11月 27

第935話横浜を歩く点と線「イタリア」

前回、山手の外国<エリア>を紹介しました。
フランス山(フランス領事館)
アメリカ山(米国公使館ゆかり?)
イギリス館(英国総領事公邸)
 ※「港の見える丘」一帯はイギリス山
イタリア山(イタリア領事館)
英米仏に比べ、イタリア?
ちょっと印象が薄いようですが、

伊太利亜!

Flag_of_Italy

実は横浜と結構深ーーーい関係にあります。
イタリア山公園はかつてここにイタリア領事館があったことから、ここを整備する際に水路や花壇を幾何学式に配したイタリア式庭園として「イタリア山」と命名します。
イタリア領事館は
1880年(明治13年)から1886年(明治19年)に設置されました。
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GP006/item/018/
イタリアは欧州の中ではイタリア語圏で小国が雑居する中、
1861年(万延2年)にイタリア王国が建国され統一が図られます。その後、
1866年(慶応2年)にヴェネツィア、
1870年(明治3年)にローマなどの教皇領の残りを併合し、一応の半島の統一を見ます。まさに此の時に、イタリアは日本との国交樹立を断行します。
統一が実現した1866年(慶応2年)
日伊修好通商条約を締結のためにヴィットリオ・F・アルミニョン氏がイタリア海軍のコルヴェット艦「マジェンタ号」に乗船し来日します。
14代将軍徳川家茂あてのイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(VittorioEmanueleII)よりの親書を携え<締結>を急ぎます。この時、フランスと近かったイタリアはレオン・ロッシュの支援で8月25日(慶應2年7月16日)に綱渡り調印を成功させました。
なんと、調印から僅か4日後に将軍家茂が死去し、様々な政治課題が停滞する直前の離れ業でした。おそらくこのチャンスを逃したら、日本の歴史、横浜の歴史は変わっていたかもしれません。
なぜ、ここまでしてイタリアは日本との通商条約を急いだのでしょうか。
話は、二年遡ります。
井土ヶ谷事件に端を発した外交問題が起こります。
横浜居留地の警備のため山手に駐屯していた、フランス陸軍のアフリカ連隊付少尉アンリ・カミユ(J.J.Henri.Camus)が2人の同僚士官と共に乗馬を楽しむ際、居留地から馬で井土ヶ谷村へさしかかったこの場所で浪士2名によって襲撃を受けます。
先頭に居たカミユは即死の状態で絶命します。襲撃した浪士は逃走し、神奈川奉行並合原猪三朗が捜査を開始しますが、犯人逮捕に至りませんでした。
この事件はその後日仏関係に大きな影響を及ぼします。
(井土ケ谷事件とパリ)
この井土ケ谷事件を解決するために
1864年(元治元年)池田長発(いけだながおき)が率いる横浜鎖港談判使節団がフランスを訪れている時に、フランス駐在イタリア大使が使節団に接触し、通商条約締結の打診を行い情報を確認し特使を日本に派遣します。
※池田長発の渡航も横浜と深い関係にあります。(別途紹介します)
当時イタリアは
オーストリア帝国と戦火を交えている最中で結果壊滅的な敗北を喫していました。一方でオーストリア帝国は北西で隣接するプロイセンの圧倒的な軍事力に屈服するという複雑な関係にありました。
イタリアはオーストリア帝国に大敗したにも関わらず、ナポレオン三世の仲介で弱るオーストリア帝国から奪われたヴェネツィアとヴェネト州を返還することに成功します。
イタリアの統一が実現しイタリア王国が建国されたタイミングで、イタリアは重大な経済危機を迎えます。それは「微粒子病」(ペブリン)の蔓延でした。
(欧州最大市場)
イタリアは当時、欧州のシルク産業の中心地でした。
「蚕種の輸出額は日本の輸出総額の23%以上を占める年もあり、そのおよそ7〜8割はイタリア市場に流れるものだった。この貿易関係は養蚕製糸業に依存するイタリア経済を支えながら、日本が近代化を成し遂げるために必要としていた膨大な収入を確保させていたため、両国にとって極めて有利で、重要なものだった。」(ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ)
何故イタリアは極東アジアの日本から蚕種を輸入するする必要があったのでしょうか?
「微粒子病」(ペブリン)の流行でした。「微粒子病」は蚕の生糸生産力を著しく低下させ、現在も治療不可能な難病です。原因を突き止めた研究者の一人がルイ・パストゥールで効果的な予防法(顕微鏡検査)により劇的な改善がみられるようになります。
ただ、イタリアを含め同じくシルク生産・消費国だったフランスも予防法の普及が始まったのが1869年(明治2年)以降になります。解決策はまだ感染していない地域で無病の蚕種を輸入するしかありませんでした。その為、イタリアの養蚕ハンターは遠く極東に無菌の蚕を発見しました。

