水辺の風景」カテゴリーアーカイブ

【横浜風景】護岸・誤岸?

別にあら探しをしている訳ではありませんが、

変な風景に出会ったので 紹介?します。
場所探しは思わぬ方向へ。
lig_遠景888この段差は何?
これが今日の【横浜風景】です。
横浜駅西口から鶴屋町方面にいく時に渡る「鶴屋橋」があります。この橋は西口界隈では歴史が古く戦前、このあたりが沼地だったころから橋が架かっています。
lig_鶴屋橋あたりlig_鶴屋橋昭和さて写真に戻ります。
この鶴屋橋のたもとにこの段差があります。
川幅がここで変わっている訳ですが、どうも工事中のまま放置されているって感じしませんか?
lig_近景89鉄筋出ていますよね?

土木事務所に聞けば済む話ですが、これでわざわざ担当者の労を願うのも気が引けたので、勝手に想像しました。
横浜駅西口界隈は、戦前は沼地で戦後しばらく“砂利置き場”でした。
現在の賑わいを想像することもできません。
おそらく 河口川からの工事と沼地埋め立て(ダイアモンド地下街)工事の都合が合わなかったのでしょう。
No.395 水中地下街

1964年(昭和39年)12月1日に西口の地下街が誕生します。
この工事には、西口全体の運河計画(新田間川)を進め
護岸工事しなければなりません。
この時、海につながるルートには
「Y市の橋」があります。
No.379 1月13日(日)Y市の橋

この鶴屋橋の架かる水路は一見濁った川ですが、
上流はどこか? お分かりですか?
遡ってみると?

(帷子川分水路)
lig_帷子川下流域46
相鉄線の西谷近くにこの川の分岐点があります。
lig_P7170046.jpg lig_P7170050.jpg 「帷子川分水路」です。
この「帷子川分水路」はかつて暴れ川だった帷子川の水害を和らげる役割を担った大切な運河です。
lig_分水路図
No.433 帷子川物語(1)

「帷子川分水路」は、そのほとんどが地下トンネルでできているので川の流れを目にすることはありません。分岐点と河口しか見えないのです。
帷子川は、昭和時代までかなりの暴れ川で、氾濫を繰り返しています。
この「帷子川分水路」のおかげで天王町以降の下流災害がかなり軽減されました。
「ベイクウォーター」を利用されるかた!
lig_P8021152_20140122092923290.jpg

「鶴屋橋」を渡る方!
<良い店があります>
感謝して渡りましょう。

【横浜側面史】 観艦式

戦前、横浜で開催された大規模の式典が多くあります。

■製茶共進会・生糸繭共進会(1879年(明治12年))
■開港50周年記念式典(1909年(明治42年))
■神奈川県横浜市勧業共進会(1913年(大正2年))
■震災復興記念横濱大博覧会(1935年(昭和10))
この他、
特に横浜で多く開催されたのが海軍「観艦式」です。
今日はこの横浜沖「観艦式」を少しレビューしてみます。

観艦式930373
<昭和3年観艦式記念絵葉書  合成写真っぽい>
「観艦式」は明治に始まり現在も行われていますが、戦前は軍拡競争の中で国の威信をかけた式典として盛大に行われました。
「観艦式」
戦前、明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
その半数九回が横浜沖で実施されました。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術

ここでは1940年(昭和15年)10月11日(金)に開かれた帝国海軍、最後で最大の「観艦式」について簡単に紹介しました。

そもそも「観艦式」というのは1341年に英国で始まったデモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために出撃の際観閲したことに始まります。
余談ですが、
礼砲の作法も英国のプロトコルが世界標準になっています。発射数を最大21発として19発・17発・15発〜と奇数回その地位によって数が決まっています。
No.231 8月18日 (土)give a twenty‐one gun salute.

