第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

横浜の中心市街地は、大岡川下流域と帷子川下流域のダブルリバーゾーンによって形成されました。大岡川下流域(吉田新田と開港場近辺)と野毛連山を挟んで帷子川下流域の形成史を少々粗雑になりますが、概観してみます。
(プロローグ)鶴見川
大岡川と帷子川の話をする前に、現在の横浜市域東南部の河川図と市域を重ねてみました。
※上記の地図は「川だけ地形地図」というサイトの情報を加工して使わせていただきました。http://www.gridscapes.net/AllRiversAllLakesTopography/
(襞のある横浜)
東海道筋を江戸から辿ると、まず多摩川を越え、現在の川崎市域に入り、なだらかな関東平野が続きます。
ところが鶴見川を越えるあたりから丘陵地が迫ってくるのがわかります。
横浜市域はヒダのある街、丘陵の街です。
東海道は、丘陵地のエッジに沿って神奈川宿・程ヶ谷宿があります。
そして程ヶ谷宿から一気に山越えモードとなり権太坂を越え相模国に入っていきます。
東海道程ヶ谷宿からは鎌倉・金沢に入る道筋が鎌倉道の一つとして多くの人に利用されてきました。
この頃、程ヶ谷宿からは野毛山を越え、戸部村・野毛村に通じる「保土ケ谷道」がありました。
(吉田新田)
江戸湾の東海道筋で神奈川宿が賑わい、鶴見川や滝ノ川、帷子川が物流に利用されます。この時代、江戸期に入り戦国時代以来蓄積されてきた築城・掘削・兵器製造技術の転用に加え治水技術と農業技術の革新が全国で起こります。
江戸を水害から守るための幕府による利根川水系の一大治水工事は物流と水田開発の発展を促しました。これは北関東にとどまらず幕府の新田奨励も相まって、関東一円の山間丘陵地で棚田中心だった農地が川辺近くを利用した水田農業によって飛躍的に増加します。新田ブームが起こります。
この新田ブームの流れに沿って江戸の吉田勘兵衛が着目したのが大岡川下流域の入海、蒔田湾の干拓でした。
図でもわかるように、東海道筋から見れば、現在のように帷子川下流を埋めるよりも保土ケ谷から野毛村・太田村の前に拡がる深い入江にまず着目するのは当然のことだったといえるでしょう。
1667年(寛文七年)に吉田新田が完成します。
(南北往来)
吉田新田の完成によって、野毛山と平楽・中村の丘が近くなります。

吉田新田

さらには景勝地だった辨天様への往来も盛んになり石川村・横浜村も賑わいがでてくることで、さらに洲干辨天は地域の鎮守様としてその地位が高まっていきます。 開港まで、吉田新田は縦路ではなく横路、南北往来の路として広く利用されたのではないでしょうか。
一方、帷子川に視点を移してみると、帷子川は河口近く(程ヶ谷宿)で今井川が合流していたこともあり、暴れ川の性格も持っていました。
宝永4年(1707年)に起きた富士山噴火(宝永山噴火)は七日間にも及び相模国から江戸にかけて大量の火山灰をもたらします。
これがきっかけとなり、帷子川河口域の整備が始まります。 大岡川の吉田新田が一括干拓であったのに対し、
帷子川河口域の整備は、細かく時間をかけて多くの人達の手によって大正期(一部昭和期)までかかって行われていきます。
(横浜道)
横浜に史上最大のインパクト、開港場が誕生します。
突貫工事で開港期日ギリギリに東海道筋芝生村(現在の浅間町)と野毛村・吉田橋を結ぶ「横浜道」が整備されます。これによって、帷子川河口域が<開港の道>の街道筋となります。この開港の道に対しさらに海側を明治期に入り鉄道路が作られ、日本最初の鉄道が走ります。
(田畑から住宅地へ)
大岡川下流域、吉田新田は完成以来長く田畑としての役割を果たしてきました。新田の中央には灌漑用の「中川」が流れ、新田を横断する道と川に沿った縦の道が<あぜ道>として整備されていきました。これが開港によって、次第に宅地化していくことになります。 農地から宅地へと変わっていく中で、住居地区としてのインフラ整備が必要となってきます。
灌漑用水路は排水路となり、水路は増水による水害の危険に対処していく必要が出てきます。さらに港街となった横浜は交易の種類・量が増え、道路と水運の整備も求められるようになっていきます。
そこで持ち上がったのが磯子根岸と横浜港を水路で結ぶ計画、堀割川工事です。
大岡川の下流域の入海を干拓して自然に作られた大岡川と中村川・派大岡川に対し、堀割川は本格的な運河、分水路の整備でした。
神奈川県知事の布達は
堀割川を開削し根岸湾と中村川をつなぎ、併せて中村川を広げる。
工事の際、40m近い中村の丘陵を開削した残土を吉田新田の下流に有る「南一ツ目沼地」の埋立に使用する。そして河口に波止場を建設する。
といった内容でした。
布達は明治3年のことで、完成は明治7年までかかりましたが、これは途中苦難と混乱の中ようやく完成した<運河>でした。
この大工事によって、吉田新田「南一ツ目沼地」が現在の蓬莱・萬代・不老・翁・扇・松影・寿・吉浜のいわゆる埋地八ケ町と呼ばれている場所にあたります。
(護岸工事と運河)
吉田新田は、堀割川開削事業によって大きく役割に変化が起こります。開港場に近い方から宅地が進み、運河整備が進められます。
その事業の先頭に立った人物が群馬の生糸商「伏島近蔵(ふせじまちかぞう)」でした。伏島は、堀割川を活かし、運河を昔からあった灌漑水路「中川」を整備し「新吉田川」とします。さらに、新吉田川から大岡川へとつなぐ「新富士見川」を整備することで、吉田新田に大きく3つの縦軸水路が完成します。 これによって、運河岸には製材所、鉄工所、捺染工場、石炭などの燃料備蓄庫、回漕業といった産業が集積していきます。縦軸には伊勢佐木商店街が発展し、保土ケ谷から久保山、赤門通り、末吉橋を抜けて「横浜橋」<横浜橋商店街>「三吉橋」八幡町に抜ける横軸のルートも栄えることになります。※
また、横浜道から野毛に入り都橋・吉田町・吉田橋ルートや現在の医大通り、日ノ出町から打越に抜けるルートなどかつては横断道路が吉田新田を賑わいのある街へと変化させて行きました。
※真金町遊郭・大鳥神社の存在も忘れてはいけないでしょう。
次回以降
(2)では大正から昭和への吉田新田の様子を探ってみます)
(3)では桜川と石崎川
(4)で帷子川河口域にふれてみます。

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