4月 11

No.102 4月11日 今年ラストチャンスですって!(追記版)

今年の桜は遅咲きでした。(2012年)

肌寒い日が続きましたから、夜桜見物にしても覚悟が必要になりますね。
横浜市営交通八十年史に面白い記述がありました。
1936年(昭和11年)の今日、
「観桜客誘致として本牧の三渓園、紅葉ヶ丘の掃部山(かもんやま)、三ツ沢の豊願寺(ぶげんじ)、保土ケ谷の桜ヶ丘に無料休憩所を設置し、茶の接待、観桜絵はがきの発売、停留場に提灯の掲出を実施(20日まで、翌年も実施)」したそうです。
2013年追記 2013年は逆に一気に咲いて一気に散りましたね。

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花見シーズン限定 屋台も気候次第

2012年4月12日は全国的に天候が荒れ模様になり、せっかく咲いた桜もその多くが散ってしまうそうです。
今日、京都から帰ってきたのですがまだまだ5分が良いところでした。

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嵐山の桜

逆にずれて正解かもしれません。横浜は今夜がラスト観桜ですかね。
冒頭と繰り返しになりますが、交通局の観桜客誘致策が必要な桜の名所といえば本牧の三渓園、紅葉ヶ丘の掃部山(かもんやま)、三ツ沢の豊願寺(ぶげんじ)、保土ケ谷の桜ヶ丘だったようです。三ツ池公園は1957年(昭和32年)開園ですし、野毛山の桜の名所ですが観桜客誘致しなくても良かったのかもしれません。
無料休憩所を設置し、茶の接待、観桜絵はがきの発売、停留場に提灯の掲出を実施ということですから結構積極的に経営努力したんですね。
ということで、掃部山に出かけたところ看板を発見!掃部山には明治から昭和49年ごろまで茶店があったそうです。

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ですって!?

掃部山公園は、江戸時代までは不動山、明治初期には外国人鉄道技師の官舎があったり鉄道開通後も鉄道用地として利用されたことから「鉄道山」と呼ばれていました。
明治17年に旧彦根藩士らが買い取って井伊家の所有となり庭園として整備され、大正3年に井伊家より横浜市に寄付され、掃部山公園となりました。
横浜大空襲で全ての桜は焼失、現在の桜は戦後80本余りが地元有志から寄附され移植されたものです。

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掃部山公園からみなとみらい

(桜を楽しむ)

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金沢城趾から兼六園方向を見る

2013年4月10日石川県金沢市で満開の桜を愛でました。

4月 10

No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶

関東大震災は1923年(大正12年)9月、神奈川を震源とするマグニチュード7.9の大地震でした。
東京は火災による甚大な被害が発生しましたが、神奈川は全潰63,577棟にも及ぶ住宅被害が生じました。
横浜市内の被害も大きく「横浜復興誌」に克明に記録されています。311はどのように記録されていくのでしょうか。
1930年(昭和5年)4月の今日、震災復興事業の一つ「公園整備計画」の「神奈川公園」と「神奈川会館」の開園式が行われました。
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関東大震災震災復興事業の一つ「公園整備計画」は、国と市とで施行されました。国による公園整備は3施設、市事業は7施設でした。
国施行
1野毛山公園
2山下公園
3神奈川公園
市施行
1横浜公園
2掃部山公園
3山手公園
4元町公園
5横浜市児童公園
6翁町公園
7久保山霊場付属公園

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国施行の3つの公園は、地域の復興のシンボルとしてかなり重点的に整備されました。関内中心エリアの「山下公園」、関外エリアの「野毛山公園」、そして神奈川エリアの初めての近代公園整備として「神奈川公園」が整備されました。
「神奈川公園」は1927年(昭和2年)から工事が始まり、敷地面積四千坪は、私有地を買い上げ盛り土工事による土地と埋め立てを行って確保しました。現在の質素な雰囲気では創造できないしっかりとした造園が行われました。
樹木を植樹し、中央には噴水のある池が設けられ、北側には鉄筋コンクリート三階建ての神奈川会館を建て、そこには食堂や集会室が設けられました。

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4月10日に公園開園式と神奈川会館の開館式、そして復興祝賀会を兼ねた式典が執り行われ、大勢の人出で賑わったそうです。
戦後は米軍により接収されましたが、1952年(昭和27年)に接収解除されました。翌年には改めて改修工事が行われ再び公園として利用されるようになりました。昭和モダンの神奈川会館は1983年(昭和58年)に老朽化のために取り壊され、現在はその面影も無く“防災公園”の意味合いしか無くなってしまいました。

