10月 23

横浜年表ピックアップ【10月24日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

●1876年(明治9年)の今日
「外国人の競馬開催(11/1〜3)についての交通規制の広告が出される。」
どんな広告規制だったのか 見てみたいですね。当然、自動車規制ではありませんから、人?馬車?あたりだったのでしょう。
※記録では1860年(万延元年7月16日)9月1日に現在の元町ストリートあたりで競馬が行われた記録があります。
1876年(明治9年)は、横浜の乗馬クラブで内紛があり、団体が分裂した年ですから、開催側も少しナーバスになっていたのかもしれません。

●1916年(大正5年)の今日
「独亜銀行(Deutsch-Asiatische Bank)」横浜支店の営業が一部解除されます。
独亜銀行はドイツのアジア進出のために中国、上海に本店が創設された金融機関で、第一次世界大戦中連行国側であった日本はドイツ・オーストリアを中心とした同盟国側に対し経済制裁行いその一環として銀行業務の停止命令を出した後の緩和策の一つです。

●1922年(大正11年)の今日
石原純(41歳)横浜に行き、
県立第一中学校(現希望ケ丘高校)で開かれた、
五日会主催の相対性原理講話会で講演する。
アルベルト・アインシュタインが光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によってノーベル物理学賞を受賞したのが1921年(大正10年)
受賞によって世界にその名がとどろきました。
多くの物理学者が、彼の理論を理解しようと論文を読みあさった時代です。
※石原 純(いしわら あつし)は、アインシュタインらのもとで学んだ理論物理学者であると同時に『アララギ』の発刊に参加した歌人でもありました。
 しかし、「アララギ」を揺るがす恋愛問題で脱会しますが、
 “愛”を貫き通します。
戦争が終わった直後、自動車事故で重傷となりその後亡くなります。
 自由な時代の到来直前の死でした。

●1982年(昭和57年)の今日
堀割川・中村川・大岡川でカヌーフェスティバル開催。

現在は、新しい水辺をたのしみながら考える「水辺荘」が様々な横浜の水辺へいざなうプログラムを提供しています。
http://mizube.so

10月 21

横浜年表ピックアップ【10月21日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

今日は追跡してみたいテーマ満載です。
マーク付けてみました。
●1870年12月13日(明治3年)の今日
「森有礼(23歳)横浜に出張し、アメリカ公使館にデ・ロング公使を訪ねる。」
12月13日がなぜ10月21日の話題に?
西暦1870年12月13日、旧暦では?
明治3年閏10月21日にあたりますので、今日にいれました。
森有礼がわが国の初代駐米外交官です。任命され、横浜の米国公使館に挨拶に出向いた日が今日です。
まさに1870年11月(明治3年閏10月)に海外駐在外交官の制度を初めて制定しイギリス、アメリカ、フランス、プロシア(現在のドイツ)に各1名の外交官が派遣されることになります。その1人が森有礼です。役職は少弁務使(代理公使、charge d’affaires)でワシントンに2年間在勤します。

BB-E6-A3-AE-E6-9C-89-E7-A4-BC後に森有礼は、

外務大輔(がいむだゆう、現在の外務次官)や
英国公使などの要職を歴任しましたが、
1889年(明治22年)2月11日森は、文部大臣在任中に暗殺されてしまいます。
この日は、大日本帝国憲法が発布された日です。


●1875年(明治8年)の今日
「金子喜一が横浜の笹下に生まれる。」(ちょっと長文です)
横浜市港南区笹下に生まれた金子喜一は、ジャーナリスト、社会主義者として米国で活躍した人物です。一般の人物資料には1899年(明治32年)米国に渡ったあとの活動が中心に紹介されていますが、彼が米国に発つ前の金子喜一の活動も調べてみると興味ある活動をしています。
まず米国での活躍に関して
渡米してハーバード大にまなび、社会主義に傾倒し様々な社会運動を起こしました。米国から日本の「万朝報(よろずちょうほう)」や週刊「平民新聞」などに寄稿し、後には「シカゴ-ソーシャリスト-デーリー」の記者となりました。現地で妻となったジョセフィン・コンガーは米国のフェミニズム運動家として活動し
夫婦で発行した「The Socialist Woman」は米国社会運動史上の残る先駆的なフェミニズム運動誌として評価されています。
金子は体調を崩し、
1909年(明治42年)に療養のため帰国しますが10月8日に34歳の若さで死去。
では、渡米前の金子喜一に就いて超簡単に紹介しましょう。
1876年(明治9年)金子喜一は、横浜市港南区笹下に富裕でリベラルな名主の家に生まれました。
横浜神学校で英語を学び、徳富蘇峰の書生となって文学を学びます。
この時期に、神奈川県久良岐郡日下村出身の小原輿三郎(金子の弟子)の仲介で、樋口一葉と出会います。以後、亡くなるまで思想・文学の分野で影響を与え合うことになります。
1896年(明治29年)11月26日に「一葉女史を悼む」という記事を毎日新聞に残しています。樋口一葉が(11月23日)に亡くなった3日後のことです。
「今夏七月、余が笹下の草庵に厭きて再び都に上らんとし、端なく君を訪れし時、女 
史我を迎えていわく、君今より何処に住まわんとするか。いわく未だ決せざるなり。しからば本郷を選ばれよ、ねがわくは近く共に相語らんと。越えて八月、余が台町に居を移してより再び君を訪いしに、なんぞ図らん、君は既に病床に臥してありぬ」 
彼は一葉の葬儀に数少ない参列者の一人として参列しています。
この葬儀の時に、樋口と少し交流のあった実業家で日印協会創設に関わり第2次世界大戦終結まで協会専務理事として日印親善に貢献した副島八十六と出会い、
副島は日記に後日彼のもとを訪れた金子を
「八時半まで快談にふける。彼は一種の抱負を有するもの、将来永く交るに値せり。特に彼は一葉女史の眞の知己たり。女史を追憶するの情更に一層切なるを覚ゆ。」
と書き残しています。

