1月 11

No11 1月11日(水) KAAT開場

平成23年(2011年)のこの日、山下町281番地に神奈川芸術劇場(KAAT)が開場した。この場所は、エピソード満載だ。昭和初期外国人向け高級アパートヘルムハウスが建ち、終戦で進駐軍が接収、高級将校用宿舎、県警本部の分庁舎を経て県庁の分庁舎別館となった。老朽化でが取り壊された後、イワクツキの「ドームシアター(横浜21世紀座)」が建ったがわずか4年9カ月で閉鎖。県はどうしても劇場が欲しかったのかそれとも“あてがはずれた”のか今もって謎である。

神奈川芸術劇場は地上10階地下1階で、隣接してNHK横浜放送局が建つ。
高さ約30mの開放的な空間が広がる劇場へのエントランスは圧巻。
「演劇、ミュージカル、ダンスなどに適した最大約1,300席のホール。高度な演出プランに対応できるフレキシブルな可動客席を有し、舞台から客席までの視線距離を最大25m程度と抑え、快適な鑑賞環境でお楽しみいただけます。客席可動客席(一部)最大約1,300席(標準勾配)」
確か芸術監督に宮本亜門さんが就任している。
幅 允孝がディレクションした劇場図書館BOOKAAT(ブッカート)もこれまでに無いホールマネジメントとして注目される。
この場所を語る以上、かつてのヘルムハウスのことは押さえておきたい。
Helm House Apartment 1938(昭和13)年チェコ人の建築技師スワガー(原音ではシュヴァグル)によって作られた外国人向けアパートである。関東大震災後外国人のための共同住宅として建てられたものが幾つかある。エリスマン邸の斜向かいに建つ山手234番館、県民ホールの山側に建つインペリアルビル、山手89-8番館等々。
中でもこのヘルムハウスは酷使(かなり愛用?)された建造物だ。シュヴァグル同じチェコ人建築家のアントニン・レーモンドの設立した米国建築会社の一員として来日、ヘルムハウスの他 紅蘭女学校(焼失)、カトリック山手教会(1933年)、聖路加国際病院(1933年)など多数の作品を残している。
(写真ちょっとまって)
一方このアパートメントのオーナー、ヘルム兄弟社は明治初期から運送業を横浜で営み、後に洗濯業やドッグの運営など多角的経営を展開し財を成した。昭和に入って、外国人向けのアパートのニーズが高まる中、このヘルムハウス経営をはじめた。
内観は見ていないが、意見平凡そうに見えるが外観は採光を工夫した設計になっているのが特徴だろう。
もうひとつ、この神奈川芸術劇場敷地の一角に「神奈川県指定重要文化財建造物 居留地48番館」の遺構が残っている。建物内は立ち入れないが外観は見ることができる。1883(明治16)年建築で、横浜最古の洋風近代建築といわれるものだ。
J.P.モリソンが日本茶の輸出やダイナマイトなどの外国商品の輸入販売をしていた建物として使われていた。建築的な見どころはフランス積み(フランドル)の工法による建造物であること。結構珍しい。