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神奈川公園平面図

市街地に位置する小公園という佇まいですが、関東大震災からの「復興事業」として整備された公園として災害の記憶を忘れないことが大切だと思います。

4月 9

No.100 4月9日 市民生活の実像は描ききれたのか

やっと100まで来ました。
100話目なので何か大きなテーマでいこうかと考えましたが、150あたりまで何時もの通りで行くことにします。
ということで 1964年(昭和34年)の今日、第一回の横浜市民生活白書「横浜と私」が発表されました。
というネタから「市民生活白書」について簡単に紹介します。

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まず4月9日のネタとして候補だったものを少々。
1957年 鶴見三ツ池公園開園
桜の名所なのでタイムリーな桜情報付きでと考えていましたがスケジュールが合わず桜の無い「三ツ池公園」の紹介じゃあまりに寂しい!!ということでパス。

1973年 根岸線が全面開通しました。
昔鉄男系だったので良い線行きそうという予感がありましたが、鉄道情報だけではなく沿線の変化も同時に紹介しようと考え情報収集(しすぎ)で消化不良、もったいないけどパスします。野村の宅地開発の話しや、本郷台の軍事工場の話し、新杉田のことなどいろいろありますが、もう少し整理しないと。(実は 記念切符もちょっとあるんです)

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もう一つ、鉄!ネタで行くと
1984年 東急田園都市線「中央林間」「二子玉川」間全通の日です。
テレビドラマ「金妻」と渥美清の「泣いてたまるか」(青葉台駅周辺舞台の作品が幾つかあります)と絡ませていこうかとDVDを集めたらドラマに見いちゃってまだ途中なので時間切れ。別な機会に!!!

では前置きが長かったですが
本題に
(画期的な白書発刊)
横浜市民生活白書は1964年に第一回が編集発行されてからほぼ3年から4年ごとに発行されてきたものです。
市民生活白書 昭和39年 新しい横浜への展望 1964年 3月
市民生活白書 昭和41年 新しい横浜への記録 1966年11月
市民生活白書 昭和46年 横浜と私 1971年 1月
(以上 飛鳥田一雄 市政)
市民生活白書 昭和50年 私の横浜 1974年12月
市民生活白書 昭和54年 横浜、きのう、今日、あした 1979年 3月
市民生活白書 昭和58年 横浜はいま 1983年 3月
よこはま市民生活白書 昭和63年 OPEN UP YOKOHAMA こころをひらく街 1988年 3月
(以上 細郷道一 市政)
横浜市民生活白書 平成5年 よこはまの話をしませんか 1993年 6月
横浜市民生活白書 平成9年 前略ヨコハマ市民です 1997年10月
横浜市民生活白書 平成13年度 よこはまの暮らしやすさ 2001年11月
(以上 高秀秀信 市政)
横浜市民生活白書2006 非「成長・拡大」の時代への選択と挑戦 2006年 3月
横浜市民生活白書2009 不安の時代に生きる8つの市民像
(以上 中田宏 市政)
以上12回発行されています。
その時代の横浜の現状を総合的に知る最適な「白書」です。
しかも、行政にありがちな
「前例主義」がこの横浜市民生活白書には全くありません。
毎回よくもこんなに(といっても全ての号を確認しておりませんのでご了承ください)編集方針が変わるな!という位 表現の柱が異なっています。
横浜市民生活白書といいながら、実はその時代の市長は市政をどう考えているか?
市民とどこに接点を持ちたいのか?
をこの「白書」にこめて発行しているのではないかと思うほどです。
参考に 昭和46年度の「横浜市民生活白書」から 一部を紹介しましょう。
飛鳥田市政時代に始まったこの横浜市民生活白書は、おそらく地方自治体、もちろん政令指定都市としても画期的な白書で、日本初ではないでしょうか。昭和46年度で三号目を迎えるこの号は、ラジカルと言えばラジカルでした。
(発行部局は 横浜市が設立した“伝説的組織 企画調整室”でした)
第3号の表紙には
「都市問題の解決は、なにものにも優先して市民の生命をまもり、市民にとって欠かせない環境施設を充足することから出発しなければならない。」とあります。

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表二には、市政の四原則を提示します。
「近代的市民生活優先の原則(市民のための近代的な市政)」
「公共的計画の原則(市民全体のための計画的な市政)」
「民主的平等の原則(市民がみんな平等の権利を持つ市政)」
「主体的自治の原則(市民の自治による市政)」
当時この通り実現されたかどうかは別として 今に置き換えたい四原則です。
第一部の中扉
「市民の自発性と創意は、住民自治と人間回復の都市づくりにとって欠かせない要素である。」
第二部の中扉
「市政に関する資料や情報を公開し、率直に実情を市民に知らせることは、住民自治にとって欠かせない条件である。」
これもまた 今こそ かみしめてみる価値のある 市民を国民に置き換えたいメッセージ性を持っています。

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昭和50年度版から

横浜市民生活白書2006はデジタルアーカイブで確認することが出来ます。
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/seisaku/hakushyo/2006/

4月 8

No.99 4月8日 陸の孤島対策はあるのか?

