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第827話 1876年(明治9年)6月21日張り棹禁止

1876年(明治9年)の今日
前に紹介しました神奈川県史料によると
沿海各区と正副区戸長に対し
「第三十
船乗渡世之者張り棹禁止之事」と題した禁止令を出しています。lightスクリーンショット 2016-06-20 07.58.08
船乗を仕事としている者、張り棹を使って石垣の透間へ棹を差し込み
船を繋ぎ碇泊したり
あるいは潮の満ち干を待つなどするものがいるが
これは石垣損傷の原因となるのでこれからは行ってはいけない
指定地域での船待、船宿および船乗乗などに
もれなく伝える!
って感じですかね。
内容は河川の石垣損傷の原因となるので棹をむやみやたらに隙間に挿すな!!という内容です。
昔の船の風景を追いかけてみます。

light20150612225726 lightスクリーンショット 2016-06-20 08.49.13

小舟による水運が盛んな明治から大正にかけて、堀に係留する際<棹>は重要な役割を果たしました。棹を石垣の隙間に挿すな!と言われた船乗りたちは どうしたのでしょうか?
※ついでに第三十一号禁令では
早染めあるいは染め粉という理由で有毒の薬品を使うのは禁止する!
という行政命令も出ています。
横浜は輸出用の<染物>捺染の工場が集中した地域でもありますから、違法行為も多く出てきたのでしょう。

(過去の6月21日ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=435
1964年(昭和39年)6月21日(日)の今日、
横浜市神奈川区にある三ツ沢公園(みつざわこうえん)で、
この年の10月10日開催予定の「第18回夏季東京オリンピック」に向けた横浜フェスティバルが開催され約45,000人が参加しました。

第826話 1973年(昭和48年)6月20日横浜市地区センター条例

1973年(昭和48年)6月20日付けで
横浜市地区センター条例が<公布>されています。
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/ag20212071.html
市条例も<公布>と言うんですね!まず小さな驚き。
「地区センター条例」は、地区センターについて取り決めたものです。
これ 横浜市民にはあまり驚きがありません。「地区センター」の利用ルールでしょう?という程度かもしれません。
確かにこの「地区センター条例」は

(設置)
(利用の目的)
(開館時間等)
(利用の制限)
(指定管理者の指定等)
(管理の業務の評価)
(利用の許可)
(利用料金)
(利用料金の減免)
(利用料金の不返還)
(許可の取消し等)
附則 等々

さらには
「横浜市地区センター条例施行規則」まで
事細かに決まっています。今日の突っ込みどころはここではありません。
前々から気になっていたテーマでもありますが
特に追っかけていなかったので<正解>はわかりませんので予めご了解ください。
そもそも
「地区センター」とは何ですか? という話です。
条例の第一条には
「地域住民が、自らの生活環境の向上のために自主的に活動し、及びスポーツ、レクリエーション、クラブ活動等を通じて相互の交流を深めることのできる場として、横浜市に地区センターを置く。」
利用の目的として
(1) スポーツ、レクリエーション、クラブ活動及び学習
(2) 講演会、研究会、展示会その他各種集会の開催
(3) その他地域住民の自主的な活動と相互の交流のため必要な事項

戻ります。
そもそも「地区センター」って公共施設の中でどのような役割をもっているのでしょうか?

 
地区センターなんでこだわるのかというと
全国の自治体で「地区センター」という呼称はかなり珍しいのです。
目的はさておき 地域の公共施設は 例えば
「住区センター」「公民館」「生涯学習センター」「地区行政センター」「市民センター」「コミュニティハウス」「スポーツ会館」「地域ケアプラザ」
など 様々な名称があります。
横浜市には「公民館」がありません。公共の建物の代表といえば「公民館」です。
「より多くの人々が施設で交流を深めてもらうよう、公民館を「生涯学習センター」「交流館」などと言い換える設置者(市町村など)もある。(wikipedia)」
という説明の後に公民館以外の呼称を用いている例として
横浜市は「地区センター」、川崎市は「市民館」ですが、当初は公民館としていました。
横浜市は方針で<公民館という名称を一切使っていなかった>とどこかの資料に書かれていた記憶がありますが定かではありません。
偶然ですが富山市も「地区センター」があり小学校区に一つくらいの割合で設置(公民館に併設)されているそうです。ということは公民館と少し役割が違うということでしょうか。
ここで一つ 皆さんは「地区センター」を利用されていますか?
少し前の調査の記憶しかありませんが「利用者の常連化、固定化傾向」があり使う人は使っているが、全く関心のない地域住民も多いのが現状でしょう。
図書館からケアプラザまで、この地区センターも含めバラバラ感は否めません。
今後 少子高齢化の中で、地域福祉の活動拠点の多様な対応が求められるようになってきています。
もうすでに公共施設の有機的なつながりをダイナミックにデザインしていく時期を逃しつつあるように思います。
今日はちょっと視点が違いましたが たまには良いでしょう。(過去の6月20ブログ)
No.172 6月20日(水) 階級差なく埋葬
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=436
1946年(昭和21年)6月20日(木)の今日
日本軍が使用していた児童遊園地を連合軍が接収した日です。