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

「No.285 10月11日(木)武装セル芸術」の回での紹介を含め
今回「観艦式」を再度紹介するに至ったのは
なぜ 「観艦式」の半分を横浜で行ったのだろうか?
という素朴な疑問があったからです。
おそらく 横浜港沖で行った理由は
「帝都東京」と「東海鎮守府」である海軍中枢基地「横須賀」に近いこと。
そして
横浜港の持つ構造の良さだろうと推測できます。
→後半で別途紹介します

全18回の「観艦式」の内訳は
横浜沖で9回
神戸沖で6回
横須賀沖で2回
1回(初回のみ)大阪天保山沖
で行われました。

観艦式44288d

<式次第>                  kawakita collections

観艦式41384

観艦式928357

kawakita collections

最初に横浜沖で実施された「観艦式」は
1905年(明治38年)10月23日<日本海海戦勝利凱旋観艦式>と呼ばれ、
日露戦争の勝利を祝う目的も兼ねていました。
第五回目にあたるこの「観艦式」は、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将が総司令官として式典に臨み国民の関心もかなり高いものでした。
観艦式図 <当時の観艦式 配列図>
この第五回目以降、観艦式は拡大を続けます。
明治期観艦式の見物人に関する資料は手元にありませんが、
1928年(昭和3年)御大礼特別観艦式(昭和天皇即位式)として実施された横浜沖での観艦式は天候にも恵まれ
鶴見岸から本牧まで、多数の見学者が水際を埋め尽くしその数は100万人を越えていたそうです。
この観艦式には米国『重巡洋艦ピッツバーグ』、英国『重巡洋艦ケント』『重巡洋艦サフォーク』『重巡洋艦ベルウィック』、仏国『装甲巡洋艦ジュール・ミシュレ』、伊国『リビア』、オランダ『ジャワ』と各国の特務艦計11隻の外国艦船も参加しています。

(劇場としての横浜港一帯)
横浜港一帯が最高の一大劇場と化していたことになります。
横浜港の持つ円形劇場、
横浜港から鶴見川崎にかけての、岸辺・丘からの眺め
現在のように工場や高層ビルの無い時代に、少し小高い丘に登れば横浜沖の東京湾が一望できたロケーションは、海上デモンストレーションには最高です。
多くの国民・関係者にプレゼンスできる「横浜港一帯」だったのです。

観艦式444384

kawakita collections

以前 このブログで 帝都東京と 港都横浜の都市間競争を紹介しましたが、帝都東京が力と権力も有しながら中々開港できなかった背景は、省庁間・地元経済界の猛反対に加え、多くの市民の支持と
「港都横浜」としての“劇場性”もあったからではないでしょうか。

70年代に私が初めて横浜港周辺を散策し始めた頃、
まだまだ海辺は近づくことが難しかった時代でした。
「KEEP OUT」の文字も多かった気がします。
横浜港の水際が自由で快適な空間になりはじめたのは つい最近のことです。
戦前以上に港都横浜の魅力を楽しめるようになった?今
“平和会議場”もあることですし
みなとのみらいから積極的平和を発信できる都市に成長していって欲しいものです。

観艦式一覧
1868年 (明治元年3月26日) 大阪天保山沖 4月18日
1890年 (明治23年)4月18日 神戸沖。
1900年 (明治33年)4月30日 神戸沖。
1903年 (明治36年)4月10日 神戸沖。
1905年 (明治38年)10月23日 横浜沖 日露戦争終結
1908年 (明治41年)11月18日 神戸沖。
1912年 (大正元年)11月12日 横浜沖。
1913年 (大正2年)11月10日 横須賀沖。
1915年 (大正4年)12月4日 横浜沖。
1916年 (大正5年)10月25日 横浜沖。
1919年 (大正8年)7月29日 横須賀沖。
1919年 (大正8年)10月28日 横浜沖。
1927年 (昭和2年)10月30日 横浜沖。
1928年 (昭和3年)12月4日 横浜沖 【御大典記念】
1930年 (昭和5年)10月26日 神戸沖。
1933年 (昭和8年)8月25日 横浜沖。
1936年 (昭和11年)10月29日 神戸沖。
1940年 (昭和15年)10月11日 横浜沖。
【日本海軍最後の観艦式】紀元二千六百年特別観艦式

(余談)
観艦式資料を探していたら
観艦式準備資料の中からこんな図面・文書を発見しました。
観艦式509317
観艦式4397e3 以前横浜水上署見学の際
ここで西波止場という言葉が使われていました。何気なく聞き流していましたが
lig_sanbasi 戦前からこのあたりを
「西波止場」と呼び続けていたんですね。

