10月 9

No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

1917年(大正6年)10月9日の今日、
創業期の三菱財閥の核となった三菱合資会社造船部の一切を引き継いだ(初代)三菱造船株式会社が設立されました。
この三菱造船株式会社はまだ長崎に拠点を持っていましたが、
東への拠点づくりの第一歩となりました。

blogP8160554


(三菱財閥の誕生)
簡単に「三菱」の歴史をレビューします。
“三菱”は戦前三大財閥の一つです。
土佐(高知県)出身の創始者、岩崎弥太郎と弟の岩崎弥之助(二代目)から四代の岩崎家によって築かれました。

blog-E7-A4-BE-E5-8F-B2-E6-9C-AC04
三菱社史

「三菱重工」の社史を読む中である特徴に気がつきました。
代が変わる毎に社名が変わっていきます。

E4-B8-89-E8-8F-B1-E5-A4-89-E9-81-B79-0.37.17
社史をもとに自作のためもしかしたら違っているかも

※三菱前史(1870年 明治3年九十九商会→1872年 明治5年三川商会)
初代(彌太郎)→三菱商会に改組し初代社長に就任
二代(彌之助)→就任の翌年に三菱社に改組
   日本郵船の誕生
三代(久彌)→就任時に三菱合資会社に改組
持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出します。

E4-B8-89-E8-8F-B1-E5-A4-89-E9-81-B79-0.37.51

四代(小彌太)→就任の翌年1917年(大正6年)10月9日に三菱造船株式会社を独立させます。
この三菱造船株式会社の独立こそが、後の「三菱重工業」1934年(昭和9年)につながります。

(横浜と三菱)
“三菱”は三井・住友と同様に西日本(長崎・大阪)を中心に拡大した財閥ですが、明治中期日本全国の貿易額の七割が横浜で取引されていました。三大財閥は「三井の番頭政治」「三菱の独裁政治」「住友の法治主義」とは言われていましたが、横浜を巡って仁義なきビジネスに火花を散らしました。中でも三井の渋沢、益田と三菱の岩崎の競争は横浜を舞台に様々な形で繰り広げられました。
 三菱が先手を握ります。横浜で日本郵船を(創業)独立させ、海運市場を席巻します。三井商船も巻き返しを図りますが、両社ともにネックを抱えていました。
横浜港には本格的な船舶修理・造船を行うドックがありませんでした。三菱は1875年(明治8年)に上海の造船業者ボイド商会と共同で横浜に三菱製鉄所を設立し船舶の小修繕にあたっていました。4年後には買収し三菱傘下の修理工場を運営しますが本格的ドックの必要性に迫られていました。そこで、日本郵船が核になり、地元経済界に有志を募り1891年(明治24年)に横浜船渠会社を内田町に設立します。

blogYokohama_Dock_Company_from_aircraft_before_1935
blogscan014


三菱はこの年の前年1890年(明治23年)3月に
丸の内の兵営跡と三崎町の練兵場併せて約10万坪を購入。
これが現在の丸の内三菱界隈の基礎となります。
 ※東京駅1914年(大正3年)竣工

tokyostation3

(三菱造船 横浜製作所の誕生)
横浜船渠会社から横浜船渠株式会社となり
1897年(明治30年)に2号ドックが完成します。

BBP8122971

これが現在のドッグヤードガーデンです。

blog120716n0149

追って1899年(明治32年)には現在日本丸が係留されている1号ドックが完成します。
三菱が丸の内に本社を構え、
横浜の港を確保し、
長崎から横浜に、
大阪から東京に比重をシフトした瞬間です。

blogckt-77-E6-A8-AA-E6-B5-9C-E9-80-A0-E8-88-B9-E6-89-80

そして、財閥として事業拡大の中、
この横浜船渠株式会社は、1935年(昭和10年)三菱重工業に吸収され、
三菱重工業株式会社横浜船渠となります。

 

ここから氷川丸 、秩父丸(鎌倉丸)他数々の船が誕生しますがその多くが戦争で失われます。
奇跡的に「氷川丸」が残り、現在も山下公園先で、輝ける航路の記憶を伝えています。

blogP8160563
みなとみらいにある三菱重工ビル

(その他の三菱と横浜)
なんといっても、「麒麟麦酒株式会社」でしょう。
三代目岩崎久彌社長肝いりのビール会社です。
このキリンビールと共に横浜から大きくなった食品商社が「明治屋」です。
2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

No.113 4月22日 甘辛両党おまかせ!