JR桜木町駅を降りると国道16号と桜川新道(新横浜通り)に挟まれた場所に地上10階・地下3階の建物が見えます。
そこに“昭和記念館”があります。
正式名称は「桜木町ゴールデンセンター」、1968年(昭和43年)4月30日に竣工し当時桜木町随一の高層ビルでした。1983年(昭和58年)の今日、「桜木町ゴールデンセンター」が愛称「ぴおシティ」に改名されました。
※実際は“昭和記念館”とは言いませんのでご留意ください。

桜木町ゴールデンセンター、愛称「ぴおシティ」が建つ桜木町駅前の細長いゾーンは、二つの道路が川のように通り緩衝地帯のような立地です。この二本の川が桜木町とみなとみらいを隔てる障害になっています。
商業立地としては厳しい条件ですが、創業44年目を迎えました。
「ぴおシティ」のHPによると設計は伊藤喜三郎設計事務所(東京都中央区銀座7-1)ということになっていますが、病院建築の分野で著名な伊藤喜三郎氏かどうか、微妙にデータに違いがあるので”にわか調査“では不明です。

結構良いフォルムしてますよね

伊藤喜三郎氏の正式事務所名は「伊藤喜三郎設計研究所」で、事務所所在地は東京都品川区東五反田、サイトの作品リストにも掲載されていません。
一般的に設計事務所が全ての作品をHP等に掲載しないことはままあることですが、伊藤喜三郎氏にとっても1960年代の大型商業施設設計は記録として残すはずです。
おそらく「伊藤喜三郎設計研究所」または伊藤喜三郎氏個人の設計で間違いないと判断します。
理由はもう一つあります。
建築主が三菱地所(現在所有者は横浜協進産業)であるところから、ビジネスパートナーとして三菱グループと多くの作品を残している伊藤喜三郎氏との関係も整合性があります。

閉店店舗が多過ぎますね

正直、現状での「ぴおシティ」での小売業は難しいといえるでしょう。
「ぴおシティ」自体が、かつての商店街のようにシャッターの目立つ裏路地のようになってしまいました。まさに「昭和」の蔭がそこにあるという感じです。
桜木町駅に新改札が北側にできればなお苦戦を強いられるでしょう。
しかし、地下一階の「はまっ子」(八百屋)や3階のゴールデン文具は強力な集客力を持つテナントです。最近は「ダイソー」が入り集客力も少しあがりましたが今ひとつパワー不足です。でも立地は最高です。
発想の転換で、この空間 「昭和記念館」というかガード下感覚で、めちゃ面白いビジネスゾーンに化けると思うのですが、どうでしょう。

ゴールデンを維持!!
「横浜ラーメン」ゴールデンセンター創業時からあるんじゃないかな
はまっ子は何時も混んでます

(追伸 このエリアはもう少し掘り下げます)→まだ手つかずですごめんなさい。

4月 7

No.98 4月7日「その夢には、日本を変える力がある」

昨日紹介した「横浜市中央市場」に隣接する山内ふ頭周辺地区(横浜コットンハーバー地区)は、かつて浅野造船所があったところで1917年(大正6年)4月の今日設立されました。
倉持 岳志役で木村拓哉が登場したTBS系列の『日曜劇場』で放送された『南極大陸』の重要な舞台の一つとなった場所です。

「その夢には、日本を変える力がある」
このキャッチコピーで登場する南極観測船 「宗谷」の物語「南極大陸」は、2011年10月16日から12月18日までTBS系列の『日曜劇場』で放送されました。
日本は国際地球観測年に伴い南極観測を行うこととなり、南極観測船が必要となりました。限られた予算の中、
ボロボロの灯台保安船「宗谷(そうや)」を南極観測船(砕氷船=さいひょうせん)に改造することになりました。時代は造船ブーム、新しい船を造る造船所はあっても低予算で改造する造船所は皆無でした。既存の船を異なった機能を設計、改造するのは極めて難しい注文だったようです。
どこの造船所も手を挙げ無かった中、戦後造船所ではなく船舶の修理工場となっていた「日本鋼管・浅野ドッグ(浅野船渠)」が応じます。昼夜を問わぬ突貫工事を敢行し、見事な職人魂で7ヶ月の短期間で仕上げました。
宗谷はその後も修理・改装を浅野船渠で繰り返しながら、通算6回の南極観測任務を遂行します。
https://www.kanaloco.jp/kanacoco/community/harbor/topic/625/
この時「宗谷」は船齢18年で引退してもおかしくない状態でした。昭和13年に耐氷貨物船として建造され、海軍の運送艦として第二次世界大戦で働き、戦後は引き揚げ船として北に南に走り続けた造船史上の貴重な生き証人です。
http://www.funenokagakukan.or.jp/2017/5960/

