9月 30

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争

今日は横浜駅東西開発競争の歴史をテーマします。
熾烈な開発競争を続けながらも膨張し続ける横浜駅にとって9月30日は因縁の日です。
少々乱暴ですが「横浜駅周辺開発」の半世紀を巡ります。

Googleから横浜駅周辺、3D迫力あります。

(乗換から乗降へ)
神奈川最大の乗降客数を誇る「横浜駅」の話しはこれまで何度か取り上げてきました。
JRだけでも1日の乗降客数は約100万人を数え

横浜駅は、日本一路線が乗入れている駅です。
○東急東横線
○相模鉄道線
○京浜急行電鉄線
○横浜市営地下鉄ブルーライン線
○横浜高速鉄道みなとみらい線
○JR東海道本線
○JR根岸線
○JR京浜東北線
○JR横須賀線

総乗降客 約230万人に達する
日本有数の 巨大ターミナルです。
元々鉄道黎明期の「横浜駅」が現在の桜木町で、
現在の横浜駅は三代目で1928年(昭和3年)10月に開業しました。

昭和30年代(まだ東口が表口)

以降、横浜駅は1960年代まで東口が表玄関でしたが、
乗換え中心でした。
(余談)確か、高倉健主演の「冬の華」のイントロは横浜駅東口から始まりましたね。

(ようやくプロローグ)
1959年(昭和34年)の今日、
株式会社横浜高島屋が開店します。
これを起点に東西のバランスが西口に大きくシフトします。


No.265 9月21日(金)ぺんぺん草の後に

ここで横浜駅の表玄関が「ぺんぺん草の西口」に移る頃を紹介しました。
相鉄文化会館、髙島屋、そしてダイヤモンド地下街も完成することによって乗換駅でしかなかった「横浜駅」が乗降客数全国有数の駅に変貌します。

1989年の西口界隈(撮影 河北)

■白紙状態
横浜駅西口周辺(北幸・南幸)は
明治期に茂木六兵衞が中心になって埋め立てによって造られた土地です。
当時の繁華街は桜木町から伊勢佐木周辺でした。
現横浜駅界隈は、埋立てられその土地は
石油会社ライジングサンの製油所に一部売却されました。
それでも茂木家は最大時で16万坪を所有していましたが、
終戦後米軍接収を恐れ売却します。
その売却先企業が
相鉄、岡田屋、岩崎学園等でした。
戦後資材置場に過ぎなかった西口空間にいち早く目をつけたのは
東急の“五島慶太”でした。

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

かつて部下だった相鉄の「川又英雄」に西口共同開発を働きかけますが、
川又は独自路線を選び東急Gとは訣別します。
そこに小田急電鉄も目を付け株買収を始め、横浜駅をめぐる経済戦争直前までいきますが、小田急が仲介で手を引きます。

東急が本格的進出を諦めた頃、
眠れる相模鉄道が横浜駅開発に本腰を入れ始めます。開発の鞘当ては盛んに行われましたが、横浜駅西口駅前は全くの白紙状態でした。

■機を逸した三越!
相鉄は、横浜駅西口に大型商業施設(デパート)を誘致することを計画します。
第一候補に「三越」を考えます。
当時三越は創業50周年を目前にし、最も勢いがあった百貨店の代表格でした。

三井系呉服店「越後屋」からスタートした三越は商圏を“見誤り”西口進出を断ります。
この時、同時に交渉を進めていた髙島屋が関心を示します。
まず駅前ストアから始め、
資本を独立させた株式会社横浜髙島屋を設立し
「西口駅前区画整理」後の相鉄所有の一等地に出店します。
1959年(昭和34年)の今日
「髙島屋」がオープン(グランドオープンは10月1日)します。
横浜髙島屋は、独立店舗の中でも驚異的売上で横浜駅界隈のリーダーに躍り出ます。
二子玉川店、港南台店を株式会社横浜髙島屋として出店し髙島屋Gの中でも最大の稼ぎ頭となります。(1995年に株式会社髙島屋に吸収されます)
機を逃した三越は、
西口広場の北側に専門学校を経営する岩崎学園のラブコールを受け、
1973年(昭和48年)に出店します。
三越は当時社長になったばかりの天皇と呼ばれた“岡田茂”の時代です。
三越横浜店は開店早々、オイルショックの洗礼を受けます。
ヨコタカに水を開けられたまま
2003年新体制となった三越は2005年に横浜店を閉店します。
そして2008年に業界に激震が走った「三越伊勢丹ホールディングス」が設立されます。
この三越伊勢丹合併が“横浜東西戦争”に関わってきます。

■MMを巡る東口骨肉の争い
みなとのみらいがつながることが発表されたのは飛鳥田一雄が市長時代でした。
この計画を知って、三菱造船所が空き地になれば、
横浜は東京に勝てる(負けない?)
その窓口は“東口”だ!
と多くの人間が確信しました。

