4月 2

No.93 4月2日 蚕糸貿易の歴史を見つめてきた倉庫

現在、北仲地区にある歴史的建造物「北仲ブリック」は、かつて「帝蚕(ていさん)倉庫」という戦前の日本を支えた蚕糸産業の拠点でした。
1926年(大正15年)の今日は「帝国蚕糸倉庫株式会社」の創立総会が開催された日です。
この会社は単なる倉庫会社ではありません。
大正時代に日本の蚕糸貿易を根底から支えた救済会社「帝国蚕糸倉庫株式会社」の後継組織として設立されたものです。

駐車場になり現存しませんが象徴的な倉庫でした

日本が開港開国以後、近代国家となるためには多くの資金が必要でした。
横浜港を舞台に最も多くの富をこの『国』にもたらしたのが「生糸」と「絹製品」の輸出でしたが、輸入国の事情と蚕業界の怠慢で相場が激変します。
昨日の大金持ちが今日破産というジェットコースター市場の毎日でした。
この危険な市場を安定させるために一人の商人が業界や国に働きかけて蚕糸産業の救済組織を作ります。
彼の名は原富太郎(原三渓)、経済人であると同時に政治、芸術にもリーダーシップを発揮した戦前日本の代表的人物です。
三渓園という公園を作った程度でしかイメージされていませんが経済界に貢献した偉大な人物としてもっと評価させるべきでしょう。

富太郎が残した名園「三渓園」

ことの発端は、第一次世界大戦(1914年〜1918年)でした。
この戦争の影響で、輸出の停滞、糸価の暴落、過剰生糸の保管といった問題が噴出します。原富太郎は緊急措置として、過剰な生糸処理のため「帝国蚕糸株式会社」を1915年(大正4年)に設立、社長に就任します。
「帝国蚕糸」は余剰生糸の買取り保管を行い、暴落を防止し小規模農家によって生産されている業界を救います。効果は1年で現れ、翌年には契機が回復し、生糸輸出が急増します。
そこで目的達成した帝国蚕糸株式会社はすっきり解散します。この手際の良さ、学んで欲しいものです。
ところが大正9年にまた不景気が押し寄せました。銀行が次々と倒産し横浜最大の大生糸売込商であり銀行家でもあった茂木惣兵衛(3代目)は自分の銀行も潰してしまい、また蚕糸産業に救済が求められます。
原富太郎は関係者に諮り、政府、横浜正金銀行の協力を得て第2次帝国蚕糸株式会社を設立(復活)させます。二年に渡って救済ビジネスを行い、1922年(大正11年)に危機を回避しまたまたさっと解散します。
この時に出来た余剰金が300万円にものぼりました。当時の1円は現在の1万円位ですから、300億円もの余剰利益金を二つの条件付きで政府に寄付することにします。
一つが横浜に相場安定のために生糸・絹物専用倉庫を設置する資金として180万円。
二つ目の条件が横浜生糸検査所の拡張費として120万円を原資にして欲しいということでした。現在価値で300億円にもなる資金で「横浜生糸検査所」(現在の第二合同庁舎)と帝蚕倉庫(現在の北仲ブリック他)が建てられます。

北仲 旧帝蚕倉庫事務所

この300億円は、非常に生きた資金になります。皮肉にも大正12年9月1日に関東大震災が起り、横浜市も壊滅的被害を受け、その復興資金として大変役に立ちます。
時代の危機に対し的確な対策を行った原富太郎は、震災復興会の会長としても私財をなげうって活動します。彼と横浜の多くの人たちの尽力で昭和10年ごろまでに横浜はかなり復興しますが、1945年の横浜大空襲でまた廃墟となってしまいます。

(近代資産としても価値があります)
☆「帝蚕倉庫北仲営業所倉庫」・・・横浜市中区北仲通り5-57
竣工:大正15年(1926年)
設計:遠藤於菟(三井物産横浜ビル設計者)
施工:大林組
R.C3階建て、地下1階

☆「旧・帝蚕倉庫本社事務所」・・・横浜市中区北仲通り5-57
竣工:大正15年(1926年)
設計:遠藤於菟(生糸検査所の設計者)
施工:大林組
鉄筋コンクリート3階建て

3月 9

No.69 3月9日 事業失敗鐵道、横浜線物語

東神奈川から八王子まで走るJR横浜線(全長42.6km)は鉄道の中でも超黒字路線の一つです。ところが横浜線はかなり長い間赤字路線でした。この横浜線、神奈川を南北にシルクロードを走り抜ける産業鉄道として1904年(明治37年)のこの日、横浜線の前身となる「横濱鐵道(株)」が設立されました。

