第935話横浜を歩く点と線「イタリア」

前回、山手の外国<エリア>を紹介しました。
フランス山(フランス領事館)
アメリカ山(米国公使館ゆかり?)
イギリス館(英国総領事公邸)
 ※「港の見える丘」一帯はイギリス山
イタリア山(イタリア領事館)
英米仏に比べ、イタリア?
ちょっと印象が薄いようですが、

伊太利亜!

Flag_of_Italy

実は横浜と結構深ーーーい関係にあります。
イタリア山公園はかつてここにイタリア領事館があったことから、ここを整備する際に水路や花壇を幾何学式に配したイタリア式庭園として「イタリア山」と命名します。
イタリア領事館は
1880年(明治13年)から1886年(明治19年)に設置されました。
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GP006/item/018/
イタリアは欧州の中ではイタリア語圏で小国が雑居する中、
1861年(万延2年)にイタリア王国が建国され統一が図られます。その後、
1866年(慶応2年)にヴェネツィア、
1870年(明治3年)にローマなどの教皇領の残りを併合し、一応の半島の統一を見ます。まさに此の時に、イタリアは日本との国交樹立を断行します。
統一が実現した1866年(慶応2年)
日伊修好通商条約を締結のためにヴィットリオ・F・アルミニョン氏がイタリア海軍のコルヴェット艦「マジェンタ号」に乗船し来日します。
14代将軍徳川家茂あてのイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(VittorioEmanueleII)よりの親書を携え<締結>を急ぎます。この時、フランスと近かったイタリアはレオン・ロッシュの支援で8月25日(慶應2年7月16日)に綱渡り調印を成功させました。
なんと、調印から僅か4日後に将軍家茂が死去し、様々な政治課題が停滞する直前の離れ業でした。おそらくこのチャンスを逃したら、日本の歴史、横浜の歴史は変わっていたかもしれません。
なぜ、ここまでしてイタリアは日本との通商条約を急いだのでしょうか。
話は、二年遡ります。
井土ヶ谷事件に端を発した外交問題が起こります。
横浜居留地の警備のため山手に駐屯していた、フランス陸軍のアフリカ連隊付少尉アンリ・カミユ(J.J.Henri.Camus)が2人の同僚士官と共に乗馬を楽しむ際、居留地から馬で井土ヶ谷村へさしかかったこの場所で浪士2名によって襲撃を受けます。
先頭に居たカミユは即死の状態で絶命します。襲撃した浪士は逃走し、神奈川奉行並合原猪三朗が捜査を開始しますが、犯人逮捕に至りませんでした。
この事件はその後日仏関係に大きな影響を及ぼします。
(井土ケ谷事件とパリ)
この井土ケ谷事件を解決するために
1864年(元治元年)池田長発(いけだながおき)が率いる横浜鎖港談判使節団がフランスを訪れている時に、フランス駐在イタリア大使が使節団に接触し、通商条約締結の打診を行い情報を確認し特使を日本に派遣します。
※池田長発の渡航も横浜と深い関係にあります。(別途紹介します)
当時イタリアは
オーストリア帝国と戦火を交えている最中で結果壊滅的な敗北を喫していました。一方でオーストリア帝国は北西で隣接するプロイセンの圧倒的な軍事力に屈服するという複雑な関係にありました。
イタリアはオーストリア帝国に大敗したにも関わらず、ナポレオン三世の仲介で弱るオーストリア帝国から奪われたヴェネツィアとヴェネト州を返還することに成功します。
イタリアの統一が実現しイタリア王国が建国されたタイミングで、イタリアは重大な経済危機を迎えます。それは「微粒子病」(ペブリン)の蔓延でした。
(欧州最大市場)
イタリアは当時、欧州のシルク産業の中心地でした。
「蚕種の輸出額は日本の輸出総額の23%以上を占める年もあり、そのおよそ7〜8割はイタリア市場に流れるものだった。この貿易関係は養蚕製糸業に依存するイタリア経済を支えながら、日本が近代化を成し遂げるために必要としていた膨大な収入を確保させていたため、両国にとって極めて有利で、重要なものだった。」(ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ)
何故イタリアは極東アジアの日本から蚕種を輸入するする必要があったのでしょうか?
「微粒子病」(ペブリン)の流行でした。「微粒子病」は蚕の生糸生産力を著しく低下させ、現在も治療不可能な難病です。原因を突き止めた研究者の一人がルイ・パストゥールで効果的な予防法(顕微鏡検査)により劇的な改善がみられるようになります。
ただ、イタリアを含め同じくシルク生産・消費国だったフランスも予防法の普及が始まったのが1869年(明治2年)以降になります。解決策はまだ感染していない地域で無病の蚕種を輸入するしかありませんでした。その為、イタリアの養蚕ハンターは遠く極東に無菌の蚕を発見しました。

幕末の幕府財政、明治の初期にかけて日本の養蚕が発展し、その後の横浜経済、日本の経済を支えたキッカケを作ったのが イタリアとの交易でした。
しかし、イタリアは 英国の介入で横浜(日本)において急速にその地位を失っていくことになります。
イタリア山には1880年(明治13年)から1886年(明治19年)の短い間ですが領事館が開設され、日本とイタリアの交流に努めました。
この場所はその後所有者が変わり、歴史を経て横浜市が管理し、貴重な洋館を移築し庭園とともに山手の洋館群の要となっています。
(つづく)

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