2月27日 政治家が辞めるとき

飛鳥田プランが出される前から、
戦後の横浜駅(東口)復興に腐心していた経営者が
野並茂吉(当時崎陽軒社長)でした。
彼は横浜エリアで戦後最初最大の崎陽軒ビルを建てます。
これによって横浜駅東口(表玄関)の威厳を復活させます。
ところが、西口界隈の開発進行とMM計画の概要が現実化する中、東口は不毛ともいえる
20年の政官民泥沼時代に入ります。(ここでは略します)
ごたごたを抱えながらも東口開発が徐々に進み、
1980年(昭和55年)にポルタ地下街がオープンします。
そして、
1985年(昭和60年)の今日、(髙島屋オープンから25年目の同日)
当時売場面積日本一を誇る横浜そごうが開店します。
同時に横浜新都市ビルがオープン、1階は横浜駅東口バスターミナルとなり
隣接するスカイビルを併せて東口の商業核にとして登場します。

1985年9月30日開業

さらに、横浜駅の商業戦争に参入したのが
1987年(昭和62年)に民営化されJRとなった駅ビル事業の参入です。
1976年(昭和51年)新宿ルミネで成功し
1980年(昭和55年)ポルタに合わせて横浜ルミネが東口側に開業します。
西口側はすでに1962年(昭和37年)「横浜ステーションビル(シャル)」が開業していました。
シャルは2011年(平成23年)5月24日閉店し鶴見にシフトしました。
そして、西口は半世紀のジレンマを克服し
東急が動き出します。
No.87 3月27日 (火) 横浜駅のヘソが変わる

東口界隈

残るは北口開発
「横浜ベイクォーター」の登場です。
また、伊勢丹の夢ふたたび、三越のリベンジ、ゼネコンの誤算
を含め(気になるでしょう?)横浜駅界隈は新しいステージを迎えました。

横浜駅東西(南)北から目が離せません。
このあたりのエピソードは別の機会に譲ることにします。
No14 1月14日(土) ハマボール閉鎖

No.222 8月9日 (木)YCAT

9月 29

No.273 9月29日(土)明治版2Ch?

今日は閑話休題、ネタ探しの宝庫について紹介しましょう。
明治時代ともなると、百数十年も前のことで時代劇の領域のように感じますが、当時の新聞を読んでいると、
何時の時代のことなんだろう?と思う出来事が多く報道されてる事に失笑しつつ“変わってない”世の中に複雑な思いもあります。
例えば1909年(明治42年)9月29日開港50周年の年「横濱貿易新報」のいわゆる生活欄、三面記事には?

やっぱり日本女性は和服でしょ!?

明治版おれおれ詐欺
上記の記事の次に、不逞の学生どもが電話を使って詐欺をして捕まった記事が大きくでています。
ことの顛末をかいつまんで紹介します。
学生グループは自動電話(交換を通さない)を使って、著名人の名を語り高価な出前を頼み“食い逃げ”し、若い女性を尾行しレイプに及び、若いカップルからは恐喝し金銭をまき上げるという“どうしようもない連中”が捕まったという記事です。
冒頭に「堕落学生の跋扈することを耳にするは久しきこと」とありますから、
明治の時代でも馬鹿な学生はいたようです。

良く読むとかなり凶悪犯です

明治の新聞記事は「横濱貿易新報」か、「横濱毎日新聞」で調べますが、多くの場合、年表等で事件を発見しその日の記事を確認する作業を行うのですが、面白い記事に関心が行ってしまうこともしばしばあります。
広告は面白いので時々このブログでも引用しています。
No.137 5月16日 全店サマークリアランスセール開催中

最近興味深く読んでいるのがいわゆる「投稿欄」です。

幾つか紹介しましょう。
「漫遊外人などが上陸早々面会するのは税関監視部の人なり。一寸した事だが能く考えると監視部には立派な人を置きたいね」
“置きたいね”という言葉から、今で言えば、入国審査官はその国顔ですからしっかりした人にしろ!という意見なんでしょう。
まるで落語に出てくる『ネタ』のような投稿が
「イセサキ一(丁目)の天金では夜二時過ぎまで調子の合わぬ三味線を弾くので近所では大迷惑(不眠休)」
「若葉町三丁目の下駄屋では毎夜調子の合わぬ三味線弾いては近所迷惑」
「近頃滑稽な噺は初音町の祭礼に生花の奉納があったところ隣の床屋の“権”という若者が生花を見に来た別嬪に見とれて客の睫毛を剃り落したとの事」
今も昔も変わらないのが
「生命保険の勧誘五月蝿ね」
明治時代も勧誘は迷惑だったようで。
「市長サンは不二山との評を受けたんだ。なるほど少しも物に動ぜぬからね」
何もしてくれないという揶揄です。
「皆んなが皆んなと言う訳ではないが横濱の電話交換手ほど不親切極まるものは例が少ない。五百番は何のために設けているのですか」
「羽衣町弁天社内は雨が降ると道が悪くて高い下駄が沈没します。早く地上げをお願いします。」
「野毛山双葉楼別荘下の道路へ電燈を点ぜよ(安全男)」
「停車場の札売場にて駅夫が衣服を着替えるのは見苦しい沙汰です(商館番頭)」なんて公共サービスへの投稿もあります。