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横浜線(東神奈川と八王子を結ぶ路線)は横浜港に群馬山梨から絹や物資を運ぶ貨物線として横浜商人が渇望していました。ところが、鉄道は国家政策であり、事業家にとっても熾烈な投機合戦の場でした。明治の鉄道王と呼ばれた雨宮敬次郎と横浜商人グループは、山梨群馬を結ぶ鉄道路線で熾烈な競争を行いますが、雨宮の甲武鉄道計画に破れます。
雨宮が半歩先にこの計画を進めることで、八王子と横浜を繋ぐ計画は政府から許可が中々下りません。明治19年(現在の南武線ルート)武蔵鐵道計画を誓願しますが却下されます。その後何度も計画が持ち上がりますが、中々具体化しません。
明治26年になって東神奈川と八王子を結ぶ路線を横浜商人が路線敷設免許申請します。その後5回目の申請が行われ明治35年、ようやく許可になります。本社を東神奈川(現在の横浜市神奈川区、横浜線の起点)におき、発起人40名で資本を募り4万6千株、994名の株主によって横濱鐵道株式会社が1904年(明治37年)の今日3月9日に設立されることになります。

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ところが、物事にはタイミング、時流、先見性が大切です。すでに絹の鉄道貨物はほとんど東京経由で運ばれていました。横浜鐵道、開通したは良いが、殆ど赤字というありさまでした。さらに最初から単線で計画したため、融通が利かなくなります。鐵道の投資に関しては、横濱商人よりも雨宮啓次郎が一枚上手でした。雨宮の甲武鉄道は基幹路線として政府が買い上げられます。彼はかなりの利益を得たといいます。
ということで横浜線は逆に赤字で経営が破綻寸前までになり、結局国に吸収され国有鉄道となります。

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戦前から戦後まで「ボロ電」と言われた時期もあるほど、ローカル線の道を歩みますが、高度成長期から沿線の宅地化が徐々に進み利用客が増加しますが単線で増発できない殺人ラッシュ電に変身します。
1967年からようやく輸送力増強のための複線化工事が順次行われ、1988年に全線が複線化されました。1998年から10年間、土曜・休日に横須賀線に乗り入れ逗子駅までの直通電車が運行されていたことは意外に知られていません。横浜と松本を結ぶ「はまかいじ」も同時期に始まりましたが、これは現在も臨時電車扱いで継続しています。(昨年は少し走っていましたが今年は???です)

現在最大のネックは「東神奈川駅の不便さ」です。ラッシュ時の根岸線と横浜線の乗客が入り乱れる混雑状況は利用者が増えれば増えるほど厳しい状況になっています。

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※余談
3月9日は(鉄道の父)エドモンド・モレルが横浜に到着した日でもあります。

2月 28

No.59 2月28日 アジア有数の外為銀行開業

2月18日の「過去に学ばないものは過ちを繰り返す」でも紹介しましたが、明治政府は外国に対し通貨主権を回復するために様々な手だてを試みます。
1880年(明治13年)
1月に安田銀行(富士銀→みずほ銀)、
2月のこの日横浜正金銀行(東京銀)、
4月には三菱為替店(三菱銀)が相次いで開業します。

旧正金銀行本店、現県立歴史博物館 Wikiより

横浜正金銀行は、横浜区本町4町目58番地を本店として営業を開始します。戦前HSBC(香港上海銀行)とともにアジア最大級の国際金融を担う日本経済を支えた外為銀行でした。戦後解体され外為部門が東京銀行になりその後三菱銀行と合併します。

明治政府は、維新後国家体制の確立のために様々な出費を強いられ財政的に逼迫します。さらに明治10年に起った内乱、西南戦争によって軍費調達のために紙幣を乱発し、これによってインフレーションが起ります。また輸入超過により銀貨が大量に流出します。
時の大蔵卿(大蔵大臣)大隈重信は、銀貨流出抑止と洋銀管理が必要と考えました。同じく慶応義塾の福沢諭吉は紙幣の乱発が貨幣と紙幣の格差を生み、財政危機に陥っているとして金融機関の設立を大隈に提案します。
同じ危機感を認識した二人は為替銀行設立に動きます。
慶応義塾社中中心に民間資金200円、政府が100円を出資し開業したのが横浜正金銀行です。
早矢仕 有的の片腕として丸善の発展に努め郷里名古屋に帰り事業を展開していた中村道太を福沢が呼び戻し初代頭取に推挙しました。副頭取には小泉信吉(ロンドン支店開設等を担い、政府主税官を経て塾長)が就任し、主な業務を対外貿易金融に特化した外為銀行が誕生しました。
その後、政変が起こり(明治14年の政変)中村道太には劇的なドラマが待ち受けています。このエピソードは別の機会にご紹介しましょう。

2月 9

No.40 2月9日 日諾交流

アメリカは<米>、イギリスは<英>、ドイツは<独>と漢字で書き表します。
では、
「諾」とはどこの国を表しますか?
戦前の豪華客船繋がりで、戦後の記録から一隻の豪華客船を発見しました。
1961年(昭和36年)のこの日、新春に集中的に訪れる外国客船の第一陣としてノルウェー船籍のベルゲンスフィヨルド号が横浜に入港しました。ノルウェーは漢字で諾威と書きます。