第824話1877年(明治10年)6月19日神奈川県史料語る

1877年(明治10年)6月19日
「神奈川県史料」に下記のような記述がありました。

light神奈川県史M106月19日
「第四十七 大半揚弓等稼業時間相定之事
同年(明治)十年六月十九日
大半揚弓及室内射撃銃を以稼業致候者従前時間に制限無之候処以来大半弓は日出より日没まて揚弓并射撃銃は午後十二時迄と稼業時間相定候条右渡世之者へ無洩可触示此旨相達候事」
揚弓:江戸時代に流行した遊びで、小さな弓で的を当てる<射的>
営業時間について規定を設けています。
<揚弓と射撃銃>は午後十二時までとするとなっています。実質この遊戯は風俗営業の一端で、
http://yokyuten.exblog.jp/6793966/
トラブルもあったようです。
また「射撃銃」は現在も懐かしい遊びとして復活している「射的」用の銃だったと思います。「射的」の歴史は調べていませんが江戸時代からあり、<遊戯用の銃>も明治に入り普及したようです。
「コルクを弾丸にして発射する空気銃またはスプリング式銃で的を射る遊戯。座敷鉄砲ともいわれる。室内射的用の銃は,普通後者が用いられる。的との距離は約 3mで,コルク弾が命中すると的の止め具がはずれて,分銅式に景品の玩具や人形が降りてくる。」

同じく同日付で
「第四十八 浴場男女混入を禁する事
明治十年六月十九日
第拾大区 正副長 同七小区正副戸長
本年五月二日本件丙第百三十号を以浴場へ男女混淆(こんこう)之儀云々但書共相達候処右は其区内布田駅に於ても同様相心得浴湯場男女分界取設之儀は来る八月十五日限り落成可為致其他他凡て最前相達候通り相心得該渡世之者へ無遺漏示諭可致此旨相達候事。」という達しが出されました。
第10大区7小区の正副区戸長に対し、布田駅にある浴場に、男女の分界を8月15日までに設けるよう達した。という内容です。
明治に入っても 風呂場は江戸時代から続く<混浴>習慣があり
新しいルールを徹底させるためにこういった<お達し>を出していました。
この江戸のおおらかな文化<男女混浴>に怒ったのが
ペリーでした。彼は「日本遠征記」で
「男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」
と記しています。
その後も 欧米列強の皆さんはこの「男女混浴」には大反対だったようで、明治政府は取り締まろうとしますが実質<体裁>だけで 徹底されるには時間がかかったようです。しかも下町や地方では混浴習慣が徹底されず 何回も、幕府から混浴禁止令を受けながらも復活するという<日本古来の風習?>かもしれません。

(神奈川県史料)
神奈川県が政府の命によって、明治元年から明治十七年までの間の出来事を編年で記述した史料です。この第一巻は主に行政資料となっていて
制度部
県庁・庁即・租法・職制・禄制・軍役 等々事細かに事件録のようになっています。
独特の文体なので読みにくいですが、面白い記述に出会うことがあります。

このブログでも時折活用しています。
明治元年から明治十七年 横浜を含め 日本が実生活の中で<近代>と出会った時期です。

まさに この神奈川県史料は カルチャーショックの記録ともいえるでしょう。
(過去の6月19日ネタ)
No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=437
1916年(大正5年)6月19日(月)の今日
歌人佐佐木信綱(44歳)は横浜三渓園に行き、
滞在していた詩人であり思想家のタゴールと面会しました。

【芋づる横浜】輿地誌略(前編)

明治初期に出版された地理の本があります。
内田正雄という人物が編集した「輿地誌略」です。lightP5050076(画像は著者所蔵。若干傷んでいますが面白いのでついついめくってしまいます。)
明治初期の代表的な地理の教科書として発行され大ベストセラーとなりました。
「近代デジタルライブラリー(画像)」や「神奈川大学のデジタルライブラリー(PDF)」で読むことができます。
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/4547
文章は漢字カナ混じりなのでちょっと難解に感じるかもしれませんが、図録がすごい!みているだけでもその知識量・レベルの高さが実感できます。スクリーンショット 2016-05-05 16.13.21 lightP5050075「輿地誌略」は当時、
福澤諭吉の『学問のすゝめ』 中村正直の『西国立志編』」と並んで
明治の三書と呼ばれました。これらの書籍は全国津々浦々まで届けられました。明治維新直後の日本人の<知識欲>の高さを表しています。
『学問のすゝめ』は1872年(明治5年)2月初編発行、1876年(明治9年)11月一七編で完結。当時最も売れた書籍といわれ、福沢本人も最終的には300万部以上売れたと自著で述べるほどでした。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card47061.html
『西国立志編』は、イギリスで1859年に発行された S =スマイルズの著「Self Help(自助論)」を訳したもので、1871年(明治4年)に刊行されました。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/saikoku/kaisei/