【絵葉書の風景】人の居る風景4

戦前の大量絵葉書を“量売り”で購入した中には、様々な風景があります。その中から、テーマで選んだ絵葉書を紹介します。今回は「日傘」です。

近年、日傘が復活してきたようですが、戦前は夏に「日傘」をさすあたりまえの光景があったようです。といっても当時の日傘はかなりの高級品でした。
日傘をさす姿は、時代のステイタスだったのかもしれませんね。

light_絵葉書横浜風景編001

男性は帽子、女性は日傘。大正から昭和初期によく見られた光景です。上記の絵葉書は戦前繁華街として賑わった「伊勢佐木」の光景です。

light_20140713210154_002

「色香ただよう」と題して、川岸に傘をもった二人の女性が登場しています。light_20140713210236_001 light_20140713210242_001 light_20140713210244

なかなかモダンな「洋傘」をさしています。和服に「洋傘」は似合いますね。light_20140713210252_001 light_20140713215247 light_芦原温泉069_026

【ハマmemo】横浜の五大苦

1978年(昭和53年)飛鳥田市政(1963年〜)から細郷市政(〜1990年)に変わった折
細郷市長は、
横浜市が経験してきた試練を五大苦というキーワードで表現しました。

1923年(大正12年)9月の関東大震災、
1929年(昭和4年)に始まった世界恐慌、
1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲前後の戦災、
1945年(昭和20年)8月16日終戦から始まった米軍の接収時代、
そして
1955年(昭和30年)頃から始まった 高度経済成長下の人口急増
light_横浜中心部被災

<無からの飛翔力>
選択には一部異論もありますが、一つの横浜を捉えるヒントとしてこの5つの試練から横浜を見つめてみます。輝かしい過去や、先進性の気風に横浜の姿を重ねがちですが、横浜の横浜たる根底には「無からの飛翔力」があるのではないかと私は考えています。
都市の姿としてこの「横浜」を俯瞰した時、
実際 この「横浜」には“輝かしい時代の”僅かな痕跡しか残っていません。
実際開港時の香りは“街区”の形状しかありません。
<運河の町「横浜」>の痕跡も無くなってしまいました。これらの喪失、その大きな要因が「関東大震災」と「横浜大空襲」です。
物理的に失ったこの街の面影に代わる<よこはま>はなにか?
横浜人はかろうじて点在する名残から現在の「よこはま・YOKOHAMA」らしさを追い求めてきたのではないでしょうか。

light_絵葉書横浜大さん橋編201419009<埋立ての街>
この意味で 最大の横浜喪失の要因は
1923年(大正12年)9月の関東大震災でした。
都市機能を失い「港都」横浜の地位を揺るがした大災害だったのです。
この震災復興のシンボルが「山下公園」であり、「野毛山」一帯の整備されてきた公園空間でした。中でも<山下公園整備>によって大正の横浜が終わったともいえるでしょう。
→もう少し 災害の記憶をこの公園に残しても良いのでは?と私は感じています。

三菱造船所から「みなとみらい21地区」へと代わることで横浜の昭和が終わり平成が始まります。
まさに「みなとみらい21地区」は平成の横浜を代表するイメージとなりました。

かつて横浜開港場周辺を表現するキーワードとして「運河の街」がぴったりでした。そしてもう一つ横浜が「埋立ての街」です。海岸線の変化で、横浜の変化を捉えることが可能です。

江戸時代の新田開発から始まり、幕末の緊急造成、そして明治・大正の港湾作りのための埋立て。昭和にかけての工業化にシフトしはじめた京浜地帯の埋立て。
そのさなか関東大震災で喪失した街の再生を願い「山下公園」が誕生し
戦後根岸・磯子、そして金沢の埋立てが行われました。
平成の<みなとみらい>と<新本牧>が現在の横浜をある意味象徴しています。
この間、埋立てにより誕生した<横浜駅周辺>が横浜の交通の要衝となっていきました。

「米軍の接収時代」
横浜における米軍接収面積は1604万平米でした。
全国の接収面積の約62%で日本最大の接収規模でした。
(注:沖縄は全土米軍に占領され日本から切り離されていました。日本ではなかったのです。)
1952年(昭和27年)に日米間で「日米行政協定」が結ばれ、ようやく接収解除が始まるはずだったのですが朝鮮戦争により<軍事拠点>として在日米軍施設の役割が増大し、地域によっては接収地域が増えるという状況にありました。