1月 10

No10 1月10日(火) 横浜元町SSで歩行者天国

横浜の商店街の牽引的役割を担ってきた元町、横浜エピソードには書かせない場所の一つです。

1971年(昭和46年)のこの日 元町でもいち早く歩行者天国を導入、毎週日祭日午後1時から5時の間歩行者のショッピングストリートとして解放しました。

戦前戦後を通して先進的な商店街づくりのエピソードを数多く持つ元町物語は今後に譲り、時代の空気を感じる歩行者天国と横浜のまちづくりのことを少し書き添えておきます。
1970年代を象徴する歩行者天国。
この時代のテレビ映像には必ず銀座か新宿東口のホコ天風景が流れます。子供連れの若い夫婦、1号店が開店した(1971年6月)マクドナルド銀座店(三越)前でマックを食べる若者達の光景です。車道を歩行者に開放し、歩くことが出来る「ホコ天」に歩行者は最初戸惑いながらも自由を味わったものです。
この歩行者天国、大規模なものは1969年(昭和44年)8月6日から12日間、北海道旭川市平和通で実験的に実施されたのが始まりです。東京では1970年8月2日に銀座、新宿、池袋、浅草で初めて実施され、全国に広がりました。実施エリアは次第に延長し一時期世界最長の5.5km、銀座から上野まで道路が開放されました。
このように
高度成長期以降、都市整備の課題の一つが歩行者空間の整備でした。横浜はいち早く専門部署を設け新しいまちづくりに挑戦しました。
(横浜市都市デザイン室の誕生)
初期の実験的試みが市庁舎横の「くすのき広場」整備でした(昭和49年6月)。若き日の国吉、(故)北沢コンビそして岩崎の野心的作品でした。
歩くことが楽しい街を確保するために、歩行者優先ゾーンの整備が市内中心部を手始めに行われました。

歩行者天国は交通地獄からの<つかの間>の解放でしかありませんでした。一歩踏み込んだ恒久的な街の魅力づくりには「壁面線の指定」「モール整備」「まちづくりのルール」「公園再整備」「歩車分離」といった様々なソフトとハードの整備が必要でした。
横浜の歩行者専用道の先駆的事例と言えば、
汽車道から赤レンガ倉庫、山下公園、港の見える丘公園を横断的につなぐ「開港の道」です。
桜木町から港の見える丘公園まで歩行者専用道としてつないだ試みが現在横浜シーサイドの重要な観光スポットにもなっています。
また港北NTの試み(1月19日)にも恒久的「歩行者天国」のまちづくり例を見ることが出来きます。

1月 9

No9 1月9日(月)【桜川】野毛カストリ横町立退き騒動

(リライト版)
野毛はテーマの宝庫です。
横浜最大の飲食店街として成長してきた戦後野毛の歴史は、さまざまなエピソードとともに刻まれてきました。
1950年(昭和25年)1月9日(月)のこの日、
「櫻川埋立工事で立退きを迫られる野毛ガス橋寄りの数軒、市に無断で埋立てた同橋反対側に移転」
桜木町近くを流れていた櫻川の野毛ガス橋付近の埋立て工事で不法占拠していた屋台が立退きを迫られ数件がしぶしぶ対岸に移転することになります。


終戦直後の横浜、
特に桜木町近辺は職を求める多くの失業者が集まっていました。
理由はそこに中区役所(現桜木町駅前駐車駐輪場)と職安があったからです。
しかも、戦前の繁華街や港湾施設(特に関内・関外)の大半が米軍に接収されたため、日本人が自由に飲み食いできる“街の繁華街”として野毛が賑わいました。
多くが不法で、空き地という空き地には屋台と闇市が広がっていました。取締と不法占拠の繰返しでした。
1947年(昭和22年)10月には伊勢佐木警察がカストリ横町を一斉検挙します。
大岡川には水上ホテルが浮かび、川岸にはバラックが建ち並びます。
特に埋めて中の櫻川沿いには貴重な動物性たんぱく質源だった“クジラカツ”を販売する「くじら横丁」が出現します。
別名クスブリ横丁またはカストリ横丁などとも呼ばれました。
日本中が物資不足にあえいでいる時「野毛に来ればなんでも揃う」と言われるほどの賑わいだったそうです。
多くの人が復員兵、労働者などで、食と職を求めました。
櫻川が排水、ゴミ等で極めて不衛生な状態にになり、埋立工事が始まり
上図のように「桜木町デパート」が建てられます。
一方、「櫻川の野毛ガス橋付近」(現在の宝光寺付近)は、最後まで不法占拠のバラック店舗が建ち並びます。
ガス橋(瓦斯橋)は明治期に高島嘉右衛門のガス工場(現在の本町小学校近辺)があったことに由来します。

この櫻川は埋立てられ「新桜川道」になっていますが、
当時は(埋め立てられた)道の上に不法屋台ができていたため、
立退きを迫られた訳です。
しかし追い立てはイタチごっこ、モグラたたきにも似て埒があかなかったそうです。