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ベルゲンスフィヨルド号、1956年建造で総トン数18,739t一等103名、ツーリスト・クラス775名規模の中型豪華客船です。

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ベルゲンスフィヨルド号

今日は横浜に来航したベルゲンスフィヨルド号を通してノルウェーと日本との交流を紹介しましょう。ノルウェーといえば、ビートルズのNorwegian Wood、最近では村上春樹の「ノルウェイの森」が有名ですが、意外に「ノルウェー」本国に関しては情報不足ではないでしょうか。

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立憲君主制、海運国家で、捕鯨国という共通項を持つノルウェーとは
明治政府が初めて修好通商条約を締結した国(当時スエーデン=ノルウェー同君連合)です。
その後、ノルウェーが独立しますが、そのキッカケは日露戦争での日本の勝利でした。横浜とノルウェーの因縁ですが、ヨハン・マルティウス・トレーセンをご存知でしょうか。
ヨハンは、ノルウェーに生まれアメリカに移住し米国に帰化しました。
ヨハンは米国で名前を米国人名に変えます。
ヨハンことウィリアム・コープランドは1864年に来日し牛乳販売店を共同経営します。
その後運送業で成功し財を得ます。
彼は得た財を活かし、
以前ノルウェーで修行したビール醸造技術を活かすべくビール醸造所建設を決意します。
1870年に山手天沼の水を使ってビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設します。15年続きますが、諸般の事情で醸造所をまるごと手放します。一時期再建が危ぶまれますが、岩崎弥之助ら9人が資本参加しコープランドの醸造所を買い取り再建します。このビール工場ででき上がったビールが「キリンビール」です。
No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

コープランドは「スプリング・バレー・ブルワリー」時代に妻を病気で失います。ビール工場を手放した後、日本人の勝俣ウメと再婚します。ハワイ、そしてグアテマラでビジネスを始めますがあまり上手く行かず、第三の故郷日本に戻り亡くなります。68歳の生涯でした。
http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/person/pioneer/copeland/index.html

現在のうまい!地ビール!

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1月 30

No.30 1921年1月30日 MATSUYA GINZAのDNA

参考資料の一つ「横浜近代史総合年表」の中から、1921年(大正9年)のこの日、「鶴屋」が焼失した記事を発見しました。
明治大正期、
大都市に成長した横浜の発展は災害との戦いでもありました。
横浜最大の繁華街「伊勢佐木」の街も様々な火事、そして関東大震災、空襲を乗り越えてきました。
戦前の横浜年表からは多くの火災記録を発見することが出来ます。
横浜鶴屋といえば「GINZA MATSUYA」の前身、松屋鶴屋呉服店のことです。横浜から育ったデパートのエピソードをご紹介しましょう。

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デパートは19世紀の歴史的発明の一つと言われています。
19世紀半ば、パリに産声をあげた、世界初のデパートであり世界最大の大型小売店「ボン・マルシェ」の登場です。
消費を「ニーズ」から「シーズ」に変えた画期的発明でした。
ウィンドウ・ディスプレイや広告、演奏会、バーゲンなどいまではごく当たり前の販売戦略を次々と発明していった『デパートを発明した夫婦』(鹿島茂著)によって時代が変わりました。それから半世紀後、日本でも各地に現在の百貨店スタイルに近い商業施設が登場します。
横浜では呉服店を母体とした大型店舗が次々と登場します。その中に、横浜の片隅に誕生した鶴屋呉服店がありました。今日のエピソード、MATSUYA GINZAのルーツです。
創業者の古屋徳兵衞氏は十三歳で甲州白州町から江戸に出て奉公に入ります。
その後幕末の動乱で郷里に帰りますが、再び故郷から横浜に出て呉服の仲買商を始めます。商売も順調に進み慶応4年、20歳の時に横浜緑町(西区)に呉服商を開業します。
その後、1869年(明治2年)「鶴屋呉服店」を石川町亀の橋に創業します。
創業から20年たった1889年(明治22年)、順調に業績を伸ばしていた鶴屋に転機が訪れます。

経営不振の東京神田今川橋「松屋呉服店」を立て直して欲しいと依頼され買収します。最初は無理矢理統合せず、今川橋「松屋呉服店」のやりかたを尊重し立て直しに成功します。
1903年(明治36年)に横浜と東京を古屋松屋呉服店と名前を統一します。
1910年(明治43年)には三階建ての横浜鶴屋呉服店を横浜の商業中心地伊勢佐木町にオープンします。
1919年(大正8年)には株式会社松屋鶴屋呉服店となり、1924年(大正13年)に商号を「株式会社松屋呉服店」とします。
1925年(大正14年)に銀座本店が開業、横浜も吉田橋横浜店、壽屋を合併し浅草にも出店します。
その間、数回の火災、震災の大きなダメージを乗り越えて行きます。
創業者はアイデアマンでした。店員教育の革新、アイデア商売の連続。例えば端切れ布の小売り、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って商品化し人気を博します。一番有名なのが「バーゲン」(特売日)で、元祖と言われてます。
MATSUYA GINZAの歴史