1898年(明治31年)徳富の紹介で「埼玉経済新報」の主筆となります。
この年、日本で初めて社会主義研究会が組織され入会を勧められます。
(活動の中心には片山潜、幸徳秋水、安部磯雄らがいました)
1899年(明治32年)米国に旅立ちます。

●1890年(明治23年)の今日
「川上音二郎(26歳)横浜に行き、蔦座で開かれた政談演説会で、「田中子爵に九寸五分を呈す」を演説し、中止を命じられる。」
政治的公演で物議は常連の川上音二郎です。

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No.415 横濱的音楽世界

No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演

●1892年(明治25年)の今日
在留33年のヘボン博士夫妻が帰国しました。
帰国に先立ち10月15日には尾上町の指路教会で自らの人生を振返る講演会が開催されました。
その後、1909年(明治42年)の今日
尾上町の指路教会で「ヘボン博士来朝記念演説会」が開催され
植村正久(51歳)が「智者の夢」を講演
島田三郎も「ヘボン博士に就て」を講演しました。
※ある意味10月21日は横浜ヘボン記念日かもしれません。
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者

★★★ジェームス・カーティス・ヘップバーン
ヘボンことジェームス・カーティス・ヘップバーンは一度まとめてみたい横浜人脈のキーマンです。 

●1929年(昭和4年)の今日
「仮名文字会横浜支部第1回国字問題大講演会が開かれた」
→この記事、気になるんです。
 横浜に支部ができたという記事ですが
 この「仮名文字会」横浜に関係なく★★★★の話題です。

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●1950年(昭和25年)の今日
横浜国際港都建設法公布

●1963年(昭和38)の今日
「市長への手紙」用ハガキを市内全世帯に配付
現在
「 横浜市は「市長への手紙」や「インターネット市政提案箱」などの広聴のあり方を見直し、 市民に身近な区役所を窓口とする「市民からの提案」制度となっています。」

●1963年(昭和38)の今日
内防波堤の白灯台撤去
この「白灯台」ネタはもう少し追っかけてみたいネタです!
★★★
No.105 4月14日 白の悲劇

【写真館】山下公園白灯台


●1978年(昭和53)の今日
商工会議所100年記念式典・全国商工会議所議員大会が開催される(22日、全国郷土祭)。

●1987年(昭和62年)の今日
上海の横浜経済貿易事務所開設

10月 20

横浜年表ピックアップ【10月20日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

■トピックス
2013年(平成25年)の今日10月20日は、10月の第3日曜日にあたります。
10月第3日曜日は「新聞少年の日」「新聞配達の日」です。
この「新聞少年の日」は横浜ネタがあります。
No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!

ここで紹介した「日本大通」にある新聞少年の像、
「長ズボン」なんです。だからなんだ!!について追っかけてみました。


※新聞週間中の日曜日を「新聞配達の日・新聞少年の日」と定めています。「新聞少年の日 」は1960年代に新聞配達の主力を担った少年たちの労をねぎらい、激励するとともに、 広く一般の理解を求めるために1962年に設置されました。
http://www.pressnet.or.jp/about/shimbun_shukan/gyouji/

●1875年(明治8年)の今日
「塚原渋柿園(27歳)田口十内の「讒謗律の疑ひ」を掲載したかどにより、編集長として罰金百円、禁獄十カ月に処せられる。」
新聞紙条例(1875年明治8年6月発布)に違反で摘発されたのは
塚原渋柿園が「横浜毎日新聞」に勤めていた頃です。
1874年(明治7年)に入社とありますから、まあ入社一年目で言論弾圧にあった!ということでしょう。これで“ひよった”(死語?)訳ではないでしょうが、1878年(明治11年)「東京日日新聞」に移り、新聞小説家として活躍します。
一方投稿した「田口十内」こと田口卯吉は頑張って時の権力を批判し続けます。
No.250 9月6日(木)やはり官僚には向かなかった?