「輿地誌略」
輿地誌略は4編11巻12冊(巻11だけが上下2冊)から成っています。
第一編
巻一 序 天文部 地理部 邦制部 亜細亜洲上(総論・日本)
巻二 亜細亜洲中 中国・シベリア。東南アジア・南アジア
巻三 亜細亜洲下 ペルシア・トルキスタン・トルコ(小アジア)・アラビア
第二編
巻四 欧羅巴洲之部一 ヨーロッパ総論・イギリス
巻五 欧羅巴洲之部二 フランス・オランダ・ベルギー・スペイン・ポルトガル
巻六 欧羅巴洲之部三 ドイツ総論・プロシア・オーストリア・デンマーク・スウェーデン及びノルウェー
巻七 欧羅巴洲之部四 ロシア・スイス・イタリア・ギリシア・トルコ・ルーマニア
第三編
巻八 亜非利加洲(上) アフリカ総論・エジプト・バルバリー総説・西北岸諸島
巷九 亜非利加洲(下) セネガンビア・スーダン・ギニア総説・ホッテントット.ケープコロニー・ケープ北部・東岸諸部総説・大湖地方・マダガスカル
第四編
巻十 亜米利加洲(上) アメリカ総論・北アメリカ
巻十一 (上) 亜米利加洲(中)中アメリカ・西インド諸島・南アメリカ総論
巻十一 (下) 亜米利加洲(下)南アメリカ
巻一十二 阿西阿尼亜洲・南極洲
ほぼ全世界を網羅しています。しかも第一編巻一で「天文部 地理部 邦制部」という世界地理を学ぶ上で基本知識に触れています。編集者が内田正雄という人物です。天賦の才能があったからだと思いますが、きっかけは幕末にヨーロッパ(オランダ・フランス)留学でした。
ここには多くの図版が使われています。描いたのが川上寛(川上冬崖)明治洋画壇の重鎮で、画塾を開き西洋画の普及に
努めた一方、陸軍参謀本部地図課の職員として、フランス式近代地図として名高い『二万分の一迅速測図』の作成に画学の面から指導的役割を果たした人です。彼に関しては、明治期の欧米諸国特に英仏独のモジュール競争に巻き込まれた<謎の死>が残されています。
(内田正雄)
Wikipedia「内田 正雄(うちだ まさお、1839年1月5日(天保9年11月20日)〜1876年(明治9年)2月1日)は江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の洋学者。旧幕臣。通称・恒次郎。内田恒次郎昌平黌、長崎海軍伝習所で学び、文久2年(1862年)にオランダ留学。明治維新後、大学南校で教える。官版世界地理書『輿地誌略』を刊行した。」とあります。
内田 正雄は小さい頃から優秀で、オランダ語と数学を身につけます。軍艦操練所教授方となり、幕府がオランダに発注した軍艦「開陽丸」を受け取るために15人の<留学生>を率いてオランダに向かいます。
この時のメンバーには榎本武揚・赤松則良・澤太郎左衛門・西周・津田真道らがいました。
内田 正雄はこのオランダ渡航時に厖大な資料を入手し自らスケッチも多く残したことがこの「輿地誌略」のベースになっていきます。
先人の資料収集力、咸臨丸の福沢諭吉といい、内田正雄(恒次郎)といい、明治初期の「米欧 回覧実記」をまとめ上げた久米邦武など、驚くべき俯瞰力!です。比べちゃいけないが、近年の代議士の研修旅行とは大違い。(比べる方が失礼か)
(後編へ)

【横浜オリジナル】カクテル・ミリオンダラー

横浜グランドホテル支配人、ルイス・エッピンガーは二つの横浜カクテルを発案したことでその名を今に残している。
その名はバンブーミリオンダラー
標準的なレシピは
(バンブー)
ドライ・シェリー : ドライ・ベルモット = 2:1
オレンジ・ビターズ = 1dash
(ミリオンダラー)
ドライ・ジン:40ml
パイナップルジュース:15ml
スイート・ベルモット(ドライ・ベルモット):10ml
レモンジュース:10ml
グレナデン・シロップ:1tsp
卵白:1/2個
<スライスしたパイナップルを飾る>
※ベルモット:フレーバードワイン
イタリア発祥のスイート・ベルモット
フランス発祥のドライ・ベルモットとがある。

【レシピ2】
ビーフィータージン:45ml
チンザノベルモット ロッソ:15ml
パイナップルジュース:15ml
グレナデンシロップ:1tsp
卵白:1個分

バンブーに関しては、当時ニューヨークで大ヒットした「アドニス」をエッピンガーがアレンジした<姉妹カクテル>だ。adonispgm このバンブー誕生に関しては推論だけ簡単に記しておく。
カクテルうんちく界では 日本らしさを表すために<バンブー=竹>としたとある。
私は<竹>そのものの話題性に着目した。
同時期 <発明王エジソンが電球フィラメントに日本の竹を短期間だが使用した>背景があるからではないか?
と推理している。
また竹の物語とアドニスの物語にも一捻りありそうだとも考えている。

さて本日の主題、ミリオンダラー
ルイス・エッピンガーはミリオンダラーレシピをどのような背景でイメージしたのか?
ジンとベルモットが基本になっているので<マティーニ>のアレンジカクテルと言っても良いかもしれない。
ミリオンダラー最大の特徴は パイナップル及びパイナップルジュースだ。
このパイナップルはアメリカの誕生期に重要な意味を持っていたフルーツである。
「植民地時代のアメリカではパイナップルはとても珍しい果物だったため、特別なお客様のいるテーブルに置くのは最上級のおもてなし」というエピソードも残っている。このスタイルはその後のゴールドラッシュに酔った49年組(フォーティナイナーズ)によって開拓された<西海岸>のホテルでもおもてなしのシンボルとしてパイナップルが使われたに違いない!この時エッピンガーは18歳だった。彼がどのような仕事に就いていたかどうか不明だが、ドイツ系アメリカ人だった彼らの多くは<金鉱探し>のバックヤードで雑貨商や食品、酒の販売を営んだ。ドイツ系移民の一人リーバイ・ストラウスが金鉱で働く人々の愚痴話からあの<ブルージーンズ>を商品化したことは有名だ。
贅沢=成功の象徴だったパイナップルはコロンブスがアメリカ大陸から持ち帰り、めずらしさと栽培の難しさから当時「王の果実」とも言われた。パイナップルに<ミリオンダラー>一攫千金の夢をエッピンガーは重ね合わせたのかもしれない。

「原産地はブラジル、パラナ川とパラグアイ川の流域地方であり、この地でトゥピ語族のグアラニー語を用いる先住民により、果物として栽培化されたものである。15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の大陸に伝わった。 1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。 次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾に導入された。日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年にオランダ船が長崎へもたらした記録もある。(wikipwdia)」