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また、当時百貨店の情報発信源として注目を浴びていた機関誌(PR誌)でも明治39年に「今様」を発刊します。最初は季刊でしたが後に月刊になります。PR誌としては、三井呉服店(三越)の「花ごろも」、髙島屋飯田呉服店の「新衣装」、白木屋「家庭のしるべ」等に次ぐ後発ですが布地の実物見本を貼付けるなど豪華でデザインが光るPR誌でした。

現在横浜から離れ東京のMATSUYA GINZAとなっていますが、松屋のDNAは先取の気風が満ち満ちていた横浜(現在無いという訳ではありません)にあります。
2007年2008年連続して毎日デザイン賞特別賞受賞、毎日広告デザイン賞の先駆けは1955年のグッドデザイン賞コーナー設置、戦前の「今様」にその革新性があったからではないでしょうか。

1月 28

No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

またまた嘉右衛門エピソードです。(20130127一部加筆)

1月27日は高島嘉右衛門の瓦斯会社をめぐる国際競争の話しをしました。
今日は彼が学校を作った話しです。
明治時代は全国に学校が多く生まれた時代です。
1871年(明治4年12月19日)の今日、高島嘉右衛門は伊勢山下と入舟町に私財3万円を投じて語学を中心にした塾を開校しました。
「藍謝堂」通称高島学校と言います。
他の鉄道建設、ガス事業と比べて地味ですが興味あるところです。
高島学校については手元にあまり情報がありませんので少し仮説を含め進めて行きます。

開港150周年記念のお芝居にもなった藍謝堂は、怪商 高島嘉右衛門が手がけた学校です。
創設時、福沢諭吉に協力を求めます。
協力してくれたら子供の留学資金を出そう!
と福澤諭吉に手紙を書くなど 何度か依頼をします。
福沢諭吉は丁重に断ります。(福翁自伝では“高島”のタの字も出さず断ったとあります)
でも本音はかなり不愉快だったようです。
一説では拒絶と伝わっています。
少し長くなりますが「福翁自伝」を引用します。

「子供の学資金を謝絶すそれにまた似寄ったことがある。明治の初年に横浜のある豪商が学校を拵えて、この慶応義塾の若い人を教師に頼んでその学校の始末をしていました。そうするとその主人は、私に親(みず)から新塾に出張して監督をして貰いたいという意があるように見える。私の家には、そのとき男子が二人、娘が一人あって、兄が七歳に弟が五歳ぐらい。これも追々成長するに違いない、成長すれば外国に遊学させたいと思っている。ところが世間一般の風を見るに、学者とか役人とかいう人が動(やや)もすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修業させることを祈って、ドウやらこうやら周旋が行き届いて目的を達すると、獲物でもあったように喜ぶ者が多い。嗚呼(ああ)見苦しいことだ、自分の産んだ子ならば学問修業のために洋行させるも宜しいが、貧乏で出来なければさせぬが宜しい、それを乞食のように人に泣き付いて修業をさせて貰うとは、さてもさても意気地のない奴共だと、心窃(ひそか)にこれを愍笑(びんしょう)していながら、私にも男子が二人ある、この子が十八、九歳にもなれば是非とも外国に遣らなければならぬが、先だつものは金だ、どうかしてその金を造り出したいと思えども、前途甚だ遙かなり、二人遣って何年間の学費はなかなかの大金、自分の腕で出来ようか如何だろうか、誠に覚束ない、困ったことだと常に心に思っているから、敢えて恥ずることでもなし、颯々と人に話して「金が欲しい、金が欲しい、ドウかして洋行をさせたい、今この子が七歳だ五歳だというけれども、モウ十年経てば支度をしなければならぬ、ドウもソレまでに金が出来れば宜いが」と、人に話していると、誰かその話を例の豪商にも告げた者があるか、ある日私のところに来て商人の言うに「お前さんにあの学校の監督をお頼み申したい、かく申すのは月に何百円とかその月給を上げるでもない、わざわざ月給と言っては取りもしなかろうが、ここに一案があります、外ではない、お前さんの子供両人、あのお坊ッちゃん両人を外国に遣るその修業金になるべきものを今お渡し申すが如何だろう、ここで今五千円か一万円ばかりの金をお前さんに渡す、ところで今いらない金だからソレをどこへか預けておく、預けておくうちに子供が成長する、成長して外国に行こうというときには、その金も利倍増長して確かに立派な学費になって、不自由なく修業が出来ましょう、この御相談は如何でござる」と言い出した。なるほどこれは宜い話で、此方はモウ実に金に焦れているその最中に、二人の子供の洋行費が天から降って来たようなもので、即刻、応と返辞をしなければならぬところだが、私は考えました。待てしばし、どうもそうでない、そもそも乃公があの学校の監督をしないというものは、しない所以(ゆえん)があってしないとチャント説をきめている。ソコで今金の話が出て来て、その金の声を聞き、前説を変じて学校監督の需(もとめ)に応じようと言えば、前にこれを謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ今その金を請け取るのが間違いである。金のために変説と言えば、金さえ見れば何でもすると、こう成らなければならぬ。これは出来ない。且つまた今日金の欲しいというのは何のために欲しいかと言えば、子供のためだ。子供を外国で修業させて役に立つようにしよう、学者にしようという目的であるが、子を学者にするということが果して親の義務であるかないか、これも考えてみなければならぬ。家に在る子は親の子に違いない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。如何あっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果さないという理窟はない。親が自分に自ら信じて心に決しているその説を、子のために変じて進退するといっては、いわゆる独立心の居所(いどころ)がわからなくなる。親子だと言っても、親は親、子は子だ。その子のために節を屈して子に奉仕しなければならぬということはない。宜しい、今後もし乃公の子が金のないために十分の教育を受けることが出来なければ、これはその子の運命だ。幸いにして金が出来れば教育してやる、出来なければ無学文盲のままにして打遣(うっちゃ)っておくと、私の心に決断して、さて先方の人は誠に厚意をもって話してくれたので、もとより私の心事を知る訳けもないから、体(てい)よく礼を述べて断わりましたが、その問答応接の間、私は眼前に子供を見てその行末を思い、また顧みて自分の身を思い、一進一退これを決断するには随分心を悩ましました。その話は相済み、その後も相変わらず真面目に家を治めて著書翻訳のことを勉めていると、存外に利益が多くて、マダその二人の子供が外国行の年頃にならぬさきに金の方が出来たから、子供を後回しにして中上川(なかみがわ)彦次郎を英国に遣りました。彦次郎は私のためにたった一人の甥で、彼方もまたたった一人の叔父さんで外に叔父はない、私もまた彦次郎の外に甥はないから、まず親子のようなものです。あれが三、四年も英国に居る間には随分金も費やしましたが、ソレでも後の子供を修業に遣るという金はチャント用意が出来て、二人ともアメリカに六年ばかり遣っておきました。私は今思い出しても誠に宜い心持がします。よくあの時に金を貰わなかった、貰えば生涯気掛かりだが、宜いことをしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉に瑾(きず)を付けなかったような心持がします。」