「高度経済成長」
横浜にとって「高度経済成長」がなぜ「苦難」の一つになったのでしょうか?
接収時代に横浜中心部の多くを接収された横浜は
行政機能や基幹施設の移転を余儀なくされ、決してフル回転できる状況ではありませんでした。
ここに、高度経済成長による都市人口集中が起こります。
<横浜>は首都圏の事業所に勤務する従業員とその家族の“ベッドタウン”として夜間人口が急増していきます。
そこには当然、住宅政策、都市基盤整備が急務になっていきます。電気水道ガス等のインフラは勿論、学校や交通網の整備が待った無しの状況に置かれました。当時の学校関係者は「とにかく学校整備が追いつかない。一日を二部制にしたり、プレハブの臨時教室を整備を突貫でしたね」と語っています。

※高度経済成長は実質二波ありました。
wikipediaでは
「日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までの19年間である。一部文献では、高度経済成長第一期(設備投資主導型)が1954年(昭和29年)12月から1961年(昭和36年)12月まで、高度経済成長転型期(転換期)が1962年(昭和37年)1月から1965年(昭和40年)10月まで、高度経済成長第二期(輸出・財政主導型)が1965年(昭和40年)11月から1973年(昭和48年)11月までとされる。」

横浜市の人口は、単純計算で年に十数万人の人口増が十年以上続く事態になります。
(つづく)

【ハガキの風景】人の居る風景3

横浜の光景が描かれている絵葉書から人々が写っているものを紹介します。
まずは子供のいる風景から紹介しましょう。
外国の版元が作成した横浜の日常風景をハガキにしたものです。キャプションには日本の子供達とフランス語で表記されています。Cliche P.H. という署名らしきものがあります。これ以上の来歴は調査していません。
ここに写されている子供達は12名、大人の姿が見えません。明確に男の子と判るのが2名、女の子が5名、残りは幼子のようです。

lig_横浜絵葉書再編01_41次に紹介するのが ある写真館の子供達三人の集合写真です。
この絵葉書の“表”も合わせてご覧ください。

lig_横浜絵葉書再編01_43lig_横浜絵葉書再編01_44横浜絵葉書では有名な「トンボヤ」製のものです。全国的にも有名だった「トンボヤ」は全てが横浜の絵葉書ではなく他の地域絵葉書も製造していたようです。この写真館の絵葉書はどうのようなシチュエーションだったのでしょうか?
想像の領域でしかありませんが、三人の物語を想い描いてみましょう。「トンボヤ」御用達の写真館で撮影された子供達は三兄弟に見えないことも無い?長男が左で次男が右端、中央で椅子に座っているのが末っ子の三男坊ではどうでしょうか。
さらに想像を膨らませ、中央の三男坊の誕生日に三人の記念写真を撮った!
“表面”からこの絵葉書は大正7年以前に発行されたことが判ります。
彼らは明治後期から大正初期に生まれ、激動の大正昭和を生きたことになります。
lig_横浜絵葉書再編01_47 lig_横浜絵葉書再編01_45横浜の原風景、川遊びの風景です。場所は「お三の宮」あたりのようです。

今日一番の一枚。
lig_横浜絵葉書再編01_85鉄桟橋に子供達が見学の“遠足”にでも来ているのでしょうか、教師らしき人が数名、男子生徒と女子児童がグループを作っています。
中に二つ傘が見えるのは誰が使っているのか?興味が湧きます。
場所は横浜の鉄桟橋であることはほぼ間違いないと推論できますが、撮影の時期特定が難しいところです。ヒントは桟橋の欄干が有りません。
1894年(明治27年)に鉄桟橋が完成し
1913年(大正2年)に第二期工事が完成します。
この映像はこの頃のものではないか?と推理していますが、傍証未確認です。
子供達の風景が“絵葉書”になるのは戦前の限られた時期だけのようです。

【ハガキの風景】人の居る風景1

昔の雑多な絵葉書の中から、魅惑的な一枚を探し出す楽しみに耽った時期がありました。単価にしたら10円から30円程度でしょうか、値段のつかないモノクロハガキの束の中から少し汚れや痛みが目立つ中一枚一枚を見ているとそれまで見えなかった風景がそこに登場します。