ここからも判るように、20世紀初頭には東南アジアと交易が盛んになっていた日本でもパイナップルを入手できたようだ。
インド洋から東南アジアの海洋覇権を握っていた英国と、太平洋の覇権を握ろうとしていた米国の衝点となっていた日本=横浜には多くの一攫千金の夢を持った商人が集まってきていたのだろう。
1889年(明治22年)に新生会社組織に生まれ変わったヨコハマグランド・ホテルのスタッフとして着任したルイス・エッピンガーはこの時すでに58歳だった。(支配人に就任したのは60歳)
この年、英国人技師パーマーによる築港計画が着工する。この時の神奈川県横浜築港担当が30代の若き三橋信方(後の横浜市長)だった。
新しい国際港の時代到来に備え、グランドホテルは海軍省の招きで来日していたフランス人建築家サルダに新館(別館)設計を依頼する。これによってヨコハマグランド・ホテルは客室は100を超え、300人収容の食堂、ビリヤード室、バーが整備された。lightimg147THE GRAND HOTELlightグランドホテルダイニング light絵葉書グランドホテルサービス 恐らく新館竣工期にオリジナルカクテル「バンブー」「ミリオンダラー」のどちらかまたは両方がお披露目されたのではないだろうか。
この時期、京都岩清水で採取されエジソンの白熱電球に採用された日本の竹は1894年(明治27年)まで輸出されていたので、<バンブー>が当時の話題に上がっていたに違いない。
また1894年(明治27年)に完成した「鉄桟橋」を含めた横浜築港財源が米国より返還された賠償金であったことも、狭い居留地では大きな話題となっていただろう。アメリカ人エッピンガーにとっても誇りに思っていた出来事だったに違いない。
日露戦争が始まった翌年の1905年(明治38年)、
74歳になった彼は、ホテルマネジメントの最前線から退き、マネージング・ディレクターとなり後任の支配人H.E.マンワリング(Manwaring)を母国アメリカから招聘する。
1906年(明治39年)に新しい支配人が着任した後の1908年(明治41年)6月14日
ルイス・エッピンガーはその生涯を終え、外国人墓地に眠る。
このニュースはすぐさま彼の出身地サンフランシスコに伝えられ、新聞にも訃報が掲載された。77年の生涯、後半の約20年を日本で過ごしたことになる。lightスクリーンショット 2014-08-11 11.34.39 関東大震災で焼失するまで横浜のフラッグシップホテルだったヨコハマグランド・ホテル。そこに関わった二人の支配人ルイス・エッピンガーとH.E.マンワリングは共にサンフランシスコと深い関係にあった。
1871年(明治4年)に横浜港を旅だった岩倉使節団が最初に訪れた外国、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで宿泊したホテルがミリオンダラーホテル「グランド・ホテル」であった。lightGrand_Hotel_725 オーナーはこの街で大富豪となったチャップマンこと「ウィリアム・チャップマン・ラルソン」というオハイオ州生まれのアメリカンドリームを実現させた男だった。岩倉使節団一行を自宅のゲストハウスに招いた様子が「米欧回覧実記(久米邦武)」にも記されている。
もしかするとミリオンダラーはサンフランシスコグランドホテルにあやかったものとも推理できる。このテーマは今後も追いかけて行きたい。

No.295 10月21日(日)先達はあらまほしきことなり

震災と関内外

「関内」という住所は無く開港時の居留地一帯を<関内(かんない)>と呼んでいます。

外国人居留地が治外法権であると同時に、外部と隔絶したエリアであったため、そこに関所を設け関所の内側と外側を表す地域名称として「関内」という名称が誕生しました。
開港後、「関内一帯」は外国人と日本人が日本大通りを中心に住み分けていました。

当時の街区設定がその後も守られ、ほぼ現在まで関内の街区構成は変わっていません。同様にいわゆる関外も明治時代から街区にあまり大きな変化は起こっていません。
ただ、関内外エリア史においてまとまった区画整理事業が行われた時期があります。
関東大震災です。
中区史には
「震災前の街区は、開港以来のものともいえるもので、都市構造の上では、いろいろと不備・不便な点が多かった。
都市構造上の不備な点として、特に道路の幅員の狭さが挙げられる。本町通りや大江橋の通りが18メートルで最も広く、尾上町は15メートルで、大かたの道路は7〜13メートルが多かったのであった。それに、住吉町五丁目の六道の辻は、放射状の六差路で交通の要所ではあったが、道はぱは5.5メートルから11メートルと狭くて不便そのものであった。」

とあります。
震災前と震災後で関内エリアの道路が最も変わったのが馬車道の「六道の辻」近辺です。尾上町通、本町通、関内大通など現在の関内の原型がこの時に完成します。
19世紀にナポレオンの権勢の下でパリの街を自在に切り裂き<大改造>したセーヌ県知事オスマンのように都市の大改造を行った訳ではありませんが、関内外の道路拡張、直線化など、かなり“強行な”街区整理を断行します。
当然この時に、立退き等のトラブルが多発し、区画整理反対同盟なども結成されます。
横浜市史第5巻下にはこの時の反対運動の模様を伝えています。
大正13年

「12月10日自動車八台に「関内区画整理反対期成同盟」と大書した白書を巻きつけ市役所に陳情に向かい、市長・助役に対し「吾々は既に整理地区外たるの故を以て本建築を実施し、警察の許可を受けつつある。然るに最近の市会は此の地帯を以て追加せんとする模様であるが、震災後一個年以上も経過した今日斯る無謀な計画を樹てられては数千人に上る被害者が出る(後略)」