福沢と高島の接点はどこにあったのでしょうか?
なぜ断ったのでしょうか?
今日はこのあたりのことを少し考えてみます。
その前に「藍謝堂」について。
伊勢山下に開校とありますから、瓦斯会社の近くです。実業家高島嘉右衛門はかなり大規模の学校ビジネスを構想したのでしょう。
実際には学生が集まらずビジネスにならないということであきらめたのか、
開校二年で神奈川県に預けてしまいます。
高島の強い招聘に対し福沢は全てを断る道理も無く自分の代わりに
慶應義塾の教員を派遣します。
福沢は高島学校を訪れることはありませんでした。

(高島学校に学んだ人達)
短期間ですが高島学校では意外な人物が学んでいます。
著名人としては、岡倉天心(東京美術学校、日本美術院の創設者)寺内正毅(軍人、総理大臣)渡部 鼎(医師)が有名です。
渡部鼎は、高島学校で英学と理化学を学び医学を志し(現在の)東京大学医学部に学びます。野口英世が医学を志すきっかけとなった医師です。
野口英世も横浜エピソードが沢山あります。金沢区の長浜の検疫所に勤めていました。

No.387 謎解き野口英世
1871年(明治6年)11月11日

高島が手放した藍謝堂は、野毛山に新校舎を設立し「横浜市学校」と改めます。翌年『修文館』となりますが焼失し廃校になる運命となります。

さて福沢と高島の関係ですが
慶応義塾は明治に入りしばらく経営難となり資金繰りに苦労します。
そのことを知ったのかどうかわかりませんが、高島は福沢に資金提供を働きかけています。高島流ヘッドハンティングを試みたようです。
当時多くの政治家、外交官と付き合いのあった高島嘉右衛門の申し出に門前払いも大人げないので、福沢はスタッフを送り込むことで彼を敵にしないようにしたのでしょう。
慶応義塾から送り込んだ教師は福沢の側近中の側近、(例えば大阪慶応義塾を立ち上げた名児耶六都とか義塾草創期の盟友小幡甚三郎)を派遣しているところからも、
しっかり塾長福沢の意を踏まえた上で赴任したと推測できます。
高島と福沢はその後、対立していきます。
横浜のガス灯事業に関しては、これも横浜で医師として活躍した福沢の愛弟子で「丸善」を創設する早矢仕 有的が、瓦斯会社売却疑惑を全面批判します。
福沢自身も後に「時事新報」で高島の方法を批判します。
高島がたった二年で「高島学校」を手放したのは
慶応義塾から応援に行ったメンバーがキーワードを揃えて
「学校経営は大変ですよ!」
嘉右衛門の耳元でささやいたからかもしれません。
高島学校は売却ではなく寄付されます。
1873年(明治6年)に「学校設立の功により明治天皇から三組の銀杯を下賜される」と高島は自叙伝で自慢をしていますが実際は大赤字で手放したのが事実のようです。

