No.278 10月4日(木)牛乳は本牧に限る!

1886年(明治19年)10月4日歌人で小説家の伊藤左千夫は、
横浜(久良岐郡北方村)の菅生牧場に勤めることになり、
横浜に移転してきました。
当時23歳でした。
『左千夫全集』第9巻 書簡編より

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幸次郎を良く幸二郎とも記したそうです

「伊藤 左千夫」(いとう さちお)
ご存知ですか?
日本の歌人、小説家で、明治後期に活躍しました。
比較的高年齢の方には懐かしい!
1906年発表の『野菊の墓』の一部が多くの現代国語の教科書に取上げられました。

『野菊の墓』は千葉県松戸市矢切付近を舞台にした淡い(自伝的)恋物語です。
短編ですから文庫本または「青空文庫」等でどうぞ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000058/card647.html

小説家伊藤左千夫は小説より
歌人として歴史に残る多くの作品を残しています。
正岡子規に師事し子規が亡くなった後
根岸短歌会系歌人たちをまとめ
短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』を通して
斎藤茂吉、土屋文明など多くの歌人を育成した人物です。

では何故小説家伊東左千夫は、
23歳の時に横浜の牧場で働くために引越したのでしょうか?

(実業家伊藤幸次郎)
当時の文学者にありがちな?貧乏の果ての仕事ではなく、
伊藤左千夫(本名幸次郎)は、実業としての酪農を志します。
生まれ育った実家が農家でしたので、左千夫も小さい頃から農業を生業にする意欲をみせていました。
左千夫の生家近くに牧場業で成功した酪農家があり、“新しい”スタイルの酪農、牛乳業を目指していたようです。
明治法律学校(現在の明治大学)を中退し東京の牧場で働き、横浜本牧の菅生健二郎が経営する牧場に弟子入りしたのが1886年(明治19年)10月4日の今日でした。
東京では、
神田、本郷にある二つの牧場に勤め、横浜本牧ではちょうど一年間働いた後、また東京に戻ります。東京でさらに数カ所牧場で働いた後、1889年(明治22年)3月に本所茅場町の土地を購入し4月から牛乳搾取業を開業します。資本金は千円(内借金200円)でした。
屋号は最初「牛乳改良社」でその後「デボン舎」「茅舎」と変えます。
この頃の思いを
「或は東京に或は横濱に流浪三年半二十七歳という春、漸く現住所に独立生活の端緒を開き得た、固より資本と称する程の貯あるにあらず人の好意と精神と勉強との三者を頼りの事業である、予は殆ど毎日十八時間労働した」と記しています。

(二足の草鞋)
独立したこの年の11月に左千夫は妻となった“とく”と結婚します。
この頃から左千夫は文学の世界にも目覚めていきますが趣味程度の段階でした。
生業の“牛乳搾取業”は順調に業績を伸ばしていきます。
順風の中、実業家伊藤幸次郎が歌人・小説家伊藤左千夫として二足の草鞋を見事に履き切る決意をしたのが歌人正岡子規との出会いでした。
1900年(明治33年)1月2日
伊藤は初めて(敬愛する)正岡からの年賀状をキッカケに訪問します。
「どうかして先生の所へ来たいと思うていた」左千夫はこの日を起点に、亡くなるまで子規を師と仰ぎ頻繁に訪れます。乳業の実業と歌人として子規を支える弟子として伊藤左千夫は明治時代を生き抜きます。

(牛乳とバラ)
伊藤左千夫(幸次郎)と同様に二つの世界でその道を極めた“牛乳搾取業”のオーナーが横浜にいました。
1946年設立の乳製品製造・販売会社で今や明治・森永乳業・雪印メグミルクの大手3社を追撃する横浜が誇るトップブランドの創業者の高梨芳郎です。

「タカナシ乳業」http://www.takanashi-milk.co.jp

彼は、趣味を超えたバラづくりを生かし横浜工場の敷地内に5,000坪のバラ園を造成し開園以来一般開放しています。
ここの1万本のバラが現在のタカナシのロゴマークにつながります。

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タカナシ(高梨乳業)は元々横須賀で“乳業会社”を営んでいましたが、次なる市場を横浜に標準を合わせていました。
戦前の乳製品を使った食文化の最先端は“ヨコハマ”でした。
創業者の高梨芳郎にはこんなエピソードが残っています。

(ハーレーと濱の牛乳)
昭和初期、横浜で最も大きかった渡辺牧場が“本牧”にありました。
若き高梨芳郎は二年間にわたり自ら愛用のハーレーダビッドソンに乗り、渡辺牧場に乳加工用の原乳を届け続けます。
そこで横浜に暮らす外国人を顧客に持っていたオーナーの渡辺千吉から本物の乳製品文化を学びます。
渡辺牧場は横浜大空襲で焼失、オーナーも亡くなります。
そして戦後二十年が過ぎた1967年(昭和42年)横浜進出を決めます。
この決断が現在のタカナシを築く土台になります。

(バラの誘い)
現在の本社工場(旭区本宿)の土地は横浜市が地場産業の捺染業などに工場誘致用に造成したものでしたが当初予定していた企業が辞退し、三番目の会社としてまとまった土地を入手し本社工場を移転します。
この時、タカナシ本社工場と乳製品の認知度アップに、高梨芳郎は当時最大級のバラ園を整備し最大限に活用し成功を収めます。
地道な技術力と酪農資源による高品質な乳製品なかでも生クリームは、大手含め他社の追随を全く許さない品質でプロユースナンバーワンです。
ハーゲンダッツは生クリーム技術を活かしたタカナシが作っているんです。
長くなるので今日はこの辺で

blogtakanasi

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