●1885年(明治18年)の今日
横浜とは直接関係ありませんがメートル法条約に加入。
尺貫法は戦後まで併用されました。

●1913年(大正3年)の今日
神奈川県横浜市鶴見、総持寺で大梵鐘鋳造式が行われる。

●1986年(昭和61年)の今日
みなとみらい21熱供給会社設立。

手前の白煙(水蒸気)を出している施設

(Wikiでは10月1日となっていますが創立総会と登記の差です)
この会社は、みなとみらい21中央地区のオフィスビル、商業施設、ホテル、コンベンションセンター、病院、マンションや地下鉄駅に熱供給事業を行う地域熱供給会社です。現在では日本有数の規模を誇る熱供給会社です。
http://www.mm21dhc.co.jp/index.html

●1938年(昭和13年)の今日
江ノ島電鉄株式会社、戦時統合により東京横浜電鉄(現東京急行電鉄)の傘下に一時期入りました。

●1944年(昭和19年)の今日
「綱島温泉駅」「綱島駅」に改称。
1926年(大正15年)2月14日「綱島温泉駅」として開業しました。
戦争が始まると同時に旅館業の廃業命令が出て、戦後復活するまで綱島温泉は休業状態になります。駅名の変更は“戦時命令”によるものでしょう。
戦後も東京近郊の温泉地「東京の奥座敷」として賑わいますが、
2008年3月15日宿泊施設として最後の温泉施設、
 横浜市教職員互助会「浜京」が閉店し現在では「東京園」を残すのみです。


※「綱島」の地名の由来は、川の中州や湿地に浮かぶ島から来ているそうです。

10月 19

横浜年表ピックアップ【10月19日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日は、軽いネタ中心でした。

●1876年(明治9年)の今日
横浜公園で西洋人156名によって
「鞠転がしの勝負」が行われた。
鞠転がし
※「日本へのサッカーの伝来は、1872年に神戸市の外国人居留地で行われた試合が最初という説と1866年横浜・山手でイギリス軍が行った試合が初という説がある。 1873年、東京築地の海軍兵学寮において、イギリス海軍少佐アーチボルド・ルシアス・ダグラスが紹介したのが最初とされる説がありはっきりしない。」(Wiki)
けれども、
「鞠転がしの勝負」がサッカーだと想像するなら、
横浜公園で、7から8チームが集まって、トーナメントか何かを行ったのではないか?
なんて考えるとロマンチックですね。

●1882年(明治15年)の今日
神奈川県少書記官「磯貝静蔵」が大書記官に任命されました。
幕末〜明治の職官制度は、年代わりのように変更されます。
 1868年(慶応4年)1月制定  (三職七科制)
 1868年(慶応4年)2月制定  (三職八局制)
 1868年(慶応4年)閏4月制定 (太政官制Ⅰ)
 1869年(明治2年)7月制定  (太政官制Ⅱ)
 1871年(明治4年)7月制定  (太政官制Ⅲ、廃藩置県後)
 1877年(明治10年)1月改定
 1885年(明治18年)12月制定 (内閣制度)
 1908年(明治41年)1月改定
 1910年(明治43年)3月改定
※県の大・小書記官は1877年(明治10年)1月改定で制度化し
 大書記官は奏任官第六等級職で現在の局長クラスですかね。
省庁は
大蔵省・陸軍省・海軍省・司法省・宮内省・外務省・工部省・文部省・内務省・開拓使
そして府と県が組織化されました。
ここに登場する 磯貝静蔵( いそがい せいぞう) 
嘉永年に美濃生まれ大垣藩士で幕末期に起った天狗党の乱の鎮圧担当として辣腕をふるい平定した人物。幕長戦争に参加し戊辰戦争に従軍しました。
新政府となり横浜の税関吏から神奈川県小書記官・大書記官を経て
台湾統治下で知事を務めました。
 1910年(明治43年)8月17日に61歳で死去。
彼は台湾で“鄭成功”に関する有名なエピソードを残しています。
関心のある方は調べてみてください。

●1906年(明治39年)の今日
「フェリス女学校の教職員生徒200名が江ノ島方面に遠足運動挙行。各地で注目される。」
※「遠足という言葉が一般に使用されるようになったのは、明治30年代後半」でフェリスの江ノ島遠足もこの時期にあたります。各地で注目されたのは
女学校だったからではないでしょうか。
制度行事として定着するのは
1924年(大正13年)11月3日の明治節に
「明治節を国民体育日と定める。諸学校とも記念行事を実施せよ。」と
文部省通達があります。これによって学校に運動会や野外授業、遠足などが盛んに行われるようになります。

●1943年(昭和18年)の今日
「阿久和町に原国民学校が創立された」
超マイナーですが、市内に約360の小学校がありますが、小学校沿革史の中で、国民学校令によって新設された小学校は三つしかありません。
矢向小学校
大道小学校
そして
原小学校です。
国民学校令は1941年(昭和16年)3月1日に公布され4月1日から従来の小学校が改組され国民学校が発足しました。
本来は、小学校の軍事体制下の管理強化が目的でしたが
地域のよって 新規に国民学校が創設された地域がありました。
原小学校
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/hara/
校章の由来
「富士山に希望を託して,その姿を原のシンボルマークとして形どったもの」

※市内小学校校章で富士山モードは、富士見小学校以外で原小学校くらい?
 あなたの母校の校章は覚えていますか?

