水路
●二級河川大岡川
日野川、中村川、堀川、堀割川、大岡川分水路
●二級河川 境川
柏尾川、平戸永谷、阿久和川、いたち川、和泉川、宇田川、舞岡川、名瀬川
●二級河川 侍従川
●二級河川 宮川

鶴見川・帷子川・大岡川 等々それぞれに多くの橋が架かり、本流に限らず支流にも<川の名>が付いた橋が多くある。このことは
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8200
ここで横浜を代表する大岡川に<「大岡橋」「大岡川橋」が見当たらない>と簡単に紹介した。
再掲すると
一級河川鶴見川には 鶴見名が多い。
「鶴見大橋」「鶴見橋(国道)」・「臨港 鶴見川橋」・「鶴見川橋」
準用河川入江川には「入江橋(国道)」
準用河川滝ノ川には「滝の橋(国道)」
二級河川帷子川には「帷子橋」
二級河川境川には藤沢市鵠沼に「境橋」
派境川(柏尾川・和泉川・相沢川・いたち川 他 川の名の橋有り)
二級河川侍従川には「侍従橋」
二級河川宮川には「宮川橋」
あらためて 大岡川には「大岡(川)橋」が見当たらない。
「中村橋」は中村川になく堀割川にがあるのもたまたまだろうが 不思議だ。
結論を先に紹介すると大岡川河口橋梁図
「大岡橋」はかつてあったが、廃止されその残骸!?が汽車道にその一部が「港三号橋梁」として保全を兼ねて架かっている。lightスクリーンショット 2016-06-16 10.26.47

かつて架かっていた「大岡橋梁」は下記に懐かしい画像が残っている。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f7488/p27870.html
「昭和8年に架けられた鉄道橋で、旧生糸検査所引き込み線敷設の際に大岡川に架けられた。構造は3連のポニーワーレントラスだが、その内の1連は北海道のタ張川橋梁を、残りの2連は江戸川橋梁を補強して移設したものである。このトラス橋の銘板には1907年(明治40年)製作と記されており、英国製トラス橋として貴重である。」

「北仲橋」
北仲エリアの開発に伴い、2002年(平成14年)4月に全面開通した。みなとみらい地区(中央地区)と北仲通地区を結ぶ、上下線二連橋で、山側が1997年(平成9年)6月に、先に開通した。
現在は片道3車線、往復6車線の幹線道路となっている。lightP6141052 lightP6141067 lightP6141073 lightP6141079 lightP6141088 lightスクリーンショット 2016-06-16 10.06.11

6月 19

第824話1877年(明治10年)6月19日神奈川県史料語る

1877年(明治10年)6月19日
「神奈川県史料」に下記のような記述がありました。

light神奈川県史M106月19日
「第四十七 大半揚弓等稼業時間相定之事
同年(明治)十年六月十九日
大半揚弓及室内射撃銃を以稼業致候者従前時間に制限無之候処以来大半弓は日出より日没まて揚弓并射撃銃は午後十二時迄と稼業時間相定候条右渡世之者へ無洩可触示此旨相達候事」
揚弓:江戸時代に流行した遊びで、小さな弓で的を当てる<射的>
営業時間について規定を設けています。
<揚弓と射撃銃>は午後十二時までとするとなっています。実質この遊戯は風俗営業の一端で、
http://yokyuten.exblog.jp/6793966/
トラブルもあったようです。
また「射撃銃」は現在も懐かしい遊びとして復活している「射的」用の銃だったと思います。「射的」の歴史は調べていませんが江戸時代からあり、<遊戯用の銃>も明治に入り普及したようです。
「コルクを弾丸にして発射する空気銃またはスプリング式銃で的を射る遊戯。座敷鉄砲ともいわれる。室内射的用の銃は,普通後者が用いられる。的との距離は約 3mで,コルク弾が命中すると的の止め具がはずれて,分銅式に景品の玩具や人形が降りてくる。」