野毛界隈は
1950年(昭和25年)6月25日に始まった朝鮮戦争をキッカケに大きく変化して行きます。
1955年(昭和30年)10月には櫻川バラック集落は市によって南区に強制移動させられます。

道が整備され、街並も急速に復活して行きます。
終戦後どこも同じ状況だったドヤ街、
寿町はその後も厳しい状況を引きずっていくことになります。
※ドヤ街は「宿(ヤド)」街の逆さ言葉で、簡易宿所が多く立ち並んでいたエリアをそう称しました。

明治のころの瓦斯橋周辺古地図
「DOYA!ことぶきの町は。」

 

1月 8

No8 1月8日(日) 外国郵便取扱開始

近代化の象徴的な出来事のひとつが「外国との自由な郵便のやり取り」です。
これが近代のはじまりであり国際社会への第一歩といえます。1875年(明治8年)のこの日、「横浜郵便局」が外国郵便物の取り扱いを開始する「第一便差立」が行われたとあります。
三代目広重は錦絵「横浜郵便局開業の図」にその様子を残しています。
この錦絵は前島密によって創刊された「郵便報知新聞」の付録として発行されました。


この日の出来事を紹介しましたが、調べるうちに史実が怪しくなってきました。上記の錦絵は1875年(明治8年)1月5日に行われた外国郵便開業式の式典の様子のようです。
この頃テーマ探しにネットが活躍しています。
でも気をつけておかなければならないのが「間違ったデータの一人歩き」です。ついついネットに出ているデータを流用してしまうのが常で、誤情報は訂正されずコピペの連鎖が生じていきます。
一次情報に当たれなくとも、できるだけ真実に近づくことが大切なんですがなかなか難しいものです。
1月8日は実際に業務が始まった日です。
外国郵便取扱開始を検索すると「1873年(明治6年)に結ばれた日米郵便交換条約により、1875年(明治8年)に外国郵便を取り扱いが横浜郵便局ではじめられた。」とか
「外国郵便の日 1875(明治8)年のこの日、横浜郵便局で外国郵便の開業式が行われた。それまでは、横浜の外国人居留地にあったアメリカの郵便局が外国郵便の業務を行っていたが、これを廃止して、日本政府が業務を行うこととした。」
「1日に発効したアメリカとの郵便交換条約に伴い、横浜郵便局において外国郵便取り扱いの開業式を行う。」といったデータが多くヒットします。
この横浜郵便局とは現在の港郵便局のことです。
「外国郵便創業の局」の碑が港郵便局脇にあるというので確認すると「明治8年1月5日創業」とあります。また開港資料館の資料でも1月5日とありどうやら1月8日は実務開始日で記念日ではないようです。

※この延長線でいくと 1月6日マリンタワー開場という記事も多く出てきます。正式には1月15日ですが、有名企業の社史年表にも散見される。要確認事項の一つです。

1月 7

No7 1月7日(土) 神社で婚約式を

若くして(29歳で)亡くなった詩人八木重吉と女学生 島田とみ は
1922年(大正11年)のこの日、
横浜の本牧神社で婚約式を行います。重吉は24歳の英語教諭で、とみは17歳で女学生でした。重吉は島田とみに一目惚れ、彼女が卒業したら結婚するという約束を婚約式という形で(神前で)誓ったという有名な話。