幕末の幕府財政、明治の初期にかけて日本の養蚕が発展し、その後の横浜経済、日本の経済を支えたキッカケを作ったのが イタリアとの交易でした。
しかし、イタリアは 英国の介入で横浜(日本)において急速にその地位を失っていくことになります。
イタリア山には1880年(明治13年)から1886年(明治19年)の短い間ですが領事館が開設され、日本とイタリアの交流に努めました。
この場所はその後所有者が変わり、歴史を経て横浜市が管理し、貴重な洋館を移築し庭園とともに山手の洋館群の要となっています。
(つづく)

11月 26

第934話 横浜を歩く点と線「居留地を見下ろす国」

横浜の山手には、欧州の国名の付いた空間が多数あります。
フランス山(フランス領事館)
アメリカ山(米国公使館ゆかり?)
イギリス館(英国総領事公邸)
※「港の見える丘」一帯はイギリス山
イタリア山(イタリア領事館)
山手の各国の名に因んだエリアは実に見事だと思います。
ここにオランダとドイツ、さらにロシア・スイスなどがあれば完璧!?
山手で横浜開港史が語れます。
欧米各国とは初期に外交関係を結びます。
 ●日米修好通商条約 1858年7月29日(安政5年6月19日)
 ●日蘭通商修好条約 1858年8月18日(安政5年7月10日)
 ●日露修好通商条約 1858年8月19日(安政5年7月11日)
 ●日英修好通商条約 1858年8月26日(安政5年7月18日)
 ●日仏修好通商条約 1858年10月9日(安政5年9月3日)
この五カ国が通商条約を皮切りにその他の欧州やアジア各国と外交関係を樹立していきます。
開港のキッカケはアメリカでしたが、南北戦争という内政問題で一時期外交が手薄になり、英国がイニシアチブを握るようになります。欧州では、プロシア(ドイツ)、オーストリア、フランスを巻き込んだ緊迫した状態が続き、
1853年〜1856年 クリミア戦争
1861年〜1865年 南北戦争
1866年 普墺戦争(イタリア参戦)
1870年〜1871年 普仏戦争
1877年〜1878年 露土戦争
この間、英国は後にいわれたSplendid Isolation「栄光ある孤立」で大国間の摩擦を回避し中国・インドにおける権益を確保しながら帝国主義へとシフトしつつありました。
幕末から明治にかけて、日本には 世界情勢の縮図が展開されます。
例えば
築港・土木で オランダ(背後にプロシア)と英国がしのぎを削り
対立こそ表面化しませんが居留地での米英対立や
お雇い外国人による国内モジュール競争も熾烈になっていきます。
話を横浜山手に戻しましょう。
横浜開港を契機に列強の一つフランスは横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的にイギリスより一年早く山手に軍隊駐屯を決定します。
1863年(文久3年)にフランス海兵隊が“山手186番”に駐屯を開始し軍兵舎を3棟建設します。これがフランスの横浜駐留のはじまりです。
その後、英国が山手山頂に大軍隊を駐留させます。
居留地の人口構成は、一般外国人より圧倒的に<駐留軍>の方が多かったのです。
英仏含めた外国軍が日本に駐留していたのは
1875年(明治8年)3月まで。
約12年間駐屯地として使用されてきました。
No.175 6月23日 フランス軍港があった丘

No.175 6月23日 フランス軍港があった丘

No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)

No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)


(山手からの風景)

11月 23

第933話 【横浜の企業】横浜のNPK

肥料工場は日本工業化の代表産業でした。
肥料の歴史は、農業の歴史でもあります。かつて人類は、移動する狩猟生活から定住する農業にシフトするキッカケを得ます。これによって農業生産による食料の安定確保が可能となりカロリー量の高い食物を生産することが可能となり人口が急増し人類の文明が一気に拡大します。
それが、農地の<地力>を維持させる肥料という知恵です。
焼畑農業、輪作等を生産力維持の手段としてきましたが、農業は積極的に肥料を使用することで、人類は生産力を爆発的に増加させることを学びます。
農耕型の生活様式は、山から栄養分を運ぶ河川周りに発展します。
特に平野の少ない日本の国土では、集約型農業であったこともあり氾濫する河川に加え肥料が重視されました。
特に平和な戦争のない時代が200年以上続いた江戸期から<肥料>は重要な商品ともなり市場を作り出していきます。
江戸の農業革命は肥料革命でもあったのです。
魚粕、菜種粕、人糞尿、骨粉などが肥料として活用されました。江戸期、貧乏長屋で家賃を滞納しても立ち退かなくて済んだのは、住民の人糞尿が高額で近郊農業の肥料として買い取られたからです。
そして近代は化成肥料の生産(工業化)をもたらしました。
化成肥料生産は19世紀の中ごろから20世紀初頭に始まり、農業生産に大きく貢献し国家政策にまでなります。戦前、満州の植生を剥ぎ取り無理やり大豆を生産し日本の重要な肥料供給地であったことは意外に知られていません。
肥料を分類すると無機質肥料(化学肥料)と有機質肥料に分かれます。
そして無機質肥料は単肥(チッソN、リン酸P、カリKのうち一つの成分を含んだ肥料)と複合肥料(チッソ、リン酸、カリのうち2成分以上を含んだ肥料)とに分かれます。
目下地球的規模で危機となってるのが安価だったリン酸の原材料の枯渇です。
 