保存されている宗谷

浅野船渠は「日本の臨海工業地帯開発の父」「明治のセメント王」と呼ばれた浅野総一郎が自前の造船所の建設を計画したことにはじまります。海運業に進出するため東洋汽船を起こし、自前の造船所建設まで行うというダイナミックな経営者でした。造船に関しては、三菱造船の隣に進出しようと計画するなど、闘争心も中々だったようです。
富山出身の浅野総一郎

1940年(昭和15年)に日本鋼管と合併し、「日本鋼管鶴見造船所」となりましたが「日本鋼管浅野船渠または浅野ドック」と呼ばれていました。2002年(平成14年)に造船業界の統合等で日本鋼管と日立造船が船舶・海洋部門を統合しユニバーサル造船京浜事業所となり企業体としては継続しています。

浅野船渠のあった山内ふ頭周辺地区は(横浜コットンハーバー地区)として再開発されています。一角に神奈川台場の跡が保全されています。
コットンハーバー横に神奈川台場跡が保全されています

(余談)横浜 岩井の胡麻油の本社工場が この造船所跡地の一角にあります。

4月 6

No.97 4月6日 東日本初の中央卸売市場が認可される

横浜を含め全国の中央卸売市場が今、
危機に瀕しています。
「卸売り」というと割高のイメージが定着していますが、
私たちにとって不要かどうか、
私たち消費者こそ強い関心を寄せるべき「食生活」の重要な機能です。
ここでは流通論を展開する場ではありませんが、
食の多様性と地産地消の視点から、この食品流通にとって卸売りの役割」は
別の機会で議論したいテーマであることを提起しておきます。

中央卸売市場は1923年(大正12年)に制定された卸売市場法で開設された公的市場のことです。
横浜でも卸売市場開設の動きが高まり、
1927年(昭和2年)の今日、開設許可が下り開設準備が始まりました。

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昭和5年に発表された市場概要

日本最初の中央卸売市場は
1927年(昭和2年)京都市(京都府京都市下京区朱雀分木町80番地)に、
1930年(昭和5年)高知市に開設し、
1931年(昭和6年)2月11日に
 横浜中央卸売市場が史上3番目の市場として開設されました。
東日本では初の中央卸売市場で、
築地で有名な東京は1935年(昭和10年)に開設されています。
おおよそ同時期に開設準備が始まったのですが、関係者の調整に地域差が出たようです。横浜もかなり苦労したようで、
昭和5年の概要書経過にはその苦労が記述されています。
この計画書を元に現在の中央卸売市場と比較してみましょう。

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昭和5年の計画図
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現在の市場

周辺を埋立てて全体面積が大きく拡大していることが分かります。
現在の中央卸売市場の構成は下図の通りです。
場内に「青果」と「水産」部門があります。

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その他、「食肉」部門は鶴見区大黒町に独立して昭和34年に開設されています。
また、二年後本場に統合する再編計画が所管部門の横浜市経済局から発表されている南部市場が昭和48年に開設しました。
http://blog.goo.ne.jp/nanbuitiba/
http://www.yokohama-ichiba.com/

(頑張っている中央卸売市場)
第1・3土曜には横浜中央卸売市場本場主催の「ハマの市場を楽しもう」が開催されています。次回は明日の4月7日、水産部内特設会場(C?13)で「魚河岸汁」のサービス。これからの潮干狩りシーズンに向けて「アサリ汁」が先着300人に振る舞われます。
http://www.city.yokohama.lg.jp/keizai/shogyo/orosi/topics/gyoshokufukyu.html

最近行きませんが、私は良く場外の食堂に行きました。ボリュームたっぷりの海鮮丼とか、どでかいハンバーグとかあった記憶があります。また行ってみましょう。
(番外編)
幕末に外国からの要求で、食品市場が不衛生ということで居留地の一角に「外国人用市場」を儲けたのが始まりです。本格的な市場は、1871年(明治4年)に高島嘉右門が市場開設を出願し翌年、衣紋坂(えもんざか)(現在の相生町1丁目あたり)の工部省用地を借り受け魚・鶏食肉・青物を扱う本格的な市場を開設しました。
ところが火事で焼失し、改めて1874年(明治7年)に魚問屋組合を設立し港町魚市場を開設します。港町は現在の横浜市役所が建っているところです。(市役所横にある記念碑:数メートル最初の場所から移動しました)

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※ 衣紋坂(えもんざか)は、横浜(港崎)遊郭(現在の横浜公園)に入るところにあった坂で遊客がここで衣紋をつくろう(身なりを整える)ことに由来しました。(全国の遊郭にあったそうです)

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手前が遊郭、遊郭に続く道の一段高くなっているあたりが相生から大田町あたり。

(さらに不思議な不一致見っけ)

横浜中央卸売市場の開設日? 昭和6年2月11日と昭和10年2月11日が同じ市のサイトにあります。さてどっちが正しいのか?それとも曖昧なのか?