(番外編)
三菱マークの由来

blog-E4-B8-89-E8-8F-B1-E3-83-9E-E3-83-BC-E3-82-AF

(余談の余談)

横浜線大口に本社工場がある三菱鉛筆は「三菱重工G」とは全く関係がありません。

スリーダイヤ・マークを使ったのは三菱鉛筆の方が先です。

8月 10

No.223 8月10日 (金)奇跡の釘

1875年(明治8年)8月10日(火)の夕暮れ、ところは静岡県福島村。
近づく台風の様子を見に来た村人が沖を眺めた時、そこに見た事のない船が座礁している姿がありました。
かろうじて錨で流されないように帆をたたみ風に舞う帆船は明らかに異国の船でした。
しかも船上に人影が見え、この報を聞いた村は大騒ぎになりました。「黒船がここにも現れた!」
これが「ジェイムズペイトン号事件」のはじまりです。

座礁したジェイムズペイトン号を発見したのは福島村の責任者(戸長)の山田斧治郎とその長男の菊次郎、そして砂浜にいた村人の林蔵と治作の4人でした。
最初、単に異国の船が近づいているとした思わなかった彼らはすぐに様子がおかしい事に気がつきます。その船は遭難していたのです。
ここから、翌日にかけて村を挙げての救出劇が始まります。

(ジェイムズペイトン号)
1855年(安政2年)にイギリスのグラスゴーで建造されたジェイムズペイトン号は、三本のマストを持つ当時としては最速の貨物用帆船でした。積載量380トン 、全長135フィート(約41.14m) ロイド船級協会※1による船級はA1の格付けを持つスマートな船体で速度の早いクリッパータイプで、当時アメリカに遅れて始まったオーストラリアのゴールドラッシュ(1851年)で賑わうメルボルンを中心に運行していました。
※1 1760年に設立されたロイド船級協会は、大航海時代以降高まる遠洋貿易の船舶リスクを下げるために商人(荷主)や海上保険の会社らが第三者機関として設立した組織です。

大英帝国マップ

まさに世界に君臨するBritish Empire(イギリス帝国)の時代です。特にオセアニア、東アジアはイギリス一色に塗りつぶされつつありました。
高性能だったジェイムズペイトン号は、メルボルンだけでなく南米チリや香港、台湾、インドなどの諸外国を往復し様々な荷物と人も運んでいました。

ペイトン号の活躍した都市と国

日本が開国した、1873年(明治6年)ころから時々日本にも寄港するようになり、まさに世界を走り廻っていました。この時は座礁する二日前の1875年(明治8年)8月8日(日)ケヤキの角材56トンとバラスト143トンなどを積んで横浜から長崎へ出航します。船長とその妻、航海士3人、船員8人、コック1人、ボーイ1人の合計15人が乗っていました。
村民は、台風の余波で荒れた波に揺れる船と浜を一本の太い綱によって結び、船長以下、全員を奇跡的に救出することができました。

この事件の顛末は、イギリスやオーストラリアの新聞で、「thegreatest kindness(最大の親切)」「the great humanity(大いなる人道主義)」と賞賛されます。横浜で発行されていた8月14日(土)付けのJapan weekly mailにも速報の形で掲載されます。

救助した村民は勿論、駆けつけた役人も英語が話せませんでした。そこにたまたま見物に来た青年が英語を話せるということで通訳を買って出ます。彼の名は林幹造(1853年〜1928年)で静岡銀行の元になる西遠銀行を設立した人物です。英国政府は当時の領事パークスが異例の早さで対応し、直ちに日本政府に謝意を伝えます。
その後、関係者には英国政府から感謝の意として現金と記念品が贈られ現在も焼失を除き大切に保管されてます。
当時としては大変珍しいことだったようです。

救助の詳細は浜松市のHPにありますのでぜひ読んでください。
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/ward/minamiku/chiikiryoku/jp/index.htm

(その後)
かろうじて座礁した船から一部荷物や装備品を回収することが出来ましたが、船体はしばらくして沈没してしまいます。
回収された機器や船体の銅板は(浜松で)米国の保険代理店によって競売にかけられます。落札したのが、武州横浜万代町(横浜市中区万代町)の村上喜代治らと林文吉でした。落札金額は1,540円、現在の価値にして1,540万円の高額だったそうです。彼らは釘屋で、当時の横浜の洋館建設ラッシュに銅板や鉄骨材は必需品でした。奇跡の救助と言う「ご祝儀もの」という付加価値もあったかもしれません。英国人の多かった当時の関内、山手には、ペイトン号の材料を使った洋館造りが当時ブームになったかもしれません。