一方で、投稿にどれほどの信憑性があるのかわかりませんが、
「不老町の英漢数教授某先生 生徒から金を借りて酒食に耽る事は止したまへ」
「赤松春よ 男子との交際は止めよ(忠告生)」大きなお世話のような気もしますが。
「戸部警察署詰の高木刑事君の住所ご存知の方は此蘭まで御通知を乞う」
新聞で警察官の住所を聞いてしまうなんて今じゃ考えられませんが、この記事には後日談があったようで、数週間後“戸部警察署詰の高木刑事”は東京に転勤となった記事がでていました。何なのでしょう?ちょっと興味あります。
「住吉二(丁目)のお倉ちゃん十四日の晩は御三人で御楽しみね(住吉三(丁目))」
「戸部四 湯屋の西岡さん淫売の妾はおよしなさい。御身分に障ります。」
「寿二(丁目)の早川おトシさんあまり方々の男と歩行くのはおよしなさい。(注告女)」

こんな目撃証言、当人は効いたでしょうね。

「横濱停車場の出札係高辻タマ子は客に対して頗る親切だ 第一釣り銭を投げつけるなんか 又一二等口の婦人は英語にも熟達して居て丁寧懇切だ」
この光景、
一等二等の窓口の担当女性は英語も話せて懇切丁寧だが
一般客(三等)担当の接客には我慢ができない!!と読んだのですが。
今も近いものがあるように見受けます。横濱のどことは言いませんが…

最後に
「横濱市内の奇観
(1)弁天橋の古褌
(2)噴水器の青藻
(3)ドンタラ時計(会館上の)とす」
さあ どんな光景なんでしょうか?
このドンタラ時計はかなり市民に不人気のようで別な場所の投稿にも新しくしろという趣旨の記事がでていました。
ようは時間が正確ではないので“時計の役割”を果たしていないということのようです。

お粗末でした。御後がよろしいようで。

9月 28

No.272 9月28日(金)横浜の中の世界のノナカ

楽器業界屈指のラインナップを誇る
国内最大規模の楽器輸入会社といえば?
横浜に本社を置く「野中貿易株式会社」をご存知でしょうか?
世界中から弦楽器や打楽器、管楽器など様々な楽器製品を輸入している
専門貿易会社としてはわが国トップックラスの企業です。
1953年(昭和28年)9月28日の今日創業した、
横浜生まれの企業を紹介しましょう。

横浜は音楽が似合う街です。
童謡が育ち、国産ピアノが生まれ、ジャズやブルース、ライブハウスなど開港以来横浜に音楽は欠かせません。
野中貿易株式会社は、
1953年(昭和28年)9月28日に創業し、サクソフォンのBerg Larsen社の極東総代理店をきっかけに管楽器のノナカが華開きます。
以後、Wittner社、Puchner社、Vandoren社、Calato / Regal Tip社、H.Selmer社、Mayer Mouthpieces社、Springer Oboe社他数多くの楽器のトップブランド代理店として日本の音楽業界に貢献してきました。
この会社を知ったキッカケは、昨年山下公園で開催されていた「YOKOHAMA STEEL PAN FESTA2011」でした。つい最近、そういえば今年は行われたのだろうか?と情報を調べていく内に「野中貿易株式会社」ただ者ではない会社だと知りました。
キッカケのイベントは、
2002年から始まったノナカ共催の「YOKOHAMA STEEL PAN FESTA」
横浜の夏の音楽シーンを湧かせ2011年まで十回に渡って「赤レンガ倉庫」「金沢区海の公園」「ドックヤードガーデン」「山下公園」等で開催されました。
ここに登場する楽器が「スティールパン」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スティールパン

wikiから

YOKOHAMA STEELPAN FESTA 2011
http://www.youtube.com/watch?v=6Z7BdajZNqY

Yokohama Steelpan Festa 2002
http://www.youtube.com/watch?v=u4hqowR07WA

「Steinway & Sons」は世界のピアノメーカー御三家の一つです。”世界のピアノの代名詞”と言われるブランドを扱う正規取扱店としてショールームを展開。
http://www.pfpf.jp

サクソフォンの野中貿易主催の“ノナカ・サクソフォン・コンクール”からは
西本淳
http://saxo-pokkun.blog.so-net.ne.jp
土井徳浩
http://blogs.yahoo.co.jp/tokuhirodoi
小山弦太郎、貝沼拓実、江川良子など現在のサクソフォン界をリードするソリストが登場しました。

「輸入プロフェッショナルサクソフォンの市場占有率は90%以上、輸入プロフェッショナルトランペットの60%、その他管楽器、マウスピース、リードなどのアクセサリー類において相当のマーケットシェアを占有し、海外有名メーカー総代理店契約および代理店契約も約50社を数えます。」(HPより)
http://www.nonaka.com/

野中貿易株式会社
本社住所: 横浜市中区太田町4-46 野中ビル
TEL 045-211-2022

2013年(平成25年)9月28日には設立60周年を迎えました。
横浜生まれのトップランナーの一社です。
横浜には、意外なオンリーワン企業が多くある街です。
今後も横浜が誇るオンリーワン企業をおりに触れ紹介していきます。

9月 27

【番外編】もうひとつの9月27日

1989年(平成元年)9月27日の今日、横浜ベイブリッジ・スカイウォークがオープンしました。
そして2010年(平成22年)9月26日を最後に21年の役割を終えました。
え?スカイウォーク行った事無い?はたまた、知らなかった?