校歌
http://www.youtube.com/watch?v=IkH1fQMj5-0

10月 18

横浜年表ピックアップ【10月18日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日からピックアップは簡単にして、
テーマによる横浜紹介を中心にシフト(し始めます)
これまで約600話(番外編等を含む)アップしてきました。
まだまだ紹介することは沢山ありますが、
そろそろ 新しい切口で よりテーマ性が必要と考え 来週から新機軸で
行こう!と昨夜唐突に決めました。

●1901年(明治34年)の今日
伊藤博文(60歳)
横浜港から加賀丸で出航しました。
日露協商の交渉のため、アメリカを経てヨーロッパに向かいます。
翌年の2月25日に長崎へ帰着します。
※1901年20世紀に入った頃の伊藤博文は、すでに時の人ではなく、かなり体力も気力も衰えていましたが、多くの外交の場に引き出されます。この日露交渉も12月2日にロシア外相と交渉に入りますが、最終的には決裂し日露戦争へと進みます。
伊藤博文はロシアとの協調政策を図る日露協商派でしたが、時の政府は英国との接近を選び日英同盟を結び、ロシアそして親露政権となった朝鮮をめぐり対立が深まります。 この伊藤の対露交渉は 大きな時代の節目にあたります。

●1916年(大正5年)の今日
YMCA会館の開館式が行われました。
まさに 10月18日は現在の横浜YMCAの誕生日です。

1884年(明治17年)10月18日に「横浜海岸教会」の青年たちが中心となって横浜YMCAが誕生しました。

●1926年(大正15年)の今日
新山下球場で「ワシントン大」対「オールハワイ」の
野球戦が開催され3対4で「オールハワイ」が勝ちました。
「新山下球場」というのは、関東大震災で倒壊した(横浜)公園球場に代り作られた球技場です。
1929年(昭和4年)に横浜公園球場が新装オープンするまで、多くの公式戦がここでおこなわれたそうです。

昭和初期の新山下エリア 球場らしき場所?わかりません。

●1933年(昭和8年)の今日
「6大都市特別市制促進協議会が東京会館でひらかれた」
 1922年(大正11年)に「六大都市行政監督ニ関スル法律」が公布されます。
 1932年(昭和7年)に「六大都市特別市制促進協議会」が設置され
 何回か会合がもたれたなかの一回が上記の会議です。
 6大都市とは、東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸です。

●1960年(昭和35年)の今日
 リヨン市で姉妹都市締結式が行われました。

●1960年(昭和35年)の今日
 横浜市民病院の開院式が行われました。

三ツ沢にある市立市民病院

●1970年(昭和45年)の今日
 地下鉄車両のデザインが新聞で発表されました。

10月 13

横浜年表ピックアップ【10月13日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

今日はこの日に因んだ
エドワード・モースと
平塚福太郎にスポットライトを当てます。

●1877年(明治10年)の今日
エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)博士が
横浜の日本亜細亜協会で「日本先住民の証跡」を講演しました。
この年1877年(明治10年)9月に西南戦争が終結しましたが史上最大の内乱に疲弊していた中での、学問への誘いは研究者にとって勇気づけとなったに違いありません。
モースは1877年(明治10年)6月、研究調査のために来日します。
横浜港に到着したモースは文部省に採集の了解を求めるため横浜から汽車に乗って「新橋駅」に向かう途中で汽車の窓から、
大森貝塚を発見したというエピソードは有名です。
モースの日本における功績は、貝塚発見、日本研究の他人類学・動物学という学問的分野の紹介だけではなく、
当時の“お雇い外国人”の刷新を行ったことです。
これまで高い賃金を払っていながら専門でない“お雇い”に代え
専門知識を持つ優秀な外国人教授の来日(招聘)に尽力します。
哲学の教授となったアーネスト・フェノロサはモースの尽力によるものです。

この日講演した「日本先住民の証跡」は
『大森村にて発見せし前世界古器物』から「昔の日本には、アイヌとは別の、食人する人種が住んでいた」と推論したテーマの一部をテーマにしたようです。
その後モースは
1878年(明治10年)に二度目の来日で、北海道を度々訪れ精力的に採集を行います。また
1882年(明治15年)に三度目の来日時にはモースのコレクションに刺激された日本美術研究家のビゲロー(William Sturgis Bigelow)も一緒に来日します。
彼はフェノロサ、ビゲローらと各地を訪れ、日本の(江戸以前)文化採集を行います。
集めた民具は800点余、陶器は2900点に上りました。その多くがボストン美術館に収蔵されています。