同じく同日付で
「第四十八 浴場男女混入を禁する事
明治十年六月十九日
第拾大区 正副長 同七小区正副戸長
本年五月二日本件丙第百三十号を以浴場へ男女混淆(こんこう)之儀云々但書共相達候処右は其区内布田駅に於ても同様相心得浴湯場男女分界取設之儀は来る八月十五日限り落成可為致其他他凡て最前相達候通り相心得該渡世之者へ無遺漏示諭可致此旨相達候事。」という達しが出されました。
第10大区7小区の正副区戸長に対し、布田駅にある浴場に、男女の分界を8月15日までに設けるよう達した。という内容です。
明治に入っても 風呂場は江戸時代から続く<混浴>習慣があり
新しいルールを徹底させるためにこういった<お達し>を出していました。
この江戸のおおらかな文化<男女混浴>に怒ったのが
ペリーでした。彼は「日本遠征記」で
「男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」
と記しています。
その後も 欧米列強の皆さんはこの「男女混浴」には大反対だったようで、明治政府は取り締まろうとしますが実質<体裁>だけで 徹底されるには時間がかかったようです。しかも下町や地方では混浴習慣が徹底されず 何回も、幕府から混浴禁止令を受けながらも復活するという<日本古来の風習?>かもしれません。

(神奈川県史料)
神奈川県が政府の命によって、明治元年から明治十七年までの間の出来事を編年で記述した史料です。この第一巻は主に行政資料となっていて
制度部
県庁・庁即・租法・職制・禄制・軍役 等々事細かに事件録のようになっています。
独特の文体なので読みにくいですが、面白い記述に出会うことがあります。

このブログでも時折活用しています。
明治元年から明治十七年 横浜を含め 日本が実生活の中で<近代>と出会った時期です。

まさに この神奈川県史料は カルチャーショックの記録ともいえるでしょう。
(過去の6月19日ネタ)
No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=437
1916年(大正5年)6月19日(月)の今日
歌人佐佐木信綱(44歳)は横浜三渓園に行き、
滞在していた詩人であり思想家のタゴールと面会しました。

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6月 18

第823話 1889年(明治22年)6月18日増田知

1889年(明治22年)6月18日の今日
初代横浜市長に増田知(ますだ さとし)が就任しました。
Wikipediaにもほとんど情報が無いし、さらっと参考情報位の扱いにしておこうかな?
と思いつつも調べ始めたら

<やめられない> <とまらない>そして<まとまらない>
ということで今日は初代横浜市長 増田知を紹介します。

「コピー70枚、本数冊、定期刊行物1冊」
「コピー70枚、本数冊、定期刊行物1冊」

1889年(明治22年)4月1日から日本全国で市政が始まり
順次大都市が<市>となっていきます。

1889年(明治22年)4月時点で全国31都市が市政導入。
人口規模の順でいくと
■大阪市 大阪府 人口476,271人
大阪府下4区を大阪市とし市制施行
市制特例により市長を置かず、大阪府知事が市長職務を行う。
■京都市 京都府 人口279,792人
上京区・下京区を京都市に。
市制特例により市長は置かず、市長職務は府知事が行う。
■神戸市 兵庫県 人口135,639人
神戸区が荒田・葺合両村を合併し神戸市となる。
■横浜市 神奈川県 人口121,985人
横浜区を横浜市に。
■金沢市 石川県 人口94,257人
金沢区534町を金沢市に。
■仙台市 宮城県 90,231
仙台区をは仙台市に。

人口第1位の東京市は特別で政府直轄行政都市の色合いが濃く
市政導入は1889年(明治22年)5月1日
他の<市政>より1ヶ月後に旧15区の区域が東京市となる。

※当時人口規模人口162,767人 第4位の名古屋市は遅れて
1889年(明治22年)10月1日に市政を導入。
横浜は上記のように4月1日「横浜区」から「横浜市」となります。1907488_1003471319696972_5670303358035532338_n 当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4平方kmと小さな市域でした。
市政導入で まず市議会議員選挙が行われます。
ところが この議員選挙とその後の<市長推薦>がオオモメにモメたことが資料から伝わってきました。