(行き止まり)
横浜ベイブリッジの国道部分の下層部、大黒埠頭側から約320mの歩行者専用(市道)で展望もできた施設です。路線名は「横浜市道スカイウォーク」と表記されます。道路法の(柔軟な)解釈なのか、特別ルールなのか判りませんが、超法規的?行き止まり道路です。

橋の展望台施設としては日本初の試みでした。建設費は48億円で、閉鎖した後も、(道路管理費?維持費)として年500万円かかるそうです。

まあ年末年始はかなり混みましたが、平日はまったくダメで、天候にも依存しているためかなり苦戦を強いられてきた事は間違いありません。
とにかくアクセスが面倒で行く気が起らなかった記憶があります。

(この先のスカイウォーク)
でも 私は継続(現時点では再開)派です。
年間の経費が8,000万円〜9,000万円として、稼働日360日
正確に計算していませんが、一日400人平均といったところですかね。
認知度、アクセス改善、SP抜本的改善、リピーター確立
大黒パーキング・その他施設との連動 等々
課題はかなりありますが みなとみらい周辺の完成度が高くなってきた現在こそ「スカイウォーク」でしょう!

No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント

9月 27

No.271 9月27日(木)酒は国家なり

神奈川県史料をペラペラっとめくっていたら面白い通達が出ていました。
1876年(明治9年)9月27日(水)付けで
「第三十五 洋酒一杯売戸数制限之事」とありました。
今日は明治の酒場模様?をちょっと探索してみます。

本文とは関係ありません

神奈川県は第1大区内の洋酒1杯売業者の軒数を20店に限り、
営業許可する通達を出します。(たった20店です)
第1大区内とは、全国一律の戸籍を作るための準備として区割りした呼び名です。神奈川県の第一大区は当時の横浜町(中区一部)で、1878年(明治11年)に郡市区町村制が施行されるまで使用されました。
「一杯売」とはなんだ?ちょっと調べましたが(2012年9月27日現在)にわか調査では不明です。いわゆる酒屋さんに併設されている(た)立ち飲み屋さんのことなのか?
手元にある資料では「電気ブラン」の神谷バーの神谷さんが「一杯売」で資金を作ったとあります。「電気ブラン」は東京都台東区浅草にある神谷バーの創業者、神谷伝兵衛が作ったブランデーベースのカクテルで、現在もボトルで復活販売されています。
このお達しには、附則があります。「但、洋酒小売(瓶詰)営業戸数ノ儀ハ七年十二月十八日達洋酒小売規則〜」と別に規定していますから、恐らく“洋酒一杯売”は(私は)BARの走りではないか(全く確証はありません)と想像しています。

ミモザ

なんといっても、
日本の洋酒を日常飲むシーンは横浜から始まります。
江戸時代に珍品として飲まれていたレベルではなくビジネスシーンとして洋酒が街中で飲まれるようになったのは、居留地のあった横浜です。
記録に残る初めての輸入洋酒は、1870年(明治3年)のジンと言われています。
翌年の1871年(明治4年)に、横浜山下町にあったイギリス商館カルノー商会がウイスキー(ウスケなんて言ってました)を輸入した記録が残っています。初輸入のウスケは“肩張丸形”の瓶に入った「猫印ウイスキー」でその後、ジン、ウイスキーに続き、ヘネシーなど三種類のブランデー、ラム酒、ペパーミント、キュラソー、シャルトルーズ、マラスキーノの各リキュールが輸入されました。

本文とは関係ありません

いずれも明治初期の輸入量はごく少量だったようです。
値段も高く、販売ルートも限られていたため在留外国人の飲み物だったのでしょう。ところが、新もの好きのハマッ子、1871年(明治4年)には、早くも国産洋酒が登場しているのです。国産と言えばカッコいいですが、洋酒と言いながら、似て非なる「イミテーション」として登場します。
そこで、冒頭の「第三十五 洋酒一杯売戸数制限之事」のお達しが出たのではないでしょうか。

世界どこでも「酒」は国家を支えています。
酒飲み納税諸氏よ、もっと主張しろ!

1899年(明治32年)とちょっと後のデータになりますが、国税総額1億4,513万5千円に対し、酒税は4,900万9千円で、国税総額の34%も占めていました。
税収増は国家の最大関心事でナーバスです。(使い方は乱暴ですが)
新しい国家、明治政府の税収規則はめまぐるしく変更されます。施行しては反対にあったり、矛盾が生じ廃止・変更を繰り返しています。まあ税は国家の「個性」みたいなものですから初期の明治政府は憲法も無く混乱していたのでしょう。

1871年(明治4年)7月に「清酒、濁酒、醤油醸造鑑札収与並びに収税法規則」が制定されます。
これは、それまで日本の酒税の主流だった酒造株を廃止し、新規営業を自由とします。その代わり有料の「免許鑑札」を設けます。そこに免許税と醸造税(従価税)を課すことで税収を図ります。これによって酒造業の営業の自由が保証され、酒造メーカーが急増します。

おそらく、洋酒には関税以外に税がかかっていませんから「洋酒もどき」が増えるのは国税当局には不正と映ったのではないでしょうか?
なにせ、戦前の酒税の歴史は「どぶろく」規制の歴史でもあります。税がかかるなら自分で造る!それはまかりならぬ!という、現在の合成ビール課税騒動に続く狂想曲ですね。