モースコレクションから小さな発見

●1912年(大正元年)の今日
横浜「本牧花屋敷」が開園します。
※他の資料では1911年(明治44年)もありますが恐らく1912年が正しいと推測します。理由は下記に。
「本牧花屋敷」は東京浅草の「花屋敷」にヒントを得て、当時の土木事業者「平塚組」経営者“平塚福太郎”が作った遊戯施設です。
園内には池や滝を設けて小さな動物園や水族館も併設
初夏には躑躅、秋には菊の花壇が多くの花で埋まり、
演芸の常設小屋もあり多くの人で賑わったそうです。
さらに1914年(大正3年)には海水浴場を併設します。
ここに遊園地を作るキッカケとなったのが
1911年(明治44年)12月
横浜電気鉄道(現在の横浜市電)の本牧線が西ノ橋と箕輪下(現本牧原)間が開通したことで
一気に本牧エリアの利便性が高まったことです。
この「本牧花屋敷」建設には近くにある「三渓園」の原富太郎も応援したそうです。
そもそも、原三渓は当時最先端の路面電車を本牧三之谷に引くことを強く望んでいました。しかし本牧に鉄道を通すには
山手の山にトンネルを掘らなければならないという難題が立ちはだかる状態でした。
この本牧隧道の工事を請負ったのが「平塚組」の平塚福太郎でした。

昔の名残はごく一部に残されています

一帯の整地工事も同時に行い、住宅販売ビジネスも同時に行います。東急や阪急が行う前にデベロッパーとして鉄道連動型地域開発ビジネスの先駆けとなります。
「本牧花屋敷」完成後、平塚福太郎は自宅を本牧に移ししばらく暮らしていたそうです。この時に引越してきた家族に息子の平塚武二(当時小学校2年)が居ました。
※平塚 武二(ひらつか たけじ)
 戦前の昭和、戦後初期の時代に活躍した児童文学作家です。
 鈴木三重吉に師事し、雑誌「赤い鳥」の編集に携わり『魔法のテーブル』『Q』などを発表します。
1942年(昭和17年)童話集『風と花びら』を発刊。
戦後は空想と風刺にあふれた「ウイザード博士」などの童話を発表するなど古典や神話、歴史に取材した作品に優れたものがあり、代表作は『馬ぬすびと』『ものがたり日本れきし』、最後の作品は1973年の「ヨコハマのサギ山」あかね書房刊です。
意外なところでは 
偕成社から出されている世界のどうわ12巻「イソップどうわ」
文が平塚武二 絵を熊田千佳慕が担当しています。横浜コンビの作品ですね。 
弟子には横浜の児童文学者 長崎源之助
横須賀出身で横浜の 佐藤さとる 
いぬいとみこ、神戸淳吉らがいます。

「見たことがありますか」 平塚武二
海をみたことがありますか。 
あります あります。
 松の木が風にごうごうと鳴っていました。 まつかさを拾いました。
耳にあてたら 波の音が聞こえました。
 ずっとむこうにレースのような波が見えました。
山を見たことがありますか。 
あります あります。
 汽車の窓から 大きな富士山が見えました。
富士山の歌をうたいました。 雪で真っ白な頂きでした。
 墨色の空でした。
川を見たことがありますか。
あります あります。 深い深い朝もやでした。
 葦の間に カイツブリが 浮いていました。
「ほうーい」とだれか呼んでいました。 
しばらくすると 川は朝日で いっぱいになりました。
(以下略)
大正時代、羽振りの良かった平塚組は、本牧花屋敷の経営が上手くいかなかったのか、それとも平塚武二が後継者とならなかったからかどうかわかりませんが会社は消滅したようです。
それでも 本牧花屋敷オープンで、地域が発展し三之谷商店街はこの頃に誕生したと新井恵美子「原三渓物語」に書かれています。


児童文学者の平塚武二は、戦後早々には磯子の間坂に居を構えていたそうですから、本牧を引き払ったのは戦前のことかもしれません。
実は 平塚家「平塚組」の名残が 今も三渓園近くに残っています。
本牧三之谷・桜道に ひと際目立つのが「亀の子石神社」

「大昔のこと、漁師の網にかかった大亀がそのまま石に化したのだと伝えられている。いつの頃からかこの亀の子石はのどを守る神、特に百日咳に効験ありとして信仰され、百日咳などを患うと、この神様からたわしを借りてのどをこすり、また小児の食した茶碗をこのたわしで洗うと不思議に咳が治るといわれている。三七の結願で治ると亀の子たわしを倍にして返礼する習わしがある。」(本牧三之谷町内会、横浜本牧観光協会) 
ここに古い小さな香台が残っていますが
ここに「平塚組」とあり、ここに寄進し氏子であったことが判ります。


(その他まとめて)
●1925年(大正14年)の今日
横浜市民としてはじめて飯田九一の「初秋」が帝展日本画に入選した。
●1936年(昭和11年)の今日
トーマス転炉の技術導入に関して日本鋼管とドイツデマグ社との契約成立
●1940年(昭和15年)の今日
横浜公園で大政翼賛三国結盟市民大会開催
●1949年(昭和24年)の今日
帝蚕倉庫に北仲通5丁目地先の埋立免許が下ります

●2000年(平成12年)の今日
横浜情報文化センター開館

 

10月 12

横浜年表ピックアップ【10月12日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

●1890年(明治23年)の今日
「イギリス人スペンサーが横浜公園内で軽気球にのつて自由飛行の技を演じた」
昨年の「暦で綴る今日の横浜」ブログで紹介しました。
No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で (加筆修正)

●1899年(明治32年)の今日
「尾崎三良(57歳)横浜港から日本郵船の「八幡丸」に乗り、神戸から京都に向かう。三条実万公四十年祭に列席する。過日の大風雨のため東海道線が不通になったことによる。」

尾崎三良に関しては
「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!

