【開港の風景】前史編4

本編となる開港ドタバタ風景までもう少々お付き合いください。
 <である>調より<ですます>が良い!というメッセージいただきました。
読み返してみるとちょっと硬く感じるので 文体変えます!
■野毛の自立
現在大岡川河口近くにある野毛村は、元々戸部村の一部の小さな集落でした。江戸も後期に入る文政年間(1818年〜1829年)の頃には野毛浦一帯は人口も増え事実上戸部村から独立(自立)していたようです。
戸部村は広く、中央部を東西に戸塚あたりまで丘陵が連なっていました。
北側には戸部本村(現在の西区役所から藤棚あたり)
山を越えた南側が野毛浦地区で、村の性格が異なっていたようです。
戸部村北部袖ヶ浦側では水田が少なくほぼ塩田活用が行われていました。
山を越えた南の野毛側では新田完成で大きく変わりますが、元々から<舟役>という漁や水運など船を使った生業(なりわい)の届けが出されていて幕府への税金も野毛が独自に収めていた(自立していた)ようです。
その背景には前回も書きましたが保土ケ谷宿の繁盛と1667年寛文七年に完成した「吉田新田」による経済的変化でした。

■新田誕生
あらためて吉田新田の役割に少し触れます。
西に深く広く入り込んでいた野毛の「入海」は
北側岸には野毛・太田の集落、
南側岸には横浜・石川、中村の集落が点在していました。
この入海が「新田」に置き換ることで、経済構造が大きく変化します。
入海時代が小規模な製塩と沿岸漁業中心でした。新田完成で稲作、畑作によって収穫が非常に伸びたことは入海漁業を失った野毛にとっても大変化でした。
米(収穫)だけではなく、人もモノも動くようになったのです。漁業も入海から近海漁業となり漁獲内容も大きく変化しました。
さらに新田は副次的効果を生み出します。
新田のあぜ道を通して対岸だった村々の往来・交流が始まります。
新田開発者である吉田家は敢えてこの新田堤の”往来を増やす”ことを意図したと推測できます。少し長くなりますがその理由を解説します。
広さ約35万坪(1,155,000m2)にも及ぶ吉田新田は、約十一年の時間を使って上流から干拓事業を進めました。大岡川河口を分流して、入海の岸に沿って水路(運河)を確保し南側を中村川、北側を大岡川本流としながら囲むように新田造成を行いました。
河口域の水田開発に欠かせないのが真水の確保です。
稲作では決して混じってはならないのが塩水です。河口域の干拓の難しさはここにあります。塩水を防御しながら、河川の氾濫にも土手が崩れないようにしっかりとした護岸維持が必要でした。
河口域の干拓は真水を新田下部に流し込むことで、塩抜きをしていきます。
お三の宮のある新田てっぺんから川の水を(大堰)から引き込み溜池にプールします。
そして当時中川と呼ばれた新田の中央部を流れる灌漑用水路から左右、南北の畦で仕切った田圃に水を供給していきます。引き潮時には大岡川・中村川に設置した堰から水を引き込むこともありました。水田に浸透した用水は最終的に<悪水溜め>と呼ばれた一ツ目沼に流れ込むようになっていました。
水量のコントロールは新田内にくまなく配置されていた水門によって行われました。
 大岡川下流域は干満の差が大きく現在も弘明寺近くまで汽水域になっています。
この干満を利用して水量の調整を行いました。干潮時に外海へ沼の水を排水し水位を下げます。水位の下がった<悪水池>には上流から水田を潤した水が流れ込む用になっていました。
江戸期の水田経営はすでに加肥農業でした。糞尿や雑魚を発酵されたものも使われ水質管理も水田管理の柱でした。
一方、災害・大雨による水田決壊は水田経営で一番恐れられた事態で、土手の保全が最大課題の一つでした。吉田新田も完成後、増水により何回か大決壊を経験していました。

■人普請
災害で囲いが決壊すると最悪一ツ目沼と田畑間を仕切る土手(内突堤)に圧力がかかり新田崩壊となってしまいます。内突堤は新田を守る重要な役割を果たしていました。
これが現在の「長者町通り」です。江戸期には「八丁畷」と呼ばれていました。

古来から人が歩いて土地を踏み固めることを活用した造成法がありました。人普請です。
一ツ目沼のと間を仕切る土手を踏み固めるためにも「八丁畷」の往来を増やせば一石二鳥!
ということで、横浜村の鎮守様洲干弁天社詣を観光資源として活用しよう!
これは私の仮説ですが、姥岩、弁天様を物見遊山コースに仕立てたのではないでしょうか。
幕末期、この洲干弁天社周りの管理は入念なものでした。単に横浜村の鎮守だけではなく、多くの参拝客を受け入れた結果ではないでしょうか。
これは外国人スケッチからも想像がつきます。
開港直後にスイスの使節団代表として日本を訪れたエメ・アンベール達が残した記録に洲干弁天の姿がスケッチとして記録されています。
外国人も驚く品質で洲干弁天が維持されてきた背景には、広域の人々の力でこの社が維持されてきたことを物語っているように思います。

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