No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南(追加あり)

1921年(大正10年)12月17日の今日、
神奈川全県の貯蓄銀行を包含し都南貯蓄銀行(資本金1,000,000円)が
現在の横浜市中区弁天通に設立(後に吉田橋に本店移転)されます。

(今も残る吉田町の都南銀行の面影)

1920年(大正9年)3月に起こった戦後恐慌による経済破綻は、特に輸出入経済に大きく依存していた横浜にとって深刻でした。
横浜最大の「七十四銀行」と関連銀行の「横浜貯蓄銀行」が突然休業(事実上の破綻)します。この時の預金口座数が55,000で、しかも一口2,500円以下の小口(個人)預金口座数が53,000を占めていました。
当時の横浜市の総戸数が75,000(世帯)だったことからこの衝撃の大きさがわかると思います。
この「七十四銀行」から連鎖して起った破綻を救済するために原富太郎以下地元経済人が奔走し12月16日に設立されたのが「横浜興信銀行」のちの横浜銀行です。


ちなみに
日本の普通銀行、個人資産の管理をする貯蓄銀行は、
明治維新以降全国各地に設立され
ピークとなった1901年(明治34年)に2,344行ありました。
その後、昭和初期には872行になります。

「横浜興信銀行」設立からちょうど一年後の1921年(大正10年)12月17日の今日、不安定な金融機関を整理統合し預金者を保護するために貯蓄銀行法を作り(株)都南貯蓄銀行が設立されます。
神奈川県下の23の貯蓄銀行と4の普通銀行が合併することになります。
手元に資料のある横浜の商業のヘソにあたった“吉田町”から金融機関の変遷を紹介しましょう。
1918年(大正7年)
第一次世界大戦が終結した年です。
当時、吉田町には横須賀商業銀行、横須賀貯蓄銀行、川崎銀行、川崎貯蓄銀行の4行と横浜信託(財産管理銀行)が営業していました。市内で商業の盛んな伊勢佐木町には2行、元町にも1行しか銀行がありませんでしたので、吉田町の賑わいがわかります。
※銀行協会のDBでは川崎銀行は大正6年に解散となっています。

そこに大正12年「関東大震災」が起こり、「戦後恐慌」を生き残った金融機関に追い打ちをかけますが、統合や整理で生き残りをかけます。
震災直後の大正13年
吉田町の金融機関は(株)都南貯蓄銀行の他、旧横須賀貯蓄銀行が(株)横浜銀行(現在の浜銀とは別)、旧横須賀商業銀行は(株)共信銀行に、旧横浜信託は(株)上信銀行として生き残り営業を継続します。
二度の荒波を受けても、吉田町から金融機関が消えませんでした。

(吉田町 都南ビル)
1928年(昭和3年)関東大震災から復興した旧都南貯蓄銀行本店が吉田橋近くに開業します。(横浜市中区吉田町10番)

追記:都南貯蓄銀行本店ビル→都南ビルが竣工したのは1930年(昭和5年)9月15日
その後、
都南貯蓄銀行は横浜銀行と合併後閉店しますが、
横浜大空襲でも生き残り、現在に「都南」ビルの名が残ります。

設計者は山口為蔵で施工者は山口組となっています。
激動の昭和金融史を語る歴史遺産です。
■老舗復活の拠点に
 この都南ビル1階にうなぎ「八十八」が復活・開業しています。

横浜市中区吉田町10都南ビル1階
TEL/FAX:045-261-8088
定休日: 月曜日
http://yokohamayasohachi.com

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