(余談)
「ジェイムズペイトン号事件」のあった静岡県浜松市の福島海岸からJR浜松駅に向かう途中、JR東海浜松駅から南西に約1キロのところに地元でも有名な洋菓子工場があります。「横浜フランセ浜松工場」です。主に焼き菓子を中心に製造していますが、「横濱マドレーヌ」はフランセの人気商品の一つです。
http://www.francais.co.jp

7月 20

No.202 7月20日 (金) 港をヨットが舞った日

今日は元「海の日」です。
1941年(昭和16年)7月20日(日)
「海の日」の起源となった「海の記念日」が制定され、横浜でヨット大会が開催されました。

blog_7202675
ヨットレース(直接記事とは関係がありません)

(海の日誕生)
海の日、その起源は横浜が舞台です。
1876年(明治9年)7月20日(木)に明治天皇が奥羽・北海道巡幸に使用した御召艦「明治丸」が横浜に帰港した日です。

blog-E6-98-8E-E6-B2-BB-E4-B8-B8-E5-B8-B0-E6-B8-AF

1941年(昭和16年)7月20日(日)を「海の記念日」とします。
 ※この日7月20日が「海の記念日」となった背景には制定に尽力した時の逓信大臣の思惑もあったようですが、横浜にとっては幸運なことでした。 <20日午前に到着の予定が、天候不順で20日深夜になりました。もしかすると、7月21日になっていたかもしれません。天皇御一行は、急遽行在所となった伊勢山離宮でお休みになり翌朝東京に戻ります>
1996年(平成8年)「国民の祝日に関する法律」により、”海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う日”として7月20日が国民の祝日「海の日」となります。
2003年(平成15年)の祝日法改正(ハッピーマンデー制度)により、7月の第3月曜日となり現在に至ります。

(明治丸)
御召艦となった「明治丸」は、英国に発注しグラスゴーのネピア造船所で建造され横浜に回航されました。
当時の工部卿(殖産興業を支えた工部省の大臣)伊藤博文が名付けたもので、当時重要課題の一つ、灯台建設に伴う巡視活動や、領有権調査等に活躍しました。
巡幸船にも何度か使用され、引退後練習船として多くの海洋訓練生を育てました。
「明治丸」は東京海洋大学越中島キャンパスに保存されています。

light_201507200041 light_201507200192 light_201507200230
東京海洋大学校内

重要文化財「明治丸」
http://www.e.kaiyodai.ac.jp/facilities/meiji/index.htm

(幻の東京オリンピック)
1940年(昭和15年)に東京で夏季オリンピックが開催される予定で様々な準備が進められていました。
アジア初のオリンピックとして注目されていましたが、日中戦争の影響等の理由により日本政府が開催権を返上します。
オリンピック開催決定にともない、横浜市はヨット競技の誘致に成功し、ヨット競技開催の準備を進めます。
1937年(昭和12年)には、東京オリンピック(昭和15年)に備えて設計コンペが開かれます。
中区新山下町にオリンピック用の仮ヨットハーバーが9月に落成し、横浜ヨット港(ヨットハーバー)建設が計画されます。
オリンピックは中止となってしまいますが、
横浜ヨット港建設は継続し、

新山下ヨットハーバー幻のオリンピック開催予定の翌年1941年(昭和16年)に竣工し、
「海の記念日」制定に合わせて
7月20日に海洋競技大会が開催されることになります。
blogS1607020この時に、ヨット競技の開催に尽力したのが横浜ヨットクラブ(YYC)です。
(横浜の海洋スポーツ)
ヨットの歴史は横浜海洋スポーツの歴史でもあります。
横浜のヨットクラブの歴史を簡単に紹介します。
1886年(明治19年)横浜在留の外国人有志によって、横浜アマチュア・ローイング・クラブ(YARC)が設立され、横浜港内で海洋スポーツの組織が誕生します。
(日本最古のヨット・クラブといわれています)