尾崎が向かった三条実万(さんじょう さねつむ)公四十年祭は幕末の公卿三条 実万の贈正一位に追陞[ついしょう]された式典に参列するために京都に向かいますが
(恐らく台風で)鉄道が不通になり、復旧が遅れたために海上ルートで関西に向かいます。

●1919年(大正8年)の今日
「河東碧梧桐(46歳)横浜に行き、神奈川台の田中屋で開かれた送別会に出席する。」
ミモーザを
 活けて一日
留守にした
ベットの白く
河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)は日本の俳人・随筆家で、伊予松山出身。正岡子規の友人で、秋山真之を敬愛していました。
従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句運動を起こし俳句界に一時代の足跡を残します。独特の書体で飯田九一文庫百人の一人にも選ばれています。

送別会の行われた「田中屋」は、幕末の開業で坂本龍馬の妻、おりょうが働いていたといわれていることで有名な料亭です。
http://www.tanakaya1863.co.jp

●1922年(大正11年)の今日
松尾邦之助(22歳)逓信省無給嘱託として
横浜港から諏訪丸で出航しフランスに向かいます。
二等船客で船賃は六百七十円だったそうです。
松尾邦之助(まつお くにのすけ)は新聞記者、評論家、翻訳家。
1922年(大正11年)からパリに暮らし、
1928年(昭和3年)に一時帰国しますが日本で結婚、妻を連れて再び渡仏します。
フランスでは藤田嗣治とも親交があり、彼らの支援も受け
出版活動や翻訳活動を行います。
1940年(昭和15年)の日米開戦前夜、
妻ひろが藤田嗣治・高野三三男らと帰国し
松尾邦之助は欧州に留まり敗戦後の1946年1月、引揚船で帰国します。
1958年(昭和34年)『レジオン・ドヌール勲章』を贈られます。

●1934年(昭和9年)の今日
「横浜合併を否認された日吉村で当局糾弾村民大会がひらかれた」
横浜市港北区日吉はもしかすると 川崎市中原区日吉になっていたかもしれません。
この微妙な“国取り合戦”を紹介します。
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発

●1948年(昭和23年)の今日
第1回県営戸塚競馬開催。
戸塚競馬場は1933年(昭和8年)吉田町の水田を埋め立てて開場します。
現在も柏尾川に架かる矢部町の駒立橋は競馬場に因んだ名前です。

No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史

●1977年(昭和52)の今日
横浜市はルーマニアのコンスタンツァ市と姉妹都市として1965年(昭和40年)7月1日に提携し、今日10月12日にさらに交流のはばを拡げる「友好姉妹都市」提携調印のためコンスタンツア市長が横浜市に来訪しました。

ルーマニア国旗


他の友好姉妹都市
※サンディエゴ(アメリカ合衆国)→1957年(昭和32年)10月29日提携
※リヨン(フランス共和国)→1959年(昭和34年)提携
※ムンバイ(インド)→1965年(昭和40年)6月26日提携
※オデッサ(ウクライナ)→1965年(昭和40年)7月1日提携→心配です。
※バンクーバー(カナダ)→1965年(昭和40年)7月1日提携
※マニラ(フィリピン共和国)→1965年(昭和40年)7月1日提携

交流に関心のある方は
横浜コンスタンツァ友好委員会
「横浜コンスタンツァ友好委員会事務局」 
住所: 〒233-0012
 横浜市港南区上永谷2-14-35 光里 友岐 方
電話: 045-843-3071
FAX: 045-843-3008
担当: 光里 友岐(委員長)

10月 11

横浜年表ピックアップ【10月11日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

●1879年(明治12年)の今日
「成島柳北(42歳)鎌倉を見物したのち、公田から大岡に出る近道をして五里を歩き、横浜停車場に着く。」
当然、全ての道程が“徒歩”です。昔の人は健脚でした。
成島 柳北 (なるしま りゅうほく)、幕末は幕府の将軍侍講、奥儒者で、明治維新後文学者、ジャーナリストとして活躍します。(姪孫に俳優の森繁久彌)

Wikipediaより

成島家は19世紀前半から幕府の『徳川実紀』『続徳川実紀』『後鑑』などを編纂する
家に生まれ、将軍家の学問を進講する将軍侍講の任に就きますが批判したために解職。
この頃から洋学を学び、維新後1872年(明治5年)欧米を巡ります。この時に岩倉具視、木戸孝允らと出会い、欧州では共済制度を学び帰国後、安田善次郎と共に日本最初の生命保険会社「共済五百名社」(現在の明治安田生命)を興します。
一方で、ジャーナリストとして1874年(明治7年)に『朝野新聞』を創刊し初代社長に就任します。