横浜の洋酒文化をリードしてきたのは、なんといっても居留地の“ホテル群”でした。幕末から明治、大正頃まで外国人経営のホテルが生まれては消えていきました。これらのホテルには必ず「酒場」があり、カクテルも嗜まれます。横浜生まれの“カクテル”が幾つか生まれましたが、無名のオリジナルも生まれては消えていったのではないでしょうか。
このテーマをキッカケに一冊の本を読んでいます。
 横浜のホテルと界隈文化にも禁断の木の実のように興味がわいてきました。(今年中にはご紹介できるでしょう)

2月16日 ヨコハマグランドホテル解散

No.134 5月13日 必ず素晴らしい日の出が訪れる

9月 26

No.270 9月26日(水)ノーマライゼーションの先駆け

今日は障がい者教育の先駆者達の話しです。
1889年(明治22年)9月26日の今日、
アメリカ人社会事業家Charotte. P. Draper夫人が
現在の横浜市南区中村町に民家を借り“盲人福音会”を設立しました。

青山墓地に眠るドレイパーファミリー

シャロッテ・P・ドレーパー(Draper, Charlotte Prinkney )女史は、
1881年(明治14年)に宣教師の夫とともに先に来日します。
先に宣教師として横浜で活動している息子夫婦を追ってアメリカから来日したのです。シャロッテは1889年(明治22年)に異国の地で夫ギデオン・ドレーパーを失いますが、彼女は一転日本の地で“社会事業家”として自分の生きる道を切り開きます。
明治時代、女性によるソシアルビジネスを一から始めた彼女は、当時殆ど関心のなかった障がい者支援(盲人教育)の道を切り開きます。
その第一歩が、
1889年(明治22年)9月26日現在の南区中村町の民家を借り、身寄りの無い盲人を三名引き取り教育環境を整えた「盲人福祉会」設立でした。
全くノウハウ、経験値ゼロからの事業でした。
数年後、宣教師の息子夫婦の北海道転勤の都合で、ドレーパーファミリーは北海道函館に移り住みます。
シャロッテは、この地函館でも横浜の経験値を活かし函館訓盲会の創立を息子の妻マイラと一緒に進めます。彼女はこの地、函館で亡くなりますがマイラが義母の志を引き継ぎます。函館から最初の地 横浜に戻ると立ち消えになっていた「横浜盲人福祉会」を再建し軌道に乗せます。
この横浜盲人会が、現在の“社会福祉法人 横浜訓盲院”の前身となります。
■社会福祉法人 横浜訓盲院
http://kunmou.jp

(父と息子は宣教師)
母と義理の娘は社会事業家として二代にわたり横浜で盲人教育に尽します。
宗教の力を超えた人間愛といえるでしょう。

http://www.ii-idea.com
(今 これら明治の外国人の墓所が危機に陥っています)
(訓盲院の歴史)
盲人を学校として教育するしくみづくりは
1875年(明治8年)5月東京でイギリス人医師宣教師と日本人によって訓盲院「楽喜会」設立が最初です。
1878年(明治11年)5月には、京都で日本人の手で「盲唖院」が設立されます。
1886年(明治19年)には新潟県高田町で「訓盲談話会(高田盲学校の前身)」が発足します。
そして1889年(明治22年)に「盲人福祉会」が創設されます。
実は、シャロッテ女史が「盲人福祉会」を創設する二年前の1887年(明治20年)、
一人の日本人眼科医が個人的に横浜で盲人教育を始めていました。
医師の名は浅水進太郎(十明)、眼科医ヘボンと教育者バラの影響を受けた彼は1882年に関内“尾上町”で眼科医を開業、87年に野毛に移転すると同時に職を失った元鍼灸術師の盲人に“医学”を講義します。
その後、この医学指導が発展し盲人の職業的な自立に対する支援の「鍼治揉按医術講習学校」の看板を掲げるようになります。これが後に、“横浜市立盲学校”となっていきます。
シャロッテ女史の「盲人福祉会」が0からの自立支援、
浅水進太郎の鍼治揉按医術講習学校」は職業訓練の役割を担っていたようです。

震災や戦災で風景を失った横浜ですが、
明治の息吹を現在まで大切にしている先取の精神は
これからも大事にしていきたいものです。

最後に
盲人の社会生活、コミュニケーションに欠かせない「点字」の
豆知識を
点字表記は身近なところにありますが、必要としないと見過ごしてしまいます。日本語の点字が導入されたのは1890年です。

現在は6点点字と呼ばれ、横2点縦3点の計6個の点の組み合わせでカナ、数字他を表します。
早速点字で文章を作ってみました。

最後に、点字ブロックの上に自転車やモノを置くのは止めましょう!
大変危険な行為です。

9月 25

No.269 9月25日(火)河口に架かる橋

日本のインフラ整備の歴史の中で、橋の設計は個性的です。
近所の小さな橋を幾つか探してみても工夫の跡が判ります。
特に海(湖)に注ぐ川の入口に架かる橋は、全国的に美しいものが多いようです。
1964年(昭和39年)9月25日の今日、
埋立てによって整備された河口に架かる八景橋が完成しました。
このあたりからの風景は、中々素晴らしいものがあります。