農業とは何かを調べてみると
wikipediaに面白い定義が示されていました。
「農業は、土壌から栄養を吸って生育した植物を持ち去って利用する行為
土壌の栄養を追加することを追肥をいいます。
肥料の定義を示してみます。
「植物の栄養に供すること又は植物の栽培に資するため土壌に化学的変化をもたらすことを目的として土地に施される物及び植物の栄養に供することを目的として植物に施される物をいう」
人口あたりの農耕地面積が狭い日本にとって肥料生産は国力の基幹となった訳です。
 
舞台を横浜に移します。
明治以降、横浜が貿易中心から工業化へシフトする過程で、肥料関係の企業も存在感を示します。食油製造に使用する大豆の搾りかすは肥料の原材料となるため、関連企業が設立されました。
№0謎解き編 新旧玉手箱
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8086
昭和初期(戦前期)の京浜地域の地図を眺めてみると
肥料関係の工場、企業が点在しています。
 
◯大日本人造肥料株式会社
1887年( 明治20年)4月
 高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝ら明治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である東京人造肥料会社として創業
1910年(明治43年) 7月
 大日本人造肥料株式会社に商号変更
1931年(昭和 6年) 2月
 大日本人造肥料株式会社肥料試験場(横浜市子安)が白岡に移転。
その後「日産化学工業株式会社」となります。
 
◯加里工業
 神奈川区恵比須町9・10
隣接して
◯全国購買組合聯合会
 肥料を含めた購買をまとめた協同組合の先駆けとして戦前の肥料飼料の購買に大きな影響をあたえました。
 
 食油産業も化成肥料の生産の一翼を担います。
◯鈴木商店
1922年(大正11年)
 4工場(大連・清水・鳴尾・横浜)を分離独立させ
  豊年製油(現・J-オイルミルズ)を設立します。
社の沿革には
 「大豆粕は肥料として一般農家に安く提供、食料増産、輸入肥料の代替という点で国家に大きく貢献した。」
 
◯帝国社農芸化学
 企業の詳細不明
◯有機肥料会社
 企業の詳細不明
 
横浜が誇る食油老舗「岩井の胡麻油」も1926年(大正15年)昭和初期に<製油肥料合名会社>となった時期がありました。
●岩井の胡麻油 沿革から
1893年(明治26年)
 横浜市神奈川区御殿町に搾油工場を設立
1900年(明治33年)
 横浜市神奈川区青木町に工場移転。岩井製油合資会社設立
1914年(大正3年)
 横浜市神奈川区星野町に大規模工場を設立
1921年(大正10年)
 家庭用化粧小缶を発売。大正博覧会で金賞受賞
1926年(大正15年)
 岩井製油肥料合名会社に社名変更
1947年(昭和22年)8月27日
 岩井製油株式会社設立
*****************************************
20180831修正加筆
11月 22

第932話 【祭りの風景】牛頭天王

祭りの風景画像を読み解いてみます。
祭りの準備なのか、祭りの後の一休みなのか?
この風景は
1905年(明治38年)ごろ使用された絵葉書の画像部分です。

幟(のぼり)には「奉献 牛頭天王宮 本牧宮原」とあります。
年号も書かれていますが、<四年>の文字が読めますので、明治34年の画像でしょうか?
はっきり読み取れません。
恐らく、地名は横浜市中区に位置する「本牧宮原」のことだろうと思われます。
牛頭天王は「ごずてんのう」と読み、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神のことだそうです。現在の「八坂神社」にあたる「感神院祇園社」から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られ現在に至るようです。
では 本牧宮原に 牛頭天王宮を祀る神社があるのか?あったのか?
1909年(明治42年)開港五十年の年に、
本牧台の八王子神社(祭神:大山津見命)
宮原の八坂神社(祭神:建速須佐之男命)
間門の浅間神社(祭神:木花咲耶姫)を
「本牧十二天」に合祀しているという資料があり、恐らくこの「宮原八坂神社」の例祭のときに撮られた写真だろうと推理しました。何故、周辺の神社が一つにまとめられたのか?理由は判りませんが、本牧地域が個々の<字(あざ)>から広域化してまとまろうとした試みかもしれません。
明治十四年の迅速図を基に 宮原 八坂神社を探してみました。
宮原に近いところに<神社>記号がありましたので ここが「八坂神社」ではないのか?と地図にマークしてみました。
2017年11月アップ。さらに分かり次第アップします。