ので取り消せ!
と抗議が続きます。震災後の復興計画の遅れが既に自力で復興を開始した市民に追いつかなかったために遅れて出された<復興計画>で道路拡張するからどけ!というところで紛争が起こるのは当然のことでした。一方区画整理を推進して欲しいという組織も誕生し、市民の対立が激化していきます。
ようやく対話の土俵が大正15年に入り整い、補償申告会が組織されます。この整理を巡る紛争調整を行う機関として
1926年(大正15年)7月23日「横浜市区画整理委員連合会」が結成されました。会長には当時市議会議長で後に市長となった平沼亮三が、副会長には劇作家としても有名な市議会議員の山崎小三(紫紅)が就任します。
この「横浜市区画整理委員連合会」は、民間委員を中心にした組織で関内だけでなく広く震災復興に伴う土地区画整理の紛争調停に尽力し徐々に効果をあげていきます。
大正15年から本格的に始まった復興事業は、例えば関内地区では

馬車道の六道の辻が無くなり

七道に見えますが「六道の辻」です。

昭和5年馬車道界隈

区画整理後
本町通が22m〜27m道路に、
関内大通、尾上町通は25mに拡幅され 街並みが一変していきます。平行して橋梁・河川運河・公園・上下水道などの復興事業も加速され昭和4年にはほぼ完成していきました。
市史によりますと
「区画整理のための移転建物は18,750余棟、潰地充当地は5,283坪、換地面積は787,573坪に達し、整理前宅地面積792,700余坪は整理後674,100余坪へと減少」
公共空間に生まれ変わったことになります。
前述の「六道の辻」に関しては
No.391 謎解き馬車道

No.391 謎解き馬車道


に少しエピソードを紹介しています。

横浜学舎の歴史

1875年(明治8年)6月29日のこと
「学舎の名を<学校>と改称(横浜歴史年表)」
横浜の小学校は制度として1872年(明治5年)から寺院等を使って始まりました。それ以前に江戸時代からの<寺子屋>として地域の教育機関だったものもあります。新学制が導入され小<学舎>と呼ばれてその後1875年(明治8年)の今日、小学校と呼ばれるようになりました。
上記の(横浜歴史年表)表記によると

壮行学舎→横浜学校<注1>
存心学舎→吉田学校
立志学舎→太田学校
養賢学舎→石川学校
三到学舎→元街学校
就蘭学舎→北方学校
洗心学舎→本牧学校
主敬学舎→根岸学校
(正)※志敬学舎→根岸学校→根岸小学校
真照学舎→磯子学校
弘照学舎→鶴見学校
(正)※弘明塾→鶴見学校→豊岡小学校

と紹介されていますが、調べていくと誤記(文字変換誤作動)等があり整理に手間取りました。一部確認できたものを修正しました。
明治期にかなりの小学校が地域に設立されています。日本の近代化を支えた柱の一つです。
<注1>横浜小学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜小学校
(明治前期創設の小学校)
明治前期に<現横浜市域>に設立され現在もある小学校リストを一覧化してみました。(廃校は略しています)

※印は創設時の<学舎>
1872年(明治5年)
山下小学校  北八朔町1865-3※中村学舎
石川小学校  中村町1-66※養賢学舎
豊岡小学校  豊岡町27-1※弘明塾
1873年(明治6年)
子安小学校  新子安一丁目24-1※子安学舎
都岡小学校  都岡町4-8※今宿学舎・川井学舎
北方小学校  諏訪町29※就蘭学舎
鉄小学校  鉄町427※鉄学舎
星川小学校  星川三丁目18-1
元街小学校  山手町36※三到学舎
末吉小学校  上末吉一丁目9-1※末吉学舎
谷本小学校  藤が丘一丁目55-10※谷本学舎
保土ケ谷小学校  神戸町129-4※程谷学舎
磯子小学校  久木町11-1※真照学舎
杉田小学校  杉田一丁目8-1※森田学舎→森中原学校
根岸小学校  西町2-46※志敬学舎
金沢小学校  町屋町26-26※知足学舎・柴村小学舎・野島学校
釜利谷小学校  釜利谷東六丁目37-1※赤井学舎(万蔵院)
六浦小学校  六浦三丁目11-1※三分学舎(光伝寺)
大綱小学校  大倉山4丁目2-1※地域の四学舎(大乗寺・東照寺・本乗寺・観音寺)
日野小学校  日野七丁目11-1※日野学舎
田奈小学校  田奈町51-13※??
富岡小学校  富岡西七丁目13-1※富岡学舎
日吉台小学校  日吉本町一丁目34-21※清林学舎
長津田小学校  長津田町2330※壮行学舎
戸塚小学校  戸塚町132※富塚学舎
市場小学校  元宮一丁目13-1※真明学舎
潮田小学校  向井町三丁目82-1※潮田学舎
山内小学校  新石川一丁目20-1※荏田学舎
青木小学校  桐畑17※青木学舎
市沢小学校  市沢町781※市野澤学舎
二俣川小学校  二俣川1-33※宮沢学舎
石川小学校  中村町1-66※養賢学舎
大岡小学校  大橋町3-49※大岡学舎
太田小学校  三春台42※立志学舎
日下小学校  笹下3丁目9−1※笹下東樹学舎
1874年(明治7年)
高田小学校  高田町1774※高田学舎
中川小学校  牛久保東二丁目21-1※大棚学舎
鴨居小学校  鴨居四丁目7-15※ 鴨居学舎
桜岡小学校  大久保1丁目6−43※最岡学舎
1875年(明治8年)
川島小学校  川島町1162※川島学舎
神奈川小学校  東神奈川二丁目35-1※神奈川学舎
1876年(明治9年)
千秀小学校  田谷町1832
1879年(明治12年)
戸部小学校  伊勢町2-115※戸部学舎
1880年(明治13年)
今井小学校  今井町981-1(3月25日)
白根小学校  中白根一丁目9-1(7月5日)※今宿学舎(本立寺)より分校
1889年(明治22年)
新治小学校  新治町768※久保学舎より分校
1890年(明治23年)
瀬谷小学校  相沢四丁目1-1(11月15日)※ 瀬谷学舎・二つ橋学舎・若宮学舎・新道学舎・阿久和学舎などが統合?
1892年(明治25年)
豊田小学校  長沼町125-4(5月1日)※龍臥学舎(明治5年2月)
中和田小学校  和泉町3721(5月17日)※岡津学舎
中山小学校  中山町925(9月1日)※移転し「森の台小学校」中山第二小学校が「中山小学校」に※中山学舎
川上小学校  秋葉町203-2(10月1日)
本郷小学校  中野町16-1(10月5日)
永野小学校  上永谷二丁目21-10(11月3日)※棲心庵学舎(明治5年)
このように、明治前期に地域の学校が多く設立されます。
学校の敷地は地元の協力で(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。
※各小学校・区役所の資料から表記を整理したものです。表記以外に<学舎>として歴史があるものも散見されます。