当初、今日のテーマは<クリスチャンの神社で婚約>にしようと思いこのタイトルとなった訳ですが、クリスチャンが何故神社で婚約式と疑問に思ったからです。
二人の資料を探しながら書き始めているうちに八木重吉のパートナーとなった島田とみの人生に釘付けになってしまいます。
島田とみは、
1905年(明治38年)2月4日、新潟県高田市(現・上越市)の日本画家の末娘に生まれます。11歳のとき父と死別し、蒔絵画家の兄・慶治の家に引き取られます。優秀だった彼女はプロテスタント系の「女子聖学院」三年級の編入準備をしていた際、一週間だけ家庭教師に来たのが八木重吉でした。
考えてみれば家庭教師の相手を口説いてしまうのですから、かなり大胆です。
八木の熱烈な求愛の結果、同年7月に二人は神戸で結婚式を挙げることになります。(結果、彼女は高校を病気で中退することになってしまいます)
重吉夫婦には一姫二太郎の子供にも恵まれ、生活も安定し順調な家庭生活を過ごしますが重吉に結核が発病、闘病、そして死別を迎えることになります。
とみは生活苦の中、重吉の死後10年目には、長女桃子15歳の死に立会い、その2年後には、長男陽二16歳の死と向き合うことになります。
<重吉、桃子、陽二は皆結核で失い独ぼっち>になってしまうのです。
その後
1944年(昭和19年)
戦争まっただ中、縁あって妻を亡くし、4人の子を抱えて生活に困惑している鎌倉在住の歌人・吉野秀雄(1902〜67)と出会います。
戦争が終わり
1947年(昭和22年)10月26日、重吉の21周忌に当たる祥月命日にとみは吉野と再婚式を挙げます。
再婚後、彼女は吉野登美子と改名し、重吉と秀雄の芸術を愛し94歳まで生きたというエピソードです。
仏教徒の夫とは、宗教は異なりましたが最後までお互いの信仰を尊重しあったといいます。鎌倉の暮らしでは夫婦で「小林秀雄」や「山口瞳」とも深い親交があったそうです。
吉野登美子の墓碑は 鎌倉瑞泉寺にあります。
詳しくは
八木重吉 代表作 第一詩集『秋の瞳』、第二詩集『貧しき信徒』
吉野登美子『胸の底ひに 吉野秀雄の妻として』(1978年 弥生書房刊)
「琴はしずかに 八木重吉の妻として」(1976年 弥生書房刊)
ここまで書きましたが、
結局 クリスチャンの二人が何故 本牧神社で誓い合ったか?
分からずじまいでした。どなたかご存知でしたら教えてください。

1月 6

No.6 1月6日(金) 天然スケートリンク開場(修正、加筆)

2013年9月修正、加筆
1948年(昭和23年)のこの日、神奈川新聞に「大倉山天然スケート場開場」という記事が出ていました。
2012年冬、赤レンガ倉庫広場の「Art Rink × GROUND ANGEL in 横浜赤レンガ倉庫」も10年を迎え横浜の人気スポットとなりましたが、戦前から戦後にかけて人気の天然スケートリンクが大倉山にありました。

「大倉山天然スケート場」は1938年(昭和3年)に大曽根町(現大曽根台)の冨川善三さんが「氷場」の池をスケートリンクに変え営業を開始しました。氷を造るところを氷場(こおりば)といい、綱島、大倉山一帯は「氷場」が地場産業として盛んに造られます。
明治初期、横浜開港場では外国人が、ボストンや天津(てんしん)など外国からわざわざ氷を輸入していました。この状況を知った綱島の飯田広配(いいだひろとも)さんが外国人より製法を聞き、改良を加えて港北地域の特産品としたことが、この地域の「氷場」の始まりだそうです。
その副産物(ではありませんが)利用法としてスケート場が登場しました。スケート場は、天候に左右されましたが成功すると利益も莫大なものがありましたから、ハイリスクハイリターンの事業であったことは確かです。

この大倉山天然スケート場、
1935年(昭和10年)には、東急電鉄から千円という巨額の投資を受け、大少5つの池を300坪の大リンクに改装し一度に200人が滑走でき人気スポットとなったそうです。
リンクづくりは全て手作業で、厳寒の中激務だったそうですが製氷には電気を使用しなかったこともあり第二次世界大戦時も閉鎖されること無く、多くの市民の憩いの場としても利用されました。
オープン当初の滑走料金は1時間15銭でしたが
改装後の広告には
「都心から一番近い天然スケート場、リンク400坪、休憩室、更衣室の設備があり、1月上旬より2月下旬まで公開、入場料1時間25銭、貸スケート1時間20銭」(東急『沿線案内』)とあります。
当時の気象記録を見ると、昭和20年代に入ると一日の降雨量が増えています。
天然リンクには雨が一番大敵で雨が降ると営業に響きました。
オープンから約20年間、利用客促進のための東急の投資も功を奏しましたが
気象条件の悪化が主な原因で大倉山一帯のスケートリンクは昭和22年から25年頃に次々と幕を閉じることになります。
一方“天然氷づくり”は、スケートリンクより早く大正期までが最盛期で、昭和に入ると機械製氷に押され廃業していきます。
現在もその名残が残っているそうですが、実地確認はしていません。

