6月 2

No.154 6月2日(土) 華麗なる居留地ビジネス

フランス月間シリーズ1
今日は横浜で一番人気のある日です。
巷は有り余る「開港記念」の情報とイベントで賑わっています。
花火まで打ち上げられます。
(以下2012年の記事)

ここでは、少し目線をシフトしたテーマをご紹介します。
今日6月2日(土)から、横浜各地でフランス月間が始まりました。(〜7月15日)
ということで横浜とフランスを巡る居留地時代のエピソードを少々。

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※2013年は6月1日から開催しています。
 http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/mois-de-la-france/

■外国人居留地
横浜が開港し居留地と呼ばれる治外法権エリアが1859年(安政6年)以来1898年(明治32年)まで約40年間、現在の関内・山手地区にありました。
【居留地概要】
★居留地の外国人数
1878年(明治11年)の横浜居留地外国人数
( )は商社の数です。
 イギリス:515人(54)
 アメリカ:300人(34)
 ドイツ:175人(23)
 フランス:120人(34)
 オランダ人:59人(3)
 中 国:1,850人
各国の通弁や使役のために横浜に暮らした中国人を除き、横浜居留地では圧倒的に英米人でしたが、フランスは商社の数から分かるようにビジネスの分野で深く横浜と関わっていました。
フランス人無しでは完成しなかった幕末の「横須賀製鉄所」の存在も大きかったのではないでしょうか。
現在、山手の「フランス山」の名に当時の名残を残していますが、開港時は様々な分野に影響を与えた重要な国であった事は間違いありません。bloP3179438★横浜居留地総面積
関内地区の半分と、山手を含むエリアの約108ha
現在の関内、山手地区の総面積が294ha(埋立て等も含む)ですから
かなり広い面積であったことが推測できます。blo-E5-B1-85-E7-95-99-E5-9C-B0-E3-83-9E-E3-83-83-E3-83-95-E3-82-9A41【居留地の仏蘭西】
居留地の仏蘭西人の活躍といえば ホテルと料理(レストラン)です。
横浜居留地に初めて仏蘭西人経営のレストランがオープンしたのが1864年6月1日開業の「ア・ラ・ヴェリー」です。フフナゲールが始めた「横浜ホテル」を買い取った新オーナーがホテルの一角にテナントとして導入したレストランです。
ここで出されたアイスクリームや本場フレンチは国籍を問わず居留地外国人の評判となりました。(残念ながら1866年の大火事「慶応の大火」で全焼し再建される事はありませんでした)
このように、居留地では仏蘭西人の手によるレストランやホテル経営が多く、最も多かった英国人達を相手にこの分野は圧倒的にフランス流でした。
1878年(明治11年)に来日し、7ヶ月の短期間に驚異的な旅行を達成したイギリス人イザベラ・バードが横浜港に着いた時、彼女の宿泊先としてイギリス領事館が推薦したのが後の「グランドホテル」オーナーである仏蘭西人ボナが経営する小さな「オリエンタル・ホテル」でした。

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居留地時代多くのホテルがオープンしました。
ただ、当時の居留地でのホテルレストラン経営は中々成功せず、一二年で撤退または転売されることが多かったようです。
1874年頃居留地164番にオープンした「オテル・デュ・ルーブル」という小さなホテルも仏蘭西人コックのラプラスがオーナーです。
数年しかオープンしていませんでしたが、料理が自慢のホテルだったそうです。
奇遇ですが福沢諭吉がパリに滞在したとき泊まったホテルの名と同名です。(母国の有名なホテル名を名乗ったのかもしれません)
1862年(文久2年)に、文久遣欧使節団(開市開港延期交渉使節)の一員として20日間ほどパリに滞在したとき泊まったホテルが「オテル・デュ・ルーブル」です。
ルーブル美術館の前にあるこのホテルとオーナーは全く異なりますが、パリの「オテル・デュ・ルーブル」は現在も一流ホテルとして健在です。

