今日は、川崎が舞台です。
勿論横浜に深く関係のある話しです。
「有吉堤」と「アミガサ事件」を知っている横浜市民は
少ないのではないでしょうか?
隣接市川崎から横浜まで駆け抜けたアミガサ事件の人たちの足跡をトレースしてみます。今日は多摩川編。
ガス橋 |
(川辺に生きる)
川は大地の恵みを下流へ
そして海に運ぶ役割を担っています。
人類は川辺に集落を作り暮らしを始めました。
一方で、川は人々に自然の力を見せつけてきました。
川辺の歴史は、水害との闘いの歴史でもあります。
江戸東京の城南、神奈川の北部を流れる多摩川の歴史から、大正初期に起った事件を紹介します。
(右岸と左岸)
多摩川は東京都と神奈川県の県境を流れる一級河川です。現在は穏やかな流れですが、昭和の時代まで水害の絶えない暴れ川でもありました。
※山田太一「岸辺のアルバム」
http://ja.wikipedia.org/wiki/岸辺のアルバム
江戸は川の街です。利根川と多摩川によって作られた平野に育った街です。
江戸時代に入り、多摩川の豊かな水源を利用した“灌漑用水路”の整備が始まり水稲生産農家が増加し江戸の近郊農業が飛躍的な発展を遂げます。
多摩川右岸(橘樹郡=神奈川)には「二ヶ領用水」、左岸(荏原郡=東京)には「六郷用水」が整備され広大な農地が誕生します。
二ヶ領用水 |
豊かな水田は、川の氾濫と隣り合わせの危険も抱えていました。
何年かに一度起る大水害が川筋を変え、田畑を土砂で塗りつぶし再び田畑を整備するという繰り返しでした。
※余談ですが 私が生まれ育った世田谷区玉堤は「六郷用水」が流れていました。
小学校の頃に 多摩川の水量が激減した時期があり 歩いて多摩川を渡った記憶があります。
江戸城に近い多摩川左岸は、江戸時代重点的に土手の整備が行われましたが、右岸の川崎側は整備が遅れました。
明治に入り、右岸と左岸の差は尚一層明確になっていきます。
川崎側の橘樹郡御幸村(川崎市幸区の全域 中原区一部)
現在の地図でも蛇行が微妙ですね。
(繰返す水害)
現在の川崎市幸区一帯は水害の歴史と共にありました。
明治維新以降
何度も請願書を県庁は勿論
政府・貴衆両院に提出し
同時に新堤築造を出願しますが
行政府は動きません。
そこに歴史に残る大災害が起こります。
1907年(明治40年)豪雨による大洪水が全国的に発生
多摩川も氾濫
1910年(明治43年)豪雨による大洪水が全国的に発生
多摩川も氾濫
この年の「臨時治水調査会」で
多摩川は第2期河川に指定されます。
これは事実上棚上げを意味しました。
1913年(大正2年)豪雨による大洪水が多摩川で発生
御幸村他“右岸”流域の人々は治水の請願書を出しますが
進展しません。
1914年(大正3年)ようやく神奈川県は“左岸”の東京都と協議に入ります。
何故?東京都と協議が必要かというと
“左岸”地域は、“右岸”の堤防工事が進むと 左岸に被害が及ぶ“危険”があるというものでした。両方まとめて工事するには 予算が無い!
では県費で築堤申請を国に出すと、左岸側の強い抵抗に合うという
繰り返しでした。
最終的に許可を出す「内務省」(戦前は公共事業も管轄していました)も
申請を却下!します。
同年1914年(大正3年)の8月9月に、再び大洪水が起ります。
明治に入っても
一般市民のデモや抗議のための集団行動は禁止されていました。
(決起)
地域住民はついに実力行使を決定します。
御幸村など4村の住民数百人の一団が早期築堤を求め県庁に陳情行動に出ます。
9月15日(火)
小倉・鹿島田・町田・江ヶ崎・北加瀬など関係地域の代表が集まります。
関係村民が大挙して神奈川県庁に迫る以外方法がないという結論に達します。
●9月16日(水)午前2時に出発する事
●服装は羽織を使わず、
草鞋を履き目印としてアミガサを冠る事
●県庁への進路は各字(あざ)の随意とすれども
成るべく警官の目を避けて目的地に達するようにする事
を決定し 散会します。
9月16日(水)未明
各村の陳情部隊は、月明かりを頼りに県庁に向かって出発します。
「九月十六日午前一時八幡社ニ集合スル」
※現在 川崎市平間にある「八幡神社」境内にプレートがあります。
住民はアミガサをそれぞれに着用し結集します。
「二時十分鹿島田を経て小倉に至り,更に同志九十人と会す.末吉橋に至るや濁流滔々と渦を巻き,川口は溢れて渡る事を得ない.止むを得ず鶴見橋に迂回せんとしたが,此処は警官防備線の中心地なるを以て果して成功するかは疑はしい.種々協議の末,一同生命を賭しても此の末吉橋を渡らん事に決着した.
其処で一同衣服を頭に結び付けて胸に達する濁流を押切り,親子兄弟互に助け合ひ相励しつゝ進み,幾度か濁流に押流されんとしては踏みしめ踏みしめ,漸くにして彼岸に達する事を得た.半月雲間に現れ,必死の一行を照らすに其の凄惨なる状態,叫び合ひ嶋咽する声と共に此世のものとも思はれなかつた.
渡るに要せし時間約一時間半,先着順に仕度を整へて飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じたのである.此処に於て又も進路を協議して居るうちに三百名の同勢が程ケ谷方面に向ひつゝある事を知らす者があり,之に勢を得て進み漸く迫付く事を得た.
今や同勢五百有余,群がる警官も物かはと,或は神奈川台下,或は平治の鉄道踏切と到る所警官の垣を突破して潮の如く県庁に殺到した.」
すごい表現ですね。
これは川崎市御幸尋常高等小学校発行の資料の一文です。
このルートを歩いてきました。
二日に分けています |
古市場商店街で発酵食品の専門店「片山本店」発見 |
鹿島田は新川崎と相乗効果で大変貌 |
アミガサチームは恐らくこの「杉山神社」に参ったことでしょう |
末吉橋から鶴見川を |
「飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じた」
飯田町は神奈川区の滝野川流域の町です。飯田橋は未確認 |
この事態に終止符を打った人物が
アミガサ事件後に就任した県知事(後の横浜市長)
有吉 忠一でした。
彼は 就任二ヶ月で“築堤”を決断します。
内務省の反対を押し切った築堤は現在も「有吉堤」として残っています。
アミガサ事件に決起した「八幡神社」前を通る県道111号線は
多摩川を渡る際「ガス橋」で東京と結ばれます。
1936年(昭和11年)東京ガスが鶴見製造所で製造したガスを東京に供給するために作られました。
このガス橋近くに多摩川を挟んで互いに水害から逃れるために、反目し合った悲しい歴史があるのも皮肉な巡り合わせといえます。
現在のガス橋は、1960年(昭和35年)に車両用の橋梁として新設されたものです。かながわの橋100選にも選ばれています。