スケートリンクと言えば、昭和40年代に箱根強羅の天然リンクにでかけた記憶があります。
スケートリンクといえが現在も現役で活躍する

「神奈川スケートリンク」が頑張っていますね。

神奈川スケートリンク
現在、日本で一番長寿営業のリンクです!」というキャッチフレーズが凄い!
2014年現在 改装のため休業中、代わりに
横浜市中区翁町2-9-10(旧 横浜総合高等学校 跡地)にリンクがオープンしています。
http://www.kanagawaskaterink.com/index.php

※老朽化のため建て替えられるそうです。工事期間中の営業は仮設リンクで対応し、来年12月には新スケート場が完成する予定です。

1月 5

No5 1月5日(木) 漂泊の詩人 永井叔(一部加筆)

歌人 種田 山頭火
そして
詩人 金子 みすゞ
大正・昭和初期を生きた二人。

金子はテレビCMで、ドラマで山頭火は知名度を上げましたが、
同時代の詩人、永井叔(ながい よし)を知っている方はかなり少数派ではないでしょうか。
1926年(大正15年)のこの日、漂泊の詩人永井叔の送別会が現在の中区南仲通の中日ビルで開催されたと年表に記載されていました。

偶然見つけた一行に、永井叔(ながい よし)の名。
「オアシス社主催漂泊詩人永井淑(原文ママ)送別会、南仲通中日ビルで開催」
何気なく調べ始めたところ 詩人「永井叔」の不思議な一生に出会うことになります。
永井は1896年(明治29年)四国松山市の代々御典医だった医者の5番目の末っ子として生まれました。
京都に出て同志社を卒業後,東京の青山学院で神学を学びます。
1918年(大正7年)徴兵され朝鮮竜山、歩兵第78連隊に入隊します。
暴れん坊の永井は、上官に逆らい、禁錮2年で軍獄入り、懲罰の後退役します。
(放浪詩人)
このことがきっかけになったのか托行と称しマンドリンを弾きながら全国を放浪します。

ある時は
天文学者と天体観測に集う子供達と写真に写り、
またある時は
絵本のモデル
になり、
駅前や広場でマンドリンを弾く姿を見た証言や新聞記事が残っています。

漂泊のマンドリン弾き永井叔は<放浪を「托巡」>と表現しました。
一方で種田山頭火は放浪を「行乞」と呼びました。
また

永井は放浪詩人であるとともに
「すべてはエスペラントのように……すべては大空のようにー」と書いたタスキをかけたエスペランティストでもありました。
戦前、特に大正時代には一つの時代潮流としてエスペラント(Esperanto)運動がありました。エスペランティストは世界共通語を使うことで異なった民俗や文化の理解(共有)を推進する人たちでした。
エスペラント(Esperanto)とは、1880年代にルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語のことです。
「母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、いわゆる国際補助語(wikipedia)」

ちょっとこの表現には違和感がありますが、エスペラントの世界観は<平和>
永井の世界観にもエスペラント(Esperanto)が共鳴したのでしょう。

とにかく奔放だったことは間違いないようです。
学生時代に神学を学んだことにも起因するのかわかりませんが、宮沢賢治的な宇宙観を感じます。

彼の行動を追いかけて行くと意外な接点を発見しました。
マンドリン放浪の末、広島で永井は
(知るヒトぞ知る)長谷川泰子
という女性と出会い一緒に京都に行くことになります。ところが 同じ詩人の中原中也に彼女を奪われてしまいます。さらに、その中原は
<小林秀雄に彼女をとられてしまう「口惜しい男」>
として生涯を鎌倉で終えることになります。
(男の立場ではそうですが、当時の女性の生き様もかなり注目に値します)