横浜市町内会連合会

1975年(昭和50年)6月12日の今日
横浜市内の町内会会長で組織していた「横浜市町内会長連絡会」が「横浜市町内会連合会」という名に改称されました。
皆さんは地域の自治会町内会に加盟していますか?
「自治会町内会は、一定の地域において、住民相互の親睦を図り、そこで起こる様々な課題を解決することを目的に自主的に組織された住民団体です。
横浜市内には、平成26年4月現在で2,881団体の自治会町内会が組織され、約123万世帯の市民が加入しています。」
と「横浜市町内会連合会」のサイトに書かれていました。

「自治会町内会は防災や福祉、美化活動など安全安心で住みやすい地域づくりを目指す活動や、お祭りや運動会などのレクリエーション活動を行っています。
普段、あまりお気づきにならないかもしれませんが、自治会町内会の活動は、みなさんのくらしに欠かせない役割を担っています。
地域の絆をはぐくみ、地域で支え合う社会を作っていくためにも自治会町内会への加入をお願いしています。」
http://www.yokohama-shirenkai.org
さらに少し遠慮気味に勧誘もしています。
横浜も加入率の低下に悩んでいるようです。
横浜市内 自治会町内会には
123万世帯が加入(H26年)しているそうです。横浜の総世帯数が約163万(H26年)ですから7割強の加入率という計算になります。
内閣府のH19年「町内会・自治会等の地域のつながりに関する調査」では
「町内会・自治会があると回答した人は、9割を超えている。また、町内
会・自治会の区域としては小学校区より狭いという回答が7割を超え、平 均すると約 600 世帯、9割弱の加入率である。なお、回答者世帯の9割超 が実際に町内会・自治会に加入している。」
都市部の横浜はかなり低い加入率です。
横浜市自治会町内会加入率推移
(自治会・町内会?)
ここまで「自治会町内会」とまとまった<単語>で表記しましたが、地域によって自治会・町内会はそれぞれ別名称で使用されています。
横浜市の公式見解(ちょっと大げさですが)では
「自治会・町内会は、地域に住むみなさんが自らの手で相互に仲良く助け合いながら、自分たちの地域生活をよりよくしていくために、様々な活動を行う任意団体です」
「「自治会」「町内会」の名称については、呼び名は違いますが、団体の活動内容に違いがあるわけではありません。それぞれの自治会・町内会が発足時に、決定しております。」
と名称は違うが内容は同じとしています。
地方自治法でも、「地縁」団体とされていて、町内会=自治会となっています。
徹底して調べていませんが 町会・町内会その下部組織として<隣組>の呼び名が戦前に使われ、戦後自治会が使われ始めたようです。
町単位が町会、集合住宅や新しくまとまって開発された住宅地には「自治会」が多く感じますが、混在していて明確な特性とはなっていません。
→市内自治会町内会の形成 おもしろそうです。
例えば自治会は「西柴団地自治会」「権太坂境木自治会 」「青葉区連合自治会」「緑区中山町自治会」「下田町自治会」「鴨居地区連合自治会」「本郷台自治会」「関ヶ谷自治会」
一方町内会は
「港北区連合町内会」「桜木町町内会」「南吉田町内会」「山元町3・4・5丁目町内会」「青葉区たちばな台町内会」「長沼町内会」「岡野二丁目町内会」

(歴史)
「横浜市町内会連合会」がまとめたものをベースに横浜に特化し町内会の歴史を調べてみました。
町内会の起源
横浜市における町内会の起源は、市制が施行された翌年の明治23 年(1890 年)
に作られた「衛生組合」で
この衛生組合を組織した目的は、
第一に横浜が開港以前は一寒村にすぎず、他の地域にあるような旧来の隣保組織を持っていなかった
第二に横浜が開港地として貿易や居留外国人との関係で、伝染病の危険にさらされる機会が多かったため
と横浜の町内会の起源をまとめています。

横浜の場合、
「横浜が開港以前は一寒村にすぎず」という点が大きいです。この決まり文句の「一寒村」という代名詞には異論がありますがここでは置いておきます。
※寒村ではなく小さい村で暮らしは豊かだった
横浜開港場は江戸時代までの農村や城郭・寺社・宿場などといった<地縁社会>の無い政治特区でしたので「旧来の隣保組織を持っていなかった」ことが特徴といえるでしょう。これも市域拡張で旧来の<地縁社会>が横浜市内にも組み込まれ、新旧の<融合>が横浜の文化的なエッジであるだろうと考えています。
横浜開港場周辺の地域にとって集落の<結束>は上記の第二の理由
<伝染病の危険>が大きかったといえるでしょう。

