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汽車道は三線あった

汽車道は近年人気のプロムナードで、土日休日は行列のように通行人が繋がる。桜木町駅前から新港埠頭を繋ぐ約500mの遊歩道で、感覚的には「赤レンガ倉庫」がゴールのように感じられるが、手間で終点となる。
大正期に完成した新港埠頭倉庫群(赤レンガ倉庫他)と当時の横浜駅を繋ぐために整備された鉄道路線で
当初の計画書には「横浜鉄道海陸連絡線」(以下連絡線)とある。この「連絡線」、現在の横浜線と深い関係にあり多くのエピソードを持っているが、詳しくは別の機会にしたい。
ネット検索でもかなり面白い説明に出会える。例えば京急(京浜電気鉄道)の高架化顛末
この連絡線「汽車道はもともと「ウィンナープロムナード」と呼ばれていた(wikipedia)」
 とあるが俗称で正式名称では無かったと思う(資料無し)。税関線と呼ばれていたこともある。 
連絡線は複線仕様で新港埠頭に入って複数に分岐していた。その中で、主に日本郵船が使用していた4号近くに現在もプラットホーム跡が残っている。
と思っていたが、資料を漁っていたら、少し状況が異なっていたようなので、この点だけここに紹介しておく。連絡線は汽車道と呼ばれるように戦前は貨物を中心に、客船の乗客も<汽車>で運搬していた。
さて、この汽車道に線路は何本あったのだろう?単線だったのか複線だったのか?現在は単線がモニュメントとして残されているが、資料から私は複線だったとしていたが、実は一部<三線>だったようだ。

上記写真地図は主に戦後接収時代の頃で、新港埠頭に近いところの島状になった所まで単線らしきものが伸びているのが解る。ここには上屋らしきものがあったことが伺える。近辺に多くの<艀>が係留されている。なんらかの作業場であったのだろう。
別の証拠は無いか?探してみた。昭和9年の新港埠頭図が見つかった。

昭和九年新港埠頭入口

昭和九年の横浜税関資料では 確かに三線となっている。
では 途中まで伸びている単線の役割は何だったのだろう。荷物の積み降ろしのための護岸(桟橋)用だったのだろうか?


汽車道略年表
1915年(大正4年)東横浜駅開設。
1920年(大正9年)7月23日 日本郵船 香取丸 出航時にボートトレインとして旅客をはじめる。 東京からの初の乗り入れとなる。主に北太平洋航路の客船が現在の海保、赤レンガ倉庫に面する<3号・4号ふ頭>を利用。(〜昭和17年3月まで)
1945年(昭和20年)港湾部新港埠頭接収
 戦後日本郵船は氷川丸以後客船部門から撤退し客船飛鳥で復活。
1950年(昭和25年)〜1953年(昭和28年)
 朝鮮戦争用に旅客輸送として使用
1952年(昭和27年)に返還。
1957年(昭和32年)8月 戦後唯一残った貨客船「氷川丸」
 出港時にボートトレイン再開。
1961年(昭和36年)氷川丸の最終航海時まで旅客運送が行われていた。
この時期、港湾経済は「船混み」状態をどう解決するかが最大の懸案事項。
政府方針「国民所得倍増計画」の下に横浜港第一次港湾整備五か年計画(〜昭和40年)によりふ頭整備計画が実施される。
※氷川丸は現在の係留地、大さん橋から出航ではなく、新港埠頭
1962年(昭和37年)3月 正式廃止
1964年(昭和39年)5月 根岸線磯子まで延伸。6月高島線全通。
1965年(昭和40年)山下ふ頭輸送力増強を目指し新港埠頭から山下公園を抜け山下ふ頭に繋がる「臨港鉄道」が景観論争を経て建設。
※港湾物流の変化(コンテナ時代へ)港湾経済の転換点その1
1973年(昭和48年)オイルショック 港湾経済の転換点その2
1986年(昭和61年)10月汽車道供用廃止
1997年(平成9年)に整備され「汽車道」となる。
JR桜木町駅前から新港埠頭を結ぶ約500mの区間を指す。

京浜急行白金町駅

1930年(昭和5年)4月1日に開通した湘南電気鉄道は三浦半島の浦賀駅から桜木町駅を目指すために初期ターミナル駅を所在地の町名を採って「黄金町駅」とした。一時期本社機能が置かれたこともある。
開業の翌年、湘南電気鉄道は日ノ出町まで延伸し当初の計画を変更し、京浜電気鉄道と結合した。そして1941年(昭和16年)に合併し現在の京浜急行が成立した。
戦中の1944年(昭和19年)に駅の所在地は新設された「白金町」となったが、もう少し前倒しで町名変更がされたなら、「白金町駅」に変更されたかもしれない。
横須賀に海軍の施設があったことから、戦時体制となった昭和10年代以降、三浦半島は規制の多いエリアとなったが、終戦とともに新しい局面を迎えた。大東急時代から独立元に持っどった新生「京浜急行電鉄」は都心部から三浦、その先の房総エリアへの送客計画を次々と進めていった。

ハイキング特急
京急は戦後早々に不定期ではあるが房総向けの特急を走らせた。
その名は「ハイキング特急」といって
「1950年4月1日に登場した京急初の特急列車。ハイキング回数乗車券を持つ乗客だけが乗れる定員制列車だった。当初は品川駅 – 浦賀駅間を94分で結び、途中9駅に停車した。この時の表定速度は35.5km/hだった。当初の愛称には「三笠」「剣崎」「房総」「三崎」「灯台」「鷹取」が存在した」(wikipedia)

京急80年史より

このハイキング特急を通過待ちする待避線が「黄金町駅」にあった時期があったらしい※。
若干の不明点が出てきたので簡単だが調べてみた。
京急は路線に待避線をいくつか持っている。市内で代表的な駅は「神奈川新町」「南太田」がある。特急や急行を優先して通過させるため別の線路を設ける(待避線)である。
もう一つ、「渡り線」がある。
上下線や、複数の線路を繋ぐ(渡る)構造のことだ。

資料によると
「かつて、下りハイキング特急の待避が行われていた。これは下りの普通電車が当駅に到着すると、旅客扱いを行った後にスイッチバックして上り線に転線し、ハイキング特急「第二房総号」の通過を待って、再び下り線に転線するというものだった。その後、ハイキング特急が廃止されると、当駅での待避は行われなくなり、その渡り線は撤去された」
とある。
一読して鉄道には全くの素人は私としては 信じられない光景を想像した。
黄金町には「渡り線」が設けられ、本数は少なかったとはいえ、アクロバティックな待避が行われていたことになる。

社史には
1949年(昭和24年)4月24日 休日ハイキング列車運行開始
1950年(昭和25年)4月1日 休日ハイキング特急、平日急行、準急運行開始。
1952年(昭和27年)7月6日 品川・逗子間直通海水浴特急運行開始
1953年(昭和28年)9月13日 ハイキング特急ノンストップ運転開始

「戦後の復興期に再スタートを切った京急は、鉄道とバスの運輸業で通勤輸送と行楽輸送の2本柱をもって立ち向かい、施設の復旧と改良を進め、速達列車が普通列車を追い抜く待避設備を持つ駅を増やし、緩急結合と呼ばれる運行に変貌していた。(なぜ京急は愛されるのか)」
当時の京急は、文字通り走りながら復旧と路線開発を進めていた。
さて黄金町駅構造に話を戻す。
関内外にまだ多くの接収地があった時代の地図を確認してみると
「黄金町」不思議な構造になっていることに気がついた。

昭和23年修正の1万分の1「横浜」では、黄金町駅に待避線が表記されている。
不思議が残った。