冒頭に戻ります。
1926年(大正15年)
オアシス社の送別会を横浜で開催したという記録ですが、
調べた限りでは 永井の作品がオアシス社で出版された形跡はありません。このオアシス社が出版関係なのかも現在不明です。出版に関しては

その多くが支援か自費出版に近いものだったようです。

彼の代表的作品は、当時の出版物の中でも特に装丁が変わっていました。
従来の出版では物足りなかったのでしょう。
永井は1977年(昭和52)春、東京でなくなります。享年80歳でした。
一行の年表でしか<横浜>と接点がありませんでしたが、
南仲通 中日ビルで 永井叔を囲む会が開かれたことは間違いないのでしょう。

どこかで彼の足跡と出会うことを期待して 今日はこれまで。

1月 3

No4 1月4日(水) 昭和の歌姫

敗戦復興のまっただ中、希望を失いつつあった日本人の心を明るくした歌姫といえば
美空ひばりです。
1952年(昭和27年)1月4日
彼女のもとに四万通の年賀状が届けられました。
あまりの多さに郵便局はリアカーを使って運んだという当時のひばり人気を象徴する事件です。

昭和の歌謡界を代表する美空ひばりは女優(子役)としても当時の日本人の心をわしづかみにしました。
美空ひばりは、横浜市磯子区滝頭に生まれ、9歳で(旧杉田劇場)でデビューし平成元年に亡くなるまで次々とヒットを飛ばす天才歌手でした。
light_PA260174 アイドルの激務の中でも横浜市立滝頭小学校(滝頭国民学校)、精華学園中等・高等部を卒業します。
この精華学園高等部は吉永小百合、星由里子も通っていた有名校(当時の堀越学園?)でした。創設初期の校長は内村鑑三でミッションスクールでした。
現在は東海大学に吸収され付属望洋高等学校です。
なぜ精華学園に通うことになったかというと1947年(昭和22年)野毛にオープンした横浜国際劇場(現在はJRA)の支配人だった(芸能プロデューサー)福島 通人との出会いがあったからです。教育も重んじた彼がしっかり学校教育も受けさせる必要があるということで妻の出た精華学園に入学させました。
福島 通人は1949年(昭和24年)のひばり出演映画『のど自慢狂時代』、『踊る龍宮城』および主題歌の『河童ブギウギ』、『悲しい口笛』のプロデュースにかかわり、ひばりを名実共に全国区にします。
1952年(昭和27年)には中学生でありながらもうすでに雑誌(平凡)、ラジオ(NHK他)を席巻し大スターに躍り出た彼女でしたが、学校の学芸会にも出演したといいますから美空ひばりの生真面目さを現すエピソードと言えるでしょう。

美空ひばりに因んで、2005年2月、杉田のランドマーク?「らびすた新杉田」の3階にオープンしたのが新「杉田劇場」です。(2012年10月一部書き直し)

No.45 2月14日 バレンタインにふさわしい素敵なニュース

No.45 2月14日 バレンタインにふさわしい素敵なニュース

同じ日に何があったか?
1986年シーバス横浜駅東口から山下公園まで運行開始
シーバスの名は BUS(乗合自動車)ではありません!Bassで美味の魚スズキのことです。