その当事者が初代横浜市長増田知(ますだ さとし)です。
当時の市長の任期は6年でまず市会が市長候補を3名推薦します。
これを県知事が受けて国に上奏。
内務大臣が市会の推薦した3名の候補者の中から<上奏裁可>を請い「選任」するという形式をとっていました。

※明治憲法下では天皇に官吏任命権(憲法第十条)があり、これを内務大臣が補弼したため、実質内務大臣が任命しました。しかも一応本命が示され、通常なら<本命>が なるのが ならなかった。

市会オオモメの元は、市制となる前に起こった「共有物事件」です。
初代横浜市長 増田知(ますだ さとし)を語るにはこのオオモメ騒動「共有物事件」を理解しないとできません。
横浜開港史上長らく「地主派」と「商人派」という横浜独特の地域を真っ二つに割る派閥が形成されていました。

※超簡単に「共有物事件」を説明すると、貿易商人たちが居留地時代から歩合金で作ってきた<地域の共有物>は誰のものか?
 市域を構成する町の代表グループ(地主派)と、貿易商グループ(商人派)が真っ向から対立し裁判にまで至った事件です。現在のように法整備が整っていない地方行政のスタートラインだったこともあり、解釈と思惑が入り乱れ横浜を真っ二つに割りました。

 裁判結果は「共有物のすべては横浜市の財産である」となりますが そのままで収まらないのが世の常。

近代民主主義の試行錯誤期ともいえるでしょう。

この横浜政界に四分五裂の抗争がはじまります。一部はそのなごりを引きずり<戦後まで>続いていきます。
なので ここでは「地主派」と「商人派」の闘争史はパスします。
シンプルに初代横浜市長の紹介だけにし、闘争史は別途じっくり行きます!
初代市長に推薦された3名は
茂木保平(商人派)
平沼専蔵(商人派)
増田 知(地主派)
ここで増田知は市会の本命ではありませんでした。

ところが、県知事、内務大臣の裁可の時点で地主派の「増田知」となります。
→この背景説明が一筋縄ではいかない。
(日本初の辞任)

市会の主流ではない初代横浜市長が就任したため、議会は紛糾、
就任して8ヶ月後
1890年(明治23年)2月15日には辞任するという事態に陥ります。

(増田知)
歴代市長の中で最も在任期間が短く、しかも日本で初めて辞職した市長が増田知です。

増田知のプロフィールを紹介しておきましょう。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/12_05.html
天保14年9月 下野国都賀郡壬生藩(栃木)士族の子として生まれます。
幕末の壬生藩は新政府側か徳川側か藩内は二分して大混乱の末、新政府側になるという事態の中、優秀だった増田は明治4年の廃藩置県まで権大参事(副知事)を担当します。
その後名古屋県、白川県、熊本県、神奈川県、群馬県、内務省と地方官僚を歴任します。
1886年(明治19年9月)に神奈川県役人から横浜区長と橘樹郡長を兼務します。
初の横浜議会の推薦を受けます。※ただし 上記の通り本命ではありませんでした。
1889年(明治22年)6月18日に初代横浜市長となり
1890年(明治23年)2月15日に議会混乱を受け辞任。
その後
富山県参事官、内務省、伏木測候所所長、南多摩郡役所郡長を歴任し明治44年3月6日に亡くなります。
生涯 地方官僚として生きた人物です。
市会多数派の意向と異なった派閥の初代市長は辞任に追い込まれます。
その後の歴代市長は、このような食い違いは起こらず、市会での決定が市長となるスタイルが戦後まで続きます。ただ、時を経るに従って中央とのパイプを重視する市長が推挙される<現実>を市会が学んでいったことも歴史の一断片といえるでしょう。