11月 22

第931話【横浜の風景】伊勢佐木から山手

この画像は、伊勢佐木から山手方向を撮影したものです。
撮影時期を推理してみます。
風景の左に横浜市役所が見えます。
歴代の歴史から画像にある市役所は
二代目市庁舎(1911年~1923年)と思われます。
(三つの橋)
市役所の横を流れる派大岡川に架かる
トラス橋の「港橋」と
アーチ橋の「花園橋」、
桁(ガーター)橋の「吉浜橋」が見えます。
代表的橋の構造が三種類見える風景も中々ありませんね。
ちょっと見えにくいですが。


山手の建造物群はまだ本腰をいれて時代別の整理をしていません。いずれやらなければならない課題の一つです。
もう一つ大きなヒントが写っています。
画像の下ギリギリに有隣堂のロゴ看板が見えます。
伊勢佐木にある老舗書店有隣堂本店は「第四有隣堂」として1909年(明治42年)12月13日に創業します。
No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば

No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば


創業時は木造2階建ての店舗で、
1920年(大正9年)に株式会社となり、これをキッカケに間口5間・奥行15間の3階建店舗を新築します。
ここに写っている社屋は 2階建てなのか三階建てなのか?
このロゴは何時から使われているのか?
このあたりが判ればもう少し絞り込みができるかもしれません。
当時の横浜情報として「横濱貿易新報」の大正9年12月17日付け記事に
歳末お歳暮特集が組まれていて、市内のお店紹介記事が掲載されています。
ここに大正9年に完成した有隣堂の紹介記事が写真入りで紹介されていました。

写真外観を確認すると、(画像では見難い)風景写真に写り込んでいる有隣堂と同じだろうと判断できます。
この風景写真は1920年(大正9年)12月から
1923年(大正12年)8月までの間に撮影されたものだろうと思われます。

