12月 6

No.341-2 12月6日(木)桐生・横浜・上海(後編)

1922年(大正11年)12月6日の今日、群馬県桐生市の書上家の家族のもとに横浜から一台のピアノが納入されました。このピアノは、父との思い出でもあり、かつての栄華を誇った栄光のなごりでもありました。

No.341 12月6日(木)桐生・横浜・上海(前編)

の後編です。

(横浜・上海)
日本近代化を支えた数少ない輸出品は
初期の「生糸」「製茶」
明治後期から「絹織物」が横浜の主要輸出品となります。
他に横浜沖の海産物も上海などに輸出されていました。
貿易相手国はアメリカが主でしたが、「絹織物」の羽二重はフランスで人気となり、横浜港の対仏貿易の重要な輸出品となります。
中江兆民の中江塾に学んだ後の十一代書上文左衛門祐介は、書上商店の娘と結婚する前に横浜で働いていました。
1888年(明治21年)9月22日創業した横浜煉化製造会社です。日本の煉瓦製造の歴史は、吸収でオランダに始まりイギリスチームによる煉瓦工場が稼働しますが、関東ではチームフランスの横須賀製鉄所で工場設立のために製造されたのが始まりです。この横須賀製鉄所建設工事は江戸幕府最後の大事業となります。
この横須賀のフランス人チームは、横須賀製鉄所完成後、群馬県富岡に新設された官営富岡製糸場へと移動し世界遺産を完成させます。


No.266 9月22日 (土)ハマの赤レンガ

(YOKOHAMA煉瓦)
横浜では、1873年(明治6年)からフランス人ジェラールが瓦とれんがの製造を開始しますが生産量に限界があり、ホフマン窯の導入で初めて大量生産が可能となります。
 1887年(明治20年)10月
 日本煉瓦製造会社(埼玉県)現存(重要文化財)
 1888年(明治21年)9月
 横浜煉化製造会社(神奈川県)→御幸煉瓦製造所
 1888年(明治21年)10月
 下野煉化製造会社(栃木県)現存(重要文化財)

横浜煉化製造会社は相場師田中平八ジュニアが社長を務め、10年間稼働しますが、経営母体が代わり横浜から姿を消します。
この横浜煉化製造会社創設時に副支配人だった十一代書上文左衛門祐介の才覚はここで磨かれます。
桐生の羽二重を横浜から世界に輸出し、上海にも支店をだします。当然、彼自身が(家族を伴って?)横浜や上海に出かけている可能性の高いといえるでしょう。
十一代書上文左衛門は1914年(大正3年)50歳で亡くなります。
息子史郎が十二代書上文左衛門を継ぐことになります。24歳でした。
家業は順調に伸びていきますが、
1920年(大正9年)に発生した戦後恐慌が、大戦景気を上まわる大正バブルの直後に起ります。

(バブル崩壊)
大正バブルは繊維業や電力業に莫大な利益をもたらします。この大正バブルで商品投機(綿糸・綿布・生糸・米など)・土地投機・株式投機が活発化し、一方で過剰生産気味になります。
欧州への輸出が一転不振となり大戦景気で好調だった綿糸や生糸の相場が1920年(大正9年)半値以下に価格暴落、連鎖して株価暴落となり銀行取付が続出します。
これによって地方の老舗が軒並み倒産、結果として三井財閥、三菱財閥、住友財閥、安田財閥など財閥系企業や紡績会社大手が生き残り寡占化が急速に進むことになります。
書上商店もこの創業以来最大の危機に直面します。同業者が次々と店をたたむ中、書上商店を株式会社化しリスクを分散しかろうじて生き残ります。地域に生きて来たからこそ再生できたと言われています。

(周ピアノ)
バブル崩壊から2年、一段落した1922年(大正11年)12月6日(水)群馬県桐生市にある書上家の家族のもとに横浜から一台のピアノが納入されました。
横浜市の山下町123番地にあった「周興華洋琴専製所」が製作した“S.CHEW”銘のあるピアノでした。
山下町123番地は現在の南門シルクロード沿い、元町寄りにありました。当時の絵はがきに「目印の3本の音叉」をアレンジした木彫りの看板を見ることが出来ます。

店先左側に看板が確認できます。奥は山手の丘でしょうか。

店主の名は周筱生(しゅう しょうせい)、当時20代半ばの若者ですが評判の腕前でした。彼は上海にある英国のピアノメーカー「モートリー商会」でピアノの輸入・販売・調律・修理をしながら腕を磨き、1905年(明治38年)に来日、横浜へ来て1912年(明治45年)にこの「周興華洋琴専製所」を創立します。

当時、横浜には国産ピアノメーカーの草分け西川ピアノがありました。

【番外編】土耳其国軍艦エルトゲロル号(余談の余談)