このような事態最近もある話です。

議会と首長 ねじれ自治体。そして一時期のねじれ国会といわれますが

<ねじれ>というと何かおかしい感じがします。
決しておかしい訳ではなくこれが民主主義ですよね。ねじれるから<一色>にしろ!というのは筋が違うのですが、政治主張になってしまう未熟な政治闘争ですね。
(過去の6月18日ブログ)
No.170 6月18日(月) 大荷物「リゾート21」の旅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=438
1986年(昭和61年)6月18日(水)の今日、東急田園都市線開通20周年記念イベントの一貫として「リゾート21」が横浜市内を走りました。

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6月 17

第822話1877年(明治10年)6月17日モース横浜へ

1877年(明治10年)6月17日の今日
「エドワード・シルベスター・モース(38歳)東京大学で動物学を教えるため来日、サンフランシスコから横浜港に着く。明治12年8月31日、アメリカに帰国する。」BBモース

この表記は正確ではありません。<東京大学で動物学を教えるため来日>ではなく最初は研究のためでした。
少しプライベートな話を。
小学生の頃、父と小旅行で電車に乗った時、車窓の風景を指さしながら、「あの丘は古墳かもしれないぞ。近くではわかりにくいがこうやって少し離れ電車のように動きながら探すと発見しやすい」と聞いて、ワクワクしながら景色をのぞき込んだ記憶があります。
父は学生時代 大山柏の下で、考古学者を目指していました。
この話を私は父のオリジナルと思っていましたが、社会人となった頃エドワード・モースを読み
元ネタがモースの逸話だったことを知った記憶があります。
エドワード・モースはアメリカの動物学者としてまだ外国人の行動が制限されていた日本を訪れます。2枚の殻を持つ腕足動物を研究対象にしていたモースは、アジアの腕足動物研究に<日本>を選びます。
1877年(明治10年)6月17日の今日、
横浜港に着き居留地で情報収集にあたりますが、まだ外国人の行動半径が制限されていたため、
19日東京の文部省にダビッド・モルレーを尋ねるために「横浜駅」から「新橋駅」まで汽車に乗ります。
※ダビッド・モルレー
下関賠償金返還を求めるロビー活動も行います。日本に教育制度の助言を行った教育学者。
モースは、新橋に向かう途中列車の窓からこの時「大森貝塚」を発見します。実際の発掘はこの年の10月からですが、横浜駅から列車に乗りしかも海側で無かったら大森貝塚の発見はもう少し遅れたかもしれません。
エドワード・モースの功績は 3度の来日で
当時日本人があまり関心を示さなかった陶器の収集(ボストン美術館)
そして民俗資料の収集(ピーボディ・エセックス博物館)を行ったことです。
http://pem.org/collections/9-asian_export_art

このモースコレクションから意外な発見をしました。
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378

(過去の6月17日ブログ)
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=439
横浜スポーツの百年に1876年(明治9年)6月17日(土)の今日
「北方の鉄砲場でスイス人の射的会開催」とあります。

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6月 16

第821話 1989年(平成元年)6月16日ドーム復元工事

1989年(平成元年)6月16日の今日
開港記念会館ドーム屋根の復元工事が完成した日です。ドームなし開港記念会館133開港記念会館
「横浜市開港記念会館(ジャックの塔)」は横浜三塔の一つです。
この横浜三塔は様々なシーンで取り上げていますので今日はジャックのドームに絞ります。
横浜市開港記念会館は
辰野式フリークラシックとよばれる様式で横浜の近代建築を代表するシンボルです。
竣工は1917年(大正6年)当時の名称は「開港記念横浜会館」
前身は「町会所」でその後「横浜貿易商組合会館」となり「横浜会館」に変更。
「横浜会館」は当時の商人たち(現在の横浜商工会議所)の<シンボル>でもありましたが明治39年に焼失してしまいます。
開港50周年をキッカケに再建計画が起こり大正3年9月に起工、同6年6月に竣工します。その後
関東大震災で大被害を受けほぼ焼失してしまい改めて再建計画が持ち上がります。
関係者は<復活・復元>を選びます。light20150609192226_001 1927年(昭和2年)震災復旧(復元)工事が竣工します。
理由は未確認ですが
この時、ドーム屋根は復元されないまま1980年代まで時が流れます。
1959年(昭和34年)に「横浜市開港記念会館」と名称を変更し、
ほとんどの人が<ドームのない>開港記念会館しか知らなくなってしまいました。
ところが
偶然、
1985年(昭和60年)横浜市内で創建時の設計図が発見されます。
当時の基本構造設計は福田重義、山田七五郎、佐藤四郎
施工が清水組(現在の清水建設)
この設計図を元に<市制100周年><横浜博覧会YES89>に合わせ
1989年(平成元年)6月16日の今日
竣工当時のドーム屋根等が復元されます。
「開港記念会館」は横浜市内に残る復活の象徴となりました。light_E開港記念会館
この年、国の重要文化財指定を受けます。
2001年(平成13年)に一部補修、さらに復元し再開館、現在に至ります。
No.375 1月9日(水)残した大正の財産
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=208