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上記と表記が異なりますよね。本文では昭和6年とありますから下表が間違い?ってことですかね。

(横浜市会の百年)(横浜歴史年表)では1931年(昭和6年)2月11日
中央卸売市場の開場となっていますので、上記の開設年は1931年(昭和6年)で良いのでは?

4月 5

No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭

昔から、横浜も
いろいろ記念日を探し出してはお祭りをしていたようです。
特に戦後の初期は横浜復興のために、様々なお祝い事が開催されました。
日米和親条約(神奈川条約)調印百周年にあたる記念式典「開国百年祭記念式典」が1954年(昭和29年)4月の今日、横浜公園内のフライヤージム(体育館)で開催されました。
またこれを記念して史跡11ヶ所の石柱と開港広場に和親条約記念碑が建てられました。
他に井伊掃部頭銅像復元の除幕式、市内で日米交流の展示会等が開催されました。

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中央左のかまぼこ型ドームがフライヤージム。当時右の市役所はまだありません。

記念式典「開国百年祭記念式典」の報道映画

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http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shiryo/kaikokufesta.wvx
幕末最初に外国と交渉し、1854年3月31日(嘉永7年甲寅3月3日)に外交文書を取り交わしたのが「日米和親条約(神奈川条約)」です。
日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーでした。
この条約締結で「開港」が決まりました。
「開港」決定は「日米修好通商条約」他五カ国条約です。
(参考)
「3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る」

この記念式典で横浜開港の恩人として戦前評価の低かった幕末明治の人物が顕彰されます。例えば、
国内初の新橋-横浜間の鉄道敷設に尽力した佐藤政養や
数学の素養を持った思想家で公武合体論と開国論を説いた洋学者、佐久間象山
※野毛に記念碑が建っています。「佐久間象山と横浜」は改めて。

「幕末三俊」と呼ばれた幕末の外交官、岩瀬忠震らです。
皮肉にも岩瀬忠震を安政の大獄で失脚させた井伊直弼も戦前の評価は散々でした。
この式典で改めて井伊掃部頭銅像が復元されました。
(井伊直弼のエピソードも面白ので別な機会にご紹介します)

1954年(昭和29年)4月「開国百年祭」に際し建てられた碑が12あります。
この12碑は戦後最初のまとめて建てられた「記念碑」です。
目印は市民スポーツの父と呼ばれる当時の市長「平沼 亮三」のサインです。


1日米和親条約調印の地 記念碑(横浜市中区日本大通 開港ひろば)

2英一番館跡 記念碑(横浜市中区山下町シルクセンター前)

3吉田橋関門跡 記念碑(横浜市中区JR関内駅近く)

4神奈川運上所跡 記念碑(横浜市中区本町 神奈川県庁本庁舎敷地内)
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5横浜町会所跡 記念碑(横浜市中区本町 横浜開港記念会館敷地内)

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6神奈川奉行所跡 記念碑(横浜市西区紅葉ヶ丘(神奈川県立青少年センターホール前))

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7アメリカ領事館跡 記念碑(横浜市神奈川区高島台 本覚寺)

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8フランス領事館跡 記念碑( 神奈川区神奈川本町 慶雲寺)

9オランダ領事館跡 記念碑(横浜市神奈川区新町 神奈川通東公園)
(写真略)
10イギリス領事館跡 記念碑(横浜市神奈川区青木町 浄滝寺)
浄滝寺 11外国宣教師宿舎跡 記念碑(横浜市神奈川本町 成仏寺)
(写真略)
12神奈川台場跡 記念碑(横浜市神奈川区星野町)

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ここで「開国」という用語を使っていますが、
正確には国際交易の始まりであって「鎖国」に対する「開国」という表現は、近年使わない<主張>が多く出ています。私もその考えを取り入れることにしました。
4月 4

No.95 4月4日 横浜DeNAベイスターズの本拠地「ハマスタ」開幕

3月18日の続編ですが今日は公園ではなく

ベイスターズの本拠地「ハマスタ」とベイスターズについてです。

1978年(昭和53年)4月の今日、老朽化した横浜公園平和野球場に代わって新球場「横浜スタジアム」で横浜大洋が開幕試合を行いました。
「爆弾低気圧」のため、奇しくも開幕戦が34年前と一緒になりましたが、さあ試合結果は??
1978年は横浜が巨人を逆転で破り新球場オープンを飾りました。