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居留地80番には1875年(明治8年)に人気の仏蘭西菓子店「ペィル・フレール商会」がオープンしました。順調に業績を伸ばし広い店舗として居留地84番に移転します。
そこでパイや洋菓子店と一緒に喫茶室「ホテル・ペィル・フレール」を併設し東京でも有名なレストランとなります。
1875年(明治8年)に14歳でアメリカから横浜に来たクララ・ホイットニーにとってもお気に入りのお店で、このペィル・フレールでの食事を楽しみにしていたそうです。
※クララ・ホイットニーは後に勝海舟の三男・梅太郎と国際結婚します。
(まだまだ続きますが 本日はこの辺で。明日は パリ万博と横浜の関係について紹介します。)

【資料編】
お雇いフランス人の果たした役割
★法律 特に民法
ボアソナード(刑法、刑事訴訟法、民法、司法省法学校教員)
※太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務顧問、国際法顧問等を歴任
★建築
ジュール・レスカス(建築家、鉱山技師)
※明治初期に活躍した在日フランス人建築家。明治4(1871)年に来日。官営生野鉱山に勤めたのち、横浜に建築事務所を開設しました。代表作は西郷従道邸宅)
★造船、灯台、製糸工場
アンドレ・ルッサン(横浜製鉄所 責任者)

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E・A・バスチャン(横須賀製鉄所・富岡製糸場などの設計)
ポール・ブリューナ(富岡製糸場の首長(責任者)、建設から近代製糸技術の導入まで)
※ヴェルニーは横須賀製鉄所の技術責任者でした。
★メディア
ジョルジュ・ビゴー(漫画家、風刺画家)

【関連】
これまでのブログでフランスに関係するものをピックアップ
4月3日 横浜弁天通1875年
※モーリス・デュバール

1月27日 ニッポン、国際コンペに勝つ
※フランス人技術者 プレグランについて

2月3日 ポサドニック号事件で咸臨丸発進
※横須賀製鉄所(ちょっと)

4月17日 活きる鉄の永い物語
※横浜製鉄所

2月16日 ヨコハマグランドホテル解散
※イギリス人が建て、フランス人が買い取り経営した居留地ナンバーワンホテル

3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港
※ジェイコブ・ヘンリー・シフが気に入ったホテルがグランドホテルでした。

4月 17

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)

(ちょっと紹介のタッチを変えてみました)
はじまりは、一枚の絵はがきでした。
「横濱吉浜橋ヨリ山手ヲ望▲」と題した風景には吉浜橋あたりから石川町から山手の洋館群が描かれています。
そして、右側に川に沿って倉庫群が見えます。
今日は、この連なるレンガ倉庫から始まる謎解きです。


■いつ頃の風景なのか?
 古地図から探ってみることにしました。

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1882年(明治15年)の地図でこのあたりを確認すると、
「Iron works 製鉄所」とあります。
でも、地図上の配置図と描かれている倉庫群とは明らかに異なっています。そこで、もう少し時間をずらしてみました。

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1892年(明治25年)の地図を見ます。
倉庫が並んでいます。「石炭庫」と表記されています。
レンガらしき倉庫群がしっかり描かれています。
このことからハガキの風景は、
少なくとも明治15年以降25年頃であると推測することができます。
では、
この倉庫群はどんな「製鉄所」なのか?調べてみることにしました。
ハガキに描かれている川(運河)は派大岡川といって現在は埋立てられ、製鉄所跡地はマンションに変貌しています。
中華街「西陽門」が建っています。