11月 20

第930話石油を巡る点と線

1,000話までカウントダウン70の節目なのでちょっと頑張ってみました。
帷子川河口域を調べている過程で、明治38年発行の地図を改めて見直していたらそれまで全く意識していなかった情報が目に飛び込んできました。帷子川 石油パイプライン万里橋近くから「石油タンク鉄管」が海にまっすぐ伸びています。
明治38年の時点で、破線なので予定線かもしれませんが、横浜港内に石油パイプラインがあった?ことを再確認した次第です。
このパイプの使用者は?周辺を確認してみると高島嘉右衛門が造成した鉄道道にあたる「高島町四丁目」に「横浜瓦斯製造所」がありその奥には現在の平沼一丁目に「浅野石油槽場」が記載されています。
この場所は、戦前いち早くメジャー二社の石油会社が進出しましたが、浅野グループがいち早くこのあたりに石油関連施設を設置していたようです。資料を探してみたところ、
1892年(明治25年)
11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシア石油販売を開始
帷子川河口域の歴史を石油。製造業関係を中心に調べてみました。
1893年(明治26年)
5月ニューヨーク・スタンダード石油、横浜に日本支店を開設
 10月浅野総一郎、横浜に油槽所完成 【関連年表】を作りました。
1884年(明治17年)
山田与七、高島町に山田電線製造所を創業
→「山田電線製造所」が後の古河電工、横浜ゴムとなっていきます。
1888年(明治21年)
 6月19日 横浜のジャーデン・マセソン商会、ロシア灯油を初輸入
山田又七、山本油坑舎を設立、新潟県東山油田浦瀬で試掘
高島町遊郭が真金町、永楽町へ。
→「山田電線製造所」の山田与七と日本の石油パイオニアである山田又七は名前が似ていますが、接点は見当たりません。
1889年(明治22年)
4月16日東京ー浜松間開通
6月16日横須賀線開業
7月1日東京ー神戸全通。
小倉常吉は後に小倉石油となる小倉油店を開業。
1891年(明治24年)
横浜船渠工場操業開始。
浅野総一郎、サミュエル商会とロシア灯油の販売契約締結
1892年(明治25年)
6月山田又七ら、石油会社を設立(宝田石油の前身、新潟県古志郡比礼で試掘)
11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシア石油販売を開始
1893年(明治26年)
山田又七、「宝田石油株式会社」設立(新潟県長岡:東山油田)。翌年から米国製掘削機を用いて機械掘り採油を開始.。後に他社を次々と買収して日本石油会社と並ぶ本邦二大石油会社のひとつとなる。
 5月ニューヨーク・スタンダード石油、横浜に日本支店を開設
 10月浅野総一郎、横浜に油槽所完成
1894年(明治27年)
 3月21日ニューヨーク・スタンダード(ソコニー)、横浜に支店を開設。
8月日清戦争勃発(〜28年)
12月東海道、軍用線3.5km(神奈川〜保土ケ谷)ショートカット線開通。
1895年(明治28年)
内海(通称・平沼)の埋立開始。
1896年(明治29年)
山田電線製造所、横浜電線株式会社とし平沼に工場を建てる。
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=488
帷子川、大岡川流域に染物工場、ハンカチのふちどり工場発展、製糸工場群生。
6月29日西平沼町に横浜電線製造KK設立。
1897年(明治30年)
サミュエルは横濱元町に「シェル運輸交易会社」を設立。
 湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したという。
1898年(明治31年)
浅野石油部、日本初の鉄製タンク車で石油輸送
1899年(明治32年)
平沼短縮線を一般客線とする。
1900年(明治33年)
4月11日日本のサミュエル商会は、石油部門を分離独立することとし、
 横浜に「ライジングサン石油株式会社」を設立(資本金25万円 本店・横浜市山下町)。
1901年(明治34年)
平沼駅開業。
2月ロシアに宣戦布告(日露戦争勃発)
1905年(明治38年)
7月19日平沼亮三の母千代子、出征兵士の歓送でホームと列車の間に落ち死亡。
9月大倉喜八郎・浅野総一郎ら、南北石油を設立。
12月京浜電気鉄道 川ー神奈川開通。
1907年(明治40年)
4月国産ガソリン自動車第1号製作(タクリー号)
第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10924
1908年(明治41年) 5月南北石油、保土ヶ谷製油所完成。9月には宝田石油が南北石油を合併。
南北石油
 スタンダード石油が神奈川油糟所を開設。
スタンダード石油と三明商店の間に初めて代理店契約が結ばれた。(小嶌 正稔)
その後、全国の商店と代理店契約を結んでいく。東京神田美土代町大家商店。神戸松村石油。
南北石油(株)保土ヶ谷製油所(神奈川県・保土ヶ谷、原油処理能力3,000バレル/日)がカリフォルニア原油を初輸入。
麒麟麦酒創業。
1908年(明治41年) 平沼の漁民、原油もれに抗議。
1914年(大正3年) 埋立完成、南幸町・北幸町と命名される。
1917年(大正6年) 日本は世界第8位の石油産出国という統計が発表される
1922年(大正11年) 小倉、横浜に原油貯油所完成。
震災前の平沼周辺
1923年(大正12年) 関東大震災によりスタンダード石油油槽所が倒壊。大火災により、周辺住民により再建反対運動が起きる。
1924年(大正13年) 日本石油、鶴見製油所(神奈川県橘樹郡安善町)を建設。
1925年(大正14年)  2月資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立 3月3日アジア初の「日本フォード」製造工場が横浜市神奈川区子安に開設。 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
1927年(昭和2年) 日本ゼネラルモータース設立 以上大正時代までの関連年表を整理しただけで、 横浜と石油の関係が浮かび上がってきました。
11月 19

第929話【保土ケ谷区】程ケ谷駅

今日は、程ケ谷駅を巡るエピソードを。
1887年(明治20年)7月11日
この日、東海道線の横浜(初代)〜国府津間が開通しました。
これにより程ヶ谷駅( 1931年(昭和6年)に保土ケ谷の名に変更)・戸塚駅・藤沢駅・平塚駅・大磯駅・国府津駅が開業しました。
ほどがや現在は保土ケ谷と表記します。
少し前は保土谷でもあまりうるさく言われませんでした。保土が正式表記です。
90年代、少なくとも私の記憶では神奈川県、国交省(当時の建設省)などは<保土ヶ谷公園><保土ヶ谷インター>といった表記がなされていることが多く、横浜市の「保土ケ谷」と二種類が併存していました。近年、「保土ケ谷」に“じわじわ”揃いつつあります。

なんたって 保土ケ谷区がこの表記のためにサイト持っています。
「「保土ケ谷区」の「ケ」は大きな「ケ」です!」
http://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/gaiyou/ke.html
「区の設置並びに区の事務所の位置、名称及び所管区域を定める条例
(条例第1号、昭和34年3月14日制定)」
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/ag20200021.html
ここには、なぜ大きいケなのか? 理由は示していません。「そう決めたのでそうだ!」という感じで少し違和感を感じます。
広重の東海道五十三次でも「保土ヶ谷」ですし