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「横浜スタジアム」建設は全て異例づくめでした。
スタジアム完成の10年前、当時の横浜市長(飛鳥田一雄)はプロ野球仕様の「スタジアム」を建設し球団を誘致したい、と記者発表します。
しかし、計画は絵に描いた餅のように難関ばかりで風前の灯でした。
横浜公園の地主は大蔵省(財務省)のため、プロ野球のような娯楽興行には難色を示します。公園のルールを決める建設省は構造物建設の制限事項(公園法)を理由に大型構造物の設置は無理と判断します。建設資金はどうするんだ!地元経済界も困惑気味。
プロ野球というが、肝心のどのチームが横浜に移ってくるのか?
ライブドアでもDeNAオーナー契約でも大騒ぎになりましたが、プロ野球を地元に持ってくるのはそう簡単なことではありません。
市役所内でも側近中の側近含め殆ど反対、神奈川県警も警備に責任が持てないと難色を示す逆風の状況でした。
さらにスタジアム建設が決定してから完成予定期まで1年という当時では考えられない短期間での突貫工事、横浜公園内には解体前の県立武道館・米軍チャペルセンター・野外音楽堂がまだ存在している状態でした。

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1977年の航空写真、右に建物が並んでいるのが見えます。
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建ぺい率6.965%には見えませんが 建ったので良しとしましょう。

この横浜スタジアム誕生は、何人かの情熱がなければ実現しなかっただろうといわれています。言い出したのは自らもアマチュア野球チーム、球場まで作ってしまった男、共栄社の山口久像(初代横浜スタジアム社長)。
当時、野球には全く関心も興味も無かった若葉運輸の鶴岡博(現横浜スタジアム社長)もミイラ取りがミイラになってしまう。青年会議所の理事長として資金集めに奔走します。地元の電波メディア(TVK)設立に奔走していた山上貞(神奈川新聞からTVK専務)も横浜にプロ野球という『コンテンツ』の重要性をいち早く感じ取り、彼らが地元の意欲を形にしていきました。
もちろん、国土計画の堤義明、(大洋球団オーナー)中部新次郎といった核になる人物を忘れてはいけませんが、オイルショック後であり、ロッキード事件があり政財界低迷の時期に夢を紡いだ人たちに敬意を表します。
スタジアムは当時日本で初めて設計段階から多目的スタジアムとして造られた建築物としても注目を浴びました。この構想は西武の堤義明が温めていたプランをベースに設計されたそうです。
(とにかくすごい勢いのある時代だったようです。記録を読めば読むほど色々な難関を乗り越え実現したプロジェクトでした)

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内容とは直接関係ありません。1998年の夏です。混んでますね。

さて、昭和53年の4月4日は夕方から小雨がパラツキ、7時頃には一時期本降りになり試合が中断されるという状況でしたが、超満員の観客が見守る中、みごと横浜大洋が逆転勝利を収めます。この年の順位は64勝57敗9分の4位、優勝は(広岡)ヤクルトでした。横浜が優勝するのは1998年まで待たなければなりませんでした。

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前のハチマキ風の方、故立川談志さんです。

(余談)
1948年(昭和23年)8月17日 、 日本プロ野球初の夜間試合(ナイトゲーム)が、横浜公園平和野球場(ルー・ゲーリッグスタジアム)で開催されました。
カードは読売ジャイアンツ VS 中日ドラゴンズで試合は3対2で中日が勝利しました。
ジャイアンツは、横浜の初物に弱い?のかもしれません。

4月 3

No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)

ブリュターニュ生まれのフランス人青年が、
滞在地日本の横浜弁天通にある骨董品店の看板娘に恋をします。
娘の名は「三谷はな(おはなさん)」16歳でした。
彼の名はマルセル、居留地警護のために本国から来た軍人のため、いずれ別れが待っている運命でしたが、二人は刹那の思いを燃やします。
数ヶ月間の恋でした。
この出会いから別れまでの物語を
同僚の著者ルイ・フランソア・モーリス・デュバールが、親友マルセルの恋として描いたのが『絵のように美しい日本』(抄訳『おはなさんの恋』有隣堂刊)です。

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著者ルイ・フランソア・モーリス・デュバール(1845〜1928)は
極東勤務の一環として1874年(明治7年)から計6ヶ月横浜に滞在しました。
この間のジャポン経験を同僚マルセル(J・A・ルヨー)の恋を通して描いたセミドキュメンタリーLe Japon pittoresque『絵のように美しい日本』は
1879年(明治12年)にパリで発刊され話題になります。

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日本語版には収録されていません

この本のポイントは、当時ヨーロッパで主流となっていた西洋文明優位主義や人種的偏見を持たず、日本の文化を外国の一つの異文化として捉え、的確にかつ公平に表現している点です。また、ラブストーリーに絡めて日本文化や当時のアイヌも紹介している点が特筆されます。