その後、YARCから横浜セーリング・クラブ(YSC)が独立します。
1896年(明治29年)にYSCは横浜ヨットクラブ(YYC)と改称しフランス波止場近くを拠点に活動します。
前述の横浜ヨット港(ヨットハーバー)完成後は、ここを母港に1968年(昭和43年)まで活動し、1973年(昭和48年)社団法人 横浜ヨット協会となります。

http://yyc.or.jp
団体名:社団法人 横浜ヨット協会
所在地:神奈川県横浜市磯子区磯子1-5-16
社団法人横浜ヨット協会は1886年(明治19年)10月9日(土)に、その前身の母体であるYokohama Amateur Rowing Clubより派生し、当時横浜在留の外国人有志により設立されて以来100有余年の歴史を誇る日本最古のヨット・クラブです。

(余談)

blogn0198

海の日にあわせて、みなとみらいにある「帆船日本丸」の総帆展帆(年12回実施)が行われます。

6月 22

No.174 6月22日(金) しみずみなとの名物は?

といえば、

「お茶の香りと男伊達」(旅姿三人男)と続きます(ちょっと古い?)

残念ながら 世界遺産「富士山」エリアからは外れました

(予備審査での除外勧告が覆りました。良かったです。)

日本有数の港湾都市「清水」は

横浜とも密接な関係がある国際貿易港です。

※清水ネタは一回で済ませるには横浜ネタが満載の地域ですので、幾つかに分けて紹介していきます。

今日は1897年(明治30年)6月22日(火)
外国との貿易に欠かせない横浜税関清水支署が設置されました。
これによって、清水港の国際化の歴史が大きくかわります。

日本平から清水港と富士山を望む撮影:M.Kawai(Gifu,Japan) 

清水の街は3回訪れましたが、見どころ多すぎ、これにサッカーまでいれたら大変です。清水港は昔静岡県清水市でしたが、現在は静岡市清水区(2005年4月1日誕生)となりました。
http://www.city.shizuoka.jp/deps/simizu/shimizu-ku.html

E6-B8-85-E6-B0-B4-E6-B8-AF06-22-1.55.42
良い形してますよね
E6-B8-85-E6-B0-B4-E6-B8-AF2012-06-22-1.57.20
三保の松原が有名ですが港の近代遺産も良いですよ

(清水から船で横浜に)
江戸時代から天然の良港として漁業、海運で栄えていましたが、清水港が飛躍的発展をとげたキッカケは横浜に運ぶ「お茶」の積出港となった幕末開港でした。
開港当時外国との交易は横浜、長崎、函館の三港に限られていましたから、外国商社が欲しいものはここに集中しました。その主な輸出品目が生糸関係とお茶関係でした。清水港は外国向け静岡茶を横浜に廻漕することになり、多くの廻漕問屋が清水に集まるようになります。

blo-E3-81-8A-E8-8C-B6-E3-83-A9-E3-83-98-E3-82-99-E3-83-AB-EF-BC-92
米国向け静岡茶パッケージ
blo-E8-8C-B6-E3-83-A9-E3-83-98-E3-82-99-E3-83-AB-E8-B3-87-E6-96-99002
米国向け静岡茶パッケージ

【別ネタで今度】横浜ー清水の海運に一役買った次郎長の活躍

No.386 清水の次郎長、横浜に通う
(インフラで産業構造激変)

ところが、1889年(明治22年)2月に東海道で静岡エリアと横浜が結ばれます。物流コストが一気に下がり、多くの廻漕業が廃業の憂き目に合います。そこで、地元経済界が「清水港」から直接輸出できるように国に働きかけます。

bloAB217121
曽我蕭白も描いた名刹 清見寺も
bloAB217124
鉄道建設で門前を分断!されてしまう時代でした

日本(横浜)から輸出される「お茶」の相手国はほとんどがアメリカでした。清水港含め、横浜のお茶問屋はアメリカの動向に一喜一憂する状況でしたが、アメリカ主役の座は戦前続きます。
地元経済界の執念の嘆願が認められる日が来ます。

E5-98-86-E9-A1-98-E6-9B-B822-4.14.13

それが、1897年(明治30年)6月22日(火)の今日にあたります。
国際港としての第一段階として税関が設置されます。
1953年(昭和28年)まで日本の税関組織のトップは「横浜税関長」でした。清水の税関も名古屋税関の管轄下になるまで横浜税関の下に運営されていました。