※実は初代「開港記念会館」建設に際し<小さな謎>を発見しました。
この謎に関しては別立てで中間報告します。
【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?(2015年6月16日アップ)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7575

その他の6月16日
1870年(明治3年)6月16日の今日
「英国公使パークス、外務大輔・寺島宗則、神奈川県知事・井関盛艮会談。「新規波戸場取設」を提案。(開港資料館)」
開港時から殆ど変わらない港湾施設では困る!と築港を促す要求が英国から神奈川県に出されます。

(過去の6月16日)
No.168 6月16日(土) 6月のカナチュウ(加筆修正版)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=441

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6月 15

第820話 1998年(平成10年)6月15日Yカード新設

ちょっとなつかしい姿から

マリンYカード
My collection マリンYカード

1998年(平成10年)6月15日
「地下鉄バス共通カード500円Yカード新設」(横浜市営交通八十年史)
廃止が2010年(平成22年)7月31日ですから12年の活躍、短かったのか長かったのか。
停止後、払い戻し期限は平成27年7月31日まででした!
そういえば交通系の磁気カードはいろいろ出ました。交通系磁気カード パスネット
オレンジカード
バス共通カード
マリンカード
Yカード
ファミリー環境一日乗車券※(現役)
一日乗車券※(現役)

(Yカード)
Yカードは「横浜市営地下鉄」と「横浜市営バス」のみで使用できるプリペイドカードです。
500円券と1,000円券と3,000円券がありました。

(マリンカード)
マリンカードも横浜市交通局が発行した磁気式のプリペイドカードです。
横浜市営地下鉄及び横浜市営バスを始め周辺地域の一部バス事業者で共通に使用できました。
※マリンカード及びYカードは、平成22年7月31日をもってすべてのサービスを終了
※払戻しは、平成27年7月31日で終了。
※バス共通カードの払戻も平成27年7月31日まで。

◎一日乗車券
最近は 一日乗車券を常備。市内全域の総てのバスルート(現在は市営バス)に乗る!ことに挑戦中、というほどがむしゃらではありませんが機会を見て、数回バスに乗る用事の時には この一日乗車券を駆使しています。

(過去の6月15日ブログから)
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=443
1960年(昭和35年)6月15日(水)、元町公園の一角に移築された
エリスマン邸の開館式が行われました。

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6月 15

第819話【横浜の橋】No.14 国際橋(横浜港)

横浜の橋シリーズNo.14
横浜港に架かる橋 国際橋
国際橋は 国際大通りの港湾部に架かる橋。

1980年代みなとみらい計画図(一部)
1980年代みなとみらい計画図(一部)

大岡川の河口域にあるが、河川撟ではない。西区と中区の区界に架かっている。新港埠頭とみなとみらいエリアを結ぶ湾岸の幹線道としてこのエリアの整備が始まった1994年(平成6年)に竣工した。
しばらく、東神奈川方面に続く道が未完成のため、行き止まりの道だった。
上下線分離型の桁橋である。lightP6140983
[橋長]78.833m
[幅員]12.6m
橋下には両岸に遊歩道があり、ジョギングや散歩道として活用されている。ここが完成したことで、帆船日本丸は外港に出ることが不可能になった。
銘板は「こくさいはし」「国際橋」のみで、竣工年等の掲示はなし。lightP6140979lightP6140987

