【占領の風景】関外飛行場

横浜中心市街地の占領史で若葉町に軽飛行場があったことは意外と知られていないようです。
2009年ごろ「空港の街」という飛行場サイトもできていましたがマイナーでした。このタイトルはいささかオーバーだとは思いますが、意外性からも面白い内容になっています。ただ情報量としては残念無念、少なすぎます。さらなる継続を期待したのですが。
(URLは文末に掲載)
1943年(昭和23年)発行1万分の1「横浜」
1943年(昭和23年)発行1万分の1「横浜」
■空港の街<関外飛行場>
1945年(昭和20年)9月、終戦直後接収が始まったと同時に米軍は横浜の繁華街に飛行場を整備します。
カナコロ「戦災復興の記憶〈8〉飛行場」
https://www.kanaloco.jp/article/entry-64012.html
ここに貴重な写真が掲載されています。1950年(昭和25年)ごろに撮影されたものとあり、接収解除は二年後の1952年でした。
この写真から接収当時の様子が良く判ります。飛行場脇に被災し関外がほぼ焦土化した伊勢佐木4丁目から5丁目のバラックが建っている風景が確認できます。 今回、この神奈川新聞は何故この時期に「飛行場」敷地を撮影したのだろう?と思い巡らしていたところ
 そういえば、
当「XY通信」でも初期に取り上げたことを思い出してみると
「暦で語る今日の横浜【9月10日】市長と飛行場」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=75
で後半ちょっと紹介していました。
これも1950年(昭和25年)9月10日の新聞記事から辿ったものです。
偶然にも1950年
「“伊勢佐木町飛行場”跡広場で横浜の「港湾勤労者スポーツ大会」開催。」の記事から手繰り寄せたものですが、
この時期には飛行場跡地が地元に開放され、地域のイベントが開催されていたことが判ります。
実質飛行場機能は「間門」の海岸線に移設されました。
飛行機部分を拡大したもの
■若葉空港整備中
ここに紹介する風景は、この若葉町飛行場整備中のものと思われます。右手に勤労動員なのか、多くの人が集まっています。
飛行機も確認できます。
1948年(昭和23年)修正の1万分の1地図と比較しても、まだ周辺が未整備状況を確認できます。
地図情報や接収資料からこの写真は1945年秋から1947年(昭和22年)
ごろと推測しました。
拡大前の元写真
(横浜飛行場)
横浜市内にはかつて航空機離発着に関係する施設がいくつかありました。他の横浜市内飛行場に関して簡単に紹介します。
<富岡水上飛行場>
現在金沢区にある富岡総合公園一帯周辺に横浜海軍航空隊の施設が整備されていたもので飛行艇の(海を使った)離発着が行われていましたが滑走路は無かったようです。
1936年(昭和11年)に開設され終戦まで使用されました。
その後接収、解除という歴史をたどり、公園や警察・民間施設となっています。
広さ:約21,9200平方m <大日本航空横浜水上飛行場>
ここも富岡同様飛行艇用の施設がありました。戦前には南方(パラオ)への定期便も運行されていた時期もあり、戦後米軍に接収、解除という歴史を歩みました。
所在地:磯子区鳳町あたりから中区千鳥町
(当時は、横浜市八幡町海岸)
195,162平方m
1945年(昭和20年)9月25日〜
1955年(昭和30年)3月11日接収開始1960年(昭和35年)6月30日接収完了。
「昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。 」
※中区史 <間門飛行場>
前述の関外若葉町にあった軽飛行場が海岸線に移設され一時期飛行場として開設されました。 関連サイト
「空港の街」
http://isezakiwakaba.hama1.jp/e28216.html

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