今日は「人の居る風景」というテーマで発見した中から何枚か紹介しましょう。
特に水辺の側、海水浴場と海辺、そして子供の風景をピックアップしてみました。勿論、横浜に関係があるものもありますよ。
(かなり気取っているような)
まず南紀白浜、千畳敷の観光絵葉書です。

lig_絵葉書水辺の人々037戦前の発行ですが、中々“格好つけている”と思いませんか?
モデルらしき男性が麒麟麦酒と三ツ矢サイダーを置いて構図を作っています。

三ツ矢サイダーといえば、
「三ツ矢サイダーの起源は、明治時代に宮内省が、兵庫県多田村平野(現在の川西市平野3-23-1)の平野鉱泉を用いて炭酸水の御料工場を建てたことに始まる。その後、工場は三菱に払い下げられ、明治屋が権利を得て、1884年(明治17年)に「三ツ矢平野水」(みつやひらのすい)として販売した。」(Wikipedia)
とあります。横浜と関係するではないか。キリンはもちろん横浜生まれですが、現在アサヒビールが販売する三ツ矢は、横浜の明治屋が育てたことになる訳です。
無理無理は承知?!。
というのも、その後、三ツ矢サイダーは帝国鉱泉株式会社→日本麦酒鉱泉株式会社→大日本麦酒株式会社→朝日麦酒株式会社に。

一時期「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」なんて命名していた時代もあったそうです。現在はアサヒ飲料株式会社が販売しています。
逆に歴史を遡ると外国人居留地でイギリス人ノース・アンドレーが製造販売したのが最初の国産サイダーであるとか?王冠を用いることによって本格的に流通したサイダーの元祖は、1899年(明治32年)、横浜扇町の秋元己之助が興した「金線サイダー」であるとか、サイダーには“横浜”の香りがしますね。
※ちなみに、ここで使われている椅子は“トーネット”でしょうか。
明治大正期は輸入家具主流の時代でした。横浜・神戸のような開港場の街を除くと国産の洋家具が作られるようになるにはもう少し時間が必要だったようです。

lig_絵葉書水辺の人々001 lig_絵葉書水辺の人々003 lig_絵葉書水辺の人々005 lig_絵葉書水辺の人々007 lig_絵葉書水辺の人々009 lig_絵葉書水辺の人々011 lig_絵葉書水辺の人々013 lig_絵葉書水辺の人々015 lig_絵葉書水辺の人々017戦前の海水浴の光景を絵葉書にしたものです。釣りや地引き網も入っていますが、概ね海辺の風景です。

lig_絵葉書水辺の人々021 lig_絵葉書水辺の人々023 lig_絵葉書水辺の人々025 lig_絵葉書水辺の人々027 lig_絵葉書水辺の人々029 lig_絵葉書水辺の人々031 lig_絵葉書水辺の人々033

lig_絵葉書水辺の人々071

lig_絵葉書水辺の人々057

【横浜の河川】帷子川物語(3)河口めぐり

(帷子川)

帷子川河口付近は都市に埋もれた街です。

lig_P3150013

lig_東口河口付近2014-04-13 19.29.40

横浜駅東西のビル群に囲まれ、かつて袖ヶ浦と呼ばれた入江が小舟で賑わった面影など微塵もありません。しかも幾度となく繰り返された埋立てで、入江は分断されどこが河口か判らない程、人口の水路に成り果ててしまいました。

それでも、分水路の石崎川や新田間川あたりでは川岸の風情を少し残しています。
この帷子川(かたびらかわ)、
江戸時代は河口や河岸端を利用した舟運の拠点が多くあり、上流からの物流の中継地として栄えました。東海道が入江に沿って通り、神奈川湊 鶴見川河口と並んで重要な交易口でした。

lig_埋立て前イメージ

(帷子川VS大岡川)
横浜には大きく四つの水系があります。一級河川の鶴見川水系。
帷子川水系・大岡川水系・境川水系の三つが二級河川です。この二級河川の中で境川水系は河口が藤沢市、上流が町田市ですが、純横浜産の川?となれば「帷子川」「大岡川」、水源地も河口も市内の二級河川です。
川のスケールを測る基準として「延長距離」と「流域面積」がありますが、この尺度に従うと帷子川・大岡川を比較した場合、帷子川の方が大きい。
「延長距離」と「流域面積」共に帷子川に軍配が上がります。その割に地味な帷子川、桜木町駅脇を流れる大岡川河口の風情と、横浜駅脇を流れる帷子川風情を比べると大岡川の方が“川らしい”と感じてしまうところに「帷子川」の寂しさがあります。
大岡川は開港と共に歩んできたましが、帷子川が注目されるようになったのは昭和に入ってからです。
明治時代に入り、横浜港を強化する“築港計画”が考えられたとき、開港場開発は大岡川と中村川・堀川を挟む関外と関内が中心地になりました。
当時の築港計画を考えたパーマーは、ここに帷子川の整備計画も視野に入れていました。横浜港を良港として維持していくには、帷子川から流れ込む土砂の処理が重要な課題と考えていたからです。

lig_明治と新田埋立てを重ねる lig_帷子川河口防水堤
(導水堤)
パーマーは、帷子川の流れを迂回させるために導水堤を作り、横浜港を囲むように防波堤を置くことで、吃水の変化をできるだけ減らそうと考えました。
この時の導水堤が現在も帷子川河口付近で確認するすることができます。

