No.112 4月21日 濱にお茶は欠かせない
幕末期日本の近代化のために必要だった国家予算を稼いだのは お茶と生糸でした。 お茶は通商条約発効の1859年には早速180,000kg輸出され 生糸に継ぐ貿易の柱となります。 ところが現実、お茶輸出は 貿易開始時から“…
(横濱界隈通信)様々な横浜界隈を歴史から現在まで一つひとつたどりながら紹介していきます。
幕末期日本の近代化のために必要だった国家予算を稼いだのは お茶と生糸でした。 お茶は通商条約発効の1859年には早速180,000kg輸出され 生糸に継ぐ貿易の柱となります。 ところが現実、お茶輸出は 貿易開始時から“…
桜木町からほど近い音楽通りを抜けると紅葉坂に出ます。 急な坂を少し登ると、県立青少年センターと図書館、音楽堂の一群のあるエリアにでます。 この紅葉ヶ丘一帯は、アマチュア演劇人にとって特別な場所です。 神奈川のアマチュア演…
本日もまた七転八倒ですが、短時間でまとめました。 上手く伝われば幸いです。 初めは1897年に竣工したみなとみらいの二号ドックか、市大医学部の話にしようかなと思って準備してましたが今日もまた、昨日の雷雲のごとく突然発見し…
長谷川伸、 いつかは紹介しなければならない横浜ゆかりの人物です。 長谷川伸は1884年(明治17年)の今日、 横浜市中区日ノ出町で生まれ1963年(昭和38年)に79歳で亡くなるまで多くの作品を残し、多くの門下生を育てま…
ブリュターニュ生まれのフランス人青年が、 滞在地日本の横浜弁天通にある骨董品店の看板娘に恋をします。 娘の名は「三谷はな(おはなさん)」16歳でした。 彼の名はマルセル、居留地警護のために本国から来た軍人のため、いずれ別…
1906年(明治39年)の今日3月25日(日曜日) 日本の運命を変えた一人のマーチャントバンカーが家族とともに約二十日間の船旅を終え午後4時頃横浜港に入りました。 彼の日記によれば、午前11時に陸地が見えたとあります。 …
明治から大正時代にかけて 「横浜開港記念日」は<7月1日>で役所も学校もお休みでした。 1928年度から<6月2日>に変更されます。これは横浜の不思議の一つでしょう。 1928年(昭和3年)の今日、横浜市議会において開港…
まず 311に際し亡くなられた方のご冥福と被災された方々へのお見舞いを改めて申し上げます。私たちには立ち上がる力があります。 しぶとくずぶとく再生のために生きましょう。 今日の暦は、1921年(大正10年)のこの日、宗教…
横浜の歌といったら何を思い出すでしょうか。 市民の投票数なら「横浜市歌」が一番かも知れません。 戦後に限定すれば岡晴夫から始まり、最近はクレケンまでその数は1,000曲を超えでしょう。(正確ではありません) 数々あるヨコ…
1881年(明治14年)3月4日。 世界一周の途中、ハワイ王国最後の国王、カラカウアが横浜港にやって来ました。 上陸の際、カラカウア王自身作詞のハワイ王国国歌(現在のハワイ州歌)「ハワイ・ポノイ」を日本の楽団が演奏し、彼…