1月 27

No.27 1月27日 ニッポン、国際コンペに勝つ

電信が東京横浜間に開通した翌日1871年(明治3年12月17日)の今日、
神奈川県から横浜市内でガス灯事業を展開する事業免許が「日本社中」に下りました。

ところが、この免許申請にいち早く手を挙げ決まりかけていたドイツ商社から抗議が出ます。県の認可はオカシイ。「日本社中」は後から申請したではないか!公正でない!というものです。この認可は、外務省、神奈川県、居留地の外国公使を巻き込みます。現代でもありそうな話しです。今日はこのガス事業をめぐるエピソードをご紹介します。

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横浜は最初に開国した港ということもあり、多くのはじめて物語があります。ガス灯関連に関しても書籍やネットで情報発信をしていますので少し別な角度からこの日本初のガス事業について調べてみました。
★(意外と誤解されていること)はじめてガス灯の点灯に成功したのは横浜ではありません。大阪です。横浜は(ガス灯)瓦斯事業がはじめて起こされた街です。
【本編】
国際商取引のルールは時代に応じて変わります。時代の力関係、政治制度等を含め現在の常識では計れないことが往々にして起ります。
明治初期に起ったガス灯を巡る国際競争の視点からこの事件を考えてみます。
ガス、電気、鉄道、法律、武器、通信様々な外国基準が日本を襲います。
ガス灯事業も幕末から居留地の外国人から提案されていたインフラ整備でした。幕末にアメリカ、明治政府になってドイツ、イギリスの各商社がガス灯を作りたいと免許申請に手を挙げます。欧米のスタンダードモデルを提案してきたのです。国も神奈川県もかなり強い関心を示します。アメリカ、イギリスが却下されたこともあり「ドイツ」に決まりかけていました。
ところがこの事業「待った!」と手を挙げたのが高島嘉右衛門率いるジョイントベンチャー「日本社中」です。名前がふるってますよね。
今で言えば「チームニッポン」ってとこです。ここには「ナショナリズム」が働いています。また時の欧米の政治状況も繁栄しています。当時の日本政府(外務省)と居留地の一部の国がドイツにガス事業のインフラを任せることに難色を示した結果、急遽「日本社中」を組みドイツに対抗します。
同時期、これも欧米各国から鉄道事業に関して建議があり、日本政府は注意深くイギリスに東京横浜間の鉄道敷設を依頼しています。おそらくライバルドイツは「ガス灯は取るぞ!」とプロジェクトを立てたに違いありません。しかも暗い居留地をなんとかしようという要望は居留地各国から出ていたようです。日本政府も当初居留地内だったら(外国資本でも)構わないのではないかと考えていましたが、ガス灯を含めたエネルギー事業は日本の管理下におくべきだという意向がこのガス灯事業にも働きます。
後から手を挙げた「日本社中」にガス事業を許可します。日本チームは技術的裏付けをスイス商社シーベル・ブレンワルト商会を介してフランスに求めます。認可が覆ったドイツは面白くありません。居留地各国に異議を出します。
No.364 12月29日(土)小国の独立力

(しぶしぶかどうかわかりませんが)
外務省と居留地の各国公使が集まり協議します。そこで出された案が居留地の各国による発注投票でした。スイスはドイツと半ば戦争状態、欧州でどんどん国力を増しているドイツにフランスもイギリスも警戒感を強く持っていましたから事実上のドイツ敗北です。(ドイツ領事はドイツ独占を正当と主張、協議会の席を途中退出したそうです)
再度「日本社中」にガス灯事業が決り一気に事業が始まります。シーベル・ブレンワルト商会はプレグランという若き優秀なフランス人技術者を紹介し、彼がこの責任者となります。
1872年10月はじめて街中にガス灯が点灯します。
※これに関しても謎の事実がありドラマが隠されているようです。
この騒動前にプレグランが設計したガス事業の設計図が横浜市に残っているそうです。実は仮プランが彼の下で既に進んでいたのでは?真実はわかりません。
※高島の瓦斯会社はその後町会所に売却されます。

1月 22

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)

2011年、仕事の合間に「横浜とお茶」をテーマに調べている時、大谷嘉兵衛という人物に出会いました。日本のお茶産業の振興に情熱を捧げた彼は、横浜村の鎮守のために「伊勢山皇大神宮」を野毛山に遷座し初代氏子総代の一人となります。
1931年(昭和6年)1月22日の今日、伊勢山皇大神宮境内の一角で大谷嘉兵衛翁銅像の除幕式が行われました。