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女性のしかもアジアの女性に尊敬の目線すら感じる評価を与えている著者は本当に数ヶ月の日本滞在で取材(情報収集)したのでしょうか?
日本文化の表現、地理の理解は秀逸です。
もしそうだとしたら、彼は天才的な情報将校であったといえるでしょう。

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右が妹のおはな、左が姉のおさだ。なかなかの美人ですね。

幕末から明治にかけて、多くの欧米人が開国された「にっぽん」を訪れますが、多くの“男たち”が日本の娘の美しさに魅了されていきます。
「逝きし世の面影」(渡辺京二 著)第九章「女の位相」で
著者は多くの訪日外国人記録から丹念に“日本人女性像”を切り抜き評論を加えています。
“日本の女性は美しかった…”?

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マルセルの恋に戻りましょう。
巻頭にこの恋物語の主人公マルセル役となったブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県生まれのフランス人青年J・A・ルヨー海軍中尉に向けて献辞が添えられています。
ブルターニュ人は頑固で有名だったらしく、物語の中でもからかいのネタになっています。
我が知友 海軍中尉J・A・ルヨーへ
友よ、ぼくらがマラッカ海峡を通過した日のことを覚えていますか。ひどい猛暑で頭がくらくらしたことなど、あらためて添えるものではありませんね。(中略)
ときには夢多き多感な青年らしく、なにかにつけてすぐにぼくの部屋を訪れ、二人でよく日本の話しに興じたものでした。ときにはキャビンのドアと船底の竜骨のあいだに、雨水の小さな湖ができて、船が揺れる度にミニュチュアの波が足元を洗い、どこからまぎれこんだのか、白太のおが屑までが寄せては返していたものです。ぼくらの所在ない空想にかかるとそんなものさえ敵対するミニ艦隊に見えました。(中略)
「いかがですか、航海中の出来事を書きとめておいては?」と、なにかの折にきみにそう勧められたことがありましたね。
「それもそうだね」
ぼくがこの本の1ページ目を書いたのは、この時でした。(後略)

村岡正明抄訳『おはなさんの恋-横浜弁天通り1875年』有隣堂刊より抜粋

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自作マップ

(恋多きルヨー)
当時、おはなさんに恋する海軍中尉J・A・ルヨーは著者デュバールをして「海軍の学問界ホープ」と言わせた秀才で、帰国後は工学の道に進み海軍兵学校で造船工学を指導しますが、37歳の若さで亡くなります。

(デュバールの略年譜)
一方デュバールは
1845年8月28日フランス、現在のブルゴーニュ地域圏コート・ドール県のジュヴレ・シャンベルタン(Gevrey-Chambertin)に生まれました。
この地名だけでワイン好きの方であれば幾つか銘柄が出てくるでしょう。
ブルゴーニュの中でも有名なワイン生産地です。
大学卒業後海軍に入り
1868年〜数年仏領セネガルに主計補佐官として赴任しました。
1873年に主計大尉として日本中国海域の哨戒艇であるデクレア号に乗り
1874年9月に長崎港に上陸しすぐに上海に向かい11月まで駐留します。
任務を終え、長崎経由横浜港に12月6日に入港します。
1875年4月2日まで横浜市内に駐留し翌日の4月3日に横浜を出港、上海勤務に向かいます。(途中 神戸に寄港し京都大阪などを見学)し5月5日に上海に到着します。約5ヶ月の勤務を終え10月に横浜に戻り、一ヶ月滞在し最後の日本での生活を体験し本国フランスに帰国します。
その後幾つかの植民地の行政官等を歴任し、最後はマルセイユで海軍の副長官を務めました。
1877年に創設された「Société de géographie de Marseille(マルセイユ地理学会)」に所属し様々な活動を行い83歳で亡くなったそうです。
※一部フランス語の本人訳なので役職等不正確かもしれません。

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余談です。高級ブランドでございます。

(歴史的背景)
1863年(文久3年)下関事件をきっかけに英仏両国が居留地の自国民保護のための軍隊を駐留します。フランス軍が山手186番地に駐屯し、遅れてイギリス軍は山手116番地に駐屯します。英仏合わせて3,000人を超える軍隊が山手に駐留することになります。その後、明治維新となり新政府との外交交渉の過程で日本政府が少しずつ居留地の安全保障の役割を担うようになりますが依然英仏軍の駐留状態(治外法権)は変わりませんでした。
岩倉具視が再三英国と交渉に当たりますが“時期尚早”として拒否されます。
1871年(明治4年)岩倉使節団がアメリカ経由欧州に向かい、