保土ケ谷宿

元々保土ケ谷は「程ヶ谷」から転換された地名です。

冬の程ケ谷宿

程ケ谷宿

中世文書でも「程ヶ谷」のケは小さいケです。
さて、保土ケ谷駅に戻ります。

1887年(明治20年)7月11日程ヶ谷駅が開業します。
この時期に<程ケ谷>がらみの新規鉄道敷設出願も行われます。
多くが現在国道16号線(絹の道)が走っている(保土ケ谷〜八王子)路線を鉄道が走ることを目論見として出されています。
◆武相鉄道
明治27年5月30日 出願
横浜〜程ケ谷〜原町田〜八王子
出願者:雨宮啓次郎 ほか
◆南武鉄道
明治27年5月30日 出願
程ケ谷〜原町田〜八王子
出願者:伊藤茂右衛門 ほか
◆相武鉄道
明治28年12月 出願
吉野駅(津久井)〜程ケ谷、厚木〜藤沢
◆武蔵鉄道
明治28年4月20日 出願
出願者:柴原和也 ほか
程ケ谷〜五日市
◆京浜鉄道
明治28年12月 出願
出願者:雨宮啓次郎 ほか
※「保土ケ谷区史」より
これらの出願は全て却下され、実現することはありませんでした。
もしひとつでも実現していたら、横浜の交通環境は大きく変わったに違いありません。

保土ケ谷関連
【保土ケ谷区】歌人 荒波孫四郎
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7162
No.249 9月5日(水)保土ケ谷駅周辺散策
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=355
No.82 3月22日 神戸産東京麦酒
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=535

Category: 鉄道一般, 【横浜の鉄道】 | 第929話【保土ケ谷区】程ケ谷駅 はコメントを受け付けていません
11月 16

第928話【横浜グルメ】土用の丑の日

突然食の話です。
土用の丑の日、2017年は二度あったので<酉の市>のように「ニの丑」とでもいうのでしょうか。貴重な食べ物になりつつある「うなぎ」資源枯渇と言われても食べたくなりますね。
2016年は?
7月30日(土)の一回です。
2017年は?
7月25日(火)8月6日(日)の二回でした。
このうなぎを夏に食べる<土用の丑>仕掛け人は平賀源内だそうで、『明和誌』(青山白峰著)という明治の書物に書かれています。ことの顛末はさておいて、以来200年近く続いているこの食習慣、すごいですね。
このブログも
初めて横浜を多方面から学んでみよう!
そのためには自分の<関心>に関わらずテーマに従って調べていくことにしました。
2011年暮れから始めて、
2012年1月1日から一年、先輩の励ましでまず毎日<一日一話>形式でテーマを史料から選び出し小話を書いていきました。

No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前半)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=622
ここから途中ペースダウンがあるものの間もなく1000話達成が見えてきました。
当初は昨年2016年の「土用の丑の日」までに達成目標!!!のつもりでした。
見事挫折、一時は諦めようと思っていました。気分転換、別仕立てで準備をしようと思いつつ半年。日々の軽さに慣れてしまい困ったものです。
これだけ書いていると、ある種の“習慣”みたいなもので、見るもの聞くもの皆ブログネタに結びついてしまいます。
ペースダウンして時も新聞のチラシや買い物のついでに<ネタ>を探している自分がいますが、
<土用の丑の日>を横浜ネタにと思いつつ中々書けないで前ふりばかり
<つかみ>ばかり長い落語のようです。
横浜と<鰻>
現在のグルメ情報を食べログのように書くのもな、ちょっとこだわりもありますからそれなりに歴史も入れつつ構成できないものか?
まず かなりムリムリ芋づる方式でいくと
鰻といえば<浜松>ですね。
<浜松ネタ>書いています。
No.223 8月10日 (金)奇跡の釘
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=384
1875年(明治8年)8月10日(火)の夕暮れの話です。ところは静岡県の福島村で、浜名湖のすぐ近くで起こった黒船事件を紹介しています。

うなぎの浜松といえばNHK大河ドラマ、掃部山の井伊家(彦根藩)は天下を取る前から徳川家に使えていました。遠江の在地領主で中世から井伊谷(現在の浜松市北区引佐町)辺りを治めていました。といっても、徳川幕府となり浜松から彦根に移ってから<土用のうなぎ>がブームになりましたから、ちょっとムリムリです。井伊家は牛肉ですね。
では一気に時代を明治以降の進めます。
横浜で老舗のうなぎ屋さんといえば関内の「わかな」です。
この店は明治5年創業ですが、最初は野毛の居酒屋だったそうで、その後牛鍋屋を馬車道で開業し鰻を扱うようになり現在に至っています。それでも伝統あるお店であることは間違いありません。
「わかな」
http://www.yokohama-wakana.com
お高いのであまり食していませんが
この10年で食べた「うなぎ」で印象に残っているお店
吉田町「八十八」
http://www.yokohamayasohachi.com
復活した名店です。

