この絵葉書、まだ結論が出ていませんが謎解きしてみます。
タイトルは
「有栖川大将宮殿下同妃殿下横浜桟橋御上陸之光景」
タイトル最後の方は 判読不能で推測しました。
撮影場所はおそらく「横浜桟橋(鉄桟橋)」でしょう。
中心に写っている人物が”有栖川宮威仁親王と妃殿下”
先導するヒゲの人物はだれでしょうか?
大臣クラスと思われます。大隈重信かなと推理しましたが、どうやら時代が合いません。
素人ですがわかる範囲で読み解いてみます。
「有栖川大将宮」
写真の中心人物有栖川大将宮に該当する人物は戦前明治以降の皇族の中で二人います。
■有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)
1877年(明治10年)10月10日 陸軍大将となります。
熾仁親王は1895年(明治28年)1月15日に亡くなりますので
大将として写真に写っている期間は1877年(明治10年)から1895年(明治28年)となります。
■熾仁親王の弟が有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)
イケメン皇族!と言われています。
1862年2月11日(文久2年1月13日)〜1913年(大正2年)7月5日
威仁親王は
1904年(明治37年)に海軍大将昇進します。日露戦争終了の年です。
●撮影時期
舞台となった「鉄桟橋」は1894年(明治27年)に完成しますので、
撮影年はこの年以降となります。兄の熾仁親王は1895年(明治28年)に亡くなりましたので
鉄桟橋竣工後ギリギリで該当しますが、ご高齢です。
弟の威仁親王は1913年(大正2年)に亡くなり、
1904年(明治37年)に海軍大臣、海軍大将となります。
結果、威仁親王夫妻は
1904年(明治37年)〜1913年(大正2年)の間に鉄桟橋を利用した線が可能性として高いようです。
「鉄桟橋」は国際港として竣工しますので、
威仁親王夫妻は外国からの帰国模様と思われます。
鉄桟橋には多くの群衆が夫妻を取り巻いています。桟橋上にはほとんど建造物が見られませんので初期の「鉄桟橋」だと言えるでしょう。 威仁親王夫妻の洋行。
有栖川宮威仁親王と妃の二人は精力的に海外を視察しています。
妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘で慰子(やすこ)で
1880年(明治13年)に威仁親王妃となりました。
前田慰子は外国人教師から英語やフランス語をしっかり学び、流暢に会話ができる才女でした。
夫となった威仁親王も国際派で英文で日記を書くほどの語学力をもっていました。二人は早くから欧米視察を強く希望し、渡航に消極的だった明治天皇に反対されながらも自費で欧州への旅を実行します。
シルクロードの最果ての国、ほとんど知られていなかった<極東>の国を欧米各国の皇帝や政府高官を始め国民にしっかり知らしめた
”最初の成功した皇室外交”となりました。
威仁親王 最初の洋行は
1889年(明治22年)2月16日
横浜発の僅か3,500tクラスの客船に乗り、米国を皮切りに、欧州を巡りました。サンフランシスコから大陸を横断し大西洋を渡り,仏・露・スペイン・オランダ・デンマーク・スェーデン・ベルギー・英・独・伊など10ヶ国を巡ります。
威仁親王は訪問先の海軍の実情を的確に調査し
1890年(明治23年)4月に横浜港に帰港する予定を変更し神戸に帰港します。
※この時タイミングよく観艦式が神戸沖で開催予定だったので、変更したそうです。
この桟橋風景には該当しません。
そろそろ画像の時期を絞り込んでみたいと思います。1907年(明治40年)
嘉仁親王(後の大正天皇)は大韓帝国を訪れます。この時に同行したのが威仁親王夫婦でした。親王夫婦はその後、休む間もなく欧州に向かいます。 おそらく、この絵葉書は 欧州からの長旅から帰国した時の<光景>だったのではないでしょうか。
この1907年洋行は少し確証が持てないため 再調査することします。
次回に。
それにしても すごい群衆です。特別にガードしている感じでもありません。