No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=528
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=390
悪い意味でいち早く伝染病の被害を受けた横浜は1890年(明治23年)に作られた「衛生組合」がいわゆる地域互助組織=隣保組織の代替となったようです。
その後関東大震災を経験しながら、「衛生組合」が「自警団」等を経て「町内会」「青年会」等の地域組織として地縁組織となっていきます。昭和期横浜市には、自治活動を行うための町内会、衛生組合の町内会事務代行、町総代会という3つの組織がありましたが1940年(昭和15年)9月11日付け内務省訓令第十七号「部落会町内会等整備 要綱」により「隣組」「町内会」として明確に一本化されます。
「隣組」は十戸内外で組織されるように指導され、当時大ヒットした<国民歌謡>によりさらに強化されることになります。
https://www.youtube.com/watch?v=rBh4wUrjltM
https://www.youtube.com/watch?v=kQf-aO95ezU
1941年(昭和16年)時点で
横浜市の町内会数は798、隣組は約2万に達し、銃後の守りとなりました。
戦時中の横浜の「隣組」の様子を丹念に調べた本が出ています。
「戦時下の日本人と隣組回報」渡邊洋吉 幻冬舎新書2013年刊

この本は珍しい昭和16年〜17年の横浜市戸塚区矢部町第6隣組で回覧された「隣組回報」を読み解きながら当時の時代背景、状況を克明に記しています。

戦中に隣組、町内会は有効な情報伝達組織、地域管理システムとして機能しましたが、粗末な地域権力構造となり暴力組織にもなり終戦とともに解散・解体されます。
戦後、未組織の中で生活互助的な「防火防犯協会」「赤十字奉仕団」が誕生し「町内会」の役割を担うようになります。
1951年(昭和26年)GHQの自治政策緩和により権限が政府自治体に移管、「町内会」組織の再編が始まります。長い接収時代が徐々に解除となり、横浜市に多くの人口が流入する30年代ごろから積極的に新しい「町内会」組織育成と平行して従来とは違った形の自治会町内会(団地管理組合の性格をもった自治会町内会など)が続々と結成されます。
これらの地域互助組織の発展形が市連合町内会長連絡会となり
1975年(昭和50年)6月12日の今日
横浜市町内会連合会に改称されたという訳です。

(横浜国立大学でも)
町内会への加入について
町内会に入って、地域デビューしよう!ー地域に新たな活力を!ー
学生の皆さんは、国大生になって実家を離れ、国大周辺やヨコハマ地域等に暮らす「地域社会の一員」です。その地域を運営していくには、町内会という組織が必要で、日夜活動しておりますが、その町内会では若い力である国大生の加入を強く求めています。
「遠くの親戚よりも近くの他人」という諺がありますが、どうか地域の方々と顔馴染みになり、何かあったらお互いに助け合っていくような間柄になっていただきたいと思います。
皆さんが地域住民の方々に見守られていれば、ご両親も安心です。

なんて案内もあるのには驚きました。

長くなりましたが、最近人気薄の自治会町内会ですが
違和感があることも事実です。個人単位ではなく<世帯単位>であることや説明(理解)のプログラムなしに半強制的な<雰囲気のある>ところも
地域の老人親睦、広報の配布組織といった批判もあります。
地域社会の「骨粗鬆症」化と表現する専門家もいます。
なんといっても<防災上>
私達を守る私達が守る共助組織です。
さらに高齢化の中での様々な課題を解いていく大事な下支え組織でもあります。
しかし
世代間・ライフスタイル別の運営に対する認識ギャップが多く生じているようです。その他の共助組織との連携やシームレス化も遅れています。
横浜も空き家率、高齢化率が 急上昇しています。
このギャップを乗り越えるには さらなる工夫が必要でしょうね。

No.164 6月12日(火) JR JR
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=446
1872年6月12日(水)(旧暦明治5年5月7日)かねてよりの突貫工事で進めていた品川・横浜間の鉄道が仮開業しました。

【市電ニュースの風景】№22

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。22号

1931年(昭和6年)5月・6月
五月
29日 ’Sturdy’号にて Edward Miles Lone sailor crosses Pacific
Edward Miles 氏香港から到着、出発は7月14日で、9月9日にハワイ到着。

三十、三十一日 保土ケ谷家政女学校記念展覧会(電車及バス保土ケ谷終点下車)
三十一日 高工對高商 定期野球戦(電車花園橋下車)
=午前九時半開場 午後二時半試合開始ー横濱公園球場にて=
=六月二日第二回戦挙行ー時間及場所は総て前同様=
31日 花月園少女歌劇団 解散。
31日 神奈川区の浅間神社の復興成りその遷宮祭が行われた
六月一日 浅間神社大祭ー新社殿竣成(電車浅間下 下車)
一、二、三日 厳島神社(弁天社)大祭(電車及バス羽衣町一丁目下車)
一日より五日まで 第十二回開港記念祝賀バザー(横浜公園及日本大通にて)
二日 第二回商工祭(十時公園音楽堂にて)広告仮装大行列挙行
一日より十日まで 最近欧州各国ポスター展示会(電車及バス本町一丁目下車)
=日本大通商工奨励館にて開催ー観覧随意=
四日 むし歯予防デー 映画と満談の会(伊勢佐木町又楽館にてー入場無料)
懸賞標語
満員の電車の次に空が来る (当選者 鈴木 哲次郎 君)
※アラビア数字は別の年表から同時期の出来事を追記したものです。