八十八

石川町「濱新」
http://hamashin.org
吉田町から移転しました。
尻手の「鰻善」
一癖あるおやじさんでした。→閉店
浜マーケット「小島家」
10年前に移転する前にも何度か、おばあちゃんの釜焚きご飯が美味しかった。
野毛から移転するまえから「江戸っ子」(現在は長者町)
テイクアウトが多いですね
反町「菊家」
ここも明治創業とのこと。
横浜橋「八舟」
テイクアウトが多かったですが店内でも食べられます。
瀬谷「いけだ」
住宅街のどまんなかの地味なお店でした。
結局 お店紹介になってしまいました。

Category: 横浜食べ歩き | 第928話【横浜グルメ】土用の丑の日 はコメントを受け付けていません
11月 15

第927話【金沢区物語】島にもどった野島

「野島(のじま)は、神奈川県横浜市金沢区の平潟湾に浮かぶ島である。かつては砂州によって陸続きの陸繋島であったが、水路の建設などで分断され、島となった。(wikipedia)」

野島沖

野島
かつては島で、海流の作用で陸続きの<陸繋島>ということらしい。近世には地続きとなっていたようですので上記の表現、<水路の建設などで分断され、島となった。>とネガティブに表現しているけれど<戻った>ってことですね。

野島の夕照

横浜市では
「安藤広重の描いた「野島夕照」で知られる野島は、現在のこの公園のあたりといわれています。公園前面の海岸は、埋立てにより失われた中で残された市内唯一の自然海浜で、江戸時代には称名寺と共に物見遊山の客で賑わったそうです。第二次大戦中は巨大な地下基地が構築されましたが、戦後まもなく横浜市が立てた大臨海公園の計画に基き、大蔵、建設の両省と幾多の折衝を重ね国有地の無償貸与を受け、隣接民有地も買収し昭和30年から整備を行いました。昔の地形の特徴をそのまま残している野島山には、新しい展望台が、またその周りの運動広場、野球場、青少年研修センター、キャンプ場などは臨海のレクリエーションゾーンとして親しまれています。(横浜市環境創造局)」
ここでは、野島運河の話や経緯については触れていません。

■野島山展望台
野島の観光スポットである展望台は海抜57mあります。眼下には隣接する「海の公園」や八景島シーパラダイス」が広がり、反対方向では晴れた日に遠く丹沢、富士の山並み海側は房総半島を望むことができます。
平潟湾の夕照は昔と変わらない美しさを楽しむことができます。
■旧伊藤博文金沢別邸
野島にはもう一つ重要な観光スポットがあります。伊藤博文の別邸が復元されて公開されています。1898年(明治31年)に建てられ、ゲストハウスとして活用しました。
老朽化が進んでいたため解体工事・調査を行い、現存しない部分を含め、創建時の姿に復元し庭園と併せて整備し公開しています。
http://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/nojima/hakubuntei/outline.php
■平潟湾
平潟湾は横浜市内の湾岸部でも貴重な海岸線を残していますが、それでもほとんど失われてしまった風景です。侍従川、宮川、六浦川、鷹取川(横須賀市)の小河川が湾に流れ込んでいます。
近世後期の時点では、野島は陸続きで歩いて渡れる観光地でした。
ここに水路(野島運河)を作り、島化したのが現在の野島です。
島となった背景には、夏島が軍事基地として埋め立てが進められに、野島と接近したことで平潟湾の出口が無くなったため「野島運河」が作られました。
いっそのこと野島と夏島をつなげてしまえば!!と思いましたが、埋め立てしない理由があったのでしょう。
戦後、海苔養殖を営む漁業従事者と近隣の埋立地に進出する工場から出される排水の被害を巡って対立が起こります。
平潟湾を含め、金沢(柴漁港)の漁業権闘争の歴史は凄まじいものだったようです。
平潟湾には「金沢漁業協同組合」単独の共同漁業権(採貝採藻など)と区画漁業権(魚類養殖などの養殖)が設定されていました。一部横須賀の漁協と入漁権契約(山林の入会権)を結んでいました。
平潟湾に関しては 現実的に夏島などの埋立地により追い詰められていたこともあり、新たな24ha埋立交渉は昭和37年10月に始まり、約半年の厳しい交渉で3月に決着します。
熾烈な反対運動が行われたのが金沢地先埋立計画でした。
平潟の埋立事業交渉で先鞭をつけた形でしたが、昭和43年7月に発表されると同時に
柴・富岡・金沢の三漁協は強く反対を表明します。ここでは反対から妥結までの詳細な経緯は紹介しませんが、
現在ほぼ旧来の海岸線と漁業権を失った横浜湾岸は南北で大きく漁業再生事業の流れが分かれる形となります。根岸以北の多くの業業従事者は陸に上がり漁業から離れる結果となりましたが、南部の漁業はすべて満足という形ではないにしろ、転業を含め近海漁業が残っているという点で、今世紀の横浜にとって<救い>ではないでしょうか。海苔の栽培、蝦蛄漁他、金沢では美味しい海の食材を現在も提供し続けています。
野島を楽しみ 野島を眺めながら海を楽しむ
「海の公園」
本来の浜辺では無く<人工海浜>公園ではありますが、海辺が守られ、海と触れ合う空間がここに維持されていることは大切にしていきたい横浜の資産だと思います。
No.51 2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570
お薦め
海の公園「かき小屋」
平成29年11月1日(水) 〜 平成30年3月31日(土)
http://www.kanazawarinkaisv.co.jp/kaki.html
横浜市金沢区海の公園10
080-1218-3967
11:00〜21:00