横浜市域を流れる川にはあまり大きなものがありません。
唯一の一級河川「鶴見川」はこのクラス最短に近い本川延長43Kmで、暴れ川の歴史を持っています。
河川法上の一級に準ずるのが二級河川(県の管理)ですが、市内で河口を持つ二級河川は帷子川(河口は西区)、大岡川(河口は中区)、宮川(河口は金沢区)、侍従川(河口は金沢区)の水系です。
市内に支流を持ち相模湾に流れ込む境川と支流の柏尾川も市内の重要な河川ですが今日は、これらの市内河川から、市内の河口に架かる橋の話しを少し紹介しましょう。
おすすめガイド系のお話です。

橋の上から海を眺めることが出来る“河口の橋”が横浜市域にも数多くありますが、中でも美しい風景を堪能できるのが六浦川「八景橋」付近から侍従川の河口「平潟橋」周辺です。


※絶景ポイントとしては「夕照橋」(平潟湾に架かる)がありますが河口ではないのでここでは除外しました。

内陸に深く入り込んだ平潟湾と係留されている漁船とヨット、モノレールの通過する光景は、人工美ではありますがリゾート地の風合いを醸し出しています。

六浦川と侍従川が平潟湾に流れ込むこの橋近辺は、
昭和30年代に埋立てで造られた土地です。
町名は金沢区柳町で昭和41年にできた街です。

昭和30年ごろ
昭和初期

横浜の海岸線の殆どが戦後の埋立てによって形成されたものです。
多くの用途が工業用地でしたが、この六浦川・侍従川河口は住宅地専用に開発されました。

 


No.136 5月15日 フルライン金沢区

(横浜河口付近ギャラリー)
■大岡川水系の河口周辺といえば「万国橋」あたり

汽車道から万国橋

■大岡川水系、もう一つの河口周辺といえば「国際橋」あたり

■厳密には河口ではありませんが?“汐入橋?”

■帷子川河口は「東口ペデストリアンデッキ」橋?です。
 そごうと日産を繋ぐ橋です。

■新田間川の河口も「そごうペデストリアンデッキ」です。

■滝の川河口付近「万代橋」から

■新田間川と帷子川が合流付近に架かる「みなとみらい大橋」

■Y市の橋です。

知る人ぞ知る?名画の場面となった橋です。

http://www.ima.or.jp/ja/collection/matsumoto.html
岩手県立美術館に松本竣介コレクションがあります

9月 24

No.268 9月24日(月)維新の内乱を悼む

昨今“維新”がキーワードとなっていますが、
これが明治維新をイメージしたものであるのなら、
はなはだ危なっかしいネーミングだということを念頭に置く必要があるでしょう。
わが国最大にして最後の内乱「西南戦争」が終結した
1877年(明治10年)9月24日から一年後の今日、
1878年(明治11年)9月24日「西征陣亡軍人の碑」を伊勢山皇太神宮内に建て、
式典が挙行されました。

維新後新政府政策に対する不満による“乱”(抗議運動)が全国で起ります。その最大級の乱が「西南戦争」です。
一般的には政府内での「征韓論争」に破れ下野した西郷隆盛と
新制度に不満を持つ士族が結集し決起した“暴動”とされている場合が多いようですが、
必ずしもそれだけではなさそうです。
史実は殆ど謎のままです。(ここは西南戦争論義の場ではないので別にて議論します)

西南戦争は九州全域を戦場とし
1877年(明治10年)2月15日〜9月24日までの約七ヶ月に渡って薩摩軍、政府軍併せて12,000人が戦死、20,000人の負傷者がでました。
新政府誕生後行った徴兵による軍隊と、かつて戦う事を職としていた“武士”との総力戦でもありました。
この戦争で、政府の戦費は約4,100万円にのぼり、当時の税収4,800万円のほとんどを使い果たします。
政府は戦費調達のため不換紙幣を乱発し、インフレーションが発生し、日本国の経済破綻寸前まで追いつめられます。
話しを横浜に戻します。
神奈川県内で徴兵されて西南戦争で戦死した十数名の為に忠魂碑を建てようという(全国的な)動きの結果
三条太政大臣の揮毫により「西征陣亡軍人」の碑建立計画が進行します。

碑の脇に建つ灯籠には「茂木 惣兵衛」の名が

式典は西南戦争終了記念日である
9月24日に行われる事になり、当日は県知事、政府関係者を始め、戦死者遺族らが参拝し、陸海両軍による奏楽や琴、撃剣、囃子等の催しまで行われたそうです。市内には各戸軒に提灯を掲げたとありますから、かなり派手にお祭りが行われたようです。
東京から送られた政府軍は横浜港から出港したこともあり当時の市民は複雑な気持ちで出兵を見送り、提灯を掲げたに違いありません。

横浜から西南戦争に行く兵士達(Wiki)

この戦争で亡くなった西郷軍の死者は、全て賊軍となりました。
戊辰戦争から10年目のことです。

(横浜洋銀取引所)
ほぼ国家予算を使い切った日本は、経済金融制度が未熟な中、大量の不換紙幣発行を行ったため、為替価値が下がり外国貿易の中心地「横浜」に大打撃をもたらします。
金銀相場が急騰し貿易ができない状態まで追いつめられます。
そこで横浜経済界は「横浜洋銀取引所」を創立し貨幣相場の安定に務めます。
2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す

