明治維新は時代の転換点でした。
この先、どの路を歩むのか、
維新を起こした若者達にも皆目検討がつきませんでした。
ただ全ての路の先に立ちはだかっていた“坂”を
一所懸命登ろうとしていたことは間違いありません。
1878年(明治11年)10月13日(日)横浜が(11月21日に)横浜区となる直前の今日、
太田町の幕末から続く「料亭佐野茂」に
結社「嚶鳴社」発会式のために市内外の有志が集合しました。
太田町界隈 佐野茂の場所は未確認です |
1873年(明治6年)10月、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の5人の参議(内閣制度ができる前の政府集団指導者)が一斉に辞職します。
これを明治6年の政変と呼びます。これによって伊藤・大久保体制が確立します。
そして
1874年(明治7年)政治闘争に破れた板垣退助らが時の政府から下野した事をキッカケに自由民権運動が起ります。
明治に入り、日本は維新に成功しましたが、
薩長藩閥による独善的政権運営に批判が高まり幾つかの政治危機を迎えます。
その第一幕が「明治6年の政変」です。これによって同床異夢のご一新の若者達は最初の分裂を迎え全国各地に政治結社設立運動が起こります。
一方、武力による政治危機は、1877年(明治10年)に起った西南戦争の西郷軍全面的敗北で、多くの結社はより言論闘争にシフトしていきます。
日本の近代政党誕生前のうねりでした。
明治維新で大きく国家体制が変わったとはいえ、政府を支えるテクノクラートの多くが“徳川時代”の優秀な官吏達でした。
彼らもまた、現状の政治体制に対し民意を集約する必要性を感じ言論型政治結社の結成を急ぎます。
その一つが沼間守一率いる「嚶鳴社」です。
新聞記者、弁護士、開明派官吏などを中心として結成された明治時代前期の政治結社です。
「嚶鳴社」の中心人物は、元老院大書記官の沼間守一(ぬまもりいち)で、自由民権・国会開設を主張します。
まず東京に本部を置き、福島県石川郡石川(第二嚶鳴社)と群馬県前橋、そして神奈川県横浜に支社を興します。
http://www.wave-yui.or.jp/sekiyousha/nagare.html
この時の、横浜支部結成大会が、冒頭の
1878年(明治11年) 10月13日(日)「料亭佐野茂」にて行われたのです。
(経済と政治を問う嚶鳴社)
その後「嚶鳴社」は短期間に勢力を伸ばし沼津、上田、八王子、五日市、大宮、浦和、草加、木更津、勝浦、鳩ヶ谷、遊馬(ゆま)、杉戸、館林、島村、新町、足利、白河、鶴岡、大垣、甲府、須賀川、仙台など関東・東日本中心に支社が結成されます。
「嚶鳴社」は単に政治的要求の運動だけでなく商権運動として外国に対する不平等な商業活動への不満もありました。特に横浜は生糸貿易の拠点でありながら外国商館に主導権を握られている状況を打開したい要求が横浜財界から起っていました。
横浜支社結成には、横浜経済界から
戸塚千太郎、早矢仕有的、木村利右衛門らが集い、
リーダーの沼間守一も駆けつけます。沼間守一この時34歳です。
(嚶鳴社誕生)
嚶鳴社は1873年(明治6年)暮、民衆の政治意識を高めるために沼間守一とその仲間たちが東京下谷に開いた「法律講習会」からスタートしました。
ここには肥塚龍、田口卯吉、堀口昇、島田三郎、末広重恭、野村本之助といった、当代一流の知識人が出入りし、盛んに討論会や演説会を開催していきます。
ここのリーダーとなった沼間守一という人物、かなり面白い人生を歩みます。
(横浜と沼間守一)
沼間守一は江戸牛込で幕臣の子として生まれ沼間平六郎の養子となります。
1859年(安政6年)養父長崎奉行転勤に伴い長崎で英国人に英学を学びます。
その後、江戸で海軍技術、横浜でヘボン塾に学び医学から英語(兵法)まで幅広い知識を吸収します。同期には大村益次郎ら幕府委託生九人がいました。