1月 3

No3.1月3日(火) 大火事

正月早々物騒な話しですが
「火事と喧嘩」は江戸の花ならぬ「開港場横浜」でも「火事」がつきものでした。
1860年(安政六年だと12月11日)のこの日、
開港まもない外国人居留地で大火事がありました。
当時はいわゆる洋館ではなく当座の木造建物が建ち並んでいました。
というのも、横浜はこの時期まだ開港していませんでした。
欧米列強(政府)からは江戸に近い「神奈川」を開港場として要求されていましたが、徳川幕府はなるべく江戸から遠ざけたかったという理由が挙げられていますが、結果的に良港としての条件を持ち合わせていた「横浜」が国際港として開港することになりました。
それこそペリーが最初に上陸しハリスが領事館を構えた伊豆の下田でも良かったくらいですから、「神奈川」といえば喉元に来るようなもの。開港と交易を求める立場なら、首都に近い場所を港として求めるのは当然なことです。
幕府としては戸部の山を越えた「横浜村」に(押し込めたかった)ことに対し、アメリカ領事ハリスは納得しませんでした。
ただ現場、外国人貿易商達は横浜の街が気に入っていたようです。
大型船舶が停泊できる港、江戸までは少し不便でしたが治安のよい街をビジネスの場としては評価していたようです。
そんな矢先にこの大火事が起きた訳です。

この火事に対し対岸の神奈川からも人々が多く駆けつけ消火を手伝ったという記録が残っています。その結果、外国人にも日本の信頼度が高まり、その後の国際関係に好影響だったことは間違いないでしょう。
鎮火後すぐに開かれた居留民の総会で消火に当たった日本人への感謝の意が決議されたくらいです。しかし外国政府代表者特にアメリカは江戸近くに開港を求める格好の材料でした。この総会で今後の活動の場を横浜にするのかどうするか、話し合われました。
国家間では開港場を神奈川かどうかやりとりしているが、
「われわれ商人はどうする!」
と議論した結果 満場一致で開港場はこの横浜にと決議されました。

逆に「横浜」が正式に国際港になった因縁の大火事だったといえるでしょう。
でも その後、横浜も江戸同様に火事が絶えませんでした。
代表的な大火事は
1866年11月26日に発生した「慶応の大火」

No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!
関内全域を焼き尽くしたことがきっかけで、遊郭の代わりに洋式公園(横浜公園)ができたり、外国人居留地と日本人居留地を分けた類焼防止に日本大通ができるキッカケになりました。

現在も残る関内エリアの近代的な街並整備のきっかけとなったのは火事という歴史の皮肉といえるでしょう。

1月 2

No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演

1895年(明治28年)の今日、
横浜で旗揚げをし「オッペケペー節」で一世を風靡した俳優・芸人川上音二郎は、横浜「港座」で最新のニュース芝居「川上音二郎戦地見聞日記」を上演しました。

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前年の、1894年(明治27年)
日清戦争が始まるといち早く戦争劇「壮絶快絶日清戦争」を仕立てた川上は、朝鮮半島に渡り戦地の状況を実見します。
この現地取材をもとにニュース性のある戦争劇を次々と上演し大成功をおさめた新しい形のジャーナリストの誕生です。この川上音二郎、ゆかりの地といえば茅ヶ崎が有名です。今回舞台となった横浜にも数々の因縁がある人物です。
この話しに関してはおいおい別のテーマでもでてくるでしょう。

彼が上演した「港座」を簡単に紹介しておきましょう。
明治から大正にかけて、芝居小屋と言えば「横浜」が最先端スポットでした。川上音二郎が公演した「港座」は当時最新鋭の劇場で、照明にガス灯を使用、最も近代的な明るい劇場だったといわれていました。場所は現在の住吉町1−9あたりで、オーナーはガス灯をいち早く街中に点灯させた高島嘉右衛門です。
高島嘉右衛門。この男、危険につき?ではありませんが明治横浜に関する事業には必ずと言って良いほど登場する話題男です。何かと世間を驚かせたことでも有名。西区高島町のみならず北海道にも自分の名を残した実業家、様々な分野で活躍の足跡を残しているのでネタはつきません。

No.463 高島嘉右衛門 風聞記

No.208 7月26日 (木)ザ・みなとの劇場

この港座は1875年(明治7年)に落成、柿落としは中村 翫雀一座。仮名垣魯文の浄瑠璃と瀬川 如皐の狂言が上演されました。明治33年に廃業するまで60回以上の上演記録が残っていますがそのほとんどが歌舞伎でした。川上が目指した新しい芝居が定着するにはもう少し時間が必要でした。