また、このインフレが、外為銀行「横濱正金銀行」設立のキッカケになります。

(もう一つの忠魂碑)
神奈川区三ツ沢公園内に「戦没者慰霊塔」が建っています。
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

この慰霊塔は「西南戦争」から「第二次世界大戦」までの神奈川県出身戦死者を慰霊するために建立されたものです。

 

9月 23

No.267 9月23日(日)Yの真価 (加筆)

(2012年も残すところ100日、100話となりました。)
1943年(昭和18年)9月23日の今日、
横浜市立横浜商業専門学校(横専またはY専)の校章「Y」は敵性語のため廃止と決まりました。
戦後「横専」は新制横浜市立大学商学部に、
Y校本科は現在の横浜商業高等学校となりYのマークを復活継承します。

blogY-E9-AB-98-E6-A0-A1-E6-97-97

横浜商業高等学校、Y校といえばY一字の校章、学生帽で有名な横浜市を代表する高等学校です。
「横浜に上陸したら先ず“Yボーイ”をつかまえよ」アメリカの貿易商の間で囁かれていた日本に行った時の留意点だったそうです。(Y校80年史)

“Y”を敵性とは三国同盟は有名無実だったのでしょうか。
まあ仮にドイツ語、イタリア語でしたらYは「ypsilon」ですから語呂が悪かったことは間違いありません。「イー校」ってとこでしょうか。これでも結構いけますね。
1882年(明治15年)に開校した“イー校”の歴史を簡単に紹介しておきましょう。

(国際力のある人材育成)
貿易の街に変貌した横浜で、外国人と対等にビジネスを行う人材育成の必要性を実感した発起人28名の内
横浜貿易商組合の幹部七人※が集まり
“ビジネススクール”の設立を決断します。
当時全国の商学校設立に学校を挙げて協力していた慶応義塾の福沢諭吉に相談します。
※幹部七人
・「生糸貿易の重鎮」市会議員、横濱正金銀行頭取“小野 光景”
・「実業界の明星」後の横濱正金銀行頭取“木村 利右衛門”
・「正義の獅子」政治結社「鶯鳴社」の“戸塚 千太郎”
・「横浜水道の元勲」横浜船渠、横浜鉄道の経営に従事“朝田 又七”
・「横浜の銀行家」茂木銀行代表 “茂木 惣兵衛”
・「日本のビール王」大日本麦酒社長の“馬越 恭平”
・「頭脳明晰な商工会議所のエース」来栖 荘兵衛
※発起人28名には、当時の横浜実業界の重鎮たちが名を連ねています。
安倍幸兵衞、戸塚千太郎、雨宮啓二郎、田中平八、田中平八、大谷嘉兵衛らがいました。
中には花火でアメリカで初めて特許を取った平山甚太もいました。

No.308 11月3日(土)対米初の特許は横浜花火

福沢はこの依頼に、慶応社中のエース級を紹介します。
備中(現・岡山県)生まれで1872年(明治5年)に上京、慶應義塾に学び福沢の信頼厚く、後に福沢の葬儀を取仕切った“美澤 進”(みさわ すすむ)です。
1882年(明治15年)3月20日開校した横浜の商業専門教育機関の名は「横浜貿易商組合立横浜商法学校」丸善の創始者早矢仕有的が命名しました。
最初は町会所(後の開港記念会館)の二階に開校しますが生徒は数人しかいなかったそうです。
美澤 進は、慶応を卒業後、岩崎弥太郎肝いりの三菱商業学校に1878年(明治11年)から勤務しますが、西南戦争の戦費支出で財政難に対して緊縮(松方デフレ)政策のあおりで、1881年(明治14年)廃校になっていまい、職を失っていました。
福沢に実力を見込まれた美澤は就任後、大正12年9月に亡くなるまで42年間「Y校」の校長を務め、教育理念を創り、校訓を定め横浜商人の育成に尽力しました。
理論より実践の商業教育を目指し生徒数も順調に伸び、平成の今日まで多くの逸材を輩出しています。

このYマークが決まったのは、明治24年頃です。美澤 進校長は幾つかの校章案を作り、教え子に相談します。
当時日本郵船横浜支店長だった田中常徳です。

YokohamaのY、横浜を代表する唯一の学校を表すYの案に
「おれはYが良いと思う。シンプル過ぎるという人もいるが、おれはこれが良いと思う。如何だ?」と美沢が問うと
「そうです。それが良いでしょう」と田中が答えて決定したそうです。

blogY-E9-AB-981

美澤 進、座右の銘は「真面目(しんめんぼく)」です。
意味は、本来の姿。ありのままの姿。真価。

「Y校」というアルファベット一字の愛称の付く学校は大変珍しいのではないでしょうか。横浜商業高等学校の校歌は、
1916年(大正5年)に制定されますが、
作詞は横浜市歌と同じ森 林太郎 (鷗外)です。

