司馬遼太郎が『坂の上の雲』でほとんど取り上げなかった人物に
秋山 好古の大親友がいます。
その名は加藤恒忠(拓川)、直接横浜には関係ありませんが、
今日はちょっと脱線します。
1883年(明治16年)11月9日の今日、24歳の“加藤恒忠”は、フランス留学のために横浜港で若き友人達と別れのひと時を過ごしたあと、10日早朝フランス郵船「タイナス号」でパリに旅立ちました。
加藤 恒忠は伊予松山で1859年2月24日(安政6年1月22日)に大原有恒の三男として生まれます。
1870年(明治3年)に12歳で藩校明教館に入り1875年(明治8年)に東京に出て翌年9月には司法省法学校に入る実力を発揮しますが、少々正義感が強すぎ学校長に対し反抗します。
1879年(明治12年)2月、ついに校長の運営に反対し退学届けを出し学校を去ります。「賄い征伐事件」(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)
この間に大原家から父の実家加藤家を再興し「加藤恒忠」を名乗ります。
司法省法学校校長があまりに藩閥の威を嵩にきたため伊予人としては我慢がならなかったのでしょう。
この時一緒に憤慨して退学届を出した人物がいます。
後の日本新聞社長、弘前出身の「陸羯南(くが かつなん)」
総理大臣となった盛岡出身の「原敬(はら たかし)」
漢詩で名を挙げた仙台出身の「国分青崖(こくぶ せいがい)」らです。
加藤 恒忠は、彼らとは終生友人として親交を温めます。
タンカ切って辞めた加藤 恒忠は、明治の思想家、中江兆民の塾に入り学びフランス語とフランスの近代思想に出会います。
そして1883年(明治16年)11月加藤 恒忠25歳の時、
旧伊予松山藩主久松定謨に随行して渡仏します。
この時、法学校を蹴飛ばした親友陸羯南(26歳)国分青崖(26歳)
そして、甥っ子の正岡子規(16歳)、子規の従兄弟 藤野古白(12歳)らが渡仏する加藤 恒忠を横浜まで見送ります。
仏郵船会社のあった居留地十番、現在はホテルニューグランドが建っています。 |
加藤 恒忠はフランス滞在中に外交官試補になり、33歳の時に帰国します。ベルギー駐在特命全権公使、ジュネーヴの万国赤十字会議に全権として出席しますが、伊藤博文と対立し職を辞します。
その後、新聞記者を経て国会に登壇します。衆議院議員、ジュネーブ会議全権大使、松山市長などを歴任します。最後まで「正義の下で」闘った人生でした。同い年で同郷の日本騎兵の創始者「秋山好古」とは終生竹馬の友であり、相談相手でした。
正岡子規にとって叔父、加藤 恒忠は兄であり父にも近い存在でした。加藤も子規亡き後の正岡家を支援します。
(興津の風)
静岡県清水市興津に正岡子規の句碑が建っています。平成14年子規100年の忌日に建てられました。
結核となった正岡子規は弟子の伊藤左千夫に勧められて、興津で病気療養する予定でした。弟子の加藤雪腸や河東碧梧桐の手配により興津本町の松川医院(現、河村医院)に入院する予定でしたが、周囲の反対にあい、興津での療養は断念せざるをえなくなりました。子規自身は興津をお気に入りだったようで、ここに移るかどうか、そのメリット・ディメリットを書簡にして叔父加藤 恒忠に送っています。
子規は 興津に行きたかったのでしょうね。
「つきの秋 興津の借家 尋ねけり」
訪れた時には野菊がきれいに咲いていました。 |
奥の山裾が清見寺です。 |
2年後の1902年(明治35年)に36才の若さで亡くなりました。
第837話 正岡子規の7月2日