11月 15

第926話【絵葉書の風景】橋の袂の少女(改筆)

戦前の絵葉書が多彩・多用な画像メディアとして活躍していた事はブログ内でも何回かお伝えしているところです。
さらに付け加えると、
時折 絵心というか<写真心>を感じる絵葉書に出会います。風景撮影だけではなく、そこに<アクセント>を意図的に付け加えることがあったのではないか?

この絵葉書は、

横浜関内と関外を結ぶ有名な「吉田橋」の風景です。

<橋の袂>に一人の少女が登場しています。
構図の特徴は、
吉田橋の風景に一人の少女が登場している点でしょう。
この少女
たまたま居合わせたのか、
関係者の子女であったのかわかりませんが、
意図的に構図として少女の居る「吉田橋」を撮影したことは間違いないでしょう。
手彩色のため、着物の色ピンク色になっています。
実際は確かではありませんが、なかなか存在感があります。
この少女の姿で、この橋に物語が生まれそうです。
冒頭で紹介した絵葉書のように
全国の観光絵葉書でも<傘をさす女性>とかアクセントを加えた風景が使われています。
この風景も 同じ感覚かもしれません。
もう一枚、同じ頃の吉田橋絵葉書と比較してみます。
ヒントはありますが
時代の絞込に苦労します。路面電車の軌道や看板がヒントとなります。
「ライオン」の看板は架橋時の風景にもその後の路面電車開通後にも登場しますが、この少女の風景では「ライオン」の看板はよくわかりません。
「活動 横浜館」の看板は確認できます。
もう一点、電柱でも違いがありますが、これだけで撮影時期の前後を判断するのは難しそうです。

少女の絵葉書でも橋上を見ると<電車>や<人力車>が走っています。
吉田橋の奥に見える「活動 横浜館」は
1911年(明治44年)勧工場跡に開館した「横浜館」だろうと思われます。
ここ「横浜館」は市内で最も古い映画館で1929年(昭和4年)に廃業しました。
「吉田橋」架橋時には式典が行われ多くの見学者が訪れました。

年譜にしてみました。
1859年(安政6年)
居留地と関外を繋ぐ仮橋を設置し
1862年(文久2年)
木造の本橋
1869年(明治2年)
錬鉄製の無橋脚トラス橋(リチャード・ブラントン設計)
そして
1910年(明治40年)5月
架替工事着工。
1911年(明治44年)3月21日
吉田橋工事のため橋の上下の派大岡川が閉鎖されました。
10月7日
派大岡川の通水開始。国産の「吉田橋」架替工事が完成します。
同年 11月1日 竣工、渡り初め式が行われます。
渡り初めの他、吉田橋開通式典が行われ、多くの人が集まりました。
記念絵葉書も発売されたようです。
同年 勧工場跡に「横浜館」開館。
1912年(明治45年)
路面電車の軌道が敷設され関東大震災までこの橋を路面電車が往来します。
少女の絵葉書の撮影時期は、
横浜館があり橋上に電車が走っていますから
1912年(明治45年)以降だろうと思われます。
電柱で見ると
1912年(明治45年)にはあった「電信柱」が
この少女の絵葉書では確認がとれません。
明らかに電柱の位置か構造が変わったことが分かります。
この辺の 電話事情がわかると 時代の絞込がさらにできるかもしれません。
本日は この程度の読み解きで 失礼します。