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横浜史自分版を作る

横浜市のサイトに掲示されている「横浜市のあゆみ 略年表」の近世幕末期までの部分を転載しました。
出展:「横浜市のあゆみ 略年表」
    横浜市のあゆみ 略年表
約20,000~2,400年前   先土器・縄文時代は、まだ農耕が生活の中心になる前の時代ですが、横浜市域でも旭区矢指谷遺跡などで先土器後期の人々の活動の最初の痕跡が見られます。また縄文時代の中頃には、都筑区三の丸遺跡のような環状集落と呼ばれる大型の集落遺跡が残され、人々の生活の営みが知られます。
約2,400~1,700年前   弥生時代は、本格的な水田稲作と金属器の使用がはじまった時代です。磯子区三殿台遺跡や都筑区大塚・歳勝土遺跡などに稲作を行う農耕集団の集落が営まれています。
西暦300年ころ~建久3(1192)年   古代は、力をつけた地域の首長のために古墳がつくられた古墳時代と、律令という法にもとづく国家がつくられた奈良・平安時代にわたります。市域に関わる最も古い文字史料は、飛鳥で発見された「諸岡五十戸」と記された木簡で、後の久良郡師岡郷にあたるものです。古代では、市域は武蔵国の都筑郡・久良郡を中心に編成され、『万葉集』にみえる防人など、人々は様々な負担を課せられました。青葉区の長者原遺跡は古代都筑郡の役所(郡家)の跡です。 10世紀以降、東国は武士を生み出す基盤となりますが、 鎧の部品を製作した都筑・西ノ谷遺跡など、市域にも関連する遺跡が発見されています。
建久3(1193)年~天正18(1590)年   中世は、新しく力をもつようになった武士により、戦いが繰り返された時代です。鎌倉に武家政権が成立すると、金沢区の六浦は中世都市鎌倉を支える物資の集積地として、 諸国から商人や職人など多くの人々が集まり大変なにぎわいを見せました。 また、称名寺などを中心として鎌倉に劣らない仏教文化が栄えました。
天正18(1590)年~安政6(1859)年   近世は、江戸幕府を中心として、安定した社会が続いた時代です。江戸時代の横浜には約200か村を越える村々が存在し、 その多くは幕府領や旗本領でしたが享保6(1721)年には武州金沢藩(米倉氏)が成立しています。 また慶長6(1601)年には東海道の宿場として神奈川宿と保土ヶ谷宿が、 慶長9(1604)年には戸塚宿が成立し、地域の経済・文化の中心となっていきました。
近世は、
江戸幕府を中心として、安定した社会が続いた時代です。江戸時代の横浜には約200か村を越える村々が存在し、 その多くは幕府領や旗本領でしたが享保6(1721)年には武州金沢藩(米倉氏)が成立しています。 また慶長6(1601)年には東海道の宿場として神奈川宿と保土ヶ谷宿が、 慶長9(1604)年には戸塚宿が成立し、地域の経済・文化の中心となっていきました。」とまとめています。
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”横浜市”を形成する歴史的要素に「吉田新田」の記述が無いのは大変残念だと思います。
通史を考える時、時代をどう区分するのか?時代の画期をどう考えるのか?この作業を進めていくのが歴史を考える重要な柱です。
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ということで、自己版「横浜史」を吉田新田をベースにまとめてみることにしました。
⑴入海時代(吉田新田以前)
⑵技術移転時代(中世末期から近世)
⑶大干拓時代と新田時代
⑷開港の部隊(幕末)
⑸近代、西欧の受容
⑹五大苦、苦難の時代
むすび そして未来へ
こんな感じでまとめてみたいと考えています。

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