栄行(さかゆ)く御代の 民草(たみぐさ)我等(われら)
事業(ことわざ)こそは種々(しなじな)かはれ
かはらぬものは心の誠
誠を守る商人(あきびと)我等
いでや見ませ朝な夕な
撓(たゆ)まず共に いそしむ我等

作曲:日本童謡界をリードした小松 耕輔です。

Y校(横浜商業高校)校歌
http://www.youtube.com/watch?v=5RdS4R2fIQI

No.429 Y校創設地はどこだ?2

No.217  8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い

No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人

No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA

9月 22

No.266 9月22日 (土)ハマの赤レンガ

1888年(明治21年)9月22日(土)の今日、
横浜区相生町68番地に横浜煉化製造会社が創業しました。
横浜のイメージワードの一つに“赤レンガ”があります。
震災や戦災で多くのレンガ仕立ての建物は失われましたが、横浜にレンガは欠かせません。
今日はレンガ製造を巡る話しをまとめてみました。

横浜でレンガ製造といえば、実業家として活躍したジェラールが1873年(明治6年)に山手で始めたことが有名です。

No.175 6月23日 フランス軍港があった丘

No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき

その後、近代建築に欠かさせない素材としてレンガ需要が高まります。また新技術も海外から導入され、日本各地に量産工場が作られました。横浜煉化製造会社もその一つです。
横浜煉化製造会社の創業した1888年(明治21年)前後に日本煉瓦製造会社、竹村煉瓦製造工場、東輝煉化石製所、関西煉瓦会社、下野煉化製造会社、大阪窯業、金町製瓦会社など次々とレンガ工場が設立されます。
現在公開中の東京駅もまさにこの時代のレンガ建築の傑作です。
http://www.tokyostationcity.com
(ホフマン窯)
横浜煉化製造会社、日本煉瓦製造会社(埼玉県)と下野煉化製造会社(栃木県)の三社は当時大量生産型の代表工場でした。いずれも近代的なホフマン窯で、横浜の近代建築の重要な素材供給源となりました。
ホフマン窯とは、ドイツ人技師ホフマン(Friedrich Hoffman)が考案し、19世紀後半のレンガ製造の主流となった量産型工場です。それまで、煉瓦を入れて焼きあがると、“火を消し”熱が下がってから煉瓦を取り出す工程でした。ホフマン窯は、窯を環状(円形、楕円形等)に配置し、煉瓦を連続製造することが可能になりました。

シモレン下野煉化会社(現在修復中)
修復中の工場(野木)

(遺構)
現在全国に5つの遺構が残っています。
●栃木県下都賀郡野木町
  旧下野煉化製造会社(シモレン) 重要文化財


●埼玉県深谷市

  旧日本煉瓦製造 重要文化財
○滋賀県近江八幡市
  旧中川煉瓦製造所 登録有形文化財
○京都府舞鶴市
  旧神崎煉瓦 登録有形文化財
○岡山県笠岡市
  旧西山煉瓦製造所

横浜煉化製造会社は、残念ながら工場経営は十年で経営が行き詰まり解散します。煉瓦工場は、橘樹郡(現在の川崎市)にありました。社長となった田中平八は「天下の糸平」といわれた相場師“田中平八”※ではなく二代目です。
※富貴楼のお倉の支援者

当初「横浜煉化製造会社」として出発しますが、経営者が代わり川崎の工場に本社機能を移し「御幸煉瓦製造所」となりレンガ製造は継続します。ここで製造された煉瓦は、明治中期〜大正期の横浜で多くの建物に使用されていたことがわかっています。
その手がかりとなるのが、「煉瓦の刻印」です。
http://www.maizuru.net/kokuin.htm
レンガの歴史的建造物を見学する時、「煉瓦の刻印」を探すのも面白いでしょう。


(横浜の代表的煉瓦造建築)

■赤レンガ倉庫(新港埠頭保税倉庫)
http://www.yokohama-akarenga.jp/index.html
 横浜正金銀行(現、神奈川県立歴史博物館)をてがけた妻木頼黄※の設計で、150年の歴史を持っています。関東大震災を生き延びた煉瓦壁のなかに鉄材を埋め込む「碇聯鉄[ていれんてつ]構法」と呼ばれる耐震技術を積極的に導入した点で評価が高い建造物です。
全長約150メートル、背面に鉄骨造ベランダを持ち、日本初のエレベーターや避雷針、消火栓を備えていました。
愛称「ハマの赤レンガ」

No.261 9月17日(月)江戸の敵を横浜で

■開港記念会館

http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/kaikou/
設計原案ならびに基本構造設計:福田重義・山田七五郎
建築当初の建築様式:辰野式フリークラシック
時計塔の高さ:36m
愛称「ジャックの塔」

■北仲ブリック(旧横浜生糸検査所倉庫事務所)

遠藤於菟の設計により大正15年に横浜生糸検査所の倉庫事務所として建てられました。
日本で最初の鉄筋コンクリート建築である三井物産横浜支店を設計した遠藤於菟の晩年の大作です。

(煉瓦用語)
煉瓦造建築を愉しむには用語や積み方を知っていると一層面白くなります。
煉瓦形状の名称

煉瓦の各部名称

積み方

イギリス積
フランス積

第858話 横浜から下野へ<煉瓦街道をゆく>野木編