小説を書く人はすごいと改めて思う。資料から人の心情や行動を描きだす。
読みながら情景が浮かぶように工夫しようと思っている矢先から説明的になっている。一枚の地図にしてしまえば簡単だ!と思い始めてしまう。そういえば、三十年以上も前のことだ。地図を文章にするというトレーニングをしたことがある。
市街地図を頼りに、知らない町を図上で紹介していくという作業だった。何故始めたか、動機は覚えていないが、最初の地図は世田谷区だった記憶がある。
この作業は、すぐに挫折したが以来地図の見方が少し変わった。
■戸部村字野毛
江戸東海道四番目保土ヶ谷宿は帷子川と今井川の合流点にある。江戸期、この一帯は水運も盛んで、河口域に広がる入海一帯を”袖ヶ浦”と呼んでいた。
帷子川左岸から袖ヶ浦岸に東海道が延び神奈川に繋がる。
今井川が合流する右岸は入海に出ると戸部村の丘陵を懐き、越えるとそこは戸部村字野毛と呼ばれ小さな村落だった。江戸期までは、歴史に登場することも無く、大岡川の深い入海と江戸湾が交わる漁場で小規模な漁の村だった。
野毛の転機は、神奈川宿・保土ヶ谷宿の整備だった。
両宿の発展に伴い経済圏が拡大することで、周辺の村々には変化が生じた。さらに寛文七年、大岡川河口域に大型新田(吉田新田)が完成したことで、周辺の村には米経済が生まれた。
この頃からだろうか、野毛浦の風景を愛でる人達が現れた。
切り立った野毛浦地先の海には穴の空いた岩(海食甌穴)があり、奇観、異観として訪れた人を楽しませた。別称「かめ穴、大釜、ポットホール」とも呼ばれる”穴岩”は世界各国で観光、信仰の場として点在している。
野毛浦tの穴岩は姥岩(うばいわ、うばがいわ)と呼ばれていたが何かの理由で穴が欠けてしまった。欠けた時期は不明だが、姥岩の名はそのまま明治まで残った。
うばがいわ、その由来は漢字の”穴”をゥとハと呼びウハ岩、ウバ岩と訛り「姥岩」の字をあてるようになったという説が有力だ。昔の人は言葉遊びが巧みだ。
明治初期、野毛浦地先に鉄道用地建設という降って湧いたよう計画がもたらされ、姥岩は消えた。
■袖ヶ浦北
開港直前に、東海道から最短で開港場に繋がる道が作られた。「横浜道」と呼ばれ、現在の浅間神社あたり、当時は芝生村と呼ばれた。神奈川宿から少し洲崎神社あたりを登りちょうど下ると芝生村となる。
ここから、中々干拓の進まなかった帷子川河口を横断する道を開こうとした。幕末、帷子川河口域はかつての水域は無く、沼地に近い状態になっていた。
ある資料には、1707年(宝永4年)に起こった富士山大噴火の火山灰が南関東に降り、村々は降灰に苦しんだ。幕府は(おそらく代官だろう)灰は田畑以外の土地に埋め、川には捨てないようにとお触れを出したが、誰も守らず皆川に灰を捨てた結果、河口に沈殿し沼地となってしまったというのだ。
これに関してはことの真偽は定かではないが、この宝永の富士山噴火の直前(49日前)、南関東に大地震が起こっている。村の人々にとって役人の指示など聞いている余裕は無かったに違いない。
この灰によって、岸辺では諍いが起こっていた。船着き場が機能しなくなったからだ。かつては、隣の吉田新田のように新田開発も始まったが、帷子川河口の干拓は中々進まなかった。岸から一気に水深が深くなったことと、東海道に沿った岸辺には既に経済圏が成立していたからだ。それが、富士山噴火でみるみるうちにその機能が失われていったのだから心中穏やかでは無かっただろう。
■袖ヶ浦開発
帷子川・今井川の河口域、芝生村と戸部村の間の入り江、袖ヶ浦は富士山噴火後年々土砂によって浅くなっていった。漁場や船着き場の機能を失い、浅瀬が登場した。干潟、寄洲が目立つようになり、岸辺から新田開発願いが出されるようになった。新田開発と言っても、塩抜きが難しく多くが新規土地造成に近いものだったに違いない。
帷子川河口直近、現在の南浅間町が宝暦年間にまず開発された。ここは川筋に近く塩抜きも容易かったのだろう。広さ一町五反五畝三歩(約15,402m2)が完成「大新田(宝暦新田)」と呼ばれたが、吉田新田の約35万坪(1,155,000m2)に比べたら、玄関先にも及ばない。
この大新田の名に因んだ小さな「大新田公園」が現在でも残っている。
続いて、安永新田、弘化新田、藤江新田と小規模開発が行われていった。
一方の袖ヶ浦南岸は戸部新田・尾張屋新田が開発されたが浅瀬が割れ石崎川が登場する。
最後のパーツとなる岡野新田・平沼新田はもう少し幕末まで時が流れてからの頃だ。
■袖ヶ浦南
このように、天変地異の影響で、帷子川河口は一八世紀に入って大きく表情を変える。
保土ヶ谷宿の賑わいは、戸部村を変えた。ヒンターランド、後背地となった戸部村はさらに丘を超えた野毛にまで経済波及効果が出始めた。
これは私の想像領域から出ていないが、袖ヶ浦南岸の戸部村は<水>に困っていたのではないかという仮説である。
一方野毛村は湧水に恵まれ、生活程度の真水は十分に確保できていたと思われる。戦後まで尾張屋橋交差点付近に「塩田」の地名が残っていたころからも、想像できる。
水を売り買いするほどでは無いにせよ、魚を加工するといった食品生産にも水は不可欠だったことから、野毛への需要が高まった背景には<水>もあったのではないだろうか。
保土ケ谷宿から南東へ、保土ケ谷道が現在も残っている。「保土ケ谷道」は途中伊勢山で開港時に完成した横浜道と合流、そのまま野毛に下り、大岡川を渡って吉田町へと続く幹線道路となった。
繰り返しになるが、野毛村は吉田新田の完成で、”終着点”から”通過点=中継点”に変化する。新田堤の上に整備された八丁畷が、かつて対岸だった石川の村々との交通を盛んにした。
代官も異なり、濱からの景色として確認しあっていた両村が深い絆に結ばれたのである。