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「横浜とお茶」にまつわるエピソードはたくさんあります。
これから折をみて紹介していくことになるでしょう。
今日は伊勢山皇大神宮と大谷嘉兵衛について簡単に触れておきます。
1931年(昭和6年)1月22日大谷嘉兵衛翁銅像の除幕式挙行」
ならば
大谷嘉兵衛の像または碑が伊勢山皇大神宮にあるはずだ
ということで神社内を歩いてみましたがそれらしき像が見当たらない。
現在もネット検索上では、大谷嘉兵衛の碑が伊勢山皇大神宮境内にあるというテキストが幾つか掲載されています。本当のところを確認するために社務所で事実関係を聞いてみると「ありません」というそっけない答えでした。

ネットで出てきたデータは間違いか?
さらに資料を探すと、
浜田猶三氏の手紙の紹介があり
『(前文略…当横浜市にも郷土出身吾々の大先輩 故 大谷嘉兵衛翁が市民から忘れ去られて行く事は遺憾の極みであります。翁は当横浜の草分けの一人であり、戦前までは野毛の伊勢山大神宮の庭前に銅像が建立されていましたが、戦争のなかばに鋼鉄の不足で回収せられ長らく台石のみが残って居りました。所が昭和二十年頃 前市長半井清氏の奔走で高さ五メータ位の顕彰燈籠が建てられましたが、神宮所では神前結婚式を行う為め今では自動車の駐車場同然で誠に嘆かわしき次第です。…以下略)』
という内容がでてきた。
再度伊勢山を確認することにしました。
そういえば以前伊勢山皇大神宮が“破産”する原因となったホテル海洋亭建設の際、表参道の駐車場を大きく改装したことを覚えています。
その時に外されたか、除去されたか。
その可能性が高い。しかし 事実は薮の中です。

銅像になった大谷嘉兵衛は、現在の三重県松阪市に生まれました。1862年(文久2年)17歳の時に横浜に出て、故郷の隣村出身小倉籐兵衛が経営する横浜北仲通り「伊勢屋」に奉公します。
関西屈指のお茶の生産地だった伊勢の製茶貿易に就きます。
彼に大きな転機が訪れます。お茶関係の貿易経験を活かして「スミス・ベーカー商会」の製茶買入方として働き始めます。
ここで彼の才能が開化します。ビジネス感覚と国際感覚を身につけ日本を代表する実業家の実力を磨きます。
彼のエピソードを一つ紹介しておきましょう。
幕末好調だったお茶の対米輸出も、大変浮き沈みの激しい業界でした。特に最大の輸出先だったアメリカが戦費調達のために“お得意の”高い関税を決め、日本国内お茶産業が大打撃を受けます。
この状況に対し、大谷は積極的行動に出ます。
アメリカに対しコーヒーは無税、茶に重税とは不合理と主張し、当時のマッキンレー大統領にも直談判します。その後、茶関税は廃止され輸出はふたたび伸びたため瀕死のお茶業界が復活したそうです。気骨ある明治人の一人でした。
その後
横浜市会議員、神奈川県会議員に推挙され、議会では議長を務めるなど、政治家としても活躍した大谷嘉兵衛は、晩年亡くなるまでお茶業界振興に尽くしました。
1931年(昭和6年)1月22日のこの日、翁銅像の式典が行われてから二年後の1933年(昭和8年)2月3日90歳でその生涯を終えました。
処世訓は
「修養は怠るなかれ」
「信用は人生の花」
「人は平等、金は共通」
「用心は処世の要道」

1月 21

No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)

岸田 吟香(きしだ ぎんこう)という人物を知っていますか?
開港、そして「はじめて物語」では欠かせない横浜ゆかりの人物です。
1880年(明治13年)のこの日、
岸田 吟香は日中間の薬事業拡大のため横浜港から東京丸で中国上海に向かいます。
その後1890年代まで、毎年のように上海に出向き、
日中間の薬事ビジネスを成功させた異色の実業家です。
単に横浜港から出発した有名人をテーマにすることは避けたいと思っていましたが
この日の渡航が彼にとって重要な旅立ちだったので
岸田 吟香の「この日」を紹介します。

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(三省堂「画報日本近代の歴史5」より)

幕末明治期には破天荒な人物が多く輩出しています。
ギンコウも代表的な豪傑の一人と言えるでしょう。
岸田 吟香は1833年(天保4年)美作国久米北条郡垪和村に生まれ、
19歳で江戸に出ますが病気で郷里に戻ることになります。
故郷で英気を養い、再度23歳で大坂へ向かいます。
大阪では漢学を学び、翌年には江戸の藤森天山に入門しますが、師匠の天山が幕府に追われる身となり、ギンコウも上州伊香保へ逃れることになります。
決して順風ではなかった彼にチャンスが訪れます。
1863年(文久3年)4月
ギンコウ、眼病を患い横浜にヘボンを訪ねたことから彼の人生が変わります。
ヘボンと“ウマが合った”ギンコウは
横浜で“居留地”を隠れ蓑に匿名新聞を創刊し自由な意見を展開し成功します。
これが「横浜新報 もしほ草」新聞です。
1868年(明治元年、慶応四年)に米国人バン・リードEugene M.Van Reedが主宰し岸田吟香が共同で横浜居留地内で発行した(ことになっている)新聞で、週2回刊で記事のほとんどは岸田吟香が執筆したものでした。
リードの名は吟香が筆禍(言論弾圧)を免れる為の隠れ蓑的存在で、
実際新政府の検閲を逃れ、自由な発言を行います。