blo-E7-A8-8E-E9-96-A281

【別ネタで】11月28日「税関の日」に紹介します

No.333 11月28日(水)最初は一時間
それから二年、

1899年(明治32 年)
ようやく国際港になった清水港ですが、数々のハードルを乗り越え十年かかって横浜港を抜き日本最大のお茶輸出港となります。

(横浜お茶物語)
開港時、居留地に外国商館が次々と進出してきますが、
居留地1番は ジャーディン・マセソン商会(英国)
2番と3番はアメリカ商社でした。アメリカは開港時は積極的に横浜でビジネス展開しますが、歴史の皮肉でしょうか「南北戦争」のために交易がかなり停滞します。
アメリカのアジア戦略が十年遅れることになります。
横浜最大のお茶を扱う外国商社は「スミス・ベーカー商会」(米)でした。ここに一人の才能あふれる日本人が国内のお茶バイヤーとして勤めます。その名は大谷嘉兵衛、彼が横浜に果たした役割は非常に大きいものがあります。

横浜経済界を牽引した横浜商人大谷嘉兵衛

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って
余談

日米交流の「シドモア桜」は、静岡県静岡市清水区興津の桜です。現在も株分けされた兄弟桜が元気に花を咲かせています。

【別ネタで今度】「シドモア桜」と山岡鉄舟

No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

bloAB217290
冬の牡蠣そば! 美味い!
bloAB217323
お茶屋さんで飲んだ一杯のお茶
bloAB227338
清水名物 黒はんぺん

食べ物も美味しい清水へ ぜひ一度!

4月 25

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク

空港は空の港と書きますが、海の港は現在も島国日本の動脈です。
日本の生命線 海運の母港は「横浜」だと表現しても決して大げさではありません。
北太平洋航路の貴婦人と呼ばれた「氷川丸」にとって、4月25日は記念すべき日です。
氷川丸のバースデイとリボーンデイが今日です。
氷川丸が横浜船渠株式会社で竣工したのが1930年(昭和5年)の今日です。
リニューアルされて公開を再開した日も
2008年(平成21年)の今日です。

山下公園に係留されている「氷川丸」が、今この横浜に「在る」意味を紹介します。
氷川丸は、日本の商船史が凝縮された船です。単なる港の観光船ではありません。
氷川丸は、
多くの栄光と苦難を経験してきた日本商船の代表といえるでしょう。
歴史上、氷川丸より大きく豪華な客船は多くあります。
氷川丸より過酷な運命を辿った商船も多くあります。
事実、同期船6隻で生き残ったのは氷川丸だけです。
日本商船の母港、横浜で生まれ、横浜に戻り「ここに在る」ということこそが奇跡であり重要だということを 今改めて確認をしておく必要があります。
氷川丸の詳細データは サイトに公開されていますのでぜひチェックしてください。
http://www.nyk.com/rekishi/knowledge/history_luxury/01/index.htm

(その歴史を簡単に)
20世紀初頭、世界の海運競争が激化します。
アメリカと日本を結ぶ太平洋航路は欧米商船会社に席巻されます。
震災復興に一応のメドがついた昭和初期、太平洋航路に6隻の新型商船を導入します。その第一号が氷川丸で、戦後まで生き残ったのも氷川丸でした。氷川丸建造のコンセプトは「外観より丈夫に」でした。この丈夫さが後に活きてきます。


(黎明期)
明治期からアメリカの太平洋航路の母港サンフランシスコは、Pacific Mail SteamShip Co.太平洋郵船の独壇場でした。

1月24日 西へ新たなフロンティアへ

そこに浅間丸、龍田丸、秩父丸(のちの鎌倉丸)が投入されます。

2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語
2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

新たに、太平洋岸北西部地域の最大都市シアトルに主力貨客船3隻が投入されます。
シアトルはかつて「グレート・ノーザン鉄道を父とし、日本郵船を母とする。」と呼ばれたように、日本が集中投資を行った都市です。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Seattle
シアトル航路に、日枝丸、平安丸、そして氷川丸が就航します。

(黄金期から戦時下へ)
1930年代、氷川丸は華々しい活躍を見せます。
「紺地煙突に二引のファンネルマーク輝けり」

■徴用時代 昭和16年から昭和25年まで
その後、戦時下に入り
引揚船、交換船、病院船として沈没の危機を乗り越えます。
機雷に三度接触、全て自力で脱出、帰港します。
(このことから「幸運船」と呼ばれたこともあります)
戦後、占領下で復員船、国内の貨客船として運行します。
■戦後初の海外航路に
同僚船はほぼ壊滅している中、唯一の日本の大型船として外国航路(ミャンマーのヤンゴンまで)を走ります。(残念なことにその時は日章旗ではなく、国連旗を掲げていました)
この航海のときに、メインエンジンが故障します。竣工以来15年、一般的には老朽化、引退もおかしくない状態だったそうです。
分解、整備を行い氷川丸は一気に若返ります。
(復活のひととき)
昭和28年、「リフレッシュされた老朽船」は、かつての北太平洋航路に復帰します。
昭和35年8月27日に横浜を出港した第60次航海を最後に引退します。