次回から汽車道、そして大岡川に架かる橋を紹介していこう。

lightP6140942

6月 1

第818話【横浜2345】大横浜の時代 

今日は2016年6月1日です。
明日は「開港祭」ですね。だからというわけではありませんが
【横浜2345】シリーズ 「大横浜の時代」を紹介します。
開港記念日が7月から6月にが変わったということを知らない方も意外に多いのでは?
開港記念日は昭和3年から6月2日となりました。
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

この開港記念日を変える動議を提出した人物が当時の市長<有吉忠一>でした。彼は当時も大物市長と呼ばれた政財界に通じた辣腕行政マンだったそうです。
有吉市長は小さな<横浜>を<大横浜>に仕上げた立役者でした。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)

上記のブログに少し加筆します。
1927年(昭和2年)4月1日から
横浜市は3回目の市域拡張を行います。

「橘樹郡鶴見町」「旭村」「大綱村」「城郷村」「保土ヶ谷町」
「都筑郡西谷村」
「久良岐郡大岡村」「日下村」「屏風浦村」が
横浜市に編入されました。
この市域拡大は 第一回・二回と比べると大規模な市域拡大となります。実はこの<大横浜>計画は大正時代震災前に計画されていいました。
同時期 横浜に限らず
大東京・大大阪計画が推進されていました。
政治学者で歴史家でもある原武史は 民都「大阪」帝都「東京」と定義し
歴史学者 石井孝は「港都 横浜」と称しましたが
まさに<大都市構想>はこの三都によって推進されていきます。
大東京計画を強く推進した政治家が後藤新平(ごとう しんぺい 安政4年6月4日(1857年7月24日)〜1929年(昭和4年)4月13日)そして民間は横浜の基盤作りにも尽力した浅野総一郎(あさの そういちろう 1848年4月13日(嘉永元年3月10日)〜1930年(昭和5年)11月9日)でした。light2016年06月01日22時19分29秒 light2016年06月01日22時19分34秒 light2016年06月01日22時19分38秒
一方、私鉄網が全国で最も濃密に発展した大阪は 関一(せきはじめ1873年(明治6年)9月26日〜1935年(昭和10年)1月26日)が推進し、

<関 一>

民間は小林 一三(こばやし いちぞう1873年(明治6年)1月3日〜1957年(昭和32年)1月25日)です。
light20150120213709 light20150120214048 (1) light20150120214457 (1) light20150120214617 (1)※震災後日本最大都市となった大阪(市民)は<大大阪>とは自らあまり名乗らなかった?!

では大横浜を推進した政治家は前述の有吉忠一ですが民間は?
大正後期に商工会議所を率いた井坂孝(いさか たかし(明治2年12月8日)1870年〜1949年(昭和24年)6月19日)か、有吉を市長に担ぎ出した一人、中村房次郎(なかむらふさじろう)でしょう。
井坂孝は有吉と震災復興に尽力し「ホテルニューグランド」設立の中心的役割を果たしました。
横浜火災保険、横浜興信銀行(現横浜銀行)、東京瓦斯等の社長として活躍した「井坂孝」
横浜製糖、松尾鉱業(硫黄)、日本カーボン等の工業を推進した「中村房次郎」らの下支えで<大横浜計画>は進められましたが、震災復興予算の大削減や大東京(帝都)との開港問題で中々計画通りには推進できませんでした。light20150509200329 light20150515180650_001 light20150710122538 light絵葉書横浜大さん橋編201419011 (1) light資料絵葉書013 (1) 横浜市を振り返る中で、都市として最も輝いていた時代は?と考えると
復興を目指しながら大横浜を目指した1923年から戦争の始まる1940年頃ではないでしょうか。
■6月1日に関するブログ
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
1889年(明治22年)6月1日、25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。
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