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横浜港を出る岩倉一行、象の鼻から母船に向かった様子

英国と仏国に駐屯軍撤退要求をしますが“拒否”されますが…。
英仏とも自国の事情もあり1875年(明治8年)3月をもって撤退することを日本政府に通告します。その撤退要員として
デュバール達の艦船が日本に派遣された(と思われます)。
撤退時、送別の式典が行われたり、英仏の軍人たちとの商品交換が盛んに行われたり、現場レベルでは別れ(撤退)を惜しんだようです。
ある意味
日本の独立の第一歩になるのですが、
この布告がもう少し遅れたら
二人の恋の物語はどうなったのでしょうか。

4月 2

No.93 4月2日 蚕糸貿易の歴史を見つめてきた倉庫

現在、北仲地区にある歴史的建造物「北仲ブリック」は、かつて「帝蚕(ていさん)倉庫」という戦前の日本を支えた蚕糸産業の拠点でした。
1926年(大正15年)の今日は「帝国蚕糸倉庫株式会社」の創立総会が開催された日です。
この会社は単なる倉庫会社ではありません。
大正時代に日本の蚕糸貿易を根底から支えた救済会社「帝国蚕糸倉庫株式会社」の後継組織として設立されたものです。

駐車場になり現存しませんが象徴的な倉庫でした

日本が開港開国以後、近代国家となるためには多くの資金が必要でした。
横浜港を舞台に最も多くの富をこの『国』にもたらしたのが「生糸」と「絹製品」の輸出でしたが、輸入国の事情と蚕業界の怠慢で相場が激変します。
昨日の大金持ちが今日破産というジェットコースター市場の毎日でした。
この危険な市場を安定させるために一人の商人が業界や国に働きかけて蚕糸産業の救済組織を作ります。
彼の名は原富太郎(原三渓)、経済人であると同時に政治、芸術にもリーダーシップを発揮した戦前日本の代表的人物です。
三渓園という公園を作った程度でしかイメージされていませんが経済界に貢献した偉大な人物としてもっと評価させるべきでしょう。

富太郎が残した名園「三渓園」

ことの発端は、第一次世界大戦(1914年〜1918年)でした。
この戦争の影響で、輸出の停滞、糸価の暴落、過剰生糸の保管といった問題が噴出します。原富太郎は緊急措置として、過剰な生糸処理のため「帝国蚕糸株式会社」を1915年(大正4年)に設立、社長に就任します。
「帝国蚕糸」は余剰生糸の買取り保管を行い、暴落を防止し小規模農家によって生産されている業界を救います。効果は1年で現れ、翌年には契機が回復し、生糸輸出が急増します。
そこで目的達成した帝国蚕糸株式会社はすっきり解散します。この手際の良さ、学んで欲しいものです。
ところが大正9年にまた不景気が押し寄せました。銀行が次々と倒産し横浜最大の大生糸売込商であり銀行家でもあった茂木惣兵衛(3代目)は自分の銀行も潰してしまい、また蚕糸産業に救済が求められます。
原富太郎は関係者に諮り、政府、横浜正金銀行の協力を得て第2次帝国蚕糸株式会社を設立(復活)させます。二年に渡って救済ビジネスを行い、1922年(大正11年)に危機を回避しまたまたさっと解散します。
この時に出来た余剰金が300万円にものぼりました。当時の1円は現在の1万円位ですから、300億円もの余剰利益金を二つの条件付きで政府に寄付することにします。
一つが横浜に相場安定のために生糸・絹物専用倉庫を設置する資金として180万円。
二つ目の条件が横浜生糸検査所の拡張費として120万円を原資にして欲しいということでした。現在価値で300億円にもなる資金で「横浜生糸検査所」(現在の第二合同庁舎)と帝蚕倉庫(現在の北仲ブリック他)が建てられます。

北仲 旧帝蚕倉庫事務所

この300億円は、非常に生きた資金になります。皮肉にも大正12年9月1日に関東大震災が起り、横浜市も壊滅的被害を受け、その復興資金として大変役に立ちます。
時代の危機に対し的確な対策を行った原富太郎は、震災復興会の会長としても私財をなげうって活動します。彼と横浜の多くの人たちの尽力で昭和10年ごろまでに横浜はかなり復興しますが、1945年の横浜大空襲でまた廃墟となってしまいます。

(近代資産としても価値があります)
☆「帝蚕倉庫北仲営業所倉庫」・・・横浜市中区北仲通り5-57
竣工:大正15年(1926年)
設計:遠藤於菟(三井物産横浜ビル設計者)
施工:大林組
R.C3階建て、地下1階

☆「旧・帝蚕倉庫本社事務所」・・・横浜市中区北仲通り5-57
竣工:大正15年(1926年)
設計:遠藤於菟(生糸検査所の設計者)
施工:大林組
鉄筋コンクリート3階建て