暦で語る今日の横浜【9月24日】

大隈重信が設立した早稲田大学の初代の議員となり「朝野新聞」社論でも大隈重信の改進党に近い言論を展開します。
前米大統領のグラント訪日の際には接遇委員を勤めました。

No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)

No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)

ところが、次第にジャーナリズムに関心を失い、文学や風流に傾倒していきます。
彼の代表作?『柳橋(りゅうきょう)新誌』はその名前の通り色街「柳橋」のエッセイとガイドブックを一緒にしたような作品です。
遊郭街の繁盛ぶりを紹介しながら、そこに絡む人々の人情を描きました。

今日紹介した成島柳北、横浜道行の一行は
彼が浜松からの帰途に箱根塔之沢の玉の湯、湯本の福住(萬翠楼)に泊まり、小田原から東海道を上ります。藤沢で昼食後東海道を離れ江の島に行き、江戸時代からの老舗、伊能忠敬も利用した旅館夷屋吉右衛門に泊まります。
※割烹旅館「惠比壽屋」藤沢市江の島1-4-16に現在も営業しています。
そして10月11日の今日、鎌倉を見物したのちに公田から(上)大岡に出る近道を五里歩き、横浜停車場に着く徒歩旅行を終えます。

●1918年(大正7年)の今日
小説家「田村俊子」34歳
朝日新聞記者“鈴木悦”の後を追い横浜港から「メキシコ丸」で出航しカナダに向かいます。その後18年間アメリカ、カナダバンクーバーで暮らしますが、“鈴木悦”が亡くなり1936年(昭和11年)3月31日18年ぶりに帰国します。
官能的な退廃美の世界を描き、自由奔放な生活を私小説にした作品が多い。
日本敗戦直前に上海で脳溢血により客死します。

●1973年(昭和48年)の今日
商工会議所百年史によると
「新相鉄ビル」に横浜高島屋の増設店舗が開店した とありました。
正確には
新相鉄ビルと高島屋ビルからなる「相鉄ジョイナス」の
横浜高島屋部分”が完成し開店しました。
ジョイナス部分”は遅れて
1978年(昭和53年)5月に全館リニューアルして開店しました。
屋上にはジョイナスの森彫刻公園、
4階には吹き抜け「市民の憩いの広場」があり当時としては斬新な試みでしたが、途中で店舗となり“先人”の努力が消えていってしまったのは実に悲しい限りです。
※現在横浜駅ビル改築でどうなるのか?
 期待したいところです。


ジョイナスの森彫刻公園は
1986年(昭和61年)に横浜市「まちなみ景観賞」
1991年(平成3年)には写真による屋上利用コンクール最優秀賞「建設省住宅局長賞」を受賞。

http://www.sotetsu-joinus.com

No.265 9月21日(金)ぺんぺん草の後に

No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史

10月 10

横浜年表ピックアップ【10月10日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

※10月10日は銭湯の日です。
 横浜にもまだまだ頑張っている!人気の!銭湯が多くあります。
横浜で最も有名な?銭湯愛好家の集まりが
「横浜銭湯めぐりの会」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sento-meguri/sento.htm
横浜市浴場協同組合
http://www.1126.jp/home.htm

個人的には、1990年代に24軒銭湯はしごしたのがピークで、2000年代には数軒しか利用していませんが、中々良いもんです。

●1877年(明治10年)の今日
「西南の役が平定したので総督有栖川宮・参軍海軍大将河村純義・参軍海軍少将伊藤祐麿が軍艦「丁卯」「春日」「清輝」の3隻にのり東海鎮守府へ凱旋した」
東海鎮守府はまず1876年(明治9年)横浜に仮設され1884年(明治17年)には横須賀に移転しました。
暦で語る今日の横浜【9月28日】

でも紹介しましたが、横浜市内の西南の役に関係する石碑に時々出会います。
日本の最大級にして最後の“内乱”です。
まだまだ不明確なところも多く資料発見が期待されます。

●1894年(明治27年)の今日
川上音二郎(30歳)横浜の港座で、21日まで「日清戦争」を興行する。以来しばしば港座で興行する。
→港座は湊座のことでしょう。

煙を出す建物の隣が湊座(港座)で、横浜公園に隣接していたようです。

No.208 7月26日 (木)ザ・みなとの劇場

No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演

No.397 横浜「座・樓・亭」探し

No.415 横濱的音楽世界

●1896年(明治29)の今日
「実業家若尾幾造(68)が没した彼は山梨の人で1859年横浜にうつり生糸売込業をいとなんだ。世人から水晶大尽とも呼ばれた」
横浜には開港と同時に、近郊から商人がビジネスチャンスを求めて集まってきます。江戸商人は幕府の関係があったためか堅実さを求める人が多かったようですが、他県からの商人達はかなり手荒い商売をした人たちも多かったようです。
山梨県出身の「甲州商人」、群馬県出身の「上州商人」は絹・生糸関係で多く横浜を目指しました。

