No.309 11月4日(日)名実共に記念館

2012年も2013年も
スポーツの秋といわれる十月頃まで異様に暑く熱中症まで出そうな気候でした。
11月に入ると一気に冷え込み冬到来といった感じです。
インドアスポーツに欠かせない体育館が活躍する季節です。
1970年(昭和45年)11月4日(水)の今日、横浜市神奈川区三ツ沢に平沼記念体育館が開設されました。

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(横浜市平沼記念体育館)
横浜駅北西に広がる三ツ沢公園の一角にひときわ個性的な体育館があります。
15代・16代横浜市長を歴任し日本における市民スポーツの父と呼ばれた平沼亮三の業績を記念して建てられた「横浜市平沼記念体育館」です。
この体育館は、建築探訪としても面白い作品といえるでしょう。
設計は駒沢公園体育館やソニービル、東京芸術劇場など多数の作品を残した芦原義信です。横浜市内の作品も多くあります。(下記の一覧参照)
■スペック
所 在 地: 神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1
意匠設計: 芦原建築設計研究所
規  模: 地上5階/地下1階 延床面積3,210㎡
備  考: 竣工年 1970年
構造設計:織本匠構造設計研究所
延床面積:3,210㎡
施  工:紅梅組、三木組JV
・市営・相鉄バス西口バス乗り場6〜10 三ツ沢グランド前下車
・市営地下鉄線 三ツ沢上町駅下車 徒歩15分
http://www.hamaspo.com/hiratai/index.htm

(横浜市内の芦原義信作品)
1957年 岩崎学園横浜レデイスセンター
 所在地・・横浜市西区北幸町
1959年 横浜市市場ポンプ場上家
  所在地・・横浜市鶴見区市場町
1960年 横浜市立市民病院
  所在地・・横浜市保土ヶ谷区岡沢町
1960年 神奈川県立婦人寮
 所在地・・横浜市鶴見区市場町
1961年 横浜市立港湾病院
  所在地・・横浜市中区新山下町
1970年 横浜市平沼記念体育館
 所在地・・横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1
1976年 南戸塚工場余熱利用施設
  所在地・・横浜市戸塚区上郷町
1981年 横浜市立老松中学校
  所在地・・横浜市西区老松町
1983年 横浜市立北方小学校
  所在地・・横浜市中区諏訪町
1986年 横浜市市民文化会館<関内ホール>
  所在地・・横浜市中区住吉町
1987年 横浜市立大鳥中学校
  所在地・・横浜市中区本牧町
1988 横浜女性フォーラム
 所在地・・横浜市戸塚区上倉田
1993年 横浜市立本牧中学校
  所在地・・横浜市中区本牧和田
1994年 国際学生会館 潮田地区センター
潮田地区住宅支援サービスセンター(潮田交流プラザ)
  所在地・・横浜市鶴見区本町通
1998年 市ヶ尾ハイツ(オクスト市ヶ尾)
 所在地・・横浜市青葉区市ヶ尾町
1998年 横浜市民病院再整備
  所在地・・横浜市保土ヶ谷区岡沢町
1999年 横浜脳血管医療センター
 所在地・・横浜市磯子区滝頭
2002年 上瀬谷住宅
 所在地・・横浜市瀬谷区上瀬谷町

(市民スポーツの父)
一方の「平沼記念体育館」の他、平沼記念レストハウス(横浜市中区不老町)も彼の業績に因んでいます。
平沼 亮三(ひらぬま りょうぞう)

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第15・16代横浜市長は横浜市出身で、福沢諭吉の門下生として慶應義塾に学び、野球部では4番打者として活躍したスポーツマンでした。
平沼 亮三を紹介するには、横浜埋立ての歴史から始めない訳には行かない。
横浜市西区平沼近辺(通称:平沼町)は亮三の祖先である5代目平沼九兵衛が1839年(天保10年)に埋め立てを始め、7代目平沼九兵衛の代で完成した埋立地です。
平沼家は明暦年間(1655年〜58年)に保土ケ谷に移住し酒造業を営んでいました。埋立て事業の完成に伴い製塩業にも手を伸ばし、平沼新田に移住し財を成します。
亮三が慶應に入社(入学)したのが明治22年6月21日で最初は保土ケ谷から通学していましたが、通学がキツかったので幼稚舎の教員宅に下宿していたそうです。
大学部理財科在学中は野球部に在部していましたが卒業後は、柔道、剣道、相撲、野球、テニス、ピンポン、バドミントン、スケート、登山、ボート、水泳、乗馬、陸上、器械体操、バレーボール、ハンドボール、バスケットボールなど二十六種目のスポーツをそこそこのレベルまでこなしたまさにスポーツ万能タイプでした。
1932年(昭和7年)のロサンゼルス、1936年(昭和11年)のベルリンオリンピック選手団団長を務めています。

(市長平沼 亮三)
平沼 亮三が最も活躍し功績を残したのは横浜市長時代といえるでしょう。
戦後の戦災と進駐で機能不全に陥っていた横浜の街を復興の道筋をつけたのは平沼 亮三だからこそ可能だったといっても過言ではないでしょう。
1955年(昭和30年)に神奈川県で開催された国民体育大会開会式で市長はやわら、モーニングを脱ぎ捨て白鉢巻を締めてランニング姿に変身します。
聖火リレーの最終走者としてトラックを半周し56段の聖火塔の段を駆け登り点火したサプライズは76歳の老人の快挙として当時の話題になりました。現在も三ツ沢公園の中央に聖火を持つ平沼 亮三像が建っています。

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(余談)
平沼 亮三は稽古に集う若者たちに“スポーツライス”という名でカツの乗ったカレーを良く提供したそうです。これがカツカレーの元祖です。

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本文とは直接関係ありません

※『塾』第32巻2号(1994年(平成6年)4月1日発行)参照

(誤用)
もう一人横浜で活躍した平沼専蔵という人物がいます。
専蔵は埼玉県飯能の出身で平沼 亮三とは縁戚関係にはありませんが、時々親戚と表記されているものがありますが間違いです。

(関連ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

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