第二次世界大戦直前の
1940年(昭和15年)10月11日(金)の今日、
帝国海軍、最後で最大の「観艦式」が快晴の中、横浜沖で行われました。
「観艦式とは多くの軍艦を一港湾に集め,その威容を元首等が観閲する儀式で、国家の祝典あるいは海軍最大の記念行事の一つとして行われる軍事プレゼンスです。」
日本の観艦式は明治元年に始まり戦前は18回実施されました。
第一回は大阪天保山沖で行われ、以降“横浜沖”が最も多く9回、次いで6回“神戸沖”で実施されました。
明治38年日露戦争凱旋観艦式 |
昭和に入り、観艦式には“航空機”によるデモンストレーションも欠かせない要素となります。帝国日本軍は空軍が陸海各軍に所属し独立していません。
陸軍には「陸軍飛行戦隊」、海軍には「大日本帝国海軍航空隊」がそれぞれ航空部隊として編成されていました。
昭和期に観艦式は6回、内4回が横浜沖で実施されました。
観艦式が横浜・神戸で多く実施された理由は明記されていませんが、陸上からその様子を見やすい(効果的)からだと推察しています。
資料を調べていた所、この観艦式の陪観者(見学者)に向けて配布したマップがありました。
当然招待客のみですが、陪観者は鶴見臨港線の終着駅「新芝浦駅」で下車し、特設桟橋から「戦艦榛名」にピストン輸送したようです。
地図は現在のものです。 |
1940年(昭和15年)10月11日に行われた観艦式の正式名称は
「紀元二千六百年特別観艦式」と呼ばれ、艦船98隻、航空機は史上最多の527機という規模でした。
※紀元二千六百年とは神武天皇の即位を紀元とする日本固有の紀年法で明治以降(明治5年太政官布告第342号)採用されるようになりました。
(戦争への道)
1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮会議
1931年(昭和6年)満州事変
1932年(昭和7年)血盟団事件・五一五事件
1936年(昭和11年)二・二六事件
1940年(昭和15年)9月27日 日独伊三国同盟
1940年(昭和15年)10月11日 紀元二千六百年特別観艦式
1941年(昭和16年)12月8日 未明、真珠湾攻撃による日米開戦
3月4日 日本初の外国元首横浜に
ロンドン海軍軍縮会議における外交的勝利も、興奮するナショナリズムによって国家の理性を失わせます。
回を重ねる毎に肥大化する昭和の「観艦式」は、麻痺するメディアと経済界、そして政界への不信感が「負の沸点」に達していきます。
時代が混迷し、政治が迷走すると暴力温度が上昇していきます。
国家という湯槽で「茹で蛙」になっていることに気がつかなくなる怖さを私たちは歴史に学ばなければなりません。
観艦式一覧
1868年4月18日(明治元年3月26日)、大阪天保山沖。
1890年(明治23年)4月18日、神戸沖。
1900年(明治33年)4月30日、神戸沖。
1903年(明治36年)4月10日、神戸沖。
1905年(明治38年)10月23日、横浜沖。日露戦争終結
1908年(明治41年)11月18日、神戸沖。
1912年(大正元年)11月12日、横浜沖。
1913年(大正2年)11月10日、横須賀沖。
1915年(大正4年)12月4日、横浜沖。
1916年(大正5年)10月25日、横浜沖。
1919年(大正8年)7月29日、横須賀沖。
1919年(大正8年)10月28日、横浜沖。
1927年(昭和2年)10月30日、横浜沖。
1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖。
御大典記念
1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖。
1933年(昭和8年)8月25日、横浜沖。
1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖。
【日本海軍最後の観艦式】
1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖。
紀元二千六百年特別観艦式