太平洋を 238回 延べ25,000人以上の乗客がこの船旅を経験しました。
引退した「氷川丸」は、当初「老醜を晒したくない」ということで解体される予定でしたが、市民の要望に応え、神奈川県と横浜市が誘致を決定し、この地山下公園に係船されることになります。
観光船として多くの観光客が訪れますが、さらなる老朽化と横浜の観光スポットの変化で赤字が続き運営を断念します。
2008年リニューアルし、現在に至ります。
現役30年
OBとして50年
今日現在82歳の姿は美しいと思います。
http://www.nyk.com/rekishi/exhibitions/hikawa.htm

氷川丸がアメリカ船籍の客船に勝っていた!と言われたのが料理だそうです。チャップリンも料理で氷川丸を選んだとか。
簡単でしかも人気があったのが「ドライカリー」だったそうで、このドライカリーのサンドイッチは絶品!ということで現在郵船から復刻されています。

4月 14

No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)

1958年(昭和33年)4月14日の今日、
1600時、次の寄港地ホノルルに向かうために横浜港を出発したキュナード・ライン社の客船「カロリナ号」は、折からの強風と湾内を航行する米軍艦とのニアミスを避けるため旋回したことで防波堤に衝突。

突堤の横浜港「白灯台」をなぎ倒し座礁しました。

絵葉書にもなった白灯台倒壊
絵葉書にもなった白灯台倒壊
カロリナ号白灯台衝突記事
カロリナ号白灯台衝突記事 

キュナード・ライン社は
1839年創業のクイーン・メリー号、クイーン・エリザベス号など豪華客船を就航させているイギリスの海運会社です。
”Green Goddesses=緑の女神”の愛称を持つ客船「カロニア号」は、クルーズ用途に合わせデッキにはプール、全室にバスルームが設置された豪華客船で1949年に建造されました。
総トン数34,000、速度22ノットで戦後早々の大西洋定期航路と世界一周クルーズで活躍します。
1954年から12年間運行された“春季世界一周クルーズ”で毎年横浜に寄港し「カロニア号」は春を告げる客船として日本でも有名になります。事故後「カロニア号」は、横須賀に回航され、アメリカ海軍横須賀基地の工廠で修理され定期航路に復帰します。


この五回目の寄港となった「カロニア号」の事故でなぎ倒された”横浜港東水堤灯台”略称「白灯台」が今日のテーマです。
港には国際ルールで、紅白の灯台を設置することが義務づけられています。
外港から港内に入る時、右が赤灯台(赤い光)、左が白灯台(緑色の光)です。
事故に遭った「白灯台」は、「赤灯台」と共にイギリス人技師H.S.パーマーの設計により明治22年に着工、難工事の末明治29年5月16日に初点灯が行われた非常に貴重で現役の灯台でした。
手前が赤灯台、右奥に見えるのが白灯台です

当初は石油ランプが使われ、
大正時代にガス灯に変わるまでは夕方になると灯台守が船で向かい泊まり込んで灯りを守ったそうです。

現在も赤灯台は現役です

(イギリス人技師H.S.パーマー)
日本の灯台に燈を灯した「技術者」パーマーを紹介しましょう。
H.S.パーマー(Henry Spencer Palmer)(1838~1893)は
香港政庁付武官のときに、広東の水道設計を終え 帰国途中に来日します。
このとき神奈川県より横浜の水道建設の調査を依頼され、彼は一気に明治 16 年多摩川水源案と相模川水源案をまとめ上げます。
その後 このプランが採用され工事に際しても顧 問工師として招かれます。
日本ではじめて近代水道を完成させた人物として日本、横浜に大きな足跡を残します。
また、東京、大阪、神戸等の水道計画に参加したほか、横浜港の 築港工事、横浜ドッグの設計など幅広い分野で活躍しました。
母国に帰還することなく
東京で没し、青山墓地に眠っています。