  • ※導水堤とは、河川からの土砂の堆積を防ぎ流路及び流速を一定に保つため、川の合流点や河口付近に築かれた堤防のことである。

築港時に導水堤を作ることは決して珍しいことではありませんが、この横浜港導水堤作りでは、石やじゃりに代えて麻袋詰めにしたコンクリートブロックの「袋詰コンクリート」が使われました。「袋詰コンクリート」による導水堤作りは日本初でかなり珍しい事例だったそうです。
この横浜港導水堤は現在「高島水際線公園」となって整備されています。殆ど訪れる人も無く、静かな場所になっていますが明治期の横浜築港史を物語る重要な土木遺産です。

lig_P6040134といっても地味すぎる!

現在の「みなとみらい」エッジに位置する場所にいち早く「導水堤」を造営したことにエールを贈ります。
※現在さらに奥の河口付近を整備するために工事も始まっています。
※JR貨物の隠れトンネルの出入り口です。

【帷子川河口の物語】

これまで 帷子川 河口付近は幾つか紹介してきましたので
ここでまとめてリンク先を紹介します。
●天王町界隈
以前山田太一さんの作品の冒頭に天王町付近が使われたブログを書きました。
ふぞろいの隣人たち
この天王町付近は、江戸時代から名所?で、版画にも紹介されています。
→今後のテーマ「江戸時代の天王町界隈」
●Y市の橋
松本竣介の代表作の一つ「Y市の橋」は、横浜駅東口が舞台になっています。
1月13日(日)y市の橋/

□横浜駅東西の物語
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史

□そごう出店と出遅れた三越

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争

No.269 9月25日(火)河口に架かる橋

No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる

No.265 9月21日(金)ぺんぺん草の後に

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

【ミニミニよこはま】No.1 入海から新田へ

そもそもこのブログスタートのキッカケは
断片的にしか知らない横浜をもう少し知ってみたい、という自分自身の動機から始まりました。
現在600話を超えたこともあり再度原点に戻って
簡単な横浜を知る【いろはのい】を折々に紹介していきます。

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(関内の誕生)
関内とは“関所の内側”という意味です。
「かんない」という地名、住居表示はありません。
※市県庁のあるエリアとしては珍しい?
開港によって、外国人居留地が作られそこに関所が設けられました。
現在のイセザキショッピングモールの入口あたりです。
急激に変化する「関内」ですが、
関内も、その外側に拡がる関外(大岡川と中村川に囲まれたエリア)も開港以前には沼地から新田干拓で作られたものです。
→関内=居留地の誕生は次回に

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(開港前)
開港場ができ上がる前のこのエリアについて簡単に紹介しましょう。
開港前の横浜中心部は幾つかの集落と、田畑、神社のある深い入江に囲まれた村でした。
深い入江(入海)では、小舟による漁が行われ、
入江に突き出ている象の鼻ような(後の関内エリア)に小さな集落が点在し、
外海では帆の付いた比較的大きな舟が航行していました。

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この横浜村は
江戸時代の主要街道であった“東海道”とは少し離れていましたが、「洲乾の湊」という小さな港からこの地域の中心となった湊「神奈川」や、対岸と小舟を使った交流・交易が行われていました。
陸路は主に「保土ケ谷宿」と繋がりがありました。
下記の図は、江戸後期の横浜村、神奈川宿周辺を描いたものです。

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「吉田新田」がすでに完成しています。
神奈川湊の前に拡がる入江が大きく描かれています。

(吉田新田)
この深い「入海」を干拓しようとチャレンジした人物がいます。
江戸の材木商、吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)です。
彼が、周辺の村民の賛同を得て1656年に幕府から許可を受け始めます。
埋立工事は、失敗を繰返しますが、十年後の1667年に完成させます。

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吉田勘兵衛がこの「入海」を干拓する決意をした理由は
この<入海>が浅瀬だったことです。
漁場の役割が終わり、新田開発の方が地域にとってメリットが出てきたからでしょう。
「吉田新田」が登場することで、このエリア一帯が一気に活性化します。