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■いつ頃の製鉄所なのか?
跡地に説明文が掲示されています。
ちょっと長いですが引用します。
「横浜製鉄所は、江戸幕府がフランスと提携し、艦船の修理と洋式工業の伝習を目的として、この地に設置した官営工場です。
横浜製鉄所は、横須賀製鉄所に先立ち緊急に建設されました。元治二年(一八六五)二月に着工、九月下旬には開業し、船舶修理のほか、横須賀製鉄所建設に必要な各種器具や船舶用機械の製造などで繁忙を極めました。首長(初代ドロートル、のちゴートラン、ルッサンなど)以下多くのフランス人技師・職工が建設や創業に携わり、わが国における近代的産業技術の導入、発展の上で大きな役割を果たしました。
慶応四年(一八六八)閏四月、横浜製鉄所は、横須賀製鉄所とともに新政府に引き継がれました。管轄は神奈川裁判所、大蔵省、民部省、工部省と移り、明治四年(一八七一)横浜製作所と改称(横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称)、五年海軍省に移管し、横浜製造所と改めました。六年大蔵省に移り、横須賀造船所と所管庁を異にします。七年内務省に移管。八年高島嘉右衛門らに貸渡され、民営化の先駆けとなりました。十一年再び海軍省所管。十二年石川島平野造船所(現、株式会社IHI)の平野富二に貸与されて横浜石川口製鉄所と改称、十七年に建物と機械はすべて本社工場に移設され、約一・四ヘクタールの敷地は、翌年海員掖済会(現、社団法人日本海員掖済会)に貸与されました。
平成二十二年三月 横浜市教育委員会」

ここに一人の人物が登場します。
平野富二という長崎出身の実業家です。
彼は
1876年(明治9年)に石川島平野造船所を作り、
1879年(明治12年)に製鉄所の必要性を感じ海軍省からこの製鉄所を借受け、
1883年(明治16年)には造船所のある東京石川島に製鉄所と機材の移転を出願します。
そして翌年の
1884年(明治17年)の今日(4月17日)に許可がでます。

■平野富二とは?
ちゃんちゃん!!
これで物語は、お終いかと思いましたが意外な第二幕が始まります。
「横浜製鉄所」を東京に移した男、平野富二氏は造船所を経営する財産をどうして築いたのでしょうか?
彼は造船所の技術的ノウハウは、
長崎時代に長崎製鉄所兼小菅造船所長時代に得ました。
この頃、
師と仰いだ人物が教育者だった本木昌造という人物です。
本木昌造は「日本の鋳造活字製造の祖」といわれています。
本木昌造の依頼で平野富二は1872年(明治5年)に東京の築地で鋳造活字製造及び印刷事業「東京築地活版製造所」を起こし大成功を収めます。

明治に入り情報革命→出版革命が起っていました。
新聞や書籍の発行に必需品であった「活字」が飛ぶように売れる時代が始まったのです。平野富二は活字ビジネスの成功で前述の石川島平野造船所の他、機械製造、航海、海運、鉱山、土木業に拡張します。
金属製活字の歴史の中で姿形・品質ともに群を抜く技術を誇ったのが、「東京築地活版製造所初号活字」と「秀英舎初号活字」でした。秀英舎は現在の大日本印刷株式会社となりました。「東京築地活版製造所初号活字」はモリサワの「民友社かな書体(かな明1)」あるいは写研の「かな民友明朝(KMYEM)」となり現在でも生き続けています。

この「東京築地活版製造所」は、1938年(昭和13年)に廃業します。

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築地体初号見本
 

■築地活字1919
さて物語は、最終章に入ります。
この「東京築地活版製造所」(略称築地活字)」が絶好調だった1919年(大正8年)6月、活字と印刷材料の販売を目的とした「横浜博文館」という会社が横浜市中区南太田町に創業します。
「横浜博文館」は平工太三郎と出版社の博文館の共同出資でした。
同時期1920年(大正9年)には、活字デザイン界の巨星、岩田百蔵が「岩田母型製造所」を創業します。
姻戚関係にあった両社は、戦前の活版界をリードします。
第二次世界大戦の戦災で全てを失いますがお互いに助け合い活字母型と鋳造設備を復興させます。そして「株式会社平工商店」を再興し、
2010年(平成22年)「株式会社 築地活字」と社名変更し現在にいたります。
1938年(昭和13年)に廃業した東京築地活版製造所の活字母型も一部継承したために、活字界では名誉ある名称を名乗ったそうです。
http://tsukiji-katsuji.com/profile.html
http://katsujinokobako.blogspot.jp/
横浜で生まれた製鉄所が横浜を去り、そして活字という文化として横浜に帰り、守られてきたというのも何か不思議な縁を感じます。
※まだ「株式会社 築地活字」には伺っていません。
ぜひ一度伺ってみたいと思っています。
→今年は横浜メディア開拓史を探ってみたいと思います。

