今や神奈川県最大の乗降客数を誇る「横浜駅」の西口広場は資材置場でした。
昭和20年代の話しです。
30年代に入り、横浜駅西口駅前は“劇的な”変化が始まります。
1957年(昭和32年)9月21日(土)の今日、
相鉄文化会館が開業しました。
相模鉄道株式会社元副社長 岡幸男は昭和20年代を「荒地にペンペン草が生えていた横浜西口」と表現しました。
当時 横浜駅は東口が表玄関でした。
現在の横浜駅西口は“横浜駅”が現桜木町から震災を経て現在の位置に移転して以来長い間<裏口>の位置づけでした。
横浜駅激変のキッカケとなったのが
1952年(昭和27年)相鉄による米国のスタンダード・オイル社から横浜駅西口の土地24,688m²を買収したことでした。
相鉄にとって土地買収は賛否両論、決断したのが東急五島慶太の秘蔵っ子で相鉄社長になった川又貞次郎でした。
第二次世界大戦直前に東急グループに合併された相鉄は、戦後東急から送り込まれた川又貞次郎の下で悲願の“独立”を果たします。
川又社長以下、相鉄は横浜駅西口の開発を決断した事で、現在の発展を方向付けることになります。
まず手始めに国鉄・東急東横「横浜駅」と相鉄の駅舎を繋ぐ平屋の商店街を作ります。
1956年(昭和31年)横浜駅名品街と「高島屋ストアー」の開店です。
この横浜駅名品街と「高島屋ストアー」は、大成功を収めます。
相鉄はこの成功を軸に、本格的な横浜駅前開発を展開します。
1957年(昭和32年)9月21日(土)相鉄興業株式会社により相鉄文化会館が開店します。
地上4階建てのビルが、西口に完成します。
地下1階 お好み食品街、お好み食堂
地上3階 婦人文化教室
地上4階 横浜精養軒
「相鉄文化会館」の名は、相鉄にとって発展の基軸となった重要なものになります。
相鉄はさらに一歩踏み出します。
1959年(昭和34年)10月高島屋ストアー増強計画を承認し、デパート横浜高島屋が開店します。
横浜駅の表玄関が次第に「西」へ、重心が移り始めます。
西口一帯は地権者が複雑に入り乱れているため、開発推進は現在でも困難を極める場所ですが、「駅ビル」「ダイヤモンド地下街」と矢継ぎ早に表玄関西口の快走がポルタ・そごうによる東口開発まで続きます。
相鉄文化会館は、
1973年(昭和48年)11月相鉄ジョイナス開店により姿を消しますが、
平成に入り緑園都市開発成功の祈願をこめて???
新たな相鉄文化会館が姿を現します。
相鉄が作り上げた新しい街「緑園都市」です。
横浜に基盤を置く現在精力的に活動する建築家・山本理顕のコーディネーションにより誕生した街です。
「通り抜ける」建築の集合体が作り出す“街”として日本の都市計画に重大なヒントを与えました。
この街の“鎮守”のような建物が「相鉄文化会館」です。
■新・相鉄文化会館
設計者:原広司(アトリエファイ建築研究所)
住所:横浜市泉区緑園4-3-28
竣工:1990年
用途:研修施設、博物館、ギャラリー
http://arc-no.com/arc/kanagawa/kana-sotetu1.htm
設計者、原 広司(はら ひろし)は、日本を代表する建築家の一人で、京都駅ビル設計で議論を巻き起こしましたが、経年による評価が高まっています。
現在東京大学名誉教授で、妻有「大地の芸術祭」ディレクターである北川フラムは義弟。
大江健三郎と親交が深いことでも知られています。
「緑園都市」は20年以上の時間が経過しましたが、良い街に育っているように見えます。都市計画上の残っている課題、現在起っている問題も多くあるようですが、新しき街がそこに暮らす人たちと馴染んでいく姿を実感できる“数少ない”ニュータウンといえるでしょう。