ここで少し紹介しています。

横浜中華街でのピアノ製造業は順調で、現在の南区堀の内に工場も作りますが、1923年(大正12年)9月の関東大震災で被災します。
創業者の筱生氏はこの地震で亡くなり息子が継ぎます。
二代目によるピアノには“S.CHEW&SON”の銘が入っていました。
1945年(昭和20年)の空襲で工場が焼失し、「周興華洋琴専製所」は三十数年で絶え手島います。初代も二代目の作品も製造数が限られていますが、特に初代周ピアノは確認されている台数が少なく「幻のピアノ」と呼ばれています。この書上家に納品されたピアノは、貴重な横浜・上海・桐生を結ぶ架け橋といえるでしょう。

周ピアノは現在
 中華街萬珍樓に展示されています。

書上家のピアノは
 桐生明治館
 桐生市相生町2-414-6
 に展示されています。

12月 6

No.341 12月6日(木)桐生・横浜・上海(前編)

1922年(大正11年)12月6日の今日、
群馬県桐生市の書上家の家族のもとに一台のピアノが納入されました。
このピアノは、父との思い出でもあり、かつての栄華を誇った栄光のなごりでもありました。

(桐生の書上商店)
書上文左衛門(かきあげ ぶんざえもん)は現在の群馬県桐生市の12代続いた買継(かいつぎ)商です。
江戸時代の1684年頃開業し、桐生の特産品(主に桐生紙・織物)を江戸のみならず大阪・京都にも販売し財を築きます。
家業は万事順調であった訳では無く、“書上商店”の経営危機が江戸後期に訪れます。この時の経営選択が老舗を支えることになりますが、才覚だけでは時代を乗り越えることができないのがこの世の常です。
“書上商店”七代目あたりでかなりの借金を作ります。そこで家業を諦めず八代目で経営建直しを図り、九代目・十代目で業績も回復し幕末を迎えます。

(激動期の技術革新)
幕末明治の歴史を眺めていると、江戸時代は地方が日本を支えていたんだなと実感します。パリ万博で西欧文明を目の当たりにした日本の職人達は畏怖することなく納得・奮起して帰国します。短期間で見聞した技術を咀嚼します。近代日本を支えた織物産業は、全国の地方都市の技術力が革新を生みます。その情報発信基地ろなったのが開港場“横浜”でした。

群馬県東南部エリアは、織物産業の街として開港場に多くの輸出品を送り出します。横浜港から輸出された主な商品は「生糸」「お茶」に加え「織物」でした。この織物産業を支えたのが「買継商」です。
買継商とは、織物工場で生産した製品を全国の問屋へ販売出荷する商店であり、製作の指導・新技術導入を率先して行う役目も持っていました。
秩父市番場町には買継商通りという名が残っています。

幕末から明治にかけて、桐生の織物産業はいち早く産業革新を行います。まず内地織物の生産と販売制度を革新し、輸出織物にも欧州の最先端染織技術を採用することで発展します。この原動力となったのが桐生の買継商“書上商店”でした。

内国博覧会
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku1.html
1872年(明治5年)にはすでに力織機が導入され、1877年(明治10年)にはフランスのジャカールが発明した紋織り装置を日本(京都)で製造した木製ジャカード織機を購入します。このジャカード織機のすごさは、パンチカードを使った自動織機という点です。
カードのパターン通りの模様を織ることで均一な製品を大量生産できるようになります。
1886年(明治19年)には、日本織物を創設した桐生の買継商「佐羽喜六(さばきろく)」がアメリカから鉄製のジャカード2台とピアノマシン(紋紙に穴をあける器機)を輸入し織物業界の革新を牽引します。

(十一代)
この頃、中江兆民の中江塾に学ぶ一人の青年がいました。後の十一代書上文左衛門祐介です。秋山 好古の親友、加藤恒忠(拓川)と同時期に学んだ祐介は、埼玉県羽生市に生まれ、中江塾に学び横浜区相生町68番地に1888年(明治21年)9月22日創業した横浜煉化製造会社に副支配人として勤務します。

No.266 9月22日 (土)ハマの赤レンガ

加藤恒忠(拓川)に関して
No.314 11月9日 (金)薩長なんぞクソクラエ

1890年(明治23年)に祐介は、桐生「書上」家の入婿となります。
“書上商店”再興の第八代、そして“書上商店”最大の栄華を築いた十一代も入婿として才覚を現します。
江戸時代から 家督は“バカ”には継がせない文化がありましたからね。
1892年(明治25年)十一代書上文左衛門となった祐介は、横浜で鍛えた語学と国際感覚で、桐生の書上商店を国際企業に成長させます。
後編に続く)