【キーワード】
■Edward Milesの単独横断
史上4番目に<単独航海世界一周>の成功者で米国NY出身です。
米国のアーカイブには登場しますが日本では検索しましたが皆無でした。
※ちなみに1962年(昭和37年)堀江謙一が日本初の太平洋単独横断に成功し世界一周は1974年に成功、世界ランキング36番目です。37番目も38番目も日本人でした。
36番目
Kenichi Horie – Japan
“Mermaid III” – 1973/1974 – First Japanes
37番目
Hiroshi Aoki – Japan
“Ahodori II” – 1971/1974
Smallest yacht co circumnavigate – 20’8″
38番目
Ryusuke Ushijima – Japan
“Cingitsune” – 1973/1974
■保土ケ谷家政女学校
1912年(大正元年)10月  程谷町立女子実業補習学校
1927年(昭和2年)4月  横浜市立程谷家政女学校※
1928年(昭和3年)4月  横浜市立保土ケ谷家政女学校
1935年(昭和10年)4月  公立青年学校神奈川県横浜市保土ケ谷家政女学校
1936年(昭和11年)4月  横浜市立高等家政女学校
1942年(昭和17年)3月 廃止
※保土ケ谷に30年間存在した女学校で横浜市立高等女学校(現在の桜ヶ丘高校)の家政学校として併設される形で開校。

■三十一日 高工對高商 定期野球戦(電車花園橋下車)
1929年(昭和4年)以来休止していた定期戦が復活した試合です。

■花月園少女歌劇団
京浜急行に「花月園駅」があります。少し前には競輪場があったので花月園というとギャンブル!というイメージを持つ方も多いでしょう。ここはかつて東洋一の遊園地でした。
No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)

No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)


この「花月園」の花形だったのが「花月園少女歌劇団」
当時、関西の「宝塚」に匹敵する人気だったそうです。
時代の流れに運営が追いつかず解散の憂き目に合います。

■又楽館(ゆうらくかん )
又楽館は横浜の人気劇場 映画館の一つでした。
場所は長者町6丁目57番地で明治45年※に開業。洋風4階建て2、430人収容の常設活動写真館で横浜有数の規模を誇りました。建物の設計は矢部又吉です。
(大正元年〜 後にオデオン座と合併)「市民とオルガン P29」
※明治45年は7月30日から大正元年となるため 正確な月日が不明な場合明治/大正併記としておきます。

【市電ニュースの風景】1931年 №21

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。
21号1931年(昭和6年)5月
東横電鐵直営 日吉台苺園開園中(二十五日前後が最盛)
二十一日 『郵船』龍田丸入港出航(午後三時四号岸壁発 桑港へ)
※この「龍田丸」でフェリス女学校校長シェーファー、日本ミッションを代表して米国伝道局100年祭出席のため帰米しました。
21日 越前屋新館(8階建・延坪2200坪)伊勢佐木町通りに開店
二十二日より二十四日まで 横濱書道展覧会(電車及バス桜木町駅下車)
=市内有名書家並各学校生徒作品陳列並席上揮毫=
=桜木町中央授産所階上にてー入場無料=
二十二日 剣道聯合会五月例会
(午後六時半北仲通二丁目三菱倶楽部にてー観覧随意)
二十二日 三州豊川いなり大祭
(前里町豊川閣出張所にてー電車初音町下車)
22日 日清製粉鶴見工場全焼
二十三日 一高對横濱高商野球戦(電車花園橋下車)
=入場無料ー午後三時より横濱公園球場にて=
二十四日 第八回マンドリン大演奏会(電車及バス本町一丁目下車)
=午後七時より本町開港記念会館にてー入場無料=
二十五日 岡村天満宮大祭(電車天神橋假停留所下車)
二十四日 全関東中等学校剣道大会
(午前八時横濱商業専門学校にてー入場無料)
二十七日 神奈川高等女学校大運動会(電車花園橋下車)
=午前十時より横濱公園運動場にてー入場無料ー雨天翌日に延期=

懸賞標語
不断の注意は最大の公徳(当選者 松永 伊吉 君)
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■東横電鐵直営 日吉台苺園
1926年(大正15年)2月14日に開業した「日吉駅」は、東急が新しい都市開発をイメージしたエリアで、東側に慶応義塾大学を誘致し西側に放射状の街区を持った街を計画します。スクリーンショット 2015-05-19 19.15.08■三州豊川いなり
「三州豊川稲荷」のことですが、何故「いなり」とひらがなにしたのか?
前里町に戦前の地図を見ると「豊川稲荷」があったことが判ります。戦後20年代から30年代に何らかの事情で無くなっているようです。
※市内の豊川稲荷
埋地連合町内会集会所横に小さな祠がありここが「埋地豊川稲荷」です。中区史によると扇町三丁目七番地に「一説には明治七年の創建」され戦災で消失し昭和38年に現在の地に再建されたとのこと。
神奈川高等女学校大運動会スクリーンショット 2015-05-19 19.06.21「神奈川高等女学校」は現在、沢渡にある神奈川学園高等学校の前身です。
1914年(大正3年)に「横浜実科女学校」として創設されます。
創設の地は南吉田にあった<リンネル工場>跡地の仮校舎だったそうです。
1915年(大正4年)に「横浜実科高等女学校」となり
1921年(大正10年)から「神奈川高等女学校」と改名します。
戦後の新学制から「神奈川高等学校」に1990年(平成2年)から神奈川学園高等学校となり現在に至ります。
http://www.kanagawa-kgs.ac.jp

この「市電ニュース」に登場した運動会の写真が「東急沿線」のサイトで確認できます。
http://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa18.html

ここで一瞬勘違いするのが
1900年(明治33年)10月10日に創立された
 <神奈川県高等女学校>です。翌年に神奈川県立高等女学校となり
1930年(昭和5年)4月1日に「神奈川県立横浜第一高等女学校」となり「第一高女」と呼ばれました。
この「市電ニュース」発行時の昭和六年時点では
「神奈川高等女学校」(沢渡)
「神奈川県立横浜第一高等女学校」(平沼)
の二校が近くにあり間違いやすかったと思います。