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「もしほ草」は木版刷り、半紙四つ折、四六判、
一行20字詰め、一面10行、唐紙片面刷りの袋表紙、
萌黄色の絹糸二箇所綴じ出版デザインとしても素晴らしいものです。
広告記事が一切無く、仮名混じりの平易な文で書かれています。
「…余が此度の新聞紙は日本全国内の時々のとりさたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海、香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且月の内に十度の余も出板すべし。それゆゑ諸色の相場をはじめ、世間の奇事珍談、ふるくさき事をかきのせることなし。また確実なる説を探りもとめて、決して浮説をのせず。…」

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その他、ギンコウは様々なビジネスに関係していきます。
汽船事業、骨董玩具店、氷の販売店開業とビジネスの目利き感覚は冴え渡ります。
自分の目の病気治療で出会ったヘボンとは意気投合し、
日本初の「和英辞書」を彼と恊働編纂、
上海で9ヶ月かけて印刷して販売し第三版まで発刊する売れ行きを示します。
ジョセフ・ヒコの“はじめての国産新聞”を手伝い、
日本初の従軍記者として文筆活動の傍ら
ヘボンにヒントを得た眼薬「精錡水」の販売で大成功します。
さらにジャーナリストから足を洗い薬業に専念しますが、
日中交流事業の草分けとして日中交流、初期アジア主義の組織化にも尽力します。
また盲学校作りにも情熱を注ぎ教育者としても多大な功績を残しました。

眼薬「精錡水」を軸に吟香は銀座に楽善堂という薬業店を開業します。
この出店も成功し中国進出(上海支店オープン)のため横浜港から上海に渡った日が、
1880年(明治13年)1月21日です。
その後、楽善堂上海支店も順調に実績を上げます。
この時代、アジア主義も岸田が意図した興亜の方向から、
いわゆる脱亜の方向に向かって行くことになる転換期ともなります。

岸田 吟香の四男は洋画家で有名な「岸田劉生」です。

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(おじいちゃん似だよね)
1月 13

No13 1月13日(金) 幕府新規事業に求人広告

安政6年正月13日 己未 甲申 先勝(1859年2月15日)のこの日、幕府開港決定にともない地域限定の自由貿易により出稼ぎの奨励がある。
「同月、神奈川(2月に横浜に変更)・長崎・箱館三港、近々開港、出稼ぎ・移住者の勝手商売を許可、希望者は港役人に紹介する。」

横浜は開港とともに幕末の経済特区になった。
諸外国と国交を開き経済活動を認めることになった徳川幕府は、開港を決定する。
この政策転換は全国の商人(商人を目指す人々)にとって衝撃的情報だった。
相模原市(旧津久井郡)城山町には安政6年正月16日、「神奈川・長崎・函館の三港が開かれることになったので、右の場所へ出稼ぎ、また移住して自由に商売をしたいと思う者は、その港の奉行所に届け出て許可を受けること」と資料にある。甲斐国では甲府勤番支配や三分代官を経て開港の情報が町方から在方へもたらされた。若干の時差があったが概ねこの時期に各地に伝わったようだ。
横浜に近い神奈川県内、山梨県、群馬県は地の利や主力商品を持っているため多くの起業家達が横浜を目指している。開港の決まった安政6年6月までに横浜に進出した商人は71名。約半数は江戸商人だった。半年以内で意思決定するスピード感はみごとだ。ビジネスはスピードという原則は今も昔も変わらない。
幕末から明治にかけて横浜で起業した商人達。
甲州屋 忠右衛門 (山梨県)若尾 幾造 (山梨県)雨宮 敬次郎(山梨)平沼 専蔵 (埼玉)早矢仕 有的 (岐阜)原 富太郎(岐阜)茂木 惣兵衛(群馬県)中居屋 重兵衛(群馬県)伏島 近蔵(群馬)高島 嘉右衛門(江戸)田中 平八(長野)大谷 嘉兵衛(三重)浅野 紘一郎(富山)安部 幸兵衞(富山)増田 嘉兵衛(富山)等々まだまだいる。
成功、失敗、悲喜こもごもだが、皆 足跡功績を多く残している。
私が特に個人的関心がある人物は鉄道王、雨宮 敬次郎(山梨)とマルチ商人 高島 嘉右衛門(江戸)の二人だ。また直接横浜進出はしていないが山本 長五郎(清水次郎長)もかなり面白い。一般的に作られたイメージとはかなり違った実像の人たちの真実に迫ることは驚きと喜びにつながってくる。おいおい紹介して行きたい。