第904話 横浜ダブルリバー概論(2)

大正から昭和へ
1900年代初頭、近代化のうねりの中で横浜は開港場を軸に、変化の真っ只中でした。
ここで第二次市域拡張を終えたダブルリバーの20世紀初頭を追ってみます。

1901年(明治34年)から20世紀となります。
横浜市は初めて市域の拡張を行いました。
「久良岐郡戸太村、中村、本牧村、根岸村、および橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸(現在の西区元久保町・東久保町・久保町)、子安村大字子安を編入。」

大正12年4月発行の帷子下流域

・大岡川下流域
「横浜港」を中心に貿易関連企業群と行政機関が集中する商業都市として膨張を続けます。
一方
・帷子川下流域は、大正期に入り埋地が工業地帯として発展していきます。
明治期に高島嘉右衛門が埋め立てた鉄道路線沿いの<高島><裏高島>エリアには、様々な製造業が進出します。また鉄道線に沿った埋地の内側(現在の横浜駅西口側)には外国系石油会社が二社進出します。
一つがユダヤ資本系のライジングサン石油株式會社(後のシェル石油)で平沼・高島に油槽所を設置。
また、米国ロックフェラー系のスタンダード石油も現在の横浜駅付近に貯油所を開設、日本市場進出の拠点となります。現在も日本ガソリンスタンド発祥の地(真偽不明)の記念碑が建っています。
また、平沼・岡野の帷子川下流域新田も工業用地へと変貌し、市瓦斯(現在東京ガス)平沼、横浜電気、横浜電線製造、横浜魚油などが操業し大正期大ブームとなった麻真田を織る工場が多く開業し第二次世界大戦前まで横浜の重要産業に躍り出ます。
(20世紀初期)
1889年(明治22年)に市制が施行され、
1901年(明治34年)から20世紀となります。
横浜市は初めて市域の拡張を行いました。
「久良岐郡戸太村、中村、本牧村、根岸村、および橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸(現在の西区元久保町・東久保町・久保町)、子安村大字子安を編入。」
1911年(明治44年)に第二次市域拡張。
「久良岐郡屏風浦村より大字磯子、滝頭、岡(旧禅馬村の地域)を、大岡川村より大字堀之内、井土ヶ谷、蒔田、下大岡、弘明寺を、橘樹郡保土ケ谷町より大字岩間字池上・東台・外荒具・道上・塩田・反町・宮下・殿田・関面・久保山下(現在の西区東久保町・久保町・元久保町、保土ケ谷区西久保町)を編入。」
この後、しばらく横浜市はこの市域を維持していきます。
このブログでも何度か指摘していますが、横浜市は6回の市域拡大を行います。
1927年(昭和2年)の市域拡大で大幅に市域面積を広げますが現在の半分以下でした。
(関東大震災)
大正期から昭和初期の間における横浜の急激な変化は「関東大震災」に尽きます。
当時の横浜市は人口約42万人で東京市の約220万人に比べ1/5の規模の都市でしたが横浜市の住家全潰(全壊)棟数は約1万6千棟、
東京市の1万2千棟をはるかにしのぐものでした。
特に大岡川と中村川・堀川に挟まれた関内外エリアでは、全潰率が80%以上に達しました。このエリアでの火災の発生場所約290ヶ所に及ぶなど横浜中心部は住宅の全潰率や出火点密度が非常に高かった点が特徴です。
また関内外は運河や橋が多かったため、橋の崩落、木造橋梁の焼失により逃げ道を失ったことが被害を大きくしました。
1923年から帷子川・大岡川下流域は、ひたすら復興のためにエネルギーを使っていきます。
横浜電気鉄道が市電となった直後、
二代目横浜駅が完成してまもなく
第一次世界大戦後の不況から立ち直ろうとしていた矢先
の震災でした。
震災後、横濱も帝都東京と併せて復興計画が立案されていきますが、予算を含め様々なハードルが待ち受けます。
第902話 南・中・西 分離始末 
で少し紹介しました牧彦七による震災復興プランにはダブルリバーを意識していたように思えますので改めて彼のプランを再考してみたいと考えているところです。

牧彦七(マキ ヒコシチ)
内務省の勅任技師時代、道路の改良について研究を進めその傍らで外国語学校に学び、土地計画の国フランス語を修めました。明治神宮造営局や鉄道院の各技師を経て1923年(大正12年)東京帝大講師に就任。同年9月に関東大震災が起こると、いち早く横浜の復興計画に携わることになりますが、任半ばで<帝都復興優先>とされ東京市土木局長となります。帝都の復興に尽力し、東京の都市計画の基盤を作ったテクノクラートで横浜市に関わった場合、どう変わったのか?大変興味深いところです。
13年内務省土木試験場長、次いで東京市道路局長などを歴任。また、大分県出身者として在京大分県人会を組織し、その会長も務めました。
少し長くなりますが20世紀初頭をザクッと年表にしました。
1900年(明治33年)4月11日 サミュエル商會の日本法人として石油部門を独立させ後にライジングサン石油株式會社(後のシェル石油)となります。
照明用の灯油・蝋燭製造でシェアを伸ばします。 平沼に油槽所を開設。
1902年(明治35年) 横浜電気鉄道株式会社設立(資本金100万円)
1903年(明治36年) 鶴屋呉服店、明治屋設立
1904年(明治37年) 日露戦争(〜05年9月5日) 横浜電気鉄道開通(神奈川-大江橋間)。
1906年(明治39年) 三渓園 開園 1910年(明治43年) 東京横浜電鉄(株)創立。
1911年(明治44年) 第二次市域拡張。オデオン座開業
1913年(大正2年) 浅野総一郎ら 鶴見埋立組合による埋立始まる。 横浜の逓信省経理局倉庫と海上の天洋丸の間で無線電話連絡に成功。
1914年(大正3年) 第一次世界大戦(〜18年11月11日) 東京駅開業 糸価大暴落、横浜生糸後場休会。
1915年(大正4年) 二代目横浜駅開業 御大礼特別観艦式(行幸)
1916年(大正5年) 横浜入港の布哇丸乗客にコレラ発生。以後全国的に拡大。この年、死者7,482人。
恒例観艦式(横浜沖)
1917年(大正6年) 横浜港第二期築港工事竣工 開港記念横濱会館竣工 東海道本線貨物支線鶴見ー高島間、東神奈川ー高島間開業。横浜臨港貨物線のはじめ。
1918年(大正7年) 横浜生糸相場暴落。 米騒動
1919年(大正8年) 久保田周政(きよちか)市長は市区改正局と慈救課を設置し、都市計画と社会福祉を設置 横浜市千歳町に大火。焼失3,084戸。(埋地火事)
1920年(大正9年) 市区改正局→都市計画局 慈救課→社会課 戦後恐慌始まる。茂木合名会社破綻(5月) 横浜電線製造株式会社が古河工業株式会社より日光電気製銅所などの現物出資をうけ設立。
電車を市営とすることに決定 横浜興信銀行設立認可。
25日 開業。
七十四・横浜貯蓄両銀行破綻のため市内有力者が相寄り新銀行を設立。
1921年(大正10年) 横浜取引所の定期生糸立会が復活。 野沢屋呉服店新館開店
1923年(大正12年) 関東大震災。横浜市内全域被災。 ◎特別都市計画法公布。東京・横浜の都市計画を規定。
1924年(大正13年) 神戸市、市立神戸生糸検査所を開設(横浜港の生糸輸出独占破れる)。 市内各地で皇太子ご成婚の奉祝行事開催 横浜高等商業学校(官立)設立、入学式。 神奈川県庁舎 岡野町に建設。
1925年(大正14年) 日本フォード自動車(株)設立。本社横浜。 東京・横浜間で電話自動交換方式を採用。 湘南電気鉄道設置
1926年(大正15年) 生糸検査所竣工
1927年(昭和2年) 京浜地方の諸銀行休業 第三次市域拡張 ホテルニューグランド開業
1928年(昭和3年) 三代目横浜駅開業
1929年(昭和4年) 復興祝賀式 世界恐慌始まる
1930年(昭和5年) 横濱市会議員、初の普通選挙 山下公園開園
1931年(昭和6年) 満州事変
1932年(昭和7年) 東横線全通
1933年(昭和8年) 横浜の山下町消防署に救急車を初めて配置。
東京では12月に日赤に配置。
自動車製造(株)設立(社長 鮎川義介)。資本金1,000万円。
日本産業(株)と戸畑鋳物(株)の共同出資。本社は横浜。1934.6.1 日産自動車(株)と改称。
1935年(昭和10年) 復興記念横浜大博覧会(〜5月)
1936年(昭和11年) 第4次市域拡張
1937年(昭和12年) 第5次市域拡張 横浜市営埋立地完成 1939年(昭和14年)
第6次市域拡張

※これでもかなりの量になってしまいました。

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