横浜市南区東南部と磯子区東部にわたり、
明治7年(1874年)
大岡川の支流中村川分水路として開削されたのが「ほりわり川」です。
この「ほりわり川」の表記が統一されていないのかあくまで誤記なのか。
堀割川
掘割川
「堀」「掘」の二種類が様々な場所で見受けられます。
ここでは「堀割川」を採ることにします。
テレビ番組でも 時折テロップに「掘割川」が使われることもあります。
「堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市を流れ根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川。大岡川の分流である。明治時代に作られた人工河川で、横浜港発展に大きな役割を果たした。
※1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募った。吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行った。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定された。(wikipedia)」
横浜市の資料、国交省の資料には「堀割川」とあり、常識的にはこの表記が正しい。
ただなぜ<てへん掘割川>が未だ使われているのでしょうか?
単純に 変換ミス。もう一つ、掘割川派の立場であえて主張するなら
掘るのは<てへん>で掘った結果が<つちへん堀>となります。
掘って運河(堀)を作った結果を<掘割川>の方が理にかなっている!と言えないこともないでしょう。かなりの屁理屈ですが。
「堀割川」
<名称>をきっかけに堀割川のこと少し突っ込んで調べてみました。まだ、資料を読んでいる最中!なので保留ですが、横浜を考える上でいろいろなことを学んでいるところです。堀割川は、民間の手で近代に誕生した大岡川の運河の一つです。
横浜市内7水系28河川の一つ「大岡川」に含まれます。
明治3年に県が公募し吉田家を中心とする民間資本が名乗り出て途中米国資本が入り明治7年に完成しました。
堀割川は吉田新田大岡川の家族で、ここに<家>の浮沈をかけて挑んだ吉田家の努力があり、当時不平等条約の下で居留地から国家ビジネスをしかける外国資本、国家財政破綻寸前、明治六年政変前後の日替わり政府の姿勢、
横浜を舞台にした江戸から明治への近代化とは何だったのかを問う象徴的な出来事です。開港によって、開港以降の<輝かしき>発展史だけではない史実があったこと、
ここに登場する、今殆ど評価されていない人たち、史実が少し見えてきました。
来年は改めて「堀割川」両岸を歩きながら明治・大正・昭和、そして平成を見つめてみたいと思います。
過日投稿した事が有りますハマッコの一人ですが、ご一読頂けたのでしょうか?
明治の代から根岸村に居住してましたので、堀割川・動物検疫所等の名前がある
貴資料を、大変懐かしく興味をもって拝読しました。
この様な明治時代の詳細文献の発掘ご注力の貴殿に、深く感謝申し上げます。