No.465 三島と横浜、その縁を探る

No.302 10月28日(日)全ての道は横浜に

No13 1月13日(金) 幕府新規事業に求人広告


●1923年(大正12年)の今日
「馬車道〜日本橋間復旧開通」横浜市営交通八十年史
え?日本橋、と最初驚きましたが、横浜にも「日本橋」の地名と市電の駅がありました。今は名残もありません。

震災前
震災後

※震災で市電の走る道が変わっているのが判ります。

●1954年(昭和29)の今日
「野毛山で紙芝居屋さんの運動会開催。」
手元に資料はありませんが、調べてみたいテーマですね。
“紙芝居屋さんの運動会”とは 果たしてどんな内容だったのでしょうか?
「戦後の街頭紙芝居は1946年(昭和21年)ごろから人気上昇し、GHQ占領時代に最盛期を迎える。しかしその内容が「低劣、俗悪」であり子どもによくないという世論を受けて、自治体が条例や認定制を設け、また業界が自主規制を行ううちに紙芝居はその自由奔放さと輝きを失っていき、その後は1953年(昭和28年)に放送開始した街頭テレビなどにも押されて衰えていった。」(Wiki)
ということですから、この運動会が行われたのが ピーク時の頃であったようです。“自主規制”の一環として 同業者の親睦を兼ねて運動会が開かれたのではないでしょうか。

●1964年(昭和39)の今日
第18回オリンピック東京大会が開催されましたね。



No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

神奈川県下では
サッカー(三ツ沢蹴球場 他)
ヨット(藤沢 江の島)
バレーボール(横浜文化体育館 他)
カヌー(相模湖)が競技会場として使われました(〜24)。

10月 8

横浜年表ピックアップ【10月8日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

●1878年(明治11年)の今日
居留地、西波止場沖でボートレースが開催されました。
  西波止場沖は かつてグランドホテル他 多くのホテルや
  フランス(租界)人居留地があり、外国人のイベントが数多く
  開催されました。
  1886年(明治19年)にも西波止場沖でヨットレース開催されて
  いる記事が出ています。恐らく頻繁に行われていたのでしょう。

  No.226 8月13日(月)西波止場の2勝1敗

●1903年(明治36年)の今日
 合名会社明治屋設立(代表社員米井源治郎)。
 1885年(明治18年)創業者磯野計が横浜万代町で船舶納入業を開始します。これが明治屋の創業にあたります。そして法人化(合名会社)し、二代目社長に米井源治郎が就き、明治屋中興の祖となります。
 1911年(明治44年)4月22日株式会社に改組します。
 この日に因んで
 No.113 4月22日 甘辛両党おまかせ!

●1966年(昭和41年)の今日
 野毛山公園遊園地、金のかかる遊戯施設を廃し、子供の遊び場や草木中心の公園としてリニューアル開園します。

●2005年(平成17年)の今日
引退を表明していたハマの大魔神こと佐々木主浩の引退セレモニーが本拠地である横浜スタジアム で行われました。
選手交代で佐々木主浩が告げられると、今日も勝ちを確信しました。

No.300 10月26日(金) 優勝、日本一

No.95 4月4日 横浜DeNAベイスターズの本拠地「ハマスタ」開幕

ベイスターズ優勝は多くの幸運と勢いが重なり実現しました。
1998年(平成10年)9月19日には、
横浜ベイスターズの優勝を祈願する目的で、
横浜駅東口の地下街・ポルタに「ハマの大魔神社」が設置されました。

祀られたのは「ハマの大魔神」で、多くのファンが訪れました。
この神社は佐々木主浩選手が最も得意としたフォークボールの握りをかたどったご神体が祭られ優勝決定後もしばらくは設置され、1999年(平成11年)の1月17日に撤去されました。この間、約1,660万円のお賽銭が集まり、全額横浜市社会福祉協議会 に寄付されたそうです。
佐々木主浩選手は1989年(平成元年)ドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ )に入団します。
1998年(平成10年)に優勝した後、オフにFA宣言。
メジャーリーグのシアトル・マリナーズ に移籍します。
アメリカンリーグ新人王に輝き
メジャーリーグでも抑え投手として活躍します。
2001年と2002年の2年連続MLBオールスターゲーム登板という快挙を成し遂げ、好成績を収めますが、2003年に故障者リスト入りして以来不振に陥ります。
シーズン終了後、もう1年間残っていたマリナーズとの契約を破棄して退団し、日本に帰国しベイスターズに復帰します。
2004年度、前半は好調な成績を残しますが
8月に入り3試合連続して救援に失敗し2軍落ちとなります。
8月7日に現役引退を表明し、
10月8日(対ヤクルト戦)に行われる予定だった引退試合には佐々木自身が辞退し、セレモニーのみが行われ挨拶で「生涯野球人であることを誓います」と語りました。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=iFdL9twD0ww
http://www.youtube.com/watch?v=xC4zFFy7tBI