3月 12

番外編 重箱の隅の快楽(追記・修正)

私の父は富士山をこよなく愛した平凡な歴史研究者でした。
私を含め家族は「重箱の隅」をつついて飯を食っていると(家族にありがちな)揶揄していましたがその親父の仕事を追体験している自分に快楽を感じています。
「史実にささいも重要も無い、真実は史実の積み重ねをどう解釈していくかだ」と聞かされていましたが馬耳東風でした。
現在父は認知症で無邪気な日々を暮らしていますが、時々研究者時代がフラッシュバッックし家族を驚かせます。
人間の生と死は不思議なもので、とにかく富士山好きだった都内通勤と富士山が良く見えるポイントを探して引っ越したくらいです。その父が、2013年2月23日「富士山の日」に自宅で眠るように亡くなりました。
話題を本来の横浜ブログに戻します。
現在、少しずつ昔撮ったフィルムの山を整理しています。
(2015年2月現在 相変わらず 遅々として進んでいませんが)
プリントしてないネガフィルムの確認が大変です。どこの写真?か
反転させないと中身がわからいからです。
発見したネガの2コマが気になったのでスキャンしてみることにしました。
浮かび上がった映像に釘付けになりました。

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隅っこネタですが、
今日は二枚の写真の謎解きを開始してみることにしました。

共に現在無い光景です。
前後の写真から記憶を辿ると相鉄線、西横浜駅からイセザキまで歩いて行く途中らしいことがわかりました。
次に何時頃の写真か?
フィルムカメラ(銀塩)と完全にさよならしたのが
1999年ですのでそれ以前であることは間違いありません。
一枚目は画像に「鐵温泉(てつおんせん)」の名が確認できます。
西区霞ケ丘辺りにかつて存在した大きな<鉱泉の温泉場>で、明治18年から戦後のある時期まで開業していたそうです。
かなり広い敷地で、写真はその「門」の部分です。
私が保土ケ谷区に転居後の写真ですので、
1989年以降に時間が絞られてきました。
この鐵温泉、
「赤門」の名で知られる大きなお寺、東福寺を過ぎたあたりに位置します。

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吉川英治の自伝にも登場するこの宿は、日本の初代総理大臣、伊藤博文や横浜を訪れた政府要人が宿泊したそうです。
ネットレベルでは資料が簡単に出てこないので、
図書館に通わないと史実には出会えそうにありません。
赤門東福寺は、富貴楼の「お倉」の墓があるそうです。

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東福寺山門

No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将

鉄温泉に戻ります。
では上から見たら敷地はどうなっているか?
国土地理院の航空写真を検索し、1977年空撮写真を見たところすでに空き地になっていました。

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かなり広い敷地ですが全て温泉施設だったかどうか判断できません。

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1981年に発刊された写真集「グラフィック西」(昭和56年刊)に二枚の「鐵温泉(てつおんせん)」写真が収録されていました。
比較的高い所から撮影されています。
おそらく藤棚に抜ける切り通し道路から撮られたものでしょう。
写真を見ると鐵温泉の向こうに崖が写っているのが野毛山公園です。
撮影年代が明記されていませんが、年代が推定できる建物が写っています。崖に添って「グリーンコーポ野毛山」が建っています。
現在外観がリフォームされていますが、マンション資料では1980年6月竣工とあります。

