第950話 【大岡川】千秋橋の謎

今回は謎のみで<解いていません>
(大岡川運河群の誕生)
大岡川下流域はかつて大きな入海で、江戸期に吉田新田が干拓で誕生します。この吉田新田の誕生によって「大岡川」「中村川」「派大岡川」が誕生します。
この時点では、新田の中央に灌漑用水路として「中川」がありました。川というより田畑に水を供給した用水路であったと思われます。

開港後に都市化が急速に進み、郊外化が進み吉田新田が徐々に市街化されていきます。
開港によって吉田新田に最初に誕生した街(ストリート)は現在の「吉田町」通りです。※
開港直後はまだまだ沼や灌漑用の小河川が多く住宅地としてはいろいろ不便な点が多かったようですが吉田町は新田の堤に沿って「吉田橋」へと続く道として発展していきます。
第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」


幕末10年が過ぎ明治に入ってから横浜は日々大きく変化していく街でした。
吉田新田が都市化される中で、真ん中にあった<中川(用水路)>が「吉田川」「新吉田川」に変身し、派川として「富士見川(後に埋立)」「日ノ出川」「新富士見川」「堀川」「派大岡川」など運河群が整備されていきます。
川には橋が架けられ
運河とともに「橋」も横浜の重要な交通の要所となっていきました。

<千秋橋>
今日のテーマ「千秋橋」がなぜ謎なのか?
明治30年ごろまで「千秋橋」は無く、土手となっていたようです。
堀割川から新田に入り「新吉田川」「吉田川」となり「派大岡川」に合流するのですが、吉田川は上流が「新吉田川」下流を「吉田川」と呼んで<新>と<旧>とに分かれていた時期がありました。
ではどこから「吉田川」なのかというと「千秋橋」あたりです。
「千秋橋から蓬莱橋までの400mが「吉田川」で、」という資料もあるように、
吉田川があって、そこに新吉田川が繋がった訳ですが
土手の部分が、長者町にあたります。
下記は明治14年測量の横浜を細かく描いた地図です。

明治14年測量図より

地図では石川町車橋から野毛側長者橋に続く「長者町四丁目」と「長者町五丁目」が途中堤で繋がっていることがわかります。
長者町は関内外の数ある町内の中で<珍しい町域>を持っています。
長者町は吉田新田域を唯一横断している<町>です。
その距離約1kmで『横浜沿革誌』によれば1870年(明治3年)6月頃に長者町の地名が付けられたとあります。
この長者町のど真ん中が「千秋橋」にあたりますが、
そもそも橋では無かったようです。
もう一つの地図も紹介します。

明治25年横浜真景一覧図絵

明治25年に描かれた「横浜真景一覧図絵」のクローズアップです。
この地図にも「千秋橋」は無く、堤が示されています。
長者町が繋がっていることと、この地図から
明治初期の一定期間ここには橋が無く、陸続きだったことがわかります。
その後、運河整備のために下流の「吉田川」
堤を挟んで上流の「新吉田川」がつながり、
そこに架かった橋が「千秋橋」ということになります。
取り合えす手元の資料だけでの推理ですのでご了承下さい。
※吉田町は1862年(元治元年)に、元町とともに関外で初めてできた街である
『吉田町の研究』p11。

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