野毛山公園にあるパーマー像です
白灯台の無い地図
白灯台の無い地図

(白灯台)
話しを白灯台に戻します。築港計画と共に計画され、今も現役の赤灯台と対の<白灯台>は戦前、横浜港の<絵葉書>にも多く題材として使われてきました。
light20150629154235白灯台 light20150425211801light2016-04-10-20-03-16白灯台

事故でなぎ倒された”横浜港東水堤灯台”「白灯台」は海に沈みます。二日後の4月16日には仮灯台を設置し港湾機能が復活します。この時に引き上げられた<白灯台>は1963年(昭和38年)に山下公園の「氷川丸」横に移設されます。その後引き揚げたままの状態でしたが、2010年(平成22年)に全面リニューアルされ現在は山下公園のシンボルとなっています。

マリンタワーから良く見えます

(二度ある三度目は?)
白灯台のある突堤は「カロニア号」事件が起る9年前の1949年(昭和24年)の4月にも座礁事故が起っています。
三井物産船籍の貨物船「有馬山丸」(8,697t)がお米を輸送中に20番ブイに係留しようとした際、船底を白灯台のある突堤の基礎部分に接触し座礁します。
どうも、赤よりも白の方が部が悪いようです。
では現役の北水堤灯台(赤灯台)はというと、関東大震災で一部が倒壊しましたがドーム形の天井などは当時のままで、2009年11月に白熱灯から発光ダイオード(LED)に切り替えられたそうです。
電力が従来の25分の1で済み、太陽光発電装置も併設されたクリーンエネルギータイプで115年の歴史を刻んでいます。
三度目とは縁起の悪いことですが、2007年頃?プレジャーボートが突堤に衝突した事件を記憶しています。

(後日談)この事故に対し、日本の海難事故調査委員会は「カロニア号」に対し12,500ポンドを請求します。結果どうなったか??未調査です。

4月 7

No.98 4月7日「その夢には、日本を変える力がある」

 


昨日紹介した「横浜市中央市場」に隣接する山内ふ頭周辺地区(横浜コットンハーバー地区)は、かつて浅野造船所があったところで1917年(大正6年)4月の今日設立されました。
倉持 岳志役で木村拓哉が登場したTBS系列の『日曜劇場』で放送された『南極大陸』の重要な舞台の一つとなった場所です。

「その夢には、日本を変える力がある」
このキャッチコピーで登場する南極観測船 「宗谷」の物語「南極大陸」は、2011年10月16日から12月18日までTBS系列の『日曜劇場』で放送されました。
日本は国際地球観測年に伴い南極観測を行うこととなり、南極観測船が必要となりました。限られた予算の中、
ボロボロの灯台保安船「宗谷(そうや)」を南極観測船(砕氷船=さいひょうせん)に改造することになりました。時代は造船ブーム、新しい船を造る造船所はあっても低予算で改造する造船所は皆無でした。既存の船を異なった機能を設計、改造するのは極めて難しい注文だったようです。
どこの造船所も手を挙げ無かった中、戦後造船所ではなく船舶の修理工場となっていた「日本鋼管・浅野ドッグ(浅野船渠)」が応じます。昼夜を問わぬ突貫工事を敢行し、見事な職人魂で7ヶ月の短期間で仕上げました。
宗谷はその後も修理・改装を浅野船渠で繰り返しながら、通算6回の南極観測任務を遂行します。
https://www.kanaloco.jp/kanacoco/community/harbor/topic/625/
この時「宗谷」は船齢18年で引退してもおかしくない状態でした。昭和13年に耐氷貨物船として建造され、海軍の運送艦として第二次世界大戦で働き、戦後は引き揚げ船として北に南に走り続けた造船史上の貴重な生き証人です。
http://www.funenokagakukan.or.jp/2017/5960/

保存されている宗谷

浅野船渠は「日本の臨海工業地帯開発の父」「明治のセメント王」と呼ばれた浅野総一郎が自前の造船所の建設を計画したことにはじまります。海運業に進出するため東洋汽船を起こし、自前の造船所建設まで行うというダイナミックな経営者でした。造船に関しては、三菱造船の隣に進出しようと計画するなど、闘争心も中々だったようです。
富山出身の浅野総一郎

1940年(昭和15年)に日本鋼管と合併し、「日本鋼管鶴見造船所」となりましたが「日本鋼管浅野船渠または浅野ドック」と呼ばれていました。2002年(平成14年)に造船業界の統合等で日本鋼管と日立造船が船舶・海洋部門を統合しユニバーサル造船京浜事業所となり企業体としては継続しています。

