1890年(明治23年)10月12日(日)の今日
イギリス人スペンサーが横浜公園内で軽気球に乗り飛行ショーを行いました。
これが結構ハチャメチャで面白い事件なんです。
パーシバル・スペンサー(SPENCER, Percival Green 1864年〜1913年)は
1864年11月11日ロンドンに生まれ祖父から軽気球の製造を生業にしている
生粋の Professional balloonistです。
8歳の時から軽気球に乗り家業を手伝っていましたが、彼は活躍の舞台を新しい国々に求めました。
シンガポール、バタビヤ、香港など当時のイギリス植民地を中心に軽気球ショー巡業の途中1890年(明治23年)に来日し横浜を手始めに八回実施します。
【巡業日程】
1890年(明治23年)
10月12日(日)横浜公園
10月19日(日)横浜公園(第二回)
11月 1日(土)神戸居留地
11月12日(水)天覧(二重橋外)
11月24日(月)上野公園
11月30日(日)大阪今宮眺望閣東
12月14日(日)京都御所博物会場前
(日時不明) 長崎
第一回と第二回の横浜公園での「軽気球乗」の模様を簡単に紹介します。
その前に、スペンサーは来日しグランドホテルに宿泊し、日本政府に対し飛行計画の申請を行います。申請書類が現在も残されています。
和文に訳され提出された気球ショー申請書 |
興業の認可を受け、明治23年10月12日(日)に横浜公園で第一回飛行が行われます。
事前に午後2時飛行と予告が行われ、横浜公園には仮観覧場が設けられました。当時の浅田徳則神奈川県知事、後の市長となった三橋書記官以下来賓が招待された他、観覧場には有料席が設けられました。料金は一人50銭〜二円といいますから高額の入場料だったようで売上は芳しくなかったようです。それでも800円の売上が記録されています。
音楽隊の演奏が流れる中、直径二十八尺(約9m)あまりの気球にガスを充填する作業が行われます。充填の間に獅子、虎、象、亀、魚の形が描かれた紙製のミニ気球を打ち上げ“間”を繋ぎます。大量のガス充填が完了した4時48分に気球は一気に上昇しあっという間に上空3,500フィート(約1,000メートル)に到達したとありますが実際にはもう少し低かったと思われます。
気球で上昇したスペンサーは、パラシュートで飛び降り、「太田水道貯水地近傍」に降り立ちます。そこからすぐさま横浜公園の会場に帰り、観衆の前に現れ大喝采を受けます。
(第二回は日程変更)
第二回飛行は17日(金)に実施される予定でしたが、19日(日)に変更されます。
入場券はスペンサーの泊まったグランドホテルと会場入口で販売されますが売上は伸びません。しかも19日は天候条件が悪く、上手くいきません。
何回かトライの後上昇しますが、一回目のようには上がらず途中で落下し始める始末。気球は真砂町一二丁目近くに舞い落ちます。
入場券の売上は伸びませんが、観覧席以外は第一回より観客が集まり警察官が規制に入る程でした。気球を眺めるのに真下の観覧席である必要は無く、ハマッ子のしたたかさが見て取れます。
当時の錦絵に登場する気球:幕末から錦絵には気球が登場 |
実はこの気球ショーを企業広告に早速使った人物がいます。
今泉秀太郎、時事新報社に勤めていた彼は、スペンサーに気球から広告チラシを撒くよう交渉します。最初は断られますが、アメリカに留学していた今泉秀太郎は、バルーン設置作業の日本人スタッフとの通訳をし「広告」を認めさせます。当時の時事新報の記事には
「人々片唾を呑んで今や遅しと待ち構へ居る折柄、忽然彩色燦爛たる一個の小軽気球、下には赤色の紙に白く筆太に時事新報と記したる牌(ふだ)を付けて舞ひ揚れり。珍らしくも美しかりければ、観客賞賛の声暫しは鳴りも止まず。」と自画自賛?します。
二回目興業は芳しくありませんでしたが、スペンサーと今泉秀太郎の出会いが、その後の東京他のショーにも活かされ、さらに「時事新報空中PR」は大成功します。
わが国最初のPRチラシ空中散布は横浜公園上空で行われました。
今泉秀太郎なる人物は、画号「今泉 一瓢」明治期の錦絵師、漫画家で、『時事新報』紙上で日本で初めて「漫画」という語を使い始めた人物として知られています。
秀太郎は福澤諭吉の義理の甥(諭吉の妻・錦の姉・今泉釖の長男)で、秀太郎の母は、若くして夫を失いますが福沢の勧めで近代的な産婆学をアメリカ人医師シモンズ(横浜市大医学部の祖)に学び自立した女性として名産婆として活躍しながら秀太郎を育てます。
No.162 6月10日(日)日本よさようならである。
一方息子の秀太郎は、
福沢諭吉に才能を認められ、
慶應義塾本科に進み卒業後、
渡米サンフランシスコの美術関係の貿易商社
甲斐商店に幹部として出資し経営参加します。
このスペンサーとの出会いは1890年(明治23年)に帰国し時事新報に勤めた早々のことでした。