大阪あたりでは「大阪都構想」が話題になっていますが、この話ポッと出てきた話しでは無く、戦前からの市と府県の抗争史の延長線のようです。
政令指定都市「横濱」を材料にしながら、戦後勃発した都市抗争を紹介します。
明治以降、地方自治制度は都市と自治体の試行錯誤の歴史です。
一から説明するとかなり長くなってしまいますので、
サビ!の部分だけ紹介しましょう。サビの部分だけですので少々“辛い”かもしれませんが、ご容赦ください。
(分離独立)
1888年(明治22年)大日本帝国憲法発布にともない市制町村制が施行された当初は、東京市・京都市・大阪市の三市が特例都市でした。
その後、1898年(明治31年)に三市特例が廃止され全国都市の差が制度上は無くなりましたが、都市の拡大に伴い1922年(大正11年)「六大都市行政監督ニ関スル件」の公布で六大都市が自治権を獲得します。
六大都市とは東京市・京都市・大阪市・横浜市・神戸市・名古屋市で現在も日本の中核都市の代表格です。
これらの都市が成長するに従い、上位自治体である<府県>から分離独立を目指すようになっていきますが、戦時体制の一環として1943年(昭和18年)に東京都制が公布されます。
東京府と東京市が廃止され、東京府の区域が東京都になり、「東京都」が誕生します。
東京都は戦時体制から出発した!意外ですね。
他の五大都市も分離独立を目指しますが、
一歩前に進んだのは
1947年(昭和22年)に地方自治法が公布・施行され、特別市制度が創設されます。
(地方制度調査会誕生)
五大都市独立には大きな壁が立ちはだかります。
大都市を抱える府県の「首長」にとって、心臓部の大都市の独立は、死活問題になります。
五大府県は市の独立に大反対します。
新憲法の下で、地方の自治権拡大が謳われますがその単位に関しては議論が煮詰まっていませんでした。そこで、(現在も続く)地方制度調査会が誕生します。
この委員として市の独立反対の急先鋒となったのが、神奈川県知事だった内山岩太郎です。
No.324 11月19日(月)広田弘毅に和平を進言した男像
No.350 12月15日(土)横須賀上陸、横浜で開化。
京都市・大阪市・神戸市・名古屋市は全て城郭都市でお城や御所を中心に同心円状に拡がっていますが、横浜市のある神奈川県は全く異なった地勢でした。
神奈川から横浜市が独立したら、川崎市(現在は政令指定都市)が県の飛び地になってしまう。
それだったら
神奈川を東京都のように強化する方向を目指したのです。神奈川都構想???
(犬猿の仲)
神奈川を除く4大府県は、都市形成の歴史背景も関係し消極的だったのに対し、五大都市は一致団結します。分離を心配した川崎市長からも神奈川県の心配は“杞憂”に過ぎないと“梯子を外されて”しまいます。
内山神奈川県知事は、日本国憲法を楯に抵抗します。
日本国憲法95条は、特定の自治体のみに適用される法律(いわゆる地方自治特別法)は、その自治体の住民投票で過半数の同意を得なければ制定できないと定めていたからです。
横浜市の独立は神奈川県民に問え!!と。
横浜市側は住民投票を「当該市にのみ適用される法律」と解釈し県民投票は不要!と主張します。
全国六大都市の独立機運から始まった特別市構想は
最終的に 神奈川県と横浜市のバトルが中核となってしまいます。
以来、この犬猿の仲は現在まで“引きずって”いるようです。
結果、どうして市側が勝利したか?
五大都市チームの一致団結とGHQへのロビー活動が勝因となります。
(中途半端)
五大都市の一部独立が「政令指定都市」というカタチで実現します。
しかしこの「政令指定都市」現在20都市もありますが、制度上不完全である事が多くの当事者、専門家らによって指摘されています。
二重行政の弊害を含め、多くの矛盾を抱えている事も現実です。
その意味で、
府県単位で強い自治権を確保したいとする
「大阪都構想」は明治の「かたき」を「平成」で討とうとしているのかもしれません?
<大阪維新>のネーミングも歴史的に観るとなかなか奥深いものがありますね。
何れにしても、行政の効率化が叫ばれる中、
大都市のマネジメント(地方自治)の再検討期に入った事は間違いありません。
横浜市は大きすぎるのではないか?という議論も時折再燃しています。いっそのこと幕末に戻して相模国鎌倉郡部を「西横浜」武蔵国部分を「東横浜」に なんて妄想しています。