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右上の橋が延びている建物が資料に見えたグリーンコーポ

以上の調査から、1981年まで温泉の建物は残っていましたが、庭等はすでに空き地になっていたのではないかと推測できます。
(霞ケ丘の不動尊)

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次に二枚目。

まず、橋名ですが写真を良く見てください。
よーく。
「未吉人道橋(すえよしじんどうはし)」。

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「未吉人道橋」(すえきちじんどうばし)って書かれていますね。
「末吉人道橋」ではないですよね。
横浜市内に未吉橋はありません。鶴見川、大岡川に架かる末吉橋くらいしかありません。
グーグルって最近余計な仕事し過ぎです。「未吉橋(みきちばし)」と入力して「三吉橋」がずらーーと出てきたりします。打ち間違えまで勝手に想定してくれるようですが邪魔臭いですね。
さらに日吉橋まで。(ヒとミの誤読まで配慮??)
末吉橋に戻します。
横浜市道路局 橋梁課の平成17年の記者発表資料です。
「旧末吉橋は、関東大震災の復興橋梁として昭和4年に二級河川大岡川に架けられました。幅員が5.1mと狭く、歩道も無かったため、昭和45年に幅員2mの人道橋を新たに併設しました。」(引用元)

写真はこの歩行者専用の橋を撮ったものということがわかりました。
どうみてもこの写真は吉人道橋ですね。

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お粗末様でした。

3月 2

No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道

 桜木町駅前から新港地区、山下公園を通り、港の見える丘公園まで横浜港の水際線3.5キロを楽しむことができる遊歩道が、
2002年(平成14年)の今日、完成しました。

2012年で開通10周年です。
この道が街の魅力を変えました。
これからの季節、暖かくなりますので散策にぜひどうぞ。(自転車はご遠慮ください)

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作図は私ですので正確ではありません

戦後、横浜港の水際を自由に散策できるようになったのはつい最近のことです。現在、横浜最大の人気スポットみなとみらいエリアは造船所でした。また、新港埠頭(カップヌードルミュージアム、赤煉瓦倉庫他)や象の鼻エリアは港湾施設と貨物線がありオフリミット、一般の人は近づくことができませんでした。
唯一の横浜港を楽しむゾーンは「山下公園」位しかありませんでした。しかもそこには1961年本牧ふ頭の倉庫のために新港埠頭から貨物線が延長されました。

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ニューグランドの前にも高架橋がありました
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水の守護神、貨物線、中華街

No.303 10月29日(月)オカピ外交 

今考えれば驚きますが、横浜の観光資源といえば元町中華街(山手)しか無かったのです。「みなとみらい」の開発計画が1960年代に計画されようやく1989年の横浜博をスタートラインにして開発が始まります。まだ、みなとみらから山下公園ゾーンまで「繋がっていない」横浜がそこにありました。横浜の賑わいが開港場(大桟橋)付近で分断されてしまうのです。

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「街の魅力は人が楽しく歩ける道があることです。」「現在過去未来をつなぐことで横浜はもっと魅惑的になる」とアーバンデザイナーの国吉直行さんは横浜の二つの核ゾーンを繋ぐ重要性を語っています。桜木町から赤レンガ倉庫まで繋ぐ「汽車道」そして、「横浜港駅」から「象の鼻」を経由して山下公園、山手へ向かう山下臨港線プロムナードを一本につなぐ。
「車に影響されず自由に徒歩で移動できる」軸線が完成したのです。
2009年開港150周年、ここを訪れた数十万人たちがこの道を体感しました。
現在、「象の鼻」エリアにとっての高架橋の是非が今議論されていますが、どちらにも横浜の魅力を伝える力があると思います。議論を広くじっくりして欲しいと思います。風景はもどりません。

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今後、横浜ベイエリアは、さらにウェストベイエリア(ポートサイド地区)に広がりつつあります。そして東は新山下、貯木場エリアがどうなっていくのか?興味津々です。

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湾岸の魅力はまだまだひろがりそうです。

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