浅野船渠のあった山内ふ頭周辺地区は(横浜コットンハーバー地区)として再開発されています。一角に神奈川台場の跡が保全されています。
コットンハーバー横に神奈川台場跡が保全されています

(余談)横浜 岩井の胡麻油の本社工場が この造船所跡地の一角にあります。

2月 8

No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

今日のエピソードは昨日に続き横浜を母港に活躍した太平洋航路の花形客船「龍田丸」です。
1943年(昭和18年)のこの日、日本郵船所属「龍田丸」は伊豆諸島の一つ御蔵島沖で米潜水艦「Tarpon」により雷撃を受け沈没しました。日本郵船龍田丸

昭和前期の海外旅行は客船が主力でした。特に開戦までの十数年、太平洋航路は日本客船の輝かしい時代でした。
戦前の日本を代表する太平洋航路(横浜ーサンフランシスコ間)の花形といえば、「浅間丸」とその姉妹船「龍田丸」、そして「鎌倉丸」です。
この三隻は他の客船を圧倒する豪華客船でした。
今日の主人公「龍田丸」は日本郵船船籍の建造番号451番の大型豪華客船です。総トン数16,875t全長178mで、スイス製スルザー型ディーゼル機関を4基搭載4軸プロペラシャフトの豪華客船でした。平常時の通常船舶保険等級はロイズ船級協会の最高船級評価を受けました。

浅間・龍田丸

第二次世界大戦で日本の商船は約2,300隻失われ、3万人の乗組員が戦場で亡くなります。
民間人でありながら戦争の最前線に立った人々の壮絶な歴史です。
「龍田丸」は「鎌倉丸」と対戦中に特別の任務を果たします。二隻は日英交換船として「安導券」を付与されアフリカと横浜を往復します。
龍田丸は昭和17年7月30日に横浜を出発し、上海、昭南(シンガポール)を経由してモザンピークの首都ロレンソマルケス港まで英国人を運び9月27日に横浜に戻ります。鎌倉丸は追いかけるように8月10日に横浜を発ち龍田丸と同じコースを辿り10月8日に帰港します。
「安導券」とは、
「交戦国が国籍の如何を問わず、個人もしくは船舶または中立国もしくは敵国に属する部隊またはその他の集団が、予め定められたる一定の場所に赴くを許せる事を証する文書である」
と戦時国際法の中で規定されたもので交戦国であっても互いに航行の安全が保証される船を指します。(Vessels furnished with a safe-conduct or a licence)
「安導券」を付与された船舶には二種類ありました。その一つが「交換船」です。開戦後に敵地にとり残された外交官や民間人をお互いに交換し 本国へ還送するのに用いられる船の事です。第二次世界大戦では、日米で二回延べ3隻、日英で一回二隻が仕立てられました。

Mozambique
mms_A2080007

もう一つの「安導券」を付与された船舶は「救恤品輸送船」で、敵国から依頼を受け捕虜へ慰問品を届ける船のことです。延べ三隻(白山丸、星丸、阿波丸)が依頼を受け、慰問品を運びました。
この中で、日本郵船「阿波丸」は「安導券」を付与された船舶にも関わらず、台湾沖で米国潜水艦に魚雷攻撃を受け、一瞬にして2,000人を超える人命が失われました。1945年(昭和20年)4月1日のことです。
この悲劇は浅田次郎さんの「シエラザード」(講談社文庫)に小説としてみごとに描かれています。

mms__C062770

もう一つの「龍田丸」をめぐるエピソードは、レストラン「かをり」の物語です。日本初のホテルがあった居留地七十番に建つレストラン「かをり」の創業家 板倉作次郎さんは龍田丸の司厨長として乗船していました。(日本初のホテルについては2月20日にご紹介します)
横浜は戦後ニューグランドを軸にしたホテル系レストランと、日本郵船を代表とする客船料理人系の活躍でア・ラ・カルトを楽しむハマの洋食界をリードしてきました。
レストラン『グリル・エス』のオムライス
今は無き日本郵船ビル地下「オーシャン」の木村さんのクッキーは忘れられません。多くのお店が閉店しましたが、この横浜洋食の文化は他の洋食レストランにもしっかり受け継がれています。
※追記。台湾沖に沈んだ悲劇の「阿波丸」の初代は明治31年長崎で建造されました。1912年(明治45年)2月14日横浜港より桜の苗木6,040本を積みシアトルに向け出航した(皮肉にも)日米友好の船です。