また、幕府陸軍伝習所にも入所し、仏式兵法を徹底的に学びます。
幕府第二伝習兵隊長となり1,500人近い幕府兵士を育てる手腕を発揮します。
この時彼はまだ二十代前半でした。
維新前夜、
沼間守一は会津に士官約20名を連れ脱走、遊撃隊(銃隊)を編成、新政府軍と戦いますが降伏、江戸に護送されます。
「ああ たった六十余州か けさの春」
という句を残します。
服役後、1869年(明治2年)に放免されますが、時代は明治となり武士では生活できずかつて学んだ英学を活かし日本橋に塾を開くことになります。
ところが、危険分子ということでまたまた投獄されてしまいます。
この時彼を助けたのが、北関東で大鳥圭介らと一緒に戦っていた新政府軍の指揮官、
土佐藩士“板垣退助”でした。
後の自由民権運動の旗手となった板垣退助に助けられた沼間は生活のために
土佐藩邸の兵士教授方に就きますが、
土佐藩が廃藩置県で消滅してしまいます。
仕方なく活路を自由都市「横浜」に求めハマに来て起業します。
最初は生糸商・両替商を営みますが、英学・兵学には優れていましたが商業(商売)はからっきしダメで一年早々で廃業します。
彼の噂を聞いたのか、
誰かの口利きがあったのかわかりませんが、
当時の大蔵大臣“井上馨”に“国の財政にお前の才能を活かせ”と推薦を受け
1872年5月1日(明治5年)付けで租税寮七等出仕、横浜税関詰になります。
今で言う国税庁横浜税務署勤務を命ず!ってとこですかね。
(暴れん坊役人)
沼間守一、根っからの天才肌?だったのか二ヶ月で租税寮でも問題児として上司が音を上げます。推薦した手前、井上馨は親友の江藤新平に面倒見てくれ!と頼み込みます。
沼間守一、司法省七等出仕に(異動?)し早々(語学が堪能?厄払い?)欧州派遣され各国を巡る旅に出ます。
1873年(明治6年)に帰国し、司法省六等出仕に昇進します。
この年に「法律講習会」が設立されます。
それにしても この時代 ジェットコースターみたいな人生他にも多々あったようです。
(メディアに生き残りを賭ける)
沼間守一はその後、順調に司法省で法律の専門家として出世しながら、「法律講習会」をより政治性の強い結社「嚶鳴社」に発展させていきます。政府要員でありながら政治活動、今では考えられませんが、この自由を政府がずっと容認する訳が無く、次第に弾圧が厳しくなります。
「嚶鳴社」の横浜支社を結成した翌年の1879年(明治12年)
沼間守一は元老院役職を辞任し
一般官吏に戻り活動を続けますが「官吏の政談演説が禁止」が決り、
官吏の職も辞め『嚶鳴雑誌』を創刊します。
そして、さらに明確なメッセージを発信するために
1879年(明治12年)11月18日に横浜で創刊された
日本最初の日本語の日刊新聞「横浜毎日新聞」を買取り
本社を東京に移し「東京横浜毎日新聞」とします。
その後1886年(明治19年)5月1日に「毎日新聞」1906年(明治39年)7月1日に「東京毎日新聞」と改名しますが、廃刊になるまで政治の監視、反戦の姿勢を貫き
明治ジャーナルの金字塔といえるでしょう。
1888年(明治21年)から社長を引き継いだのが、
かつて創業時代に記者を仮名垣魯文らと勤めた
横浜の反骨政治家「島田三郎」でした。
1月23日 大正の正義
その後の沼間守一は、
道を官吏から政治に転換し東京府会議員となり国会期成同盟の責任者の一人となり憲法が成立する1889年(明治22年)まで八面六臂の活躍をしますが、惜しくも1890年(明治23年)5月17日に亡くなります。47歳の若さでした。
※ここに登場する「毎日新聞」は
現在の毎日新聞社ではありません。
現在の毎日新聞は1943年(昭和18年)に「大阪毎日新聞」と「東京日日新聞」が合併して設立されたものです。