No.319 11月14日(水)東のヨコシネ(加筆修正)

今日は映画に因んだ話しを紹介します。
たまたま「ハマことば」(伊川公司)神奈川新聞社を読んでいたら
「ヨコハマシネマ」という項目が出てきました。
今日はこの「ヨコハマシネマ」こと「横浜シネマ商会」の話しです。

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横浜シネマ商会は1923年(大正12年)に創業した現像・映像企業です。
現在は(株)ヨコシネ ディー アイ エー(英文名:YOKOCINE D.I.A. INC.)と商号を変更しています。
http://www.yokocine.com

(ヨコハマシネマ)
「ハマことば」(伊川公司)の「ヨコハマシネマ」の項には、
「戦前の記録映画とアニメーション映画には必ず「ヨコハマシネマ(横浜シネマ)」という文字があります。(中略)横浜市神奈川区の素封家に生まれた佐伯永輔という人が大正十二年(一九二三)年一月に横浜シネマ商会を創立し、同区栗田谷の土地一万三千二百平方メートルに現像所を新築して映画製作を始めたとあります。」

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(創業者 佐伯永輔と仲間達)
横浜シネマは映画オールドファンにはよく知られた企業で、
映画黎明期に現像の世界で西の極東フィルム研究所(東洋現像所、現在イマジカ)、東の横シネと呼ばれていました。
横シネ創業者の佐伯永輔(さえきえいすけ)は米国留学後、
横浜市中区の都橋際で
1920年(大正9年)「都商会」という写真器材店を創業しました。
写真材料の「都商会」から映像(動画)制作・フィルム現像の企業を立ち上げ国内トップクラスに育て上げたのは彼の人柄から生まれた“出会い”からでした。

(風来坊)
横シネに欠かせない人がいます。
広島県出身でカメラ技術を独学で習得した後、
長谷川伸二郎(後の長谷川伸)の下で横浜毎朝新聞社の記者として働いていた“相原隆昌”という人物です。
ブッキラボウな彼は、広告の撮影をしながら個人でフィルムの現像、焼付けも行なっていたカメラマンでした。横浜毎朝新聞社を辞め、中央新聞横浜支局に転じ花柳界・演芸関係を担当しますがまもなく辞職し姿見町にしる粉店を開業します。
経営は上手くいかず1918年(大正7年)オデヲン座に就職します。
座主平尾榮太郎に見いだされた相原隆昌は、同座の仕切り場員に就き動画に深く関わることになります。

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この頃、都橋の「都商会」に来店し いきなり佐伯永輔に
「活動写真をやっているそうだが、カメラを貸してくれないか」と持ちかけたそうです。佐伯は商売の機材として撮影機を扱ったことはあるが技術的には未熟だったためこのブッキラボウな相原隆昌からノウハウを入手しようと「現像現場」も見せてもらうことを条件に、貸し出します。

(風呂場で現像)
動画フィルムの現像技術を知るために相原の現像所を訪れると、「横浜シネマ商会」という看板のあるそこは病院の看護婦が使用する“お風呂場”だったそうです。場所はともかく現像の腕前は中々のものだったのでしょう、二人は意気投合し終生のパートナー上野幸清(カメラマン)と「合資会社横浜シネマ商会」を1923年(大正12年)1月に設立します。
同年5月に会社を神奈川区栗田谷に自宅兼現像所を置きます。

Wikiより現在の社屋

その後、震災前にオデヲン座の絵看板やタイトル画家だった
天才アニメーター村田安司が加わり、アニメーションの世界にも進出します。
※村田安司(1896〜1966)は、動体の切り紙を背景画の上に載せて撮影する切り抜き漫画映画の名手と言われた。1923年に設立された横浜シネマ商会(現在は横シネDIA)に長く勤め、34年に切り紙とは思えない緻密で流麗な動きの代表作『月の宮の王女様』を制作したほか、数多くの作品を残した。

(アニメとドキュメンタリーのハマシネ)
「横浜シネマ商会」が制作する村田アニメ、
上野幸清の撮る報道映画は当時のオデヲン座始め全国で大ヒットします。
中でも報道ドキュメンタリー映画は当時各社競争の中、行動力が鍵でした。
例えば「横浜シネマ商会」の佐伯、上野コンビは 1936年(昭和11年)アマゾンとブラジル移民を現地取材します。
当時の新聞には
「先ずブラジルでは邦人のコーヒー栽培、ついでアマゾニア移住地に向い、小ボートでマナオス一帯の大処女林まで遡航し珍奇な土人の生活や猛獣、さては飛行機上からアマゾンの全貌を収める等の活躍をなし 更にこんど新たに我移民を送ることになったパラグアイ国その他ウルグアイ、アルゼンチン、チリー、ボリビア、ペルーの七ケ国を歴訪」(神戸新聞)
この取材は「南十字星は招く」(昭和13年)として発表され「海の生命線」(昭和8年)、「北進日本」(昭和9年)と併せて横浜シネマ三部作として歴史にその名を残します。

(戦後も独自技術を活かす)
戦後、1953年のテレビ放送開始に先立ってNHKは機動性や速報性を重視しし35ミリではなく16ミリフィルムを使うことを決めます。ところが16ミリフィルムの現像施設が少なかったことから、横浜・神奈川区に現像所と編集室を整備していた「横浜シネマ」が受託し東京・内幸町の放送会館と横浜とを自動車で往復してフィルムを運んだというエピソードが残っています。(その後NHK独自の設備が整備され特急受注はなくなります)

(シェアする心)
1936年(昭和11年)いち早く海外の最先端機器を導入し使いやすく機能アップの改善改造しその技術の普及にも貢献します。
この改善型は1955年(昭和30年)に新型が米国から導入されるまで日本国内の主流現像機として活躍します。

※長谷川 伸
(はせがわ しん、1884年(明治17年)3月15日〜1963年(昭和38年)6月11日)は日本の小説家、劇作家である。本名は長谷川 伸二郎(はせがわ しんじろう)。使用した筆名には他にも山野 芋作(やまの いもさく)と長谷川 芋生(はせがわ いもお)があり、またそのほか春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などを号している(筆名が多いのは新聞記者時代の副業ゆえ名を秘したためである)。
「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。

この「横浜シネマ商会」は1923年(大正12年)1月1日創業で、戦後1950年(昭和25年)11月14日(火)の今日、「株式会社横浜シネマ現像所」として設立されます。
1993年(平成5年)CI導入と同時に株式会社ヨコシネディーアイエー
(YOKOCINE D.I.A. INC.)に商号変更されました。

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