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ペリーが訪れる頃、干拓された吉田新田は集落や田畑ができるようになり、横浜村、野毛村、大田村と共に生活圏が形成され始めていました。
※ここまでの中で、
 現在の関内エリアと大きく地形が異なっているところがあることにお気づきですか?
次回は、このあたりから紹介していきます。

No.435 【横浜の河川】大岡川物語(1)

大岡川、横浜開港史を語るには欠かせない川です。
多くのエピソードが満載です。
熱狂的なファンの多い「大岡川」を今日は断片的ですが
紹介しましょう。

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横浜市内を流れる河川水系は大きく4つに分けることが出来ます。
1.鶴見川水系(一級河川)
 市内唯一の一級河川です。→鶴見川については
 4月に紹介します。
 No.370 1月4日(金)鶴見川 輪下り絶景
 
2.帷子川水系(二級河川)源流は旭区若葉台近辺から
 No.433 帷子川物語(1)
 
 No.434 帷子川物語(2)
 
3.大岡川水系(二級河川)源流は磯子区氷取沢町円海山近辺
 今日の主人公です。
4.境川水系 (二級河川)源流は町田市相原町近辺
 横浜市境を流れ、支流の柏尾川は戸塚の歴史と共に歩んできました。
 →境川も4月中に紹介します。左馬神社もありますから…。
(大岡川は不思議な川です)
下図をご覧下さい。

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大岡川水路模式図を作ってみました。
シンメトリー(左右対称)でしかも
分水路が同じような位置にあるって
見事ですね。
ということで
この川沿いに自転車で走破してみました。

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途中、笹下川から分水路沿いに山越えがキツかったですが
概ね川筋は勾配もゆったりとしていて最高です。
川沿いの道も(とぎれとぎれですが)整備されています。

走行時期にもよりますが
上大岡あたりから水量が一気に減少します。
分水路の効果が出ているのでしょう。
大岡川に架かる橋、ざくっと数えてみました。

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アバウト100、小さな支流を入れると140位あります。
このツーリングで橋物語も面白いなと思いました。
歴史的に価値のある橋も架かっています。
※浦舟水道橋

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1893年に西之橋として仮設された日本最古のピン結合プラットトラス橋です。
横浜市認定歴史的建造物にも選定された価値ある近代産業資産です。

(分水路)
大岡川には分水路が上流と下流に合わせて二つあります。
下流の堀割川は歴史ある分水路です。

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流域全長は2.7kmあり、
明治初期に吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫が家運をかけて挑み完成させたものです。
「1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募った。吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行った。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定された」(Wikipedia)

堀割川の役割は、説明にもありますが、
・水運用の水路確保→本牧鼻迂回
・吉田新田埋立用土砂確保→埋地七ケ町へ
という二つの目的がありました。
磯子、岡村エリアの人々にとって
開港場と磯子の地域を船で結ぶことが悲願でした。
陸路では山越え
海路では 波の荒い本牧沖を回らなくてはならず
内水路が必要でした。
(車の無い時代、水運が最も大量の荷物を早く運ぶことができました)
本来なら、公共事業として 国なり県が行う事業ですが、
この「堀割川」プロジェクトは
「神奈川県知事・井関盛良が堀割の埋立工事を自費負担で行う者が
あれば許可するから申し出るようにと布達します。
長者町に暮らす九代目・吉田勘兵衛が志願し予算は23万5000円、米国人から借金して計画します。(『磯子の史話』より)」
関連資料を見る限り、どうやら「吉田家」は無理してこの事業に参入せざるを得なかったようです。
堀割川造成計画は、山を切り崩し 水路も同時に作りつつ埋立を行ってしまおう
という壮大な計画でした。

(最後は借金の高利子と災害による工事遅延のためと借用金の高騰した利払いで吉田家は破綻寸前となり国の支援でなんとか完成にこぎつけます)
 

一方上流の<大岡川分水路>は
1981年(昭和56年)に大岡川の洪水を防ぐために作られた人工河川です。
延長は3.64kmあり磯子湾に繋がっています。

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日野川と笹下川、二つの川から水位が上昇すると自然に分流される構造になっています。

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改めて見学!というほどでもありませんが
河川工事の凄さを実感できる構造を観ることができます。

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第896話【横浜の河川】大岡川物語(2)

第896話【横浜の河川】大岡川物語(2)