今日は「洪福寺松原商店街」を紹介します。
商店街は【番外編】で紹介する事が多かったのですが
横浜市内の名物商店街の中で外的環境の変化に対し
闘ってきた点で特筆しておきたい商店街ということで本編で紹介しておきます。
一昔前の商店街の核「魚幸」現在は新店舗でさらに混んでます。 |
洪福寺松原商店街に一歩足を踏み入れると、
ある種の“めまい”と“エネルギー”を感じます。
平日の昼間だというのに、どこから客が集まるのか?
とにかくいつでも混んでいます。
戦後生まれの新しい商店街で、コンセプトは「超安売り」
(歴史)
洪福寺松原商店街は横浜の下町を代表するエリアの一つです。
1949年(昭和24年)接収解除
洪福寺松原商店街が誕生したエリアは米軍車輛置場として接収されていましたが解除となります。住宅はほとんどありませんでした。
1950年(昭和25年)萩原醤油店が開店
現在の洪福寺松原商店街の核ともいうべき萩原醤油店が(現在の商店街中心部に)開店します。
1952年(昭和27年)その後八百屋、乾物店、魚屋などがあいついで開店し商店街を形成します。当時18店舗が集まります。
現在「洪福寺松原商店街」のリーディングショップとなっている
「魚幸商店」はこの頃から、三崎魚港や北海道各地から直接鮮魚を仕入れて安く売る話題の店として成長します。
1954年(昭和29年)車両通行禁止の交通規制を行い歩行者天国を実施します。
その後、シールサービスの導入、街路灯、有線放送の設置。
会報の発行、商店街事務所開設、松原音頭制作、店頭装飾コンクールの実施。
オイルショックの時にも、団結し「危機突破総決起大会」を開くなど、商店街の結束力を高めます。積極的に横浜市の支援・指導も取り入れ
「横浜市街づくり市街地型モデル商店街」の指定も受けます。
来店者無料大型駐車場のあるショッピングセンターの登場に対しても下町商店街の性格を持ちながらもいち早く“来街者用駐車場”を整備します。
近くに「ニチイ」出店計画が発表されてからも、単なる反対運動だけではなく
受けて立つことを決めます。
現在、イオンGに統合された大型SCをも凌ぐ集客力を持ち、
下町風情は維持しつつ、積極的に新しい時代への対策を売っていく姿勢が、今日の賑わいを創り上げています。
「同業種店の新規参入歓迎」
この商店街の特徴は、競合店の塊。
八百屋・魚屋・総菜店他、ライバルの無い業種は逆に客が入らない程
商店街内に同業種店が共存ではなく競争共栄状態にあるのも特徴です。
昭和初期の天王町、松原周辺 |
昭和20年代には、市電の基地「浅間町車庫」(現在のバス基地)まで遠くは鶴見区から市電を乗り継ぎ買物客が訪れたそうです。
このエネルギーは現在も変わっていません。
単純に 町を新しく整備するのではなく 必要なモノ・コトは積極的に
変えないものは「軽々に変えない」ことが今日の賑わいを生んでいます。
しかし、この商店街にも時代の変化が押寄せています。
高齢化による商圏の縮小
新顧客層の取り込み 他
課題が山積する中、
新しい若いエネルギーを導入し
横浜国立大学のプロジェクトと連携事業も行うなど
チャレンジも忘れていません。
「洪福寺松原商店街」のヘソ
賑わいの十字路に立つと 何時も
ある種の“めまい”と“エネルギー”を感じます。
商店からは大きな声が響き、安売りに集まる人たちの熱気が伝わります。
この商店街も「観光気分」で訪れるにはもってこいの
横浜を代表する下町商店街です。
市内随一のダンスシューズを置いている靴店、個性で勝負。 |
一度 お試しあれ!
※買物秘伝
安いが量が多い!
そんな時には 積極的に
周囲の人に「分けません?」と声がけ
シェアショッピングもこの商店街の特徴のようです。