かつて、幕末から明治にかけて居留地には外国人経営によるホテルが数多く誕生しては消えて行きました。その中で、明治・大正時代の開港場を代表するホテルが幾つかありましたが、その一つがクラブ・ホテルです。1884年(明治17年)1月11日にそれまであった「横浜ユナイテッド・クラブ」を改造し海岸通、居留地5番Bに「クラブ・ホテル」が開業します。
この年
横浜(第一次市域拡大前)の人口は男性が27,440人、女性が27,039人、合計54,479人
戸数は21,164戸でしたが、国際港として落ち着きを見せてきた横浜港界隈はいわゆる定住人口以上の旅行客や仕事でこの地は賑わっていたようです。
(水と火)
この年に限らず、幕末から明治にかけて、にわかづくりの横浜は<水と火>という皮肉な弱点を持っていました。急激に人口が増えた開港場、いわゆる関内の水不足は深刻で、新鮮な水を供給できない宿泊施設も多く、水道施設の完成が待たれていました。
野毛山から市内に給水が始まったのは、1887年(明治二十年)で市制が始まる直前のことでした。
一方、火といえば火事のことで、明治期の関内は頻繁に起こる火事との戦いでもありました。
居留地のホテル経営、実力に加え<火事に遭わない>運も必要でした。
手元の横浜市年表の明治時代を見るだけでも火災記事は頻出します。
クラブ・ホテルが開業した1884年(明治17年)には
伊勢佐木町1丁目から出火、790戸を焼失する大火事が起こり、後述のように火事との戦いがホテルの運命を変えていきます。
1889年(明治22年)にクラブ・ホテルは法人化され経営者と支配人が区別されるようになります。初年度クラブ・ホテルは大きな収益を上げ、居留地40番に「アネックス」、東京築地に「ホテル・メトロポール」を出すなど、経営は絶好調だったようです。
ところが、1899年(明治32年)に隣接する「横浜ユナイテッド・クラブ」の台所から出火、火は消し止められたものの消火等で客室の改修を余儀なくされます。
1907年(明治40年)には
ボイラー室から出火、一部が焼失します。
さらには
1909年(明治42年)12月26日にストーブから出火しホテルの殆どが焼失、消火による浸水で殆どホテルの機能を失います。
それでも又再建されますが 次第に集客力を失い
1917年(大正6年)に解散します。ちょうど2017年から100年前の出来事でした。