今回から数回に分け、尾崎富五郎の描いた二版の鳥瞰図を元に(十年間の)変化を読み解くことにします。
この「横浜真景一覧図絵」徹底研究シリーズは今回で第6回目となります。
第1回から第5回までのシリーズで基本資料としたのが
「横浜真景一覧図絵」1892年(明治25年)版です。
第956話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第一話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11569
今回はこの25年版を改定した10年後の明治35年版を元に2つの絵図を比較し町の変化を観ることにします。
(開港場膨張)
25年版(1892年)から35年版(1902年)までの10年間は「横浜関内エリア」が大きく変化した時期にあたります。
特に変化したのが、湾岸部と大岡川の運河群です。
<湾岸部>日本波止場から
大波止場(英吉利大波止場)まで
海岸通り沿いにある製鉄所・日本郵船の本社先が埋立てられています。また、開港後暫定的に作られた突堤<象の鼻>から桟橋が伸びています。
25年版が出版されるころに桟橋計画が持ち上がりました。暫定桟橋計画も進められますが間に合わず本格的な港湾施設が必要となり<横浜港全体の築港計画>が計画されました。
すでに活躍していたオランダの技師提案と英国人技師提案が競う形になり最終的に英国人パーマーに依頼します。
<大岡川運河>
運河部を見ると、25年版(1892年)では富士見川(運河)が完成していますが、35年版(1902年)版は1896年(明治29年)に埋め立てられていたので図上からは消滅しています。
1872年(明治5年)〜1873年(明治6年)に日ノ出川が開削され、堀割川も完成しました。中村川・大岡川・吉田川に航路が開通し運河が水上交通として有効活用され始めた時期にあたります。
元来、関外を形成する吉田新田エリアは干拓によって開発された「田畑」でした。
農地から宅地へと変化する中で、関外エリアは市街化のために<下水問題>を含め多くの課題を解決していくインフラ整備が求められます。
1886年(明治19年)富士見川開削完了
ところが 排水状態が悪く、
1896年(明治29年)には埋め立てられ富士見川消滅。
上流から整備が進んでいた「新吉田川」が完成。
1897年(明治30年)に(新)吉田川のバイパス運河「新富士見川」が完成。
ほぼ 大岡川運河群が整備完了。戦後まで関内外を支えてきた運河群が誕生します。
(過去【横浜真景一覧図絵】ブログ
第956話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第一話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11569
■都市鳥瞰図
第957話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第二話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11580
■大岡川弁天橋付近
第958話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第三話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11596
初代横浜駅前の様子
第959話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第四話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11607
「運河」の町横浜
第960話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
横浜真景一覧図絵に見る「橋梁」
■25年版(1892年)・35年版(1902年)比較
35年版は25年版を基本にしています。作者の気になった部分のみ修正されています。船のカタチ、位置は全く変更されていないものも多くあります。
だからこそ 変更されている部分に着目してみる価値あり!
ということでザクっと比較てみました。
道路の修正は入念に行われているようです。
<一目見ての大変化>
海岸通り部分の埋立
大桟橋の完成
富士見川運河が消滅
ここまで今回紹介しました。
<部分変化>
幻の石川町橋
日ノ出川の橋梁
中村川・日ノ出川・吉田川に船影
千秋橋の登場
長者・寿・永楽・千年・三吉周辺の区画整理
真金遊郭の整備
長島・若葉・末吉周辺の区画変化
大岡川の黄金橋
戸太村周辺の傾斜地が宅地化
横須